ep.37 手を汚す理由
翌日。
昴と翼は取引先との打ち合わせを終え、ギャラリーへの帰路に就いていた。車内には微かなエンジン音だけが響き、二人の間には静かな空気が流れていた。昴は助手席で窓の外を眺めながら、どこか落ち着かない胸の内を持て余していた。
風景が流れ去る中、突然、ハンドルを握っていた翼が声を上げた。
「あれ、星名病院。幽紗ちゃんの母親が入院してるとこだろ」
前方を指差す翼の言葉に、昴は反射的に顔を向けた。
そこには、鈍い灰色をした無機質な病院の建物がそびえていた。見た瞬間、胸に重苦しいものが押し寄せ、昴は低く呟いた。
「……ああ、そうだね」
声には微かな揺らぎがあった。普段の冷静な彼からは想像できないものだった。
そんな昴を一瞬だけ訝しげに見た翼だったが、すぐに別のものを見つけて眉を跳ね上げた。
「……おい、あれ。幽紗ちゃんじゃないか?」
翼が目を凝らして指さす先、歩道をふらりふらりと歩く幽紗の姿があった。
昨日とは打って変わって、どこか壊れたような様子で、足元もおぼつかない。コートの裾が風に揺れ、彼女の儚さを際立たせていた。
「すごいな、昴。昨日会ったばかりなのに、もう外に出てきてるなんて」
昴は無言で幽紗を見つめた。
頭の中には、昨日聞いたあの言葉がリフレインしていた。
――お母さんがいなくなればいいのに、明日。
脳裏に、冷たい鎖のように絡みつくその声。
胸騒ぎが、彼を突き動かした。
「……翼、車、止めてくれ」
「えっ、どうした」
翼が驚く間もなく、昴は鋭く言った。
「すぐに!」
その剣幕に押されるように、翼は慌てて路肩に車を寄せた。
昴はシートベルトを外すなり、ドアを開けて飛び出した。
「先にギャラリー戻って。俺はあとで行く!」
短く言い残し、幽紗を追って駆け出す。
翼はぽかんとその後ろ姿を見送り、苦笑混じりに呟いた。
「……全然わかんねぇ」
車を再び走らせながら、彼はハンドルに力を込めた。
病院に駆け込んだ昴は、辺りを見回した。
しかし、幽紗の姿はどこにもなかった。
(どこだ……)
焦りが胸を焼く。
すぐに彼は頭を切り替えた。
玲香が入院しているのは精神科七階、711号室――翼から渡された調査資料を頼りに、エレベーターに飛び乗った。
昇降する箱の中、昨日の言葉がまた蘇る。
――お母さんがいなくなればいいのに、明日。
頭の奥で警鐘が鳴っている。
嫌な予感が、止めどなく膨れ上がった。
七階に着くと、昴は真っ直ぐ711号室へ向かった。
だが、ドアを開けた先に、幽紗も玲香もいなかった。
空っぽの部屋。
無機質な病院の匂いだけが、そこにあった。
(おかしい……!)
焦りを募らせながら、名札に目をやるが、どこにも「東日玲香」の名前はなかった。
廊下に出た昴は、すれ違った看護師に声をかける。
「すみません、東日玲香さんは……」
「娘さんの友人の方ですね?」
看護師は小さく頷き、続けた。
「今朝、脳神経外科に転室されましたよ」
「……ありがとうございます」
昴は礼もそこそこに駆け出した。
胸の奥で、何かがきしむ音がした。
(間に合わないかもしれない……!)
廊下を走り抜け、脳神経外科へ向かう。
幽紗を、救うために。
一方その頃。
幽紗は一人、病院の廊下を歩いていた。
手には、微かな震え。
心には、底知れぬ暗闇。
今朝かかってきた一本の電話――
脳神経外科への転室、そして、もう長くはないという宣告。
それを受け取った幽紗は、ただ静かに受け止めた。
胸の奥から湧き上がるものは、悲しみではなかった。
愛されなかった記憶、繰り返された冷たい言葉。
それらが黒い濁流のように、彼女を満たしていた。
(これでいい……)
小さく囁くように、心の中で呟く。
――どうせ、もうすぐ死ぬのなら。
――自分の手で、終わらせてやる。
無表情のまま、幽紗は病室の扉を開けた。
玲香はベッドに横たわり、命の灯を細々と繋いでいた。
静かに近づき、その首へ手を伸ばす。
震える指先。だが、次第にその震えは消えていった。
その瞬間だった。
「幽紗!」
病室に飛び込んできた昴は、彼女の行動を見て心臓が凍りついた。
迷いと絶望に引き裂かれるその手を、昴はそっと掴んだ。
驚きに硬直する幽紗。
昴は静かに、だが決して逃さないように、その手を握った。
「こんな綺麗な手を、汚すな」
低く、静かに、言葉を紡ぐ。
幽紗は、戸惑いと混乱の中で昴を見上げた。
「……手を洗ったのに」
弱々しい声。
それでも、昴は迷わなかった。
「何度でも、汚してやる。お前を守るためなら」
昴の瞳には、鋼のような決意が宿っていた。
彼は玲香に視線を移し、静かに宣言した。
「十二時に、実行する」
幽紗は、玲香を冷たく見下ろした。
「最後の別れを、しないのか」
昴の問いに、彼女は即答した。
「絶対に、しない」
強い足取りで病室を後にする幽紗。
昴はその背中を見送り、再び玲香に向き直った。
そのとき、背後で扉が開く音がした。
振り返ると、そこには翼が立っていた。
「……心配で、戻ってきた」
翼の声は低かった。
昴と玲香を交互に見て、すべてを悟ったかのように問う。
「……本当に、いいのか?」
昴は答えなかった。
ただ、玲香をじっと見据え、静かに心を決めた。
病室に満ちる、重たい沈黙。
二人の間を、ただ時計の針の音だけが刻んでいた。




