ep.36 壊れた君を守りたくて
昴は焦りを感じていた。
嫌な予感が胸を締め付けていた。
翼から届いた調査報告に目を通す。
そこに記されていたのは、幽紗が日に日に孤独に沈み込んでいる現実だった。
通院歴、処方薬、行動パターン、精神状態。ページをめくるごとに、彼女がいかに綱渡りのような日常を過ごしていたかが、痛いほど伝わってくる。
特に目を引いたのは、「微笑みうつ病」という診断名。
「外見上は明るく見えても、内面では崩れ落ちる寸前である」という一文は、まるで彼女の心の叫びのように響いた。
どうして、もっと早く気づけなかったのか。
昴は自問した。
思い返せば、あの日々の中に違和感は確かにあった。
曖昧な返事、笑顔の奥にある沈黙、どこか遠ざかるような雰囲気――
それらすべてを見過ごしてきた自分を、昴は許せなかった。
すぐに、彼女の家へ向かった。
玄関の前で何度も呼び鈴を押し、名前を呼んだ。しかし、返事はない。
冷たい沈黙だけが、ドア越しに返ってくる。
――まさか、中で何かが起きているのでは。
胸をよぎる不安に背筋が冷たくなる。
その時、隣人が顔を出し、小声で言った。
「最近、あの子、全然出てこないのよ……郵便も溜まってて。心配してたの」
その一言が、昴の背中を押した。
もう一度、強くドアを叩く。
数分後、ようやく鍵の開く音がした。
扉の向こうに立っていた幽紗の姿は、昴の知る彼女とはまるで別人だった。
痩せた頬、深い目の下の影、整えられていない髪。
そのすべてが、彼女の内側にある絶望を物語っていた。
「……昴くん?」
掠れた声。そのかすかな呼びかけに、昴は答えた。
「来たよ。君の気持ちを、聞きに」
幽紗の目が揺れた。
その瞳に宿った光は微かだったが、確かに何かがそこにあった。
ふと、昴は思い出していた。
あの夜、たわいない話で笑い合い、グラスを傾けた、ささやかな時間を。
棚の奥から、あの日と同じ銘柄のワインを取り出し、それを手に、彼女の家へ向かっていたときのことを。
「友達だと思って、話してくれたらいい」
その言葉を胸に、彼女のマンションの前に立ち、ドアベルを押した。
指が震えていた。祈るような気持ちだった。
静寂。
何の気配もない時間が流れる。
諦めかけたそのとき、扉が開いた。
現れた幽紗は、まるで影のようだった。
昴が差し出したワインを見て、彼は冗談めかして言った。
「入ってもいいかな。……空気だと思えばいい」
幽紗は戸惑いながらも、わずかに頷いた。
「少しだけなら……」
そのか細い声が、昴には何より嬉しかった。
リビングに移動し、ワインを注ぐ。
幽紗は深紅の液体を見つめたまま、一口だけ口に含んだ。
その瞬間、彼女の内側に押し込められていた言葉が、静かに漏れ始めた。
「もう、耐えられない……」
その声は、かすれた叫びだった。
昴は、何も言わずに耳を傾けた。遮らず、急かさず。
幽紗は少しずつ、心の奥を語りはじめた。
「お母さんが、私を拒絶するたびに……慣れたと思ってた。でも、何度も何度も繰り返されるうちに、私の中の何かが……壊れていったの」
「最初は、ただ愛されたかっただけ。でも今はもう、その気持ちすら、わからない」
「憎んでる。こんな自分も、全部、嫌い」
震える声、こぼれる涙。
幽紗はグラスを傾け、苦味に沈もうとしていた。
「お母さんなんて……いなくなればいいのに。明日……」
その言葉は鋭い刃のようだった。
昴は胸が裂けそうになるのを感じながら、そっと彼女の手を取った。
冷たい、細い指先。強く包み込む。
「知らなかった。……ごめん。
でも、今は俺がここにいる。だから、もう一人で抱え込まなくていい」
不器用な言葉だった。
でも、それは真心から絞り出した、彼のすべてだった。
幽紗は、ほんの少しだけ微笑んだ気がした。
そして、力尽きたように昴の肩にもたれかかる。
やがて彼女は、眠りについた。
穏やかな寝息が部屋に広がっていく。
昴はそっと彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。
小さな身体に毛布をかけ、そっとその額に手を添える。
今にも壊れそうで、それでも生きている命。
――触れたい。
一瞬そう思った感情を、昴は必死に押し殺した。
今、彼女に必要なのは、誰かの欲望じゃない。
ただ、安心して眠れる夜。
昴はそっと部屋を後にした。
夜風の中、歩きながら考えていた。
もっと早く気づけていたら。
もっと、手を差し伸べられていたら――
胸に残ったのは、焦りと、どうしようもない無力感だけだった。




