ep.17 絵の中の世界
カフェに到着したが、昴は普段の冷静さを失っていた。心臓が不安定に打ち、初めて異性と二人きりで過ごす状況に慣れていない。注文を取る店員に対しても、ぎこちなく「ブラジルコーヒーを一つ」と言った。幽紗はトルココーヒーを頼み、自然に微笑んでいた。
二つのコーヒーの香りが漂う中、幽紗が切り出した。
「慈善宴会にいらっしゃいましたよね。あの時、芸術には興味なさそうな目をしていて、印象に残ってます」
昴は一瞬言葉に詰まり、慌てたが、すぐに何とか答えた。
「違いますが…」
「あ、失礼しました、勘違いです」
「『純』は…すごく、いい作品でした」
微かに震える声で、昴はその言葉を絞り出した。幽紗はその反応に少し驚いたようだが、すぐに優しく微笑んだ。その微笑みに昴の緊張は少し和らいだが、次に何を話すべきか頭の中はパニックだった。
「ありがとうございます。でも、皆が言うほど素晴らしいのでしょうか…」
幽紗は少し自嘲気味に言い、窓の外を見ながらため息をついた。
「ダリアは、私が絵を描き始めたきっかけです。みんなが彼女の作品を称賛する中、私にとってはそれ以上の意味があります」
声は静かで、時折震えるようだった。
「ダリアの絵は、彼女が幸せな生活を送っていることを伝えてきます。温かい家族、友達、愛される子どもたち……私は親がいなかったから、その絵に自分がいるように感じてしまうんです」
涙が溢れそうになったが、彼女はそれを抑えようとした。
「ごめんなさい、こんな話をしてしまって」
幽紗は微笑んで涙を拭いながら言った。
「でも、絵を通じて少しでも幸せを届けたいんです。ダリアのように」
「それは素敵ですね。本物を見たことはありませんが、ダリアの作品には確かに生命力があります。見る人を引き込む力があると思います」
昴は心の中で『東のはじまり』を思い浮かべていた。幽紗は穏やかに微笑んだ。
「私も、本当はダリアが描くような世界に住んでみたいかもしれません」
昴の言葉に、幽紗は優しく応じた。
「きっと住めますよ」
彼女の言葉は温かく、希望に満ちていた。昴はその言葉に微かに頷きながらも、心の中では自分の運命がどうしてもそれを許さないことを知っていた。
「少しでもその世界に近づけるように、これからも美しいものを探していきたい」
幽紗はその言葉に深く心を打たれ、二人の間に新たな理解と尊敬が芽生えた。カフェでの時間は、喧騒から切り離されたひとときだった。
やがて時間が過ぎ、カフェを出た幽紗がふと振り返った。
「そういえば、名前を聞いていませんでしたね」
昴は少し焦りながら答えた。
「昴です」
「昴さん」
昴はしばらく迷いながら言った。
「もしよければ、連絡先交換しませんか?ダメだったら、全然大丈夫です」
その言葉には、期待と不安が入り混じっていた。
「交換させてください」
幽紗は笑顔で彼の番号を保存し、突然何かを思い出したように目を輝かせた。
「あっ、今日は美容室に行く日だった」
彼女は慌てて言い足した。
「今日はありがとうございました。楽しかったです!また話しましょう!」
幽紗は笑顔でその場を離れ、駅の方向へと歩き出した。昴はその後ろ姿を見守り、彼女が視界から消えるまで立ち尽くした。
車が近づき、翼が運転する車が停まった。昴は静かに乗り込み、目を閉じながら問いかけた。
「処理は順調だった?」
「完璧だ」と翼が答え、昴を一瞥した。
「どうだった?」
「どうもこうもないよ」と昴は淡々と答えた。
「今日は疲れた、少し休む」
それでも、彼の心は幽紗との時間で満たされ、再会への期待で揺れていた。夕日の中、車は静かに走り続けた。昴の顔には疲れながらも穏やかな表情が浮かんでいた。次に彼女と会える日を心待ちにし、希望と決意を胸に、新しい季節が始まろうとしていた。




