ep.15 血に染まる花
油絵学科I棟は、聖田美術大学で最も古びた建物だった。
壁は亀裂だらけ、ペンキは剥げ落ち、廃墟寸前の様相を呈している。
昴は湿ったカビ臭を吸い込みながら、足音を殺して進んだ。
天井は水漏れに蝕まれ、床には濁った水たまり。
古びた蛍光灯がチカチカと明滅し、暗闇の中に微かな光を落としていた。
建物の最奥、錆びたヒンジがきしみ、粗末な木製ドアがわずかに開く。
その先に広がるのは、混沌だった。
空き缶、画材、散乱するゴミの山。
その中心で、原野は夢中でキャンバスに向かっていた。
『東のはじまり』──十三年前、忽然と消えた伝説のダリアを模した、偽りの絵。
「俺のダリア、最後のダリア……やっと会えた……」
原野は震える声で呟き、血走った目で絵を見つめる。
昴の接近にも、まったく気づいていなかった。
昴は無音で距離を詰めた。
家伝の筆を手に、静かに背後を取る。
乾いた絵具が床にこすれ、かすかな音を立てたが、原野の意識は絵に釘付けだった。
そして──一閃。
筆は原野の背中を深く穿つ。
肉を裂く鈍い感触。
原野の顔に浮かぶ、驚愕と痛みが入り混じった表情。
滲み出す血が服を、床を、昴のパーカーを赤く染めていく。
原野は振り向き、苦悶の中で歪んだ笑みを浮かべた。
「ハッハ……悔いはねえ……」
かすれる指先で、愛おしそうにダリアの贋作をなぞる。
最後に零れたのは、ただ一言。
「ダリア……」
それきり、動かなくなった。
昴は血に濡れた筆を静かに引き抜き、屍を一瞥する。
目を向けた先には、狂気と執着の結晶──『東のはじまり』。
「成功」
通信機越しに翼へ告げる。
「お疲れさま。あとは処理班に任せて」
翼の声を受け、昴は返り血を浴びたパーカーを脱ぎ捨てた。
手早くリュックに押し込み、底から新しいパーカーを取り出す。
血の匂いがまだ鼻を刺す中、素早く着替えた。
新たな衣服に身を包み、深く息を吸い込む。
昴は一度だけ、原野が遺したダリアを見上げた。
何も言わず、静かにその場を後にした。




