第3話 再会
タンタンという足音を響かせ、優しい色合いの階段を登る。四年ぶりに訪れた幼馴染の家で、僕はカレーライスの載ったお盆を運んでいた。スパイスの香りが僕の食欲まで誘い出す。
階段を登り終えると、廊下の先に部屋があった。昔訪れたときと見た目は変わっていないが、あの頃と違って重苦しい雰囲気が漂っている。
「ふー……」
少し緊張して、息を吐いた。響に会えるかもしれないという期待感と、もし受け取ってくれなかったらどうしようかという不安。両方が自分の心にのしかかっていた。
おばあちゃんの言ったことを心の中で繰り返す。まず一つ、今の響は怖がりだということ。ずっと自分の部屋で過ごしていたのだろうから、外の世界に触れたくないのかもしれない。
それからもう一つ、響が「文章」を書くのを邪魔してはいけないということ。いったい何を綴っているのか、僕には全く見当がつかない。でも何を書いていようと、響の妨げになることだけはしないようにと誓った。
「……」
響の部屋の前に立つ。後は扉をノックすればいいだけ。それなのに、どうしても踏ん切りがつかない。僕はちらりと隣室の扉を見る。
「あ……」
そこにはお兄さんのネームプレートがかかっていた。少し斜めに傾いているが、きっと誰も直そうとしなかったのだろう。片瀬家の二階では、四年前から時が止まったまま動いていない。
僕はやっぱり怖くなった。地震があって、家族みんなが行方不明になり、響だけが救出された。あの悲劇がフラッシュバックするようで、足がすくんだ。
響はどう反応するだろうか。何も言わず、さっさと帰れと追い出されてしまうだろうか。あるいは、怒り狂って僕に襲い掛かって来るだろうか。それとも、昔のように出迎えてくれるだろうか。
一番最後のはまずあり得ないだろうな、と自嘲するように下を向く。響に何も出来なかった、という自覚がありながら、それでもまだ響に受け入れてもらおうとしている。そんな自分に嫌悪感を抱いた。
でも……ここまで来てやめるなんてことも出来ない。何度も片瀬家の前で足踏みをしていたことを考えれば、部屋の前に来られたというだけでもまたとない機会なんだ。何より――カレーライスが冷めてしまう。
「よしっ」
自分自身を鼓舞して、お盆を左手で持った。空いた右手をゆっくりと差し出し、扉の前に持っていく。そして優しく、響を威圧しないようにノックした。
「……」
たしかにドアを叩いたはずだが、何も返ってこない。寝ているのかな、と思って耳を澄ませてみると、もぞもぞと何かが動く音が聞こえる。……眠っていてほしかった、という気持ちも少しだけあった。
もう一度、コンコンと木目の入った扉を叩く。一度なら聞こえないこともあるだろうが、二回ノックすれば流石に気づくはず。
「……置いといてって、言ってるじゃん」
――響の声だ。記憶よりも低く、邪気をまとっているような気すらする。でも、たしかに響だ。間違いない。
「こっ……」
光希だよ、と言うつもりだったが、言葉に詰まった。自分の正体を明かせば響がどんな反応をするか、想像も出来ない。頼むから何も起こらないでくれ、と強く念じる。
「ねえ、置いといてって」
「……ごめん」
「へっ?」
反射的に謝ってしまった。おばあちゃんじゃなくてごめんなさい、といった感じで。僕はぐっと腹に力を込めて、自己紹介する。
「光希だよ。ひ、久しぶり」
「……光希?」
声色から、戸惑っているのがありありと伝わってくる。四年も会っていないのに、声だけで気持ちが分かるほどには僕は響のことを覚えていたらしい。
「その……晩御飯、持って来たよ。開けてくれないかな」
「……」
扉の向こうからは何も聞こえてこない。沈黙、それが答えということだろうか。ドアノブを見ると、そこには鍵穴。僕が強引にこじ開けることは出来ないようだ。
「なんで来たの」
「えっ?」
「なんで来たの。だって……光希、ずっと来なかったじゃん」
ドン、と扉が蹴られて、僕の心臓がドキリと跳ね上がる。形式的には「問われている」が、実際には「責められている」。四年間も幼馴染をほったらかしにした後悔が波のように押し寄せてきて、思わず後ずさりしてしまう。
「ご、ごめん」
「さっさとご飯置いて」
「……うん」
扉を避けるようにして、お盆をそっと置いた。聞いたことのないような、威圧的な響の声。おばあちゃんは「怖がり」だと言っていたけど、むしろ周囲を拒絶するハリネズミみたいだ。……いや、怖がっているから拒絶するのか。
「置いたよ、響」
「ありがと。……で、なんで来たの」
「……」
なぜ来たのかと問われて返す言葉を持たなかった。響が好きだから、というのがある意味では正しい回答だ。だけど、その言葉がこの場に似つかわしくないことなど承知している。
「今まで来なくてごめん。今日、お供え物を届けに来てさ。おばあちゃんが、響に晩御飯を持って行ったらどうだーって……」
どことなく他責っぽい言い回しをしてしまう。響に会いたかったから、と言えばそれで済む話なのに。僕は自分自身を理由にすることを恐れてしまった。響に嫌われたくなくて、自分の身勝手さを隠そうとしたのだ。
「……それだけ?」
「えっ?」
「それだけなの?」
さっきまでと違い、響の声が震えている。理由は分からないけど、何かを怖がっているようにも思えた。
「それだけ……って?」
「たまたま会いに来ただけ、なの……?」
「あ……」
自分の顔から血の気が引いていく。響は……響は、僕に会いに来て欲しかったんだ。四年間も孤独な思いをし続けて、ようやく来たと思えば「たまたま会いに来た」と。そんなの、誰だって不安になるし嫌な気持ちにもなる。
「ご、ごめん!」
「おばあちゃんに言われて、仕方なく来たんでしょ? 無理しないで、さっさと帰ってよ……」
「違うよ! 僕は、僕は……」
「光希、ずうっと来てくれなかった。お見舞いにも来なかったし、お母さんたちのお葬式にも来なかった!」
「僕は……」
「じゃあなんで来たの? 光希はさ、もう私なんか忘れてたんじゃないの?」
自分の目から液体が染み出ててくる。響に自分の気持ちが伝わらなかった。いや、伝えるのを避けた。不誠実だって、自分でも分かっていたつもりなのに。
さっきの言葉を訂正するつもりで、何度も何度も口を動かそうとした。だけどずっと意味のない断片を発するばかりで、まとまった文章を伝えることは出来なかった。空虚な時間だけが過ぎていき、カレーライスから立ち上っていた湯気が消えていく。
「もう来なくていいから。光希なんて、もう知らない」
「ッ……!」
決定的なフレーズを出され、僕は立ち尽くすことしか出来なかった。僕は響に拒絶された。ある意味、会う前から分かっていたことではある。だけど、自らの行いが招いた結果のような気がして――僕は後悔してもしきれなかった。
「……ごめん、響」
僅かな希望に縋り、呟くように言葉を絞りだしたけど、ドアの向こうは静かだった。僕は扉一枚開けられない自分の無力さを呪いながら、ゆっくりと歩き出す。廊下に響く足音が、さっきより随分と大人しい気がした。
あれだけいろいろと考えておきながら、結末はこれか。僕は自分自身が情けなかった。響のことを救う、響の力になる。……なんて心のどこかで思っていた自分が、いかに傲慢だったか。
「響……」
階段を降りる間際、振り返って部屋の方を見た。もうここに戻ってくることはないのかもしれない。せめてこの景色を目に焼き付けておきたい。じいっと眺めた後、僕は足を――
「うわっ!?」
僕はすぐ下が階段であることを忘れていて、思わず踏み外してしまった。ドタッと大きな音を立てて、盛大に前の方に転ぶ。なんとか手すりを掴んで、辛うじて体勢を保った。
「はあっ、はあっ……」
危うく幼馴染の家で事故を起こすところだった。自分の体に何もないか見回した後、右腕に力を込めて再び立ち上がる。
「……へっ?」
――廊下の方を見やると、そこには少女が立っていた。記憶よりも少し背が高く、記憶よりも髪がかなり伸びている。目元すらはっきり見えないが、その瞳はたしかに僕のことを見据えていた。そして、背後の室内には原稿用紙が山のように積まれている。
「……響?」
少女は何も言わず、コクンと頷いた。どこか可愛げのある動作が、パズルのように思い出と重なりあう。最後に会ってから丸四年。僕は、僕が一番大切にしていた――幼馴染と再会した。