第2話 仏壇の前
人は強制されなければ何も出来ない生き物なのかもしれない。手を合わせて仏壇に祈りを捧げながら、自らの行いを嘲った。
四年前から一度も足を踏み入れなかった片瀬家に、あっさり立ち入っている自分がいる。今日は響の両親とお兄さんの命日だ。
僕の両親は毎年のように仏壇にお供えをしているのだが、今年はどうしても仕事の都合がつかなかったらしい。それで僕に役目が回ってきたというわけだ。
最初は抵抗があった。四年前から何も出来てこなかった僕が、どんな顔をして響の家族と顔を合わせればいいのか。仏壇の向こう側から責められるんじゃないか、そんな想像すらしていた。
しかし両親は僕の考えなんか露ほども知らず、お供えしなくちゃ不義理だからなんて言って無理やりお菓子を押し付けてきた。大人の事情というものの前では、僕みたいな子どもの想いなんて些細な問題なんだろう。
結果的に、僕はこうして片瀬家にいる。まだ響のことは怖いけど、両親に逆らってお菓子を突き返すような真似も出来なかった。
「ありがとうねえ……もう四年も経つのに」
瞑っていた目を開けると、そこには響のおばあちゃんがいた。昔はよくお菓子を貰ったりしたけど、今となっては滅多に会うこともなくなっていた。
「い、いえっ。ひび……片瀬さんの家にはお世話になりましたから」
「あらあ、光希くんは大人になったねえ……」
僕が両親に言われた通りの台詞を述べている間、隣の居間にいるおばあちゃんは卓上の急須に茶葉を入れてお湯を注いでいた。四年前までと比べて白髪が増えた気がするし、しわも深くなった。息子夫婦と孫を失ったのだから、この人だって相当辛かったはずだ。
仏壇の前に敷かれた座布団から下りて、居間の方に歩いていく。入れ替わるようにおばあちゃんが仏壇の方に近づき、ロウソクの火を消してお供え物を手に取っていた。
「私と響だけじゃ食べ切れないから……」
僕がさっき仏壇にお供えしたお菓子の箱が、あっという間に開封されていく。そんなすぐじゃあ両親やお兄さんは食べてないんじゃないの、と言いたくなったが、おばあちゃんは死者の存在を信じることがなんの慰めにもならないことを知っているのだろうな。
「光希くん、お茶飲んで。お菓子も食べていきなさいね」
「ありがとうございます」
熱い湯呑を受け取り、ふうふうと中身を冷ます。かつてこの家で飲んだ、甘い甘いオレンジジュースはもう出てこない。
おばあちゃんは自分の湯呑を持ち、手のひらで熱を感じ取るだけみたいだった。真夏だというのに熱いお茶。お客の身分で飲み物に文句をつけるわけじゃない。だけど、昔のおばあちゃんとは何かが変わってしまったように感じられた。
四年前まで、この家はもっと騒がしかった。ドタバタと家中を駆け回る僕たち、大きな声を上げて注意する響のお母さん、それを見て愉快に笑う響のお父さん。今となってはその残響すらなく、針が時を刻む音だけが聞こえてくる。
久しぶりにこの家に来た僕は、否応なしに片瀬家の「変容」を目の当たりにすることになった。あの地震があってから、何もかもが過去になった。変容であって、完全に喪失したわけじゃない。だからこそ、心のどこかで現状を受け入れがたいと思う自分がいた。
この時、僕は「来なければ良かった」と少しだけ思った。楽しかった片瀬家での思い出が崩れ落ちていくような気がして、落ち着いていられなかったのだ。家に来るだけならともかく――響のことなんか、まるで考えられない。
「あら、もうこんな時間」
おばあちゃんが壁掛けの時計を見た。既に夕方の六時を回っている。僕も日中は用事があったので、遅い時間になってからこの家にやってきたのだ。
「お夕飯、持っていかなくちゃねえ……」
椅子から立ち上がり、台所の方に向かうおばあちゃん。「持って行く」というフレーズで、響の暮らしぶりがどんなものかを察してしまう。
「光希くん、せっかくなら食べてって」
「あ、いえ! 家に晩御飯あるので」
「そうなのかい?」
僕は嘘をついた。一刻も早くこの家から出たいがあまり、おばあちゃんに嘘をついてしまった。本当は「適当に食べておいて」と両親からお金を貰っているだけなのに。
「じゃあ、響の分だけ用意するよ」
響、という言葉が聞こえてくるだけでもドキリとする。響の笑顔がパッと思い浮かんで、そして谷底に消えていく。自分の中で、響という人間の在処を定め切れていないような気がした。
台所の方にいるおばあちゃんは鍋をかき回している。スパイスの香りが漂ってきて、今日のメニューがカレーであることに気が付いた。
家に帰ってもどうせカップ麺かコンビニ弁当なのだから、ここで片瀬家のカレーをご馳走になった方がよっぽど良いはず。それでも、僕は「やっぱり食べます」の一言を発することが出来なかった。
「光希くん」
「はいっ!?」
急に声を掛けられて、素っ頓狂な声を漏らしてしまった。おばあちゃんは温まったカレーを器によそいながら、さらに話を続けた。
「響と会っていくかい?」
「えっ……」
唐突に降りかかった思いもよらぬ提案に、僕は視線を左右させるしかなかった。響と会う? 今更? 僕にそんな資格が?
「な、なんでそんな」
「響は部屋から出てこないからねえ。光希くんが来たって言えば、あの子も出てくるかもしれないし」
こちらに一瞥もくれないまま、おばあちゃんは福神漬けを載せている。単に僕を使って響を誘い出したいのか、それとも僕が響と会えるよう取り計らってくれているのか。……こうして人の行動を深読みするのが悪い癖だと、自分でも分かっているのに。
「あの……」
「そうだ、光希くんにカレーを持って行ってもらおうかねえ。これ、お盆使っていいから」
どうやら既に僕が会うことになっているらしい。はいともいいえとも答えていないのだが、今更会えませんと言い出せる雰囲気ではなかった。
僕は場の流れに身を任せるばかりだった。まだ怖いという気持ちも残っている。だけど、今会わなければもう二度と響と会えないような気もした。
「はい、お盆」
「あ、ありがとうございます……」
あれよあれよという間に夕飯セットを手渡されてしまった。良い匂いがするカレーライス、スプーンが突っ込まれた水入りのコップ、食後の薬らしきいくつかの錠剤。
「響の部屋は……言わなくても分かるわよねえ」
「あっ、はい」
「お盆ごとあの子に渡していいからねえ」
背中を押されるまま、階段に向かって歩いていく。今日はこういう運命なんだ。何も考えず、響と会ってしまえば良いかもしれない。
「あっ、そうだ」
「え?」
居間を出る間際、呼び止められた。さっきまでと違い、かつて僕を叱りつけたのと同じような表情をしているおばあちゃん。
「今の響は怖がりだから、あんまり怖がらせないで」
「は、はい。でも……僕、響とは」
「ああ、光希くんなら大丈夫かもしれないねえ」
四年も会ってないくせに、何が「響とは」だよ。自分の罪を棚上げしているみたいで、自分に腹が立つ。やっぱり断ろうかと思い悩んでいると、おばあちゃんが気になる一言を付け足した。
「ああ、それとね。あの子の邪魔をしないように」
「邪魔?」
「ずっと文章を書いているんだよ。いっつもそこの文具屋に原稿用紙を買いに行かされてねえ」
「で……それがどうしたんですか?」
何気なく問うたつもりが、おばあちゃんはぐっと顔をしかめた。そして、一言。
「今の響には、文章が親代わりなんだろうねえ。いくら光希くんでも、邪魔をすれば『親の仇』だよ」
コップに入ったスプーンが、カランと音を立てて動いた気がした。