闇に、二つ
カチ、と音が鳴り、懐中電灯を持つ柚乃さんが暗闇に浮かぶ。
――神隠し。
子供が姿を消す、古い世界の迷信。
「言っちゃった。ふふ、もう、誰にも言わないって思ってたのに」
柚乃さんが懐中電灯の光と共にグルリと回る。
「でも……何にも起きないや。勇気出して来たんだけどなー。もう一度来れば、何かが変わるのかもって思ったのに。はは、なんにも変わらないや。……門は、そう簡単には開かないか」
「門を探しているのかと思えば、通った事あったってこと?」
「はい。小学三年生の夏休みに、私、行方不明になったっす」
おどけたようで、冷めた声。
夜風に木々が騒めく。何かが起きそうな奇妙な雰囲気に飲まれ、僕は柚乃さんの荒唐無稽な一言を否定出来ずにいた。
「何言ってるんだ、とか、バカバカしいって言わないんすか?」
「保留」
「おっ、あははっ、そっか」
明るい声が聞こえるけれど、夜の闇に紛れる柚乃さんの表情は伺えない。
「ここまで来てくれたんすから。ついでに私の話、聞いてくれます?」
「最初からそのつもりだよ」
「たくさん話してもいいっすか?」
「どうせ柚乃さんが運転してくれないと帰れないし。いくらでも付き合うよ」
そう言うと柚乃さんは苦笑し、ため息をついた。
「期間にして三日間。私はここから姿を消しました。子供が遭難しても生き延びられる日数です。夏だったから凍え死ぬなんて事も無い。大人たちは迷子になったんだろうって。でも、私にはこの山を彷徨った記憶はない。怖い思いをした記憶もない。私はただ、寒さの無い雪原にいた」
雪原。
「……柚乃さんがイラストに描いていたやつ?」
「灰色の空、どこまでも白く続く地面。数えきれない葉の無い木々と、ただ一つ生った七色の果実。あの雪原が、あまりにも寂しい異界の光景が今も心に焼き付いています」
柚乃さんは瞳を閉じ、脳裏の映像を僕に伝える。
「あの光景が神隠しと関係があるのかって言うと疑問っすけど。それ以外に丁度良い言葉もないし。ほら、ここから進むと天狗峠だなんて場所があって。天狗には天狗攫いなんて話もあっちゃって、そういうのに詳しかったんすよねー私。レーさんも知ってますよね天狗」
昔、リリーと図書館で見た事がある。
天狗。現代的な解釈で言えば『山の民』や『鼻の高い異邦人』だろうか。
「江戸時代に流行った話だっけ。現実的な理屈を当てはめれば、ただの人さらい」
子供が突然消える理由に神秘は必要ない。
「ですかね。まあ私、子供だったんで。戻って来た時は大興奮で同級生とかに自分から言ったんですよ。私は神隠しに遭ったんだぞって」
柚乃さんが『私の言うことなんて信じられないっすよね』と呟いていた事を思い出す。この時の記憶に起因するトラウマ、なのだろうか。
「最初はだれも信じなかったんですけど。……なんだか、信憑性、あったみたいで」
柚乃さんの口から乾いた笑いが漏れる。
「ただ凄いねって驚いてほしかっただけなのに。段々、自分の目が映す景色がズレていることにも気づいちゃったから。だから、気のせいだったかもって。後から怖くなって慌てて否定したのに、誰も信じてくれなかった。柚乃は本当に神隠しにあったんだって……」
「信憑性?」
「はい。聞けば……、視たら後戻り出来ないとっておきの神秘。覚悟はいいっすか?」
そう語る柚乃さんの瞳を見た瞬間、背筋に寒気が走った。反射的に柚乃さんを止めようとした瞬間――。
「なーんて。今更、返事なんて聞かない」
カチっと音がして懐中電灯の光が消える。
人工の光も月の光も失われ、視界が闇に覆われた。
「東京では誰にもバレないように、隠して生きてきました」
独白の音だけが響き。
やがて、一つ、二つと、闇の中に光が浮かび上がる。
琥珀のような、淡い輝きが徐々に輝きを増し――。
「特にね、……瞳が、駄目なんすよ。感情が高ぶるとボーっと光って。アニメでしょ?」
いつか妹と見たアニメで、同じようなセリフを聞いた憶えがある。
光の正体にも思い至る。
ああ、やっぱりキミは――。……僕はこの目を良く知っている。
「……私、本物なんすよ」
柚乃さんの瞳は輝き、まるで妹と同じかそれ以上に闇の中に映えた。
その異常な姿に怖がったり驚いたり……そんな感情は芽生えなかった。なんだ、うちのポンコツとおな――僕は、ただ、安堵、し、た。
あの、瞳が本物だというのならば、幽霊に、会えるかもしれない。そう信じるに値する奇妙な説得力が――信憑性があった。そうだ、やっと会えるんだ! お母さんにずっと会って聞きたい事があったんだ! なんで、どうして僕を置い――。
「その目で、ほんとうに視えるの?」
確認せずにはいられず。期待通りの眼差しが返って来る。
その瞳に囚われると、ドクン、ドクン、と心臓と意識と、脳が揺れる。
「貴方の会いたい人が居るのか居ないのか……。私であれば視てあげられます。大丈夫、約束は守りますよ。忘れたふりなんてしなくて大丈夫」
良かった、僕はまたお母さ――。
「――違う」
何か、おかしい。
……そうだ。僕はもう、自分の中の幽霊を求める気持ちには整理をつけたはず。もう過去ではなくて前に……そう決めたのに。なんで。
不思議に思い、ユズリ、ゆ、柚乃を見れば。
目の前で。
脳の中枢を揺さぶられるような蠱惑の光が瞬く。
この瞳を見るまでは平静だった思考が揺らぐ。オカルトなんて信じては……いないけれど、これは……。あの人と会えるかもしれない。抗いがたい誘惑。そして疑えない信憑性が、目の前の瞳にはある。
脳裏を過ぎるのは妹の姿。人を惑わす――。
思考が狭まる。感情の抑制が効かない。何か、不可思議な、耐えられな――。
『……浮気ですよ』
と、意識が混濁する寸前。僕を引き留める手を幻視した。
それはなんとも俗っぽい――。
「さすが。囚われないんだ」
歪んでいた視界が正常に戻る。
「……今、柚乃さんが『なーんちゃって実は幽霊なんて視えないっす』って言っても。ゴメン、僕もその言葉は信じられない」
これでは柚乃さんを追い立てた人と変わらない。
さっきまでは他人事だったというのにこのザマだ。きっと、あのスカポンタンに掴まれてなければ五秒も経たずに意識を失ったかもしれない。
それほど耐えがたい誘惑だった。
「正直者め。べつに責めないから、そんな顔しないでください。たぶん、そーいうチカラもあるんすよ。かっこいいっしょ?」
チカラって……うちの妹なんてキラキラしてるだけだぞ……。
人を惑わすだなんて――。
「常世の景色。私の色彩は人より特別多くて。だから人の目を惹くイラストも描けるのかも。いくつかフィルターを通すとボヤけるんだけど、カラコン外せばほらご覧の通り」
宝石のように綺麗な光が僕を見つめている。
夢幻ではない、実在の神秘。
「……これだけは先に言っておくけど」
これ以上心揺さぶられる前に言っておかないと。
「なんすか?」
「その目、かなりカッコいい」
リリーみたいな目、ずっとカッコいいって思ってた。
色味こそ違うとはいえ、柚乃さんは随分と、カッコよかった。
「ふっ、何を言うかと思えば。……やっぱり、そういう人っすね」
柚乃さんが僕をジッと見つめ、優しく目を細めると、ようやく僕の気持ちも落ち着きを取り戻しはじめた。
そうだ、あんな光っているだけの目。僕にとっては見慣れたものじゃないか……。
あれは、特別なんかじゃない。
あれが特別なら、妹までそうなってしまう。
僕の妹は特別アホではあるけれど、異質ではあるけれど。超常の異物なんかじゃない。ただ顔が良いだけの、ただの女の子だ。そうでなくては困る。ちゃんとまっとうに立派になって欲しいんだ。
先ほどの逃れられない『誘惑の光』が脳裏を過ぎる。あんなの、うちのおバカちゃんが意識的に使おうものなら。絶対に調子に乗る。調子に乗って――不思議に逃げて、大事なモノを取りこぼしてしまうかもしれない。
そんなの、駄目だ。
……もし、妹を彷彿とさせる目の前の不思議が本物の神秘であるなら。柚乃さんの『神秘』は、ここで地に落とさなければ。ただの一発芸に落とさないと。
ぞっとするほどに美しく輝く誘惑の光は、人には余りにも毒だ。
彼女に縋ればお母さんに会えるのかもしれないけれど――。
そんな救い、もう必要ない。
ここで選択を間違えたら、僕はずっと、過去に囚われたままになる気がする。それは目の前の柚乃さんもそうだろう。せっかく勇気を出してここまで来たのに……そんなの、嫌だ。
僕ら二人、過去に戻りたい訳でも消したい訳でも無い。ただ、区切りをつけたかっただけなんだ。前に、進みたいんだ。
――だから、ごめん。
最後にそう告げ、引きずり出された亡き母への未練を、改めて飲み込む。
・・・
「ところでレーさん。よもつへぐいって知ってます?」
なにげない口調で物騒な言葉が聞こえてきた。取り込まれないように、僕も平静を意識して応対する。
不可思議に片足突っ込んでいる柚乃さんは、あんまり好きじゃない。せっかく気の合う友達が出来たと思ったのに、このままマリリやアンジェみたいなのになられては困る。しっかり正気に戻って貰わないと!
「黄泉の国の食べ物を口にしたら戻ってこれない、だっけ」
「せーかいっ」
黄泉の国……。神話だと異界や冥界は当たり前に存在するものだが、多くは試練の舞台となり尋常な領域ではない。
「よもつへぐい。異界の食べ物を口にした人は、現世には戻ってこれない。私知ってたのに、迷い込んだあの雪原でとってもお腹が空いて、手を伸ばしちゃったんすよ。……美味しそうな七色の果実」
雪原は知っていたけれど、果物は聞いた事がない。
もしかして、それを食べてこの目になったのだろうか。
「でも食べようとしたらつまずきまして、私の顔と地面でトマトみたいに潰しちゃって。だから、目だけが、この世じゃない場所を映してるのかなって推測」
笑い話の響きだけれど、輝く瞳を見るだけで怪談の側面を感じてしまう。
「……どうやって帰って来たの?」
「こけた直後に気がつけばここでした。ふっ、我ながら間抜けな顛末」
柚乃さんが視線を空に向ける。
「かくして霊感少女柚乃ちゃん爆誕。周囲から浮くわ、この目が気味が悪かったのか何なのかいつの間にか両親は離婚したわで。私は母に連れられド田舎から東京に栄転っす。……心はまだ、向こうかもしれないけど、ね。ふふふ、ああ、久しぶりに解き放ったから、瞳の抑制が効かないかも」
不思議探しなんてする必要がないくらい柚乃さん自身が不思議そのものだった。
カチッと音がして、再び懐中電灯が光るが。
柚乃さんの瞳の輝きは失われる事は無かった。
種も仕掛けも無い、ただの心霊現象がそこにある。
この神秘が、柚乃さんを惑わせる。
どうにか……考えないと。その場しのぎでも、柚乃さんの気がまぎれる段取りを。
この場所、これ以上居たら、何かマズイ気がする。
「ちなみに、言ってませんでしたけど。実のところ……エリちゃんの誕生日イラスト、とっくに完成してるんです」
「え」
「2、3ヵ月前には完成してました」
「は?」
「だって可愛い可愛い娘の誕生日っすよ。エリちゃんに頼まれる前から準備してるに決まってるじゃないっすか……でも、これじゃあ駄目になっちゃった」
柚乃さんのスマートフォンをポイっと投げ渡される。
小さいディスプレイの中には綺麗で澄んだ表情を浮かべるエリオット。華々しくも物悲しい美麗なイラストだ。
「これの何が気に入らないの?」
「私の描くエリちゃんって、ぜんぶ寂しそうだったり悲しそうだったり、澄ましたお姫様フェイスだけで。今の、本当に楽しそうなエリちゃんじゃないんです。私があの子に自分を重ねているからあの子が幸せそうだと上手く描けないんすよ」
エリちゃん本人がアホな分、イラストくらい柚乃さんの描いたエリオットの方がカッコいいだろうに。
「それで、エリちゃんが楽しそうな原因を探ってみたら。考えるまでもなくお兄さんに構われ出してからテンション爆上がり。私、混乱しちゃって。レーって名前のイマジナリーお兄ちゃん作ってると思ってたら実在してたし、あんなキラキラフェアリー雑に扱えるお兄ちゃんって謎過ぎるし、そういえばエリちゃん前に配信で言ってたんですけど。あの超絶美少女にコブラツイストしたのって本当っすか?」
「ムカついちゃったんだろうね」
「やってたーっ。は、はは、はははっ…………」
黄金の瞳に涙が薄っすらと浮かぶ。
「ほんとに、ただのお兄ちゃんなんだ。私が言うのもなんですけど、普通、あんな子を受け止められませんよ」
「あんなんでも妹なんだから、しょうがないじゃん」
例え本当に不思議な存在であろうと何であろうと、エリちゃんは僕にとって妹以外の何者でもない。あの不思議ちゃんこそが日常なんだ。
「……ここに来たら、消えてしまえると思ってたんです。普段は気にしないけど寝る前に沸く不安とか全部面倒くさくて。気味の悪い瞳、エリオットに自分を重ねること、唯一の取り柄の絵も描けない。オカルトなんて否定したいのに鏡見る度に自分が不確かになって。怖いけど、ここに来れば何か変わるかもって……勝手に期待してたんだけど。結局、なにも変わらなかった。わざわざここまで来て、成果は無しっす。付き合わせて、すみません。ああ、ほんと消えちゃいたい。……昔、私が消えた時間まで、あと少し。あと少ししたら帰るんで。もう少しだけ、ここに居ませんか?」
黄金の瞳に囚われそうになるけれど……でも。
「やだよ。蚊に刺されるし」
「お願いします。なんだか、もう少しで私のあれこれも自然消滅する気がするんです」
しんみりとした様子の柚乃さんは、どうにも見てられない。柚乃さんは楽しくて、僕の知らない場所へ連れて行ってくれて。
なにより笑いの波長が合う人だ。些細な会話もなんとなく、楽しい。
そんな人がここまで来て『成果』がないって言うのは、あまり良い気がしない。僕はとんでもなく楽しかったというのに柚乃さんにとって旅の道程は重要では無かったらしい。
それも、嫌だ。
どうせなら、帰り道も楽しい方が良い。
そして、楽しく帰る方法は一つしかない。
「柚乃さんの問題は自然消滅なんてしない」
「…………」
「だから、僕が解決する」




