猫の耳かき屋さん
ヤクザの語源って知ってるかい?
八九三、株賭博のクズ手のことだ。人でなしのクズ。お天道様に顔向け出来る商売じゃない。文字通りの日陰者さ。
まぁ、それでも人間なんで、飯食って、糞して、寝るわけだ。
だからさ。いいじゃないか。ひとつくらいは人並みの楽しみを持ったってさ……
◇
ドイツ製の自動車の後部座席に背を預けながら外の景色を眺めていた。すでに空は暗く窓の外では街の灯りが流れていく。
見覚えのあるビジネスホテルの看板の前を通り、交差点に差し掛かる。
「?」
違和感を感じる。
妙だな。あそこにあったはずのコンビニが無くなっている……いや、小洒落たカフェだったか? そうだ。コンビニはその前だ。あそこに通うようになって随分と経っているからな。
前を見れば運転手の男の頭が見える。運転手は何代も交代しているが、やはりこういう時にふと思い出すのは一番最初のアイツの顔だ。信二という関西出身の男だった。今では周りからすっかり「オヤジ」と呼ばれる俺だが、当時は「アニキ」と呼んで慕ってくれていた。親が倒れて関西の実家に帰ってからは一度も連絡を取っていない。もちろん、その方が良い。良いに決まっている。
信号が赤から青に変わり角を曲がると灯りが途切れる。窓には皺が目立ち始めた初老の男が映っていた。
自動車が止まる。駅前の雑居ビルだ。暗くて分かりにくいが古いビルだ。看板にはスナックの看板の灯りがついているんだが、その灯りもずいぶんとくすんでいる。
それを見上げてから、鞄からクリップで挟んだ紙幣だけ出してポケットに入れる。ここに入るときは他には何も持って行かない。
「ちょっと待ってろ」
運転手の若いのに言うと、そのまま車を降りた。
立場が変わってからは、こうして独りで行動出来るなんてことは随分と少なくなったんだが、ここだけは別だ。何しろここより安全な場所などないのだから。
俺はビルの入口に立つとエレベーターを一瞥してから階段に脚をかける。
「……………………ふぅ」
この階段がつらいと感じ始めたのはここ2~3年の話だ。そういえばオヤジが身体を悪くしたのも、今の俺くらいの年だった。
2階と3階の間の踊り場で一休みしながら考える。
「ここが登れなくなったらもう通えないな……」
それは多分遠い話ではないだろう。もちろん若い衆の肩でも借りれば問題ないんだが、ここの暖簾を潜るのに無様は晒したくない。
「さぁ、もうひと踏ん張りだ」
発奮してから残りの階段を登りきる。
ガラっとした短い廊下には何も置かれておらず、味気のないドアには看板もかけられていない。だが俺は気にせずドアの前まで進むと、そのままノブをガチャリと回した。
カランコロンとドアベルの鳴る音がした。
大きな音だが低い音なので、それほど邪魔な音ではない。その音色が室内に溶け終わると同時に野太い声が俺を迎えてくれた。
そこにいたのは一匹の猫だった。
この店には猫がいる。とはいえ猫を飼っているわけではない。猫が経営している店なのだ。
身長は俺よりも高い。ずんぐりとした熊のヌイグルミのような体型だ。尾は二股に分かれており、見事な雉虎の毛並みをしている。もちろん人間の言葉を話す。
以前の店主が店を辞めるときに彼を紹介したときは流石に驚いた。
驚きはしたが、あの人ならこういう事もあるか……そんな妙な納得感があって、俺は今もこの店を贔屓にしている。
猫の店主はいつものように俺を部屋の隅に案内する。その一角には畳が敷かれていた。正方形の琉球畳だ。薄い緑と濃い緑。それが9枚。チェック柄のように並んでいる。
予約しているので既に準備は整えられていた。畳の上にある寄木細工の盆には竹製のピックが置かれている。濃い飴色をしたそれは耳を掃除するための道具。
つまり耳かきだ。
俺はこれまで仕事一筋で生きてきた。他人様に迷惑かけるのが稼業の男が仕事一筋だなんて、まったく質の悪い冗談だけどな。
そんな大した趣味の一つも持てなかった俺だが、唯一の楽しみと言っていいのがこの耳かき屋の耳かきだ。今ではマッサージやら何やら手広くやっているんだが、先代の頃は耳かきだけやっていた。ここの店主は先代に仕込まれたのか、なかなかに達者な腕の持ち主だった。
「ああ、どうもすいません」
俺が階段を登って疲れているのに気付いたのか、猫の店主は小さなコップに半分ほど入った水を差しだしてくれる。良く冷えた水で水道水特有の嫌な臭いがしない。それをチビリチビリと舐めるように飲む。舌が痺れるほどに冷たい水は口腔に含むと少しだけ温くなり、喉を降りていくころには程よい冷たさになって腹の中へと降りていく。
ひと心地ついた所で羽織っていたジャケットをハンガーにかけると準備は完了だ。それを見て、猫の店主は人間のように正座で座ると「どうぞ」と言う。
俺はそのままゴロリと転がり、頭を店主の膝に任せた。
肢腿は毛皮で覆われている。本人曰く自身は化け猫の類だということだが、幽霊めいた感触はない。みっちりと詰まった肉の上に上質の毛皮を纏っている。寝心地は極めて良い。思い出すのは、若い頃に見たオヤジの自宅に置いてあった虎の毛皮だ。敷物だが床には敷かず、調度品のように壁に掛けられていた。シベリア虎のヤツで普通に国内に持ち込むと法律に引っかかるというシロモノらしい。そんな嘘か本当か分からないような先代の冗談を聞きながら、まだ若かった俺はあのふさふさとした毛並みの上で転がってみたいという思いに駆られたものだ。
(まさかあのときの妄想がこんな形で実現するとはな……)
頬から伝わってくる猫の店主の膝枕。その感触はあのとき漠然と想像した虎の敷物がきっとこうだったのだろうと確信させるものだった。モフモフとした感触は、柔らかく、それでいて温かい。
「…………ふぅ」
体がリラックスしたのか腹の底からの息が漏れる。それが合図になったのか、店主が耳かきを構える気配がした。肉球のある猫の右手で持つのは竹で出来た耳かきだ。それがゆっくりと迫る。
猫の店主は空いた左手で俺の耳たぶを摘まむと軽く引っ張った。
弾力のある肉球がぷにぷにとした感触。
ストレッチをかけられた心地よい痛痒感。
俺の耳は風を受けた帆のように張る。耳を掻くために位置を調整しているのだ。
猫の店主は耳介の溝の一番外の部分に耳かきの匙を当てる。
ツン……と、匙の先端が耳介に触れた。
伝わってくるのはチリチリとした痛みだ。
ツボを押すような心地の良い痛み。それが匙の先端が食い込むたびに伝わってくる。
(ふむ……いい所に当たっている)
くい、くい、っと匙が耳のツボを捉える。
店主め、また腕を上げたな。
背中を擽る様なチリチリとした痛みを楽しみながら俺の口の端が僅かに上がる。先代には及ばないものの、猫の店主は来るたびに技術を上げている。
クッ、ククッ、クッッ…………
下から上、外側から内側に向けて匙は進む。耳の溝に沿って渦を巻くように耳のツボが押されていくと耳たぶが少しずつ熱を持ち始めた。耳たぶが温まってくるれば、次に行うのは耳孔の掃除だ。
ここ2カ月は耳掃除はしていない。耳掃除は好きなんだが自分ではしない。するのはここに来たときだけだ。耳の穴の中はおそらくびっしりと垢がこびりついているだろう。そんな耳孔に耳かきが侵入を始める。
最初に耳かきの先端が触れたのは入口付近の浅い部分だった。
カリカリ、カリ…………
耳垢を削る音が耳洞に響く。
固まって層になっている部分を少し剥がしているのだ。
一気に引き剥がすような不粋な真似はしない。時間をかけてゆっくりとだ。
カリ、カリ…………
慎重に層になった一番上の部分から、匙の先端で削り取る。
取れそうで取れない。
焦らすような動き。だがそれが心地よい。この背中が疼くようなもどかしさすらも俺を楽しませてくれるのだ。
カリカリと薄い匙の先端は耳垢を削り続ける。
しかしそれもそう長くは続かない。
カリカリ、カリ…………ガッ
音が変わる。表層の部分が除去されて、耳壁に張り付いた根の部分に到達したのだ。
猫の店主は先ほどよりもほんの僅かに力を込めた。
ググッ……ッ
小さいがその音は確かに耳洞の中に響いた。匙の先端は根っこの部分に引っかかっている。
耳かきの先端は緩いカーブを描いている。その部分がテコのように作用すると、切り株のように根付いていた垢の塊を一気に引き剥がした。
バリッと音が鳴った後に訪れるのは圧倒的な解放感だ。猫の店主は「大物が取れましたね」と髭を揺らしながら笑い、耳かきを見せる。するとその匙の上には匙自体が隠れるほどの大物が乗っかっていた。
「少し無精しすぎましたかね」
その大きさに自分自身でも呆れながら応える。
白っぽい塊を見ていると、すっきりとした耳の穴の中が再びウズウズと痒みを帯び始める。猫の店主はそれが解っていたのか、耳かきを綿棒に持ち替えると耳掃除を再開する。
綿棒は先端がくびれている。そして軸の部分が細い。少し力を入れるだけで曲がってしまうほどの細さだ。猫の店主は繊細な指使いで綿棒を摘まむと俺の耳の穴に綿玉を忍び込ませた。
ぞぞぞっ……
引きずるような音を立てて綿玉は進む。その目的地はもちろん痒みの中心地だ。ウズウズと痛痒を感じさせるその部分。そこに綿玉は到達すると、ぐぐぅ……っと、細い紙製の軸が撓むほどに圧がかけられる。
「………………んぅ」
痒い部分をピンポイントで責められたせいか、口元から息が漏れた。
やはり耳掃除は良い。この自分では決して触れない部分に触れる。特に他人に触れられるというのは何とも言えぬ快感だ。
恍惚に浸された身体が思わず身もだえる。
もちろんその間も悠長に同じ作業を続けるほど、猫の店主の腕は凡庸ではない。耳の穴の痒い部分を押さえていた綿玉に今度は優しく掻き毟るようにして綿玉に回転が加わる。
ぐり、ぐりりぃ、ぐりりり~~~っ
狙っているのは先ほど除去した大きな塊があった部分。張りついていた根の残りや、その部分に飛び散った破片。それを丹念に拭き取っていく。
ず、ずずっ、ずずずぅ~っ…………
力強く拭き取り、垢すりのように擦り上げる。しかし痛みを感じることはない。柔らかい綿棒と、柔軟性のある軸が、押しつけて来るを絶妙に吸収し優しい触り心地へと変換しているのだ。
耳孔をしっかりと拭き取った綿棒を抜き取ると、そこには粉になった垢の残りかすがしっかりとこびりついている。これもまた大量だ。先代は耳掃除をする際に耳かきは使うが綿棒は使っていなかった。おそらくは猫の店主の好みや創意工夫の結果なのだろう。
「ああ……いい、心地です」
耳の中には再び耳かき。
身体から力が抜けていく。身体は泥のように溶け、柔らかな毛皮の枕に沈み込んでいく。
耳の中に響く、カリカリという音が遠くに聞こえるさざ波の音へと変わっていく。
やはり耳かきはいい。
施術が終わったあとひと心地ついた俺はジャケットを羽織って椅子に座っていた。手に持っているのは店主から手渡されたコップだ。中には常温の水が入ってる。手の平の温度で少しだけ温くなったそれをゆっくりと呑み干すと、それが、すっ……と身体の中へと消えていく。
俺は大きく息を吐くと店主を見上げながら言った。
「ああ、すいません。実は次の予約なんですがね……取れそうにないんですよ」
その言葉に猫の店主は縦に細くしていた瞳孔を丸くして俺を見る。俺は少しバツが悪そうな表情を形作って彼に応えた。
「恥ずかしい話なんですが、先日の検査で腎臓の数値が悪くて、これから病院に通うことが多くなりそうなんですよ。まぁ、すぐに死ぬような病気じゃないんですがね」
それこそ人ならぬ猫の店主のことだから俺の内心など気づいているのかもしれないが、丸くしていた瞳孔をもとの縦長に戻すと「沢辺さんなら先代からこの店に必ず通すようにと言われているので、そのまま来ていただいても大丈夫ですよ」と言い、その後に申し訳なさそうな顔で「ただ階段だけは……」と続ける。俺はそれに「いい運動になりそうですね」と笑って応えた。
「必ずまた来ますんで、では……」
そう言い残し店のドアを閉める。帰りの階段は幾分楽に降りることが出来た。
階段を降りた俺は外に出ると、もう一度3階の窓を見上げた。
そこには暖色系の電灯の光が確かに灯っている。
身体の中には先ほどの恍惚感が色濃く残っており、足元が少しふわふわする。
その様に「階段から落ちなくて良かった」と思わず苦笑した。
「さぁ、帰ろうか」
何年住んでも住みなれない我が家ではあるが、少しでも今の感覚が残っている間に休みたい。
俺は待たせていた車に乗ると最近ようやく下の名前を覚えた運転手の男に命じて帰途に着く。
そして最後に遠ざかっていくビルを振り返り、もう一度呟いた。
「また……来ますね」