猫のマッサージ屋さん
突然だけどさ「ニーディング」って知ってるかい? 「ミルクトレッド」とも言うけどさ。
多分、猫飼ってるヤツならすぐにピンと来るだろうさ。ほら、あの前足でふみふみする動作さ。
アレってさ、何かマッサージしてるみたいだろ? もともとは子猫が母猫の母乳の出を良くするためにする動作らしいね。大人になってもやんのもその名残で、餌をねだってるときとか、甘えたいときにやるらしい。
まぁ、何かっていうと、俺は猫が嫌いじゃないってことと、あのふみふみでマッサージされると実は気持ちがいいってことだ。
え? あんな小さくて軽い猫の手でマッサージされて気持ちいいはずがないって?
たしかに普通はそうだろうさ。猫ってのは小さくて軽くて可愛い生き物だからな。でも、それも普通の猫だったらって話だ。
◇
仕事を終えた俺はその場所へと向かっていた。金曜の晩。明日は休みだ。一週間働いたせいか身体が少々重い。一杯飲んで帰ってもいいんだが、今日はそれよりも疲れを落としたい。そう、俺は今から馴染みのマッサージ屋に行くのだ。
向かっているのは駅前の雑居ビルだ。もう随分と古いビルなんだろう。建物全体がくすんでいる。いくつかスナックが入っているのかぽつぽつと窓や看板に明かりが灯っているものの、やっぱり古びた行灯みたいな明かりだ。
俺はそのビルの中に入るとエレベーターの前に立ち③のボタンを押そうとして――
「おっと……」
危ない所だった。
思い出した俺は疲れた身体に鞭打つようにして3階ぶんの階段を登る。普段から健康に気遣って階段を使った方がいいと毎回思うのだが、ビルを出た瞬間にそんな話は忘れてしまう。それもこれもここのマッサージが上手すぎるせいだ。
極上のマッサージを受けた後は頭も体もすっかりリラックスしてしまって、みみっちい健康の話なんてすっかり頭から抜け落ちてしまうんだ。
しっかりと3階ぶんの階段を登りきる。ここに入っているテナントは一つだけだ。廊下には何も置いていない。看板も出ていない。何も書かれていない飾り気のない金属製のドアが一枚。それがこのマッサージ屋の看板だ。
「こんばんは」
ドアをくぐる。するとそこには猫がいた。
猫だ。ただしデカい。そして二足歩行の猫だ。見上げるほどデカい。2メートル……とまではいかないが、190㎝はゆうにある。猫というとしなやかで細い体躯を思い浮かべるが、目の前の猫はずんぐりとした体形だ。毛の模様は見事な雉虎。名前をしゃもじという。
まるでファンタジーの世界から飛び出した獣人、もしくはおとぎ話の妖精だ。ちなみに本人曰く妖怪らしい。尾も二本に分かれているので、少なくとも俺はそういう理解をすることにしている。
最初にこの店にやって来たのは半年前、仕事でミスをしてしまい、それを一週間ひたすら残業して何とか挽回し、自分へのご褒美と称していつもより高い店で浴びるように呑んで、ぐでんぐでんに酔っぱらってふらふらの足取りで気づいたらこのビルにたどりついていた。
初見のとき、俺は夢を見ていると思った。だって猫だ。しかもデカい。こんな生き物がいるはずがない。そう思った。
だって言うのに、その猫ときたら俺を見るなり冷たい水をコップに入れて差し出してきたのだ。
それが抜群に美味かった。
それ以降、俺はこの店に通っている。
だいぶ温かくなってきたのでジャケットは着ていない。腰のベルトだけ抜いてクルクルと丸めるて籠に入れる。鞄も籠に入れる。そのままゴロっとベッドの上でうつ伏せになった。ベッドはちょっと固い。本当はもっと柔らかい方が寝心地がいいのだが、あまり柔らかいベッドだと身体を押したときに沈んでしまってマッサージの力が逃げてしまうらしい。
「腰を重点的にお願いします」
いつものように注文すると、店主の猫は「任せろ」と答える。虎のような体躯に見合った野太い声。一昔前の洋画のアクションスターの吹き替えでもしていそうな声だ。
その声が施術の始まりの合図を告げる。
弾力のある肉球が背中に当たる。それがゆっくりと背中の筋肉を抑えつけた。
「…………くぅっ!」
最初の一撃。
もうけっこう通っているというのに、これがどうしても声が出てしまう。
猫特有の柔らかさと弾力を備えた肉球に店主の190㎝を超える巨躯から繰り出される重圧がゆっくりと加わる。それが俺の凝り固まった筋肉に心地の良い刺激を与えるのだ。
「ああ、そうですね……納期が近いせいか、ちょっとバタバタしてまして……ぅぅ」
そのせいか座り時間が長くなっているらしい。腰の筋肉がガチガチになっているのが自分でも解る。そこへ店主の柔らかくも重い一撃。
これまで何度か他所でマッサージを受けてきたのだが、この猫の店主のマッサージは明らかに違う。恐らくは掌が肉球だからだろう。とにかく手つきが柔らかい。そのくせに施術自体は力強く。圧されると筋肉の中を浸透するように心地よさが染み入ってくるのだ。
「いや……上司がちょっと面倒くさい人で、それで……っぅ」
手首に捻りが加わったのか、垂直に圧すだけだった肉球から捩るような動きを見せる。同時に筋張っていた筋肉に温かいものが浸透していく。表面からじわじわと、ゆっくりと、奥の方へと、筋肉の層をひとつひとつ温めながら掌圧が身体の芯へと進んでいく。
きっと内臓にまで届いているのだろう。その証拠か、ここでマッサージを受けた翌日はやたらとお腹がすくし、便通もよくなる。
「んぅ……そうですね。職場なんて簡単に変えれるものじゃないですし……ぅっ」
腰に更なる一撃が加わる。その刺激がじわじわと脳にまで伝わって来て、体に纏わりついていた倦怠感を洗い流していく。
それにしてもこの猫の店主、やたらと会社員の事情に詳しい。聞いてみると、昔飼ってくれていた飼い主が割と苦労していたOLだったらしい。寿退社して育児が終わって再就職したときもやっぱり苦労して、そのときもよく愚痴を聞いていてあげていたらしい。太い声の店主は髭を揺らして笑いながら「当時は「にゃ~」としか答えられなかったんですが」と言うが、これだけ聞き分けの良い猫に愚痴を聞いてもらっていたのなら、さぞかしそのご主人とやらも救われていただろう。
それにしても……うぅ…………肉球が効くぅ~~
ぐにぃ、ぐむぅ…………
肉球が冷えた筋肉を包み込む。
ぐぐぅ、ぐぎゅぅ~……ぐぅぅ~~っっ
冷えた筋肉がほぐれて血の流れが良くなったのか、身体がポカポカと温かくなっていく。
肉球が背中の上から下まで、ゆっくりと圧し当てられていく。
一往復、二往復、そして三往復
「ぅ…………くはぁ……っ」
搾り出すように息が漏れた。圧が身体の芯まで通り切ったのだ。腰に溜まっていた疲労物質が肉球の繰り出す掌圧と、回復していく血流によって流されたのを感じる。起き上がって腰を捻ってみると、明らかに先ほどよりもよく回る。
「……ありがとうございます」
財布から一万円札を一枚出す。おつりはないが高いとは思わない。猫のマッサージ屋は最近ではすっかり少なくなった現金のみ取り扱いのお店なのだ。以前、好奇心が抑えきれずに「何に使うんですか?」と聞いてみると、普通に「テナント料を支払うのに使っています」と答えられた。ビルのオーナーは前の店主の頃からお世話になっているらしい。
そんな風にツッコミどころは満載だが、猫に喜んでマッサージをされている人間が何を言っても詮無き話だ。
「さて、帰るか」
エレベーターを使わずに階段を降りる。足取りが軽いのは下りだからという理由だけではない。思わず、この感動を誰かに伝えたくなったのだが、俺はそれをぐっとこらえて鞄につっこみかけた手をポケットに入れ直した。
この猫のマッサージ屋を使うには、いくつかの条件がある。
ひとつ、いつもニコニコ現金払い。
ふたつ、面倒くさがらずに階段を登る。
みっつ、決して他人には教えない。
他にも細々とあるらしいが、とりあえず最低限これだけ守っていれば普通の人は大丈夫らしい。現金を用意するというのが地味に面倒ではあるが、まぁ、これだけの店なのだから文句は言うまい。
「来月辺りにもう一回来ようかな」
最近ではお店で飲むより、ここに来る方がストレスの解消になっていた。辛い仕事もここのマッサージがあると思えば乗り切れるのだ。俺は3階の窓からこぼれるぼやけた灯りを振り返ると、軽い足取りで帰途へ着いた。