15話 樹海からの脱出
朝日が瞼の裏を刺激する。
シオンは眠気を無理やり押さえつけて意識を覚醒させた。
(……よかった。近くに竜はいないか)
周囲を見渡すと破壊され尽くした樹海は元通りになっていた。本来の自然ではあり得ない植物の成長速度に驚くばかりである。しかしこの法則の歪みこそ、特異点の性質だ。
今回はこの性質に助けられた。
(この森のお蔭で俺たちも竜から隠れられる。それに邪龍も見逃してくれたみたいだ。体も動かせるようになったな)
予想した通り万全とは言い難い。
しかし今の体力でも一日程度なら飲まず食わずで動ける。一応は携帯食料の残りと水筒に入るだけの水は確保できるが、今はもう一人いる。シオンだけが飲み食いするわけにもいかない。
隣で眠る赤髪の少女キャトルに目を向け、溜息を吐いた。
「キャトル、起きてくれ」
「んぅ?」
「朝だ。移動しよう。時間も限られているし、体力のある今日の内にできるだけ進んでおきたい」
「そう? 仕方ないわね」
「呑気かお前は」
柔らかい木の葉と千切れた木の皮を布団替わりに熟睡していた彼女からは緊張感すら感じられない。ドラゴンの脅威をまるで知らないかのような態度にも見える。
「あのな。言っておくけど、ここは大量の竜がいる。分かるか?」
「そういえばそうだったわね」
「竜は人間を食べる。だから逃げなきゃならないんだよ。分かるか?」
「問題ないわ。完璧よ」
「それならいいんだけど。俺は水を汲んでくるから、ここで大人しくしていてくれ。竜が近くに来たら絶対に隠れること。いいな?」
「そう。じゃあ、あたしはもう少し寝ているわ」
「おい」
シオンが止める間もなく、キャトルは木の皮を被って寝てしまう。あっという間に寝息が聞こえた。これはこれで隠れることができているので、問題はない。しかし納得いかない。
「この女、本当に危機感ゼロか?」
一番の敵はキャトルの無防備さになるかもしれない。
なんとなく、そんな予感がしたシオンであった。
◆◆◆
富士樹海からキサラギまでの帰還ルートだが、地図も方位磁針もない状態では最短を進むのも難しい。北道である旧東名高速道路に沿って進む方法もあるが、高架道路なのでドラゴンの急襲があったとき隠れる場所が無くなる。だからといって高架下を進むのは困難だ。トンネルや川を通るのが困難だからである。
「……ってわけで、取りあえずは海に出ようと思う」
「海! 海ね! あたしも聞いたことがあるわ。青くて水がいっぱいで、しょっぱいんでしょ?」
「そうだけど、別に遊ぶわけじゃないからな? それに海は見晴らしが良過ぎるから、海沿いの道を歩くだけだ」
「えー……ちょっとぐらい舐めてもいいじゃない。気が利かないわね」
「あのなぁ」
シオンとキャトルは富士樹海を南に移動していた。
方角は太陽の位置から割り出しているため間違いないが、問題は自分たちの今いる位置を完全に把握できていないことである。そのためにも海を見つけるのが手っ取り早い。海に沿って歩けば、多少遠回りでも確実に安全にキサラギへと辿り着くことができる。
「いいか? もう一度言っておくが、俺はドラゴンと戦えるほど力が残っていない。キサラギに戻るための体力配分を計算したら戦闘の余裕はない。だから隠れ進む。分かる? それとも俺の英語が通じていないのか?」
「通じているわよ!」
「馬鹿。大声出すな」
シオンは慌ててキャトルの口を塞ぎ、大きな木の下に隠れる。暴れる彼女を抑えながら、しばらく周囲を確認した。
地上も空も、ドラゴンの気配はない。
しばらくして、ようやく肩の力を抜く。
そしてキャトルの口を塞いだまま、耳元で小さく言って聞かせた。
「静かに。竜は音に敏感だ。だから騒ぐな。頼むから」
不満そうではあったが、シオンの必死の頼みに納得はしたらしい。キャトルは渋々ながら暴れるのを止める。シオンもそっと手を離した。
「ここからは命懸けだ。それから自分の体調に異変を感じたらすぐに報告してくれ。この辺りはデミオン濃度も高い。赫竜病になるかもしれない」
「……分かったわよ。それより赫竜病って何?」
「知らないのか? 体がドラゴンに近づく病気だ」
「っ!」
「知っていたか?」
キャトルの反応を見る限り、赫竜病という症状は知っていたようだ。しかし、その名称までは知らなかったらしい。
「あたしの、一番大切だった、友達」
「……赫竜病で死んだのか?」
「うん」
「そうか」
「先生は、あたしには罹らない病気だって言って。あたし、力になりたくて。先生たちが血を欲しがって。メアリのために痛いのも我慢して」
支離滅裂とまでは言わないが、言葉としての因果が掴みにくい。まして母国語でないのだから余計に。それでも単語を拾い、彼女の境遇を推察する。
(メアリって子が友達の名前か? 赫竜病に罹ったから……それでキャトルも俺と同じ赫竜病にかからない体質で……治療薬の開発のために血を抜かれた? あとは何かの実験もさせられたのか?)
ただ、ここで重要なのはキャトルの過去ではない。
シオンと同じく赫竜病に罹らない希少体質の方が重要だ。つまりデミオン濃度を気にすることもない。
(それにいざとなったら、彼女の近くで切り札も使える)
刀も折れ、銃も失い、体力も充実しているわけではない。
Dアンプルによる体内デミオン強制活性化という切り札を使うことができるなら、向上した身体能力でキャトルを抱えつつ逃げることもできる。
そしてキャトルの体質を知った以上、利用できることはもう一つある。
シオンは彼女の手を引き、南側へと歩きつつ口を開く。
「俺も赫竜病には罹らない体質だ。だから昔から、治療薬の開発のために血を抜かれたりしている」
「あんたも?」
「俺も昔、幼馴染を赫竜病で亡くしたんだ」
「そう。似ているわね。あたしたち」
「そうかもな」
同じ境遇なら、共感することができる。
互いに受けた苦しみや悲しみ、そして悩みを語らずとも察することができる。
手を引かれるキャトルは大人しくなった。そして手を繋いだまま、シオンの隣に並んで歩く。
「アーシャでいいわ。メアリにだけ呼ばせていたの。特別よ」
「そうか。今度からアーシャって呼ぶことにする」
「ふふん。自慢して良いわよ! 世界で二人だけなんだから。この名前を呼んでいいのはね!」
「だから静かにしてくれよ……」
空を飛ぶドラゴンからは樹海が身を隠してくれる。
なので多少騒いでも隠れる場所は豊富だ。しかし樹海を抜ければそうもいかない。
(今の内に、静かにすることを覚えて貰うか)
似た素性であることを利用したことに罪悪感はある。だが、そうしなければ、彼女の協力を得ることができなければ二人とも無事に帰ることができないのも確かだ。見捨てれば話は早いが、シオンにそのつもりはなかった。
(俺はアーシャと同じなんかじゃない。赫竜病で亡くしたんじゃない。俺が殺した)
心に渦巻く罪悪感。だがそれを決意で誤魔化す。
シオンはアーシャを騙している。嘘ではないが、重要な部分を隠している。真実を知った時、アーシャはシオンを軽蔑し、平手打ちの一発や二発はしてくるかもしれない。
(俺が殺した以上に、救いを。そうでなければ、俺が生きている意味がない。今まで生かされた、ドラゴンスレイヤーになった意味がない)
竜人殺しの名は重い。
たとえドラゴンの狂気に侵されているとしても、それは人殺しなのだから。
それが人殺しである以上、殺した以上の人を救わなければならない。
「絶対に生きて帰してやるよ」
「あんたこそ、途中でくたばるんじゃないわよ」
仮初の絆であっても、今の二人には必要なことだ。
シオンはアーシャの手を引き、少し前を進む。彼女の隣を歩くことが心苦しくて。
◆◆◆
キサラギを統治するという仕事は最も重要な仕事だ。主に書類仕事だが、区画整理、生産力管理、新事業の作成、ドラゴンスレイヤーの管理、ドラゴンの位置の把握、他の自治体との交渉など多岐にわたる。一日たりとも休む間もなく、寧ろ仕事は増えていく一方だ。
だが、そんな仕事を担う彼女が時間を割いてまで面談する必要のある相手が執務室に訪れていた。
「まったく、極東のドラゴンスレイヤーはどうしようもない! 私の大切な実験機を回収すらできないとはね!」
「しかしリシャール博士。邪龍が出現したのでしょう? それはどうしようもないと思います。それとも、RDOの優秀なドラゴンスレイヤーは邪龍すら狩るのですか?」
「む……それとこれとは話が別だ。私は任務失敗についてどう責任を負うのかと聞いているのだよ」
水鈴の背後に立つ夏凛はハラハラしていた。
リシャールの言葉はまさに言いがかりであり、取り合う価値などない。それに実験が失敗して邪龍やその他無数のドラゴンが呼び寄せられたのは証言からして明白。寧ろ落ち度があるのはリシャールたちの方だ。
(水鈴様、耐えてください。ここで正論を言っても逆効果です)
キサラギにも任務の一部を失敗しているという落ち度がある。RDOの実験機であるアーシャを守り切れず、回収できなかったことは大きい。まともに言い返せば、キサラギには責任を果たすつもりがないという風に解釈されてしまう。いや、無理矢理でもそう解釈してくるだろう。
(何とか、邪龍が全て悪い方向で納得してもらわなければ)
しかし、問題は他にもある。
アーシャを確保できなかった理由として、キサラギのドラゴンスレイヤーが勝手に撤退を始めたからというのも大きい。
「彼らは私の指示に従わなかった。これは規律に大きな問題があると思うのだよ」
「そのようなことはありません。彼らは私の指示に従い、命の危機を感じた際に撤退したまでのこと。報告書を読みましたが、何一つ私の命令に背いた様子はありません」
「ほう! それは問題ですな。つまりキサラギの代表たるあなたがRDOの意向に反する命令を出したと」
「反する、ですか?」
「当たり前でしょう。私たちの実験は世界に貢献する偉大なもの。多少の犠牲は当然でしょう。それを個人的な理由で反故にしたのですから、これは人類全体に対する反逆行為と捉えられてもおかしくはありませんね」
「それは異なことをおっしゃいますね。私たちは五年前に超大型ドラゴンを撃退し、多大な犠牲を払いました。戦力が劣るのは必然でしょう。そこまでおっしゃるのでしたら、初めからRDOの……いえ、ゲオルギウス機関といった方がよろしいですか。ゲオルギウス機関の誇るドラゴンスレイヤーを大量に連れてくればよかったのです」
「ふむ。しかしゲオルギウス機関の大きな役目が竜の巣の監視であることは知っているだろう。地中海とパリ。二つの竜の巣を常時監視するため、大量のドラゴンスレイヤーを必要としている」
「しかし命を賭してその役目を果たすのがゲオルギウス機関なのでしょう? その覚悟があるなら、そちらが見せれば良かったのではありませんか?」
互いの主張は正しい。
そして先に非を認めれば、この舌による戦いは幕引きとなる。敗北という形で。
つまり互いの正当性を主張しつつ、同時に非を責めなければならない。
「対価として充分な資材を渡したと思いますが?」
「邪龍を呼び寄せるということが分かっていれば、あの程度では応じなかったでしょうね」
「何という言いがかりだ。まるで私たちが邪龍をわざと呼び出したみたいではないか。それは些か、いやかなり失礼だとは思わないかね?」
「わざとでなければ許されるとでも思っておられるのですか? 結果的に邪龍という脅威を呼び出してしまったのは事実です。それについて誠意ある謝罪があっても良いと思うのですが?」
「竜の巣では何が起こっても不思議ではない。あらゆる事態を想定してこそ、我々の期待に応えるということにはなりませんかな?」
水鈴もリシャールも、少しずつ論点をずらしながら相手の追及を回避して逆に責める。高度かつ無駄な言い負かし合いは数時間続いた。
◆◆◆
時計の針が午後四時を示す。
水鈴はだらしなく執務机に突っ伏していた。
「お疲れ様でした水鈴様」
「……水」
「はいどうぞ」
夏凛が机にコップを置くと同時に、水鈴はそれを手に取って喉を潤した。何時間も気の抜けない化かし合いを切り抜けた後だからか、ただの水ですら甘く感じる。
「ふぅ……全く」
「本当にお疲れ様です。よく耐えましたね」
「私、ああいうの苦手なのよね」
「知ってますよ。どちらかといえば、前線で竜をバッタバッタと斬る方が得意ですし」
「人を野蛮人みたいに言わないでよ」
「ふふふ。すみません」
水鈴も五年前まではその手でドラゴンを狩っていた。キサラギ最強のドラゴンスレイヤーとして、大型ドラゴンを単独で追い詰めたこともある。
(あの頃は何も考えずに竜を切るだけでよかった。でも今は違う。キサラギの十五万の市民を守る義務が……私にはある)
水を呑み干し、からのコップを夏凛に渡す。
受け取った夏凛は代わりに書類の束を渡した。
「やるわよ。手伝って」
「はい」
阿吽の呼吸で溜まっている仕事を片付ける。
まだ見つからない、シオンの身を案じながら。




