#12. 空に浮かぶ国(アール)
アール視点です。
アールは逃げ出した。彼は必死で走り続けた。あんなのに巻き込まれたらひとたまりもない。アールは転びながら、街を駆け抜けた。人は殆どいない。誰もいない。
誰か、誰か助けてくれ!
どれだけ走ったかわからない。巨大な木の建物の街を通り抜けて、アールはまた森の中に入り込んでいた。
どこまで逃げれば良いのかわからない。唯一の頼みの綱であるローレンスは……。彼はどうなってしまったんだろう。
森の道は舗装されていない。デコボコと歩きなれない獣道を進んでいく。虫が飛ぶ、湿った土に脚を取られて転ぶ。服は泥だらけで、メイドに叱られると思った。
木々の切れ目から光が見える。きっとあそこから森を抜けられる。アールは、歩く足を早めた。
休みたい、休みたい。もう外に出たくない。ユニークスキルとか、未来予知とかうんざりだ。後少し歩いたら、ちゃんとした場所に出られる。きっと人が歩いていて事情を話せば近くの貴族のところに連れて行ってくれる。そしたら連絡を入れてくれて、すぐに王都の自分の部屋に戻れる。
これから先は本を読んでおとなしく過ごすんだ。
アールはそんなことを考えて、森を抜けた。
彼は絶句した。
森はそこからなくなっていた。
木々がなく、なだらかな草原が広がっているとか、舗装された街が広がっているとか、そういうことであれば、理解できた。そうではない。
地面がない。
まるで陸地を巨大な生物に噛みちぎられ飲み込まれてしまったかのように、その先には何もなかった。ただ地面の代わりに果てしなく広がる霧と、空が見えた。
霧、なのか?
アールは近くの木につかまりながら恐る恐る下を見た。
霧が流れていく。そうこの感じは知っている。流れていく白く柔らかい煙。上か下かの違いはあれど。
アールは気づいた。これは雲だ。
ひどく寒かった。こころなしか息苦しかった。足元の雲は切れそうになかったが、遠くの方で雲が切れて、はるか下に海が見えた。島が見えた。
ここは、空に浮かんだ島だ。
アールは後ずさって木に背を持たれかけて座り込んだ。乾いた笑いが漏れた。
他国ですらない。こんな場所は知らない。
――誰も、僕を知らない。ここでは僕は特別じゃない!!
急に不安になって頭を抱えた。
誰か……誰か……。
――スティーヴン。そうだ、彼なら僕を知っている。僕を守ってくれる。
アールはそう考えて立ち上がり、もと来た道を戻ろうとした。
そこで、はっと気づいた。森の中に誰かがいる。アールは後ずさった。周囲を見回すと他にも何人か人がいる。囲まれてる。
「あの……」かすかな期待を込めてアールは何かを言おうとした。突然、矢が飛んできて、アールの足元に刺さった。彼は「ひっ」と悲鳴を上げて、大きく後ずさった。
そこに地面はなかった。ぐらりと体勢が崩れる。
落ちる!
そう気づいたときにはすでに、体は雲の中に飲み込まれていた。
アールは悲鳴を上げた。
◇
「あ、気がついた」少女の声がする。
アールは呻いて、天井を見上げた。建物の中だ。どこかに横たわっている。全部夢だったんだ。きっと今はソムニウムの宿にいて、メイドが気遣ってくれている、そんなことを思った。
「君本当に非常識だよね。あんな島の端っこにいるなんて。それにちょっと警告しただけで落ちるんだもの、びっくりしちゃった」
アールは眉根を寄せて、体を起こした。
少女が驚いて体を縮こませる。
メイドではない。なんというか少しみすぼらしいような、汚れた服を着た少女だった。彼女は弓を手にとっていた。
「なに!? 私が警告したこと怒ってるの? 矢は外したでしょ!?」
「君が僕を狙ったのか!?」アールはぎょっとして尋ねた。少女は目を細めて言った。
「それにも気づいてなかったの? 本当に子供みたい」彼女はクスクスと笑って弓を置いた。「でも助けたからいいでしょ?」
少女はアールに着替えるように言って部屋を出ていった。よく見ると部屋というか小屋のような場所だった。それも馬小屋みたいに粗末だった。アールが横になっていたのは藁の上だったし、木の板でできた壁は隙間風がひどかった。
アールは着替えて身の回りのものを確認する。
……ナイフがない。ドラゴンの素材でできたあのナイフがなくなっていた。アールはため息をついた。まあ、別にいいんだけど。身ぐるみ全部はがされて裸で外に放り出されるより随分マシだった。アールの服にはそれくらいの価値があった。
服についた泥をなるべく払ってから、アールは部屋から出た。少女が待っていて、案内される。
小屋は木の上に作られていた。ここは森の中に作られた村のような場所だった。木々はよく見慣れた大きさで、中をくり抜いて住むには小さすぎる。彼らは木の上に家を作って、橋を渡って行き来していた。
下を見ないように恐る恐る歩きながら、アールは少女についていった。
先ほどと同じくらいみすぼらしい小屋にたどり着く。少女がノックして中に入っていった。アールが入るとそこには何人かの戦士のような風貌の男と、美しい女性が待っていた。リーダーらしきその女性は小屋の一番奥に座っていて、手にはアールの持っていたドラゴンの刃を握っている。
女性は言った。
「座れ。これはお前のか?」真っ黒なナイフを振ってみせる。アールは頷いた。
「お前のようなものがどうしてこんなものを?」女性は続けた。
「従者がくれたんだ。……魔術師対策に持っておくようにって」
「従者ねえ……お前はお姫様なのか?」
「僕は王子だ」
「おまえ、男だったのか!! それに王子様ときた」彼女は大笑いした。
絶対信じてない。アールは少しムッとした。
僕は王子だ、特別なんだ、そんな態度は許されない、なんて気持ちが少しだけ湧き上がってきた。アールは自分にそんな考えがまだ残っていたことに驚いた。
「なあ、これを譲ってはくれないか? ただでとは言わない。相応の対価は払うよ」
「ブリジット、それは……」戦士らしき体の大きな男が言った。
「別に構わない。譲るよ」アールがそう言うと、ブリジットと男は目を細めた。
「そんなに簡単に手放せるものじゃないだろう。なぜだ? 他にも持っているのか?」男が言うと、アールは首を横に振った。
「持ってない、それだけだ。《マジックボックス》にも入らないし……」そこでアールは気づいた。
どうしてドラゴンの刃がここにある?
ローレンスは魔法を使ってここに転移してきた。ドラゴンの刃は魔法を消してしまうはずだった。だから、従者たちは持っているようにと言ったのだ。転移で誘拐されたりしないように。
ブリジットはアールをじっと見ていたが、鼻から息を漏らして、言った。
「まあ、いい。君はなにが望みかな? 金か、女か?」アールは首を横に振った。
「僕は元の世界に……地上に戻りたいだけだ。でも……その前に」
その前にローレンスのことが心配だった。やっと自分に心をひらいてくれたとそう思った。なのに彼は……。どうしてスティーヴンたちが攻撃してくるのかわからなかった。もうここではローレンスだけが信じられるとそう思った。
「ローレンスを……僕の従者を見つけてほしい。彼なら僕を地上に戻してくれる」
ブリジットは頷いた。「構わない。どんなやつだ?」
アールはローレンスの特徴を説明した。ブリジットは苦笑した。
「眼帯片眼鏡か。すぐに探そう。見つかるまでここでゆっくりしていくと良い」
「ありがとう」アールは彼女に礼を言った。
「ただ、一つ問題があってな」ブリジットは苦笑した。「食料が底をついたんだ。食べ物だけはあまり期待するな。自分で採ってくれ」
それに関しては、まったく問題なかった。
「わかった」
「他に質問は?」ブリジットが言うので今まで気になっていたことをアールは尋ねた。
「あの……あなた達は誰?」
ブリジットは小さく頷いた。「私達は妖精だよ。元妖精といったほうが正しいかな。羽根をもがれて力を失った、妖精術式の使えない生物。ただ、このドラゴンの刃があれば少しは術式も使える」彼女はナイフを握りしめた。
「羽根をもがれたって……」
「まあ、暗い話は良しとしよう」