眠れない夜
昼から夕方まで、部屋の中だけでは少し退屈しかけながらも過ごした。
外に出てもいいか判断がつかず、女性たちはラザレスが追い払ってしまったので、簡単には聞けない状態になったのだ。
聞こうと思えば聞けたけれど、窓を開けると外がよく見えて、庭が素敵だった。
精霊とお喋りしていると、いつもと同じような過ごし方になって、時間はそれなりに過ぎていった。
夕食もとても美味しかった。美味しかったが、慣れない味で、お菓子と違って家の味が恋しくなった。
家を出てから、少し時間が経ったからだろうか。
日が沈む。今頃家でも夕食時だろう。
「ラザレス、お父様とお母様、大丈夫? 私のこと探してない?」
「問題ない」
日が沈んでもティナが帰って来なくても、不思議に思わないようにしてくれると言っていたラザレスは、その通りにしてくれているらしい。
家の夕食は何だったのだろう。
やっぱり家族と囲む食卓の方がいいな、と思った。
ラザレスもアルヴィーも食事をとる必要はなくて、せっかく人の姿をしているラザレスもそこにはいてくれていたが、食事の席にはつかなかったのだ。
お風呂に入ることになって、人が洗ってくれると申し出てくれたけれど、ティナが一人で出来ると言う前にラザレスが断った。
お風呂で、白いキツネを洗ってあげた。石鹸の泡が思ったより多くなって、アルヴィーを泡まみれにしてしまった。
白いキツネは良い匂いと言えば聞こえはいいが、いつもの森のような香りが消えてしまった。
自分でしたのに残念そうな顔をしていたら、ふわっと風が起こるとともに、石鹸の香りが一瞬で飛んで、爽やかな自然のにおいが戻ってきた。これこそキツネの匂いだ。
いつも寝る時間には、ろうそくの火を消してベッドに横になった。
ベッドは天蓋付きで、一人用とは思えないほど大きかった。上を見ると、布がひらひらとしている。
暗かったはずなのに、これほど見えるようになるくらい起きているらしい。
どうも、寝られなかった。いつもなら毛布に潜り込んでものの数分で睡魔に襲われるのに、どうしたことか今日は目が冴えている。眠れそうにない。
枕元では白いキツネが丸まって、目を閉じている。寝ているようだ。
つんつんと、つついてみようかと思ったけれど、止めた。自分が眠れないからといって、起こしてしまうのは良くない。
しかし眠れない。
広いベッドを転がっていようかと子どものような考えが浮かぶ。目を閉じてじっとするのは、どうも性に合わない。眠りが訪れるのを待つなんて、したことがないのだ。
眠る時間に、時間をもて余すなんて……。
『眠れないか?』
大きな窓の方から、声がした。
窓の近くにいるのは、黒い犬の姿に戻ったラザレスで、薄いカーテン越しの月明かりで姿が浮かび上がるようだ。
月の光のせいか、黒い毛がきらきらとしているように見えた。あのように美しい黒色は見たことがない。
いつからか、獣の黄金色の目が明らかになっていて、ティナを見ていた。
ティナはころんと横向きに、犬の方を向く。
「眠れない」
正直に認めると、犬が起き上がった。
瞬く間に人の姿になり、ラザレスはベッドの方に歩いてきた。そのままベッドの端に腰かけ、横になるティナを見下ろす。
「お前はどこだって寝られそうに見えるのに、変なところで繊細だよな」
「失礼ね。……枕が変わったからかしら?」
それどころか、ベッドも全部変わったからだろうか。
身を包む何もかもが慣れない感覚だ。寝衣は借りたものですべすべしていて、毛布も同じく。枕も同じくで、ふかふか柔らかすぎる気がする。
とにかく、身を包む全てが普段と異なりすぎる。
だから眠れないのだろうか。横たわった感触では、慣れないだけで寝心地が悪いわけではないのに。
「ラザレスは寝ていていいのよ?」
「別に、俺には本来睡眠は必要ない」
「そうなの?」
「精霊もそうだ」
そうは言ってもキツネは眠っているようなのだが……。
「でも、ラザレスも眠っていたんじゃないの?」
実は神の獣であったラザレスだ。
五柱の神の獣が各々異なる王候補を選んだ場合、王位につくものが決まるまで争うとか何とか。そして争いに破れた獣は眠りにつき、次なる選定の時が来ると、起きる。
ラザレスも、だから目覚めた、と言っていたはずだ。
それを指したと分かったのだろう。ラザレスは「ああ、確かにそのときはな」と言った。
「ラザレスはどこで眠っていたの?」
「城の地下。この城の地下には、所謂神殿のようなものがある。そこで、人間が見えない状態になって寝ているらしい」
「らしい?」
「俺には見えるんだ。人間が見えないという状態が、自分の目でそうだと知っているわけじゃない。だから眠っているときの俺たちの姿は人間の目には『見えないらしい』、だ」
ふーん、とティナは相づちを打った。
横になったまま、ラザレスを目で見上げて、見つめる。
「何だ?」
「ううん、何も」
「何もって言うなら、どうしてそんなに見てる。何でもいいから言ってみろよ」
笑ったラザレスに、うん、とティナは言ってからやっぱりそのあとしばらく見つめ続ける。
それから――
「ラザレスは、私を選んで後悔していない?」
「後悔?」
「うん。ラザレスは私が……何だったかしら、その、精霊を集めやすい? 体質だから選んだんでしょ?」
「『精霊の愛し子』だから、か? 極端に言えばそうだな。この世に他に精霊の愛し子がいるかは知らないが、俺は俺が従うべき存在がいると思ってお前のいる地へ行った」
「でも神の獣ってつまり、王様になる人を選ぶんでしょ? わざわざ来てくれたりして、それなのに私、」
「ティナ」
柔らかく聞こえる声で、言葉を遮られた。
何だとティナが口を閉じると、ラザレスが顔を傾ける。
「お前はここに、何をしにきた」
「私が持っているっていう王位継承権を放棄しに」
神の獣とは、王様を選ぶ。それなのに、ティナはその権利を手放しにきたのだ。
ラザレスはティナを選んだと言った。今ふと考えると、ちょっと申し訳ない気持ちが出てきたのだ。
ああそうだ、ラザレスは神の獣だったのだ、と今さらに飲み込めたようになって。
言うと、ラザレスは元々同じようなことはすでに言っていたはずなのに、わずかに眉を寄せた。
「私が継承権を放棄したら、ラザレスは眠ってしまう?」
「そうだって言ったら?」
「……それは嫌だわ」
いつからか、自然と近くにいたラザレスがいなくなる。想像すると、嫌だ。
王位継承権はいらない。だけれど、それと共にラザレスがいなくなってしまうのは嫌だ。これは矛盾になるのだろうか。
我が儘には違いないか。
「それは嫌だって言ってくれるんだな、お前は」
ラザレスが指で、ティナの髪を優しげに梳く。
「眠らない方法自体はある」
「そうなの?」
それ以上は、ラザレスは語らなかった。
眠ってしまうとは言われなかったので、それだけでティナは良いことと捉えた。
「ねえ、ラザレスは私にどうしてほしいの?」
今回、ラザレスは何も言っていない。
元々、ああしろこうしろということを始め、自分の意見を言わない。
何も言わなくても側にいて、一緒にいてくれるから、最終的には同意してくれているのだろうと思っていた。今回もそうだと。
ティナの思う方に賛成し、何も口を挟まずに静観していた。王位継承権を放棄して、帰ることに賛成してくれているのだと思っていた。
けれど、どうにも違うと、初めて感じた。ラザレスは何か、違う考えを持っている。
何か、言いたがっている。
「そんなに見ているなら、何でもいいから言ってみて」
「……さっきの俺の真似か?」
「お返しって言って」
何でも言ってくれたらいい。ティナに言いたいことがあるなら、我慢する必要はないのだ。
じっと見つめると、黙していたラザレスはゆっくりと、口を開いた。
「そりゃあ決まってる」
髪に触れていた手が、ティナの顔の横に置かれた。
黄金色の目がやけによく見えると思ったら、すぐ近くに、ラザレスの顔があった。
上からティナを覗き込み、視線を逃がさないように捕らえる。
「お前に玉座を」
明確に届けられた言葉。
「俺は、お前に王になってほしい。この地を統べる存在に」
ティナは瞬く。
王に、と。はっきりと言われたことは、現実味を持たないものに思える。ということは、想像も出来ないということで。
「無理よ」
「無理だって思い込むからだ」
思い込むも何も、無理だとしか思えない。
そもそも王様とは、雲の上の存在だ。この国を治めてくれている方。それに、自分がなると……?
まず想像も出来ないのに。
ティナは難しい顔をする。
「どうせ他の奴らに手出しをさせるわけにはいかない。全部いなくなった場合、この地を統べる権利を持つのは、もうたった一人。お前だ、ティナ。俺が選んだ女」
いつもの様子との差異を感じ、夜で、獣の姿ではないからかいつもと異なる風に見え、ティナは戸惑う。
対して、ティナの目を捉えるラザレスは、言葉を重ねる。
「お前が相応しい」
その言葉を最後に、ラザレスは身を起こした。
視線で追ったラザレスは、暗い場所ゆえか悲しそうに映る笑みを微かに浮かべていて。それを隠すように、ティナの目を隠し、手を滑らせて頭を撫でた。
「今日はとりあえず寝ろ」
「眠れないの」
やっぱり眠気は生まれてこない。
反対に、ますます目が冴えた気もする。
さっきまでのことが引っかかって、ラザレスから目が離せないでもいる。ねえ、どうしたの?と言いたくなるような感覚がある。
けれどラザレスは、さっきまでの雰囲気をもう霧散させていた。
「眠れないなら、眠らせてやる」
「そんなこと、出来るの?」
「どんな夢が見たい」
どんな夢。
「アップルパイを食べる夢が見られれば幸せかも」
「お前は変わらないな」
手が、柔らかくティナの頬を撫でる。また、瞼の上に重ねられる。
「本当に、変わらない。……おかげで俺はどうすればいいのか分からない」
お前の望みを叶えればいいのか――。と聞こえた声に、ティナは手を伸ばした。
目を塞いでいる手をそっと退けながら言う。
「一緒にアップルパイの夢を見ればいいわ」
「……それはいいな」
見えた顔が、近づいた。
ティナの手を絡め取り、額に唇が触れる直前、ラザレスが囁いた。
「おやすみ」と。
この上なく、優しく、眠りに誘う声で。
ティナもおやすみ、と返したけれど、声になったかは分からない。
瞼が落ちて、急な眠気に飲み込まれた。
最後に見えていたのは、優しい、陽光の色をした瞳だった。