精霊の愛し子
「で、なんでこんなに距離あるんだ」
黒い犬がいた場所に現れた男は、草の上にあぐらをかいて座って、胡乱そうにティナを見てきた。
ティナはというと、男 (暫定ラザレス) から十数歩ほども離れた位置に腰を下ろしており、首を傾げる。
「本当にラザレスかどうか見極めようと思って」
「それ、いつまでかかる?」
さてどうだろう。
ティナは改めて男を観察する。
黒髪と黄金色の瞳は、慣れ親しんだ犬を思わせる色彩だ。それだけでなく喋り方や声、さらには雰囲気も――
「見れば見るほどラザレスみたい」
「それはそうだろうな」
呆れたように投げやりに応じたラザレス (たぶん) は後ろに手をついて、終わったら言ってくれと言わんばかりだ。
ティナの傍らでは何やらキツネがけらけらと大いに笑い転げている。この状況が可笑しくてたまらないといった様子だ。それはともかく、可愛い。
キツネを眺めていたい気分を押し込めて、見極めなければならないことがある。ティナは前に向き直る。
「ラザレスなの?」
「そうだって後何回言えば信じる? 回数分言ってやるから、希望を言えよ」
「うー……ん……」
「千回とか言うなよ」
千回なんて酷いことは言わない。
せいぜい百回くらいかな、なんて考えていたティナは回数は頭の隅へ、じぃっと男を見つめる。
そうして腕で膝を抱え、このやりとりを経た結果、思う。
「うん、ラザレスみたい」
「そうだって言ってるだろ」
ラザレスは飽きたと言いそうにため息をつきながらも、同時に、やっと認めた様子のティナに口の端を上げて笑みを浮かべた。
動物の姿が、人間に変わった。
それだけで、中身は間違いなくラザレスだと確信したティナは、距離に不平気味だったラザレスとの間を詰めていく。
「それで、説明は?」
「今の今まで出来なかったのはお前が俺のことを疑っていたからだって忘れるなよ」
「うん、ごめんね」
「思ってないだろ」
思っているのに。
ラザレスが心底呆れた口調で言う。
その表情に、かの犬はいつもこのような表情をしていたのだろうかと、ティナはぼんやり思った。
*
ティナが生まれたときから現在まで、またきっとこの先も住んでいくこの国の名前をハルテールと言う。
近隣諸国の中では間違いなく一番の大国だ。
このハルテールが大国たる理由が二つある。
その一つが、精霊の息づく数による。数と言えど、彼らは動物などに姿を借りない限り人には見えない。
また、動物の姿を借りて人の前を横切ったとしても、人は単なる動物として認識することがほとんどだ。
しかし豊か極まりない国土が、他の国々よりも住み着く精霊が多いことを何よりも表している。
二つ目は、他国を押さえつけられる力があることだ。
いくら精霊が多く居ついていようと、その土地が戦により奪われてしまえば終わり。精霊たちは基本的に自分たちに害さえなければ、人間の長がどう変わろうとも知ったことではないよう。
だがこの国はハルテール。
精霊が多くおり、精霊の力を借り、奮える才を持つ者も他の国より多く、能力が強いらしい。……ことも理由の一つになるが、そうではない。
大昔、かつては神のものであったこの土地を、神より治めるように言われ預りはじめに出来たのがこの国だと言う。
歴史書に記されているだけの、昔の人間が作った偽の歴史ではない。
大昔、この国の王は、神から神により生み出された獣を授かった。
同じく地が出来たときから神より生み出されていた精霊と同じ存在ではなく、精霊と同じような力を持つが、人間の姿を形取り必ず人の王の近くに侍り人間の力となる。
もしも精霊が人に害を為そうとすることがあろうとも、かの獣は人を守ることができるだけの力を与えられていた。
その力はのちに、人間の数が増えに増え、国が増え、争いが勃発したときにこの国を他国から守る牙ともなり、ハルテールは人間の国の中で不動の地位を築いた。
いつの時代も王の側にいる不変の存在、彼らのことを人々は『神の獣』と呼ぶ。
昔々、神から与えられたときその姿が獣だったからで、今も王の肖像画に描かれる姿は獣の姿だ。
けれども実はその獣、一個体だけではなかった。
「そうなの? 知らなかった」
王の側に象徴のごとく侍る存在を知ってはいたが、実際に見たこともなく、伝え知っているだけのティナは初耳だ。
向き合って胡座をかいているラザレスは「無理もない」と言う。
「世代交代は人間が一生生きていて余程のことがなければ一度二度しかないことだからな」
「でも、国王陛下の肖像画には『神の獣』は一柱だけよね」
王様の肖像画は国内にたくさん出回っている。民が尊び恭しく飾る家庭もあるという。
ティナの家にはないけれど、見たことはある。
現在の王のどれくらい前の姿を描いたものか、即位してから描かれたと思われる肖像画だ。
光を放つ剣を持つ王の姿の傍らには、光を纏う、一口に『獣』と称しても良いのか分からない神々しい『獣』の姿が描かれていた。
その姿は一つだったはずだ。少なくとも、もう一つの姿がそっと描かれていたのなら未だしも……。
「五柱もいなかったわ」
額縁の中には、姿は五つも収まってはいなかった。
「ここのところは一代に複数っていう風にはなってないみたいだな。だが最初は全部揃ってた。途中から喧嘩が起きるようになった」
「喧嘩?」
「あのな、意思を持つものが複数集まればどうなると思う。俺たちは意思を持たない人形でもなければ、性格まで均等に平等に作られたわけじゃあない。代を重ねるごとに、次に玉座につくべきなのはあいつだこいつだって意見が割れて、争うようになった」
各々が、古く神にこの地を預かった王の血筋から別々の人間を選ぶようになった。
そしてついには各々の王候補が神の獣を従えて争うようになり、争いに破れた獣は眠りにつき、残った者が王位についている状態なのだそうだ。
結果、王の側にいるのはただ一柱の獣のみ。他の獣は次なる選定の時が来るまで眠り続ける。
「今、王は病床。その時が近いから俺は眠りから覚めた」
国の中心部がどうかはいざ知らず、田舎も田舎に住むティナは、国王が床についたとは知らなかったために目を瞠る。
「そして、ティナ、お前を見つけた。次に玉座につくに相応しいお前を」
元黒い犬もといラザレス、さらに改めると神の獣の内の一柱は、黄金色の瞳にティナを映し、囁くように言った。
そう、この元犬は、獣の姿を借りた精霊ではなかったらしい。
精霊に近い存在でありつつも、精霊ではない、人の王の側におり力を貸す存在だった。
「どうして私を? 私、王族の血筋なんかじゃないわ」
同じ血なんて、一滴も入っていないと思われる。
「私、隠し子か何かなの?」
「全然」
軽く問うと、軽く首を横に振られる。
まあそうだろう。聞いてみただけだった。もしも隠し子だと言われたら言われたで、ものすごく困っただろう。
「お前を選んだのは血じゃない。お前そのものがそうあるべき存在だ」
「よく、分からないのだけれど」
「そう言われてもそうとしか言いようがない」
言い様がないと言われても困る。
側にいた犬が王族と同じくらい貴い存在であると明らかになっただけで、何だろうなぁと、どこか現実味が遠ざかるのに。
王族の血統から次なる王を選ぶはずの獣は、血ではなくティナを選んだと言う。
意味不明だ。
『ティナは僕らの愛しい子』
疑問が晴れず、難しい顔をして眉を寄せていると、美しいキツネが甘えるように身を擦りつけながら歌うように言った。
衣服越しでも毛並みがふわふわとしていると分かる。
「アルヴィー?」
『ティナは精霊が愛したくなる子なんだ』
きらきらと、太陽の光が反射しているのではなく、それ自体が魅力的な光を宿す美しい瞳がティナを見上げる。
このキツネは紛れもなく精霊だ。
『そう、愛し子』
『好きだよティナ』
『愛してるわ』
『大好き』
さわさわと優しい風に揺れ、響き合う声たちも、慈愛に満ちた言葉を次々とティナに届ける。
目には見えないけれど、周りにいる精霊たちの声は止まらない。「好き」「愛している」と、風よりも優しく、愛に満ちた言葉は幼い頃からティナを包み続けているものだ。
まるで、親からもらう愛情のよう。
彼らのいる場所がこの上なく心地よいから、ティナは森に通い続けずにはいられない。
「お前ら黙れ」
そこに剣呑な声が割って入り、声に身を委ねて目を閉じて浸ろうとしていたティナは、目を開けて前を見る。
適当な距離に戻した前には、相変わらずあぐらをかいたラザレスがいる。しかし表情が眉が寄ったもので、周りを睨みつけていた。不機嫌そうだ。
「あ」
人の姿をしているからか、人間味が強いなとラザレスの表情に感想を抱いていると、前から伸びてきた腕に、腕を引っ張られた。
抗う暇もなく身体は前に倒れて、思いっきりラザレスにぶつかる。
「愛しいとか気軽に言うな、こいつが慣れる」
この状況、状態は何だろうか。
ラザレスの身体に倒れ込んだティナが上を見ると、周りを見ているラザレスの顔が間近にある。
ティナの身体は、腕を引っ張ったあとの腕に素早く囲われていた。
抱き締められる形になり、すぐ近くにある顔が、ティナを見る。
『慣れることは悪いことみたいに言わないでくれる? 僕はむしろ、ティナにそれが当たり前だって思って生きてほしいね』
「お前らのものじゃないんだよ」
『僕らの愛し子だよ』
「お前らの愛し子でもな」
俺が選んだんだ、と言葉と共に吐息がかかり、ティナはなぜかびっくりした。
まだ言い合いをするラザレスとアルヴィーの間で、上手く隙を縫いスルリと腕からすり抜ける。
『あ、振られたー』
すり抜けた途端に、キツネが声をあげる。
「うるさい」
『ふ、ら、れ、た!』
「……強制的に黙らせるぞ」
『暴言反対』
「実行してやろうか」
言い合う彼らの周り、沈黙していた精霊たちが可笑しそうにくすくす笑う気配が広がる。
その気配を同じように感じ取ったのか、見えているのかラザレスが額に青筋を立てた。
「お前ら、俺を軽く見すぎるなよ」
『軽く見るも何も、神に作られた存在っていう点では変わらないじゃないか。滑稽なものは滑稽だ。それに、僕の方が歳上だから遠慮なく軽く見る権利があるね!』
「……面倒だな」
やり取りが嫌になったか、不貞腐れたように、ラザレスはごろんと後ろに倒れ込んでしまった。
その行動は犬のときの姿と重なって、今にも黒い尻尾や耳でも見えそうだ。
何だ、行動はまるで変わっていないではないか。
拍子抜けしたティナは、何だか悪いことをした気になってくる。抜け出したのは、そこまでの他意はなく反射的なものだったのだけれど……。
「皆はラザレスみたいに動物の姿から変えられないの?」
ふて腐れたらしいラザレスは一度おいておき、ティナは思い付いたことを口に出してキツネを見つめる。
『人間の姿に? なれないこともないけど……やっぱり人間には見えないよ?』
「でも、ラザレスは?」
『神の獣は別。だってそいつらは、この土地を任せるに相応しい人間と結びつくためにいるんだから』
「そうなの……」
神の獣と精霊はそんなにも違う存在なのか。
とても残念だ。まあキツネは可愛らしいからこっちの方がいいのかもしれない。
「ねぇ、ラザレスが神の獣の一柱なのに、どうして私を選んだのかアルヴィーは知っているの?」
『まぁね』
知っている、という意思を示したアルヴィーは、ティナが続きを待つ姿勢をとると話しはじめる。
『ティナは僕らの愛し子なんだ』
「その『愛し子』って何?」
『僕ら精霊が愛したくて、守りたくなる子のこと。無条件で加護や、力、何もかもを与えたくなって、幸せにしてあげたい子だよ。どこにでもいるわけじゃないんだよ』
「そういう体質なの?」
『うー……ん、体質っていうとちょっと違うんだけど、まぁそれで理解していても別に困ることはないからそんなものかな』
アルヴィーは、普通の獣の狐であればこうはできないだろうと思わせる笑い方をした。やはり表情豊かだ。
『精霊に愛されてこそ、多くの精霊の祝福を受けるこの地を本当に治められるんだ。人間の王家の血脈も大分穢れてきたから、この地を収めるに相応しいのは精霊の愛し子だ。つまり、ティナのこと。だからラザレスはティナを選んだんだ』
「玉座につくのは、普通、王族の方だわ」
『それは人間の常識と、人間が重要視していることにすぎないよ。本当に重要視するべきはこの地に相応しい人間だっていうのに、いつまで経っても相応しくないという気がつかずにしがみついて抵抗する。そういう点では他の神の獣の目は曇ってるね。王の側に居すぎて、あの中から選ばなければいけないっていう思考になってるのかもね。――本当妙に人間臭くて、人間じゃなくて、でも精霊でもない』
美しいキツネの姿を借りた精霊の瞳は、呆れたようにも冷ややかなようにも見えた。




