招かれざる者
騒ぐ森――正確には目には見えない精霊たちがざわめいている。
直感だけでのんびりした空気が変わったと感じたティナがとっさに見た犬に、キツネが話しかける。
『どうするの、ラザレス』
『決まってる』
『あ、そう。ティナ』
「なに?」
『僕らはそこら辺に隠れていよう』
「どうして?」
『見ていれば分かるから行こう』
犬を見ても、犬は何も言わない。
ティナはキツネに促され、ひとまず見えない精霊用のパイではない方を篭に戻す。
「ラザレスは?」
篭を持って立ち上がっても、いつもはティナが立ち上がれば立ち、腰を下ろせば同じようにする犬が動く気配がない。
犬は『行ってろ』と言う。
怪訝に思いながらも、キツネが先を行きどこかへ案内してくれるのについて行く。振り向いても犬は草の上に座ったまま。
後ろを気にしながらも、ティナが案内に従い歩いて行き止まったのは、周りの木々が生える場所だった。
キツネが止まったあとに立ち止まり、来た方を振り向くと、木々の間からはやはり残った犬の姿だけが一つある。
『来たよ』
どうもティナ以外に人は立ち入らないそうな森に来たのは、一体誰だろうか。
単に住民の類いの姿を想像していたティナは、さっきまでいた場所に現れた姿に少し目を丸くする。
銀髪の、若い男性だった。
この辺りには見ない随分と良い身なりをし、肩ほどまでの長さの銀髪を揺らして歩む姿はどうにも優雅すぎる動き。
町を歩けばきっと誰もが振り向き、見とれただろう。
顔立ちも整っていると言うべき造形だ。少しも汚れていないことは身なりからいうまでもなく、そういう意味ではなく『綺麗』。
まるで都にいそうだとの印象も受けたのに、この森の雰囲気に相応しいような気もした。
しかし、現れたその存在が招かれざる客であることは、この森を好んで住みかとしているキツネの様子でありありと分かった。
足元のキツネは、背丈的に草や小さな繁みで前が見えていないはずなのに、見えているように不快げと取れる声を出したのだ。
そんな不快げな声も珍しい。仲が良くなさそうな犬といるときでも、そんな声は出さない。
『勝手にずかずか入り込んでくるなんて礼儀がなってないね』
「アルヴィー、知り合い?」
『まさか。強いて言うならラザレスの知り合いだよ』
「……ラザレスの?」
あの男性が?
視線を前に戻すと、静かな場に発された声がよく耳に届いてくる。
『そろそろ来ると思ってた』
それはラザレスの声であり、座っていた犬がようやく身を起こすと、現れた男性が知り合いのように挨拶をする。
「ラザレス、久しぶり」
『無駄な挨拶はよせ。用件は何だ』
「君の行方が掴めたから、見に来た。君の選んだ候補者も」
ラザレスの知り合いなのか。精霊と知り合いとはどんなことをしている人なのだろう、と思っていたら。
あ、と息をすることを忘れた。
ちらりと、こちら側からもあちら側からも見え難くする木々をものともせず、明らかにティナを捉えた男性の瞳が黄金色だった。
ラザレスと同じ色だ、と同じ色の瞳が頭の中に浮かんだ。
『候補者か。そういえばお前らはあの中から選んだんだったな。よくあんな腐った血に反応できる』
対する犬は、くつくつと聞いたことのないくぐもった笑い声を立てる。
「……そういう君は、『愛し子』を選んだようだ」
『俺のものだ。手出しするなよ』
「いずれは」
『いずれは、だ?』
堂々と地に立つ犬の声音が次の瞬間、一変する。
『俺は別に今でもいい。――大体、いつまで勝手に見てる』
獣が身を起こした。
すでに立ち上がっているのに、さらにその姿が縦に伸びる。いや、獣の姿の原型さえも――?
決して見たことがない形になったということではなく、むしろ見慣れた形に変化していく。
しかしながら、単に上手く頭がついて行かず、ティナは木の影から身を乗り出して凝視する。
そのときにはもう、黒い毛で覆われた犬はどこにもいなかった。
「アルヴィー」
『聞きたいことはよくよく分かるよ』
思わず呼んだ傍らのキツネは、キツネのままで。けれど、ティナの目の前で起きた変化は、確かに起こったことだ。
黒髪の、知らない後ろ姿。
広い背中が、見ていた先を遮ったため、見えていた銀髪の男性の姿が見えなくなった。
そうでなくともティナは現れた姿の方から、目が離せなかっただろう。
『後でゆっくり説明してあげる。この面倒なことが終わるまで待ってね』
キツネに優しく言われて、ティナは口を閉じて引き続き少し離れたところを見守る。
よく見えないからちょっと移動して、木の裏から。
「招待をしに来ただけだから、止めてほしい」
「招待だ?」
「君が選んだ、候補者に」
銀髪の男性が上着の内ポケットから四角い……封筒か、厚いカードと思われるものを取り出した。歩みを数歩進め、差し出す。
「それにしても、どうしてこんなところに隠れているんだ」
ティナは、自分が距離をとって木の後ろにいることを言われているのかと一瞬思ったけれど、そもそも銀髪の男性の目はもうティナには向けられていない。
「職務を忘れてのんびりしたいからだろ」
「使命の間違いだと思うが」
「どうだっていい。他の奴が来ればのんびりも終わりだ」
犬と同じ声をした人物の手のひらに、ふわりと太陽の光の欠片を落としたような光が生まれた。
どこからともなく透き通った、氷柱のような剣が現れていた。ただし黄金色に輝いている。
精霊の力。何もない場所に風を生み、草を生み、水を生むことができる彼らの力だ。
その鋭く光る切っ先が、相手につきつけられる。
「玉座につくのは――俺が選んだ女だ」
「こんなところに、隠れていたのに?」
「こっちにだって事情がある」
銀髪の男性は目の前に突き付けられた切っ先に、抜けるほど白い肌のままの顔色を変えなかった。
首を傾げ、しばらくして言う。
「……じゃあ、城で会おう」
別れの言葉と捉えられる言葉が終わるや、突風が起こった。
葉や草を巻き込み、吹き荒れ、ティナが思わず一度、瞬きの短さで目を閉じ、開く。
そのときにはもう、銀髪の男性はどこにもいなかった。
「…………あの人、精霊だったの?」
突然に現れ、何者か分からないままに消えてしまって何が何だか分からない。
しかしたった今、忽然と姿を消したのは精霊の力だろう。あの男性は人を模した姿をした精霊だったのだろうか。
それとも、噂に聞く精霊の力を借りることができる人だったのか。
けれどその瞳は人には見ない黄金色をしていて、今振り向いた知らない背中をしていた人物と同じ瞳の色だった。
獣が消えて、獣がいた場所に現れた男。
少しだけ癖毛の黒髪は、柔らかそうに微風に揺れる。
消えた男性に負けず劣らず、男前というよりは端麗な顔立ちをし、黄金色の瞳と目が合う。
ティナは木の影から出ないままに、見ていたことから導き出せることを口に出す。
「あなた、ラザレス、なの?」
確認するような口調になった。
それに少しも間を置くことなく頷きを返されて、ティナは少し眉を寄せる。
浮かんだどの疑問が正しいのか、図りかねた。
「人間だったの……? でも、あの姿は精霊だったんじゃ……」
元々、精霊の力を借りた人間だったのか。
でも姿を変えるなどということが出来るのか。……出来たとしても、なぜわざわざ獣の姿でいたのか。それも、ティナの側にずっといた。
木のこちら側から出てこないティナを見てどう思ったのか、男はどこか怠そうに頭をかいた。
「説明するから、とりあえず出てこい」
言われたティナはとっさに下を見る。キツネの意見を伺おうと思った。
『あれはラザレスだよ。面倒だけど、僕が保証する。それからティナが思っているような、精霊の力を借りる人間じゃない』
そんな証言を、当の精霊からもらった。
確かに声も瞳も犬と同じで、ラザレスだということは疑いようもない。
改めて顔を上げると、獣のときより分かりやすい表情が、どことなく不満そうになっていた。
説明というものを受けよう。ティナは木の影から足を踏み出した。