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精霊の森




 外に出る扉――裏口ではなく正面玄関の扉――のノブを掴んだ際に、ああそうだ、とティナはやるべきことを思い出した。

 慎ましい暮らしに相応しく、慎ましい大きさの家の玄関は取り立てて立派ではないが、落ち着くちょうどいい広さとも言える。

 弾みで扉を少しだけ開けてしまいながら、ティナは足を止めた。

 隣では、黒い犬も止まる。


『どうした?』

「言っていかないといけないの、忘れるところだったわ」


 見上げてくる犬を見下ろして、止まった理由を述べた。

 思い出したのはアップルパイを作ることではない。美味しそうなリンゴをふんだんに使ったパイは、すでに焼き終え篭の中にある。

 篭には花柄の布が被せてあるので、香ばしくも甘い良い香りは篭に閉じ込められている。

 本当なら、布を取ってしまって思う存分に匂いを堪能したいところなのだけれど、冷めないようにと、汚れがついてしまわないようにとの布だから仕方ない。


 そう、冷めてしまわないうちに早く行かなければならない。

 その気持ちが膨らむと、茶色の靴を履いた足は気持ちに連動して一足先に扉の向こうに出てしまい、身体も今にも出ていってしまいそうだ。

 早く早く、と。

 だからティナはもう一歩二歩と足が進んで、家の中から出そうな身体を直前で捩って、家の中に向かって声をかける。


「お父様お母様少し出かけて来ます! ええっと……夕方には帰ります! ――と、これでよし」


 幼い頃に黙って遊びに出掛けたときに父に言われたことがある。「庭ではなく、家を離れて外に出かけるときは必ず言っていきなさい」と。

 幼いティナは父の言葉に素直に頷き、今日までその言いつけを守っている。それゆえのこの声かけだった。

 危ない、忘れるところだった。

 そういうわけで、ティナは言い切るとやることはやったと今度こそ何か忘れているような感覚もなく、躊躇なく外に出て、扉をしっかり閉めていった。


 ――しかしここで重要なのは親と娘との認識が少々ずれている点だった。

 ティナの父は、形だけではなくもっときちんと誰かに声をかけて行くようにとの意で言ったのだ。

 だが、周りの言うことを耳に入れてはおれど、自分なりに解釈している節のあるティナは、今日も今日一声を張り上げて出ていきがけに一方的に言ったっきりだった。

 ちゃんと言った。言って出ていった。

 奇跡的にも、毎回毎回誰かの耳には届いているもので、「言っていった」ことにはなっており、今日もティナは面と向かって出かける旨を伝えることなく意気揚々と外出する。

 横を行く犬も何も言わないから、これでいいのだと完全に信じ込んで。


 例に洩れず慎ましい広さの玄関先の庭を歩き、慎ましい門を通るとそこはもう家の敷地内ではない。

 外に出ると、すぐに太陽の光に照らされてのどかな土地がよく見える。

 家が並ぶ道を歩き、ひたすら歩き、どの家を訪ねることもなく通り過ぎて行く。

 次に見えてくるのは畑やいっぱいの緑、黄、赤。実りの季節、畑や山々は緑以外に、暖かで鮮やかな色に染まりつつある。

 この辺りはずっと先まで畑が続く。まだ昼なので、畑にいる領民と出会う。


「ティナ様、おはようございます」

「おはよう、リムじい」

「精霊の森へお出かけですか?」

「うん」


 会う領民たちと軽く話し、大きな篭から大量に作ったアップルパイを置いていく。

 途中で父に会った。どうやら父は家にいなかったらしい。

 この土地はティナの両親が領主を勤めているが、父も母もこの時期には時折領民に混ざって畑にいることがあるのだ。


 そういった過程を辿りながらも、やがてティナが着いたのは小さな森だ。

 どうも上から見ると円形になっているらしい森に入ると、心なしか空気が澄んだように感じられる。別に、今までがそうではないと感じていたわけではないのに。

 頭上は、木々の枝にふんだんについた葉により、陽が遮られ肌は薄い影に覆われる。

 日光の熱さは感じず、穏やかな風が吹き、周りで葉が擦れ合う音が木霊する。

 篭を片手にのんびりと歩くティナは、頭上を見上げた。

 葉の間から気持ちがいいほどの青い空が覗き、葉っぱが陽光を跳ね返し、風に揺れてキラキラとその緑色を鮮明に透き通る。実に鮮やかだ。


『ティナ』


 見上げた空から、ふいに、声が降ってきた。


『ティナ、ティナ、おはよう』

『今日も会えて嬉しい』

『おはよう』


 温かな、風のような囁きは上からだけでなく右からも横から耳に届いてきて、ティナは微笑み「おはよう」と返事する。

 目に見えないけれど、周りを取り囲み囁きで包み込むのは精霊たちだ。


 遥か昔、人間がこの地に誕生するよりも前に、大地と共に生まれたとされる存在――それが精霊だ。

 神により生み出された、神の一部とも言われる精霊たちは人の目には見えない。

 しかし確かに存在しており、木々に葉を繁らせ、花を咲かせ、作物の実りを良くし、水を湧かせるなど、人にない力を持っていることで知られている。

 ゆえに人々は、神と同じくして目には見えない精霊たちを尊ぶ。

 どうも世の中には、自由気ままで普段は人に関わろうとはしない精霊たちに力を借りる才能を持つ人たちがいるらしい。

 という曖昧極まりない知識が、ティナの知る全てである。


 何しろティナは、精霊たちに力を借りる人材を育成する学校があるという王都からは、ほど遠い地にいる。

 その他の情報さえも鈍く、当の精霊たちといえば自由気ままのんびりしたもので、人間たちの細かい事情は知らないのだ。

 森に来たティナを歓迎し、穏やかな時を与えてくれるだけ。ティナも精霊たちの存在を感じることが好きなだけ。

 不足は感じないため、気にしたこともなく、自分から尋ねたこともない。


『ティナ、おはよう』

『今日も来てくれたのね、ティナ。嬉しい』

「うん、おはよう」


 目には見えなくとも、存在は感じる精霊たちに挨拶を返す。

 森をさくさく進んでいくティナは、作られた道はないので木々の間、芝生のように草に覆われた地面を歩いている。


 黄緑色の草は踏みしめるたびに柔らかく沈み、ときおり小さく可憐な花が咲いている。

 木々の葉が頭上にあるとはいえ、陽光は和らいだ形となるだけで明るく地上を照らす。

 この森の中は、まるで別世界だ。

 空気が澄み、景色は美しく、全てが神秘的。


 そのとき、左手の繁みから白い塊が踊り出て来て、ティナは足元に注意を引かれた。

 勢いよく横手から出てきたのは、毛並みの美しいキツネだった。

 繁みから飛び出てきたのに、葉が一つとしてついておらず、毛並みも乱れていない。

 純白の毛に、星のような輝きの青の瞳をした小さめのキツネは、ころころと転がるような勢いで足元までやって来て、ティナを見上げる。


『おはようティナ』

「おはようアルヴィー」


 このキツネも精霊であった。

 姿の見えない精霊が動物の姿を借りて目の前に現れることも、もうティナには慣れたことだ。

 皆、皆、精霊なのだ。姿は見えないけれど聞こえる声も、動物の姿をしながらに言葉を話す彼らも。


 この小さな森を住みかとしているのか、精霊たちの声はここでは意識しなくとも多く聞こえる。

 古い住人であるおじいさんが言うところによると、精霊が好み住み着いたために、精霊の力が宿り、より彼らにとって居心地の良い場所になったとか。

 森が生き返ったように生き生きとし始めたのは何も前からではなく、ここ二十年くらい前からだという。


 ティナにとっては、物心ついたときから森はこの光景だ。

 人ではない声が、精霊たちの声であると気がついたのは少し経った頃だったけれど、精霊たちの声が聞こえていたのも物心ついた頃にはもうすでに、だった。


『うわ、またティナの側にいたんだ』


 小さなキツネがトコトコと小さな足で歩きながら、ティナの横を行く獣を見つけて実に『うわ』という声を出した。

 心なしかキツネなのに表情も『うわ』という感じに変わった。

 中身が精霊だから、動物の姿でもそれが作用しているのだろうか。本物の動物がしないような表情をする。表情豊かだ。


『うわとは何だよ』

『ティナ、邪魔なら邪魔って言ってもいいんだよ』

『お前に口出しされる覚えはない』

『若造は黙ってなよ』

『お前な』


 小さなキツネと犬のような狼のような獣が並んで――正確にはティナを挟んでいるが――いると、キツネが食べられてしまいそうに見える。

 このキツネと犬の仲はあまりよろしくない。今日もキツネと犬は言い合いをはじめてしまった。


 どうやら、キツネの方が犬よりも歳上であるようだとは、似たようなやり取りを何度も聞いてきたのでティナも既知のことだ。

 見た目的には、違う動物でもどことなく身体が大きいせいか、犬の方が歳上に見えるのだけれど……。

 と、上から言い合いの様子を傍聴していたティナは、自らの手にある篭の存在を思い出した。

 思い出したがそのとき。


「そうだ、アップルパイを焼いてきたの」

『大体さ、――アップルパイ? 本当? ティナの焼いたアップルパイ大好きだよ!』


 白いキツネは「アップルパイ」に反応して、黒い犬に向けていた目でティナを見上げた。

 青色がキラキラしている。本当に綺麗だ。

 ずっと聞こえていて、もう自然音という認識になっていた他の精霊たちの声にも喜びが表れる。

 姿が見えない彼らも、どうやっているかは不明だけれど、食べ物を置いておくと少しずつ少しずつ減っているので、食べているようなのだ。


「ちょうどここまで来たことだから、食べよう」

『やった!』


 ちょうど来たのは、木々があちこちに生えた森にぽっかりと空いた場所だった。白詰草が一面に広がる、可憐な景色だ。

 この先にある泉も好きだけれど、ここもティナのお気に入りの場所だった。

 ゆっくり座って休憩したりするのにぴったりなので、白詰草の中をいくらか来たところでティナは腰を下ろす。

 白いキツネも草に足を埋もれさせつつ、嬉々として膝元にやって来た前で、ティナは下ろした篭を覆っていた布を取る。


 出てきたのは艶々と輝くアップルパイ。

 もちろん例のリンゴを使った一品で、前もって家で切ってきたパイを一切れ取ると、ふんだんに使用し、詰まったリンゴが溢れ落ちそうになる。


「はいどうぞ」

『ありがとう!』


 中身が精霊なキツネは、器用にも、今ばかりは前足ではなく手と言う他ない可愛らしい両手で、パイを一切れ受け取った。

 人間の手には適当な大きさの一切れと言えども、小さな「手」には大きすぎるが、キツネはリンゴの欠片一つ溢すことなく安定して持つ。

 アップルパイをさっそく頬張りはじめたキツネを横目に、ティナは篭の中から皿に乗せたパイを一旦取り出す。

 それから篭の中にもう一度手を戻してもう一つ、異なる大きさで作ってきたパイを取り出して皿ごと白詰草の上に置く。

 姿の見えない精霊たち用だ。


『ティナ、おいしいよ!』

「そう? それなら良かった」


 嬉しそうな声で言うキツネに目を戻すと、人間のように……というよりは、ぬいぐるみが座っているみたい。

 器用に座ったキツネは、もぐもぐとパイを堪能しているようだった。

 喜んでくれて何より。作りがいもある。


 それにしても……。じぃっとキツネを眺めていると、おいしいと同じ感情を表しているようなふさふさの尻尾が、左右に振れ幅大きく振られる。ふっさふっさと振られる。

 ティナは返事をしながら、尻尾を捕まえたくなる衝動に駆られる。この尻尾のふさふさは、魅惑のふさふさなのだ。

 しかしながらキツネは正面を向いているので、こっそり気づかれないようにするのは難しそう。


(後で触らせて欲しいって言ったら触らせてくれるだろうし、いっか)


 今は潔く諦めることとした。

 自分がアップルパイを食べているときに邪魔されるのは嫌だなと思ったこともある。


(私も食べよう)


 それよりも、外で食べるアップルパイも格別だ。

 パイを食すキツネにつられるように置いていたアップルパイに手を伸ば……したところで。今度は、一緒に来ているはずの黒い犬がうんともすんとも言っていないどころか、視界に姿がないことに気がついた。


 あれ? さっきまで、そこにいたのに。

 伸ばしていた手を引っ込めて、首を右へ左へ、目をさ迷わせるとすぐに犬の姿は見つかった。

 変わらず側で、単にティナの向いていた視界に入らなかった位置で、犬は寝そべっていた。

 目を閉じて寝ているように見える姿をじぃと見つめたティナは、微かな風にそよぐ毛並みに注目する。

 犬の顔と、毛並みに視線を往き来させる。

 そして、少しだけあった距離を縮めて手を伸ばし、指先が柔らかな毛に触れて――遠慮も欠片もない手つきでわっしゃわっしゃと撫で回す。


『――何だよ』

「何にも」

『何にもないなら止まらない手は何だっていうんだ』


 目論見通りに瞼を上げた犬の、抗議のような、そうではないような言に耳を傾けてはおれど、一度撫ではじめた手は中々止められない。

 キツネと違った手触りの毛並みもまた、良い感触なのだ。

 しかしその手に関して言及されたので、名残惜しくも毛並みに別れを告げると、ティナは何事もなかったかのように黄金色の目を見る。


「アップルパイ、食べないの?」


 こちらは可愛らしさはないけど、同じく精霊のはずの犬に尋ねて、答えを待つ構えに変える。

 すると犬はしばらくの沈黙の後。


『……食べる』


 と言った。

 返事を聞いたティナは微笑み、一度背後を向いてパイを一切れ取り戻る。

 そうすると犬がパカリと大きく口を開いたから、そのパイを真っ赤な舌の上に乗せてやる。

 手を退けるや否や、口が閉じられ咀嚼の動きをする。


『旨い』

「そう、良かった」


 いつも変わらない言葉だが、美味しいと言われるのは嬉しい。

 ご機嫌になったティナはそれからようやく自分もパイを手に取り口の中へ。

 自分が作る、いつもの味だ。

 早くも少し減った様子のあるもう一つのパイを横目に、ティナは空を見上げてピクニック気分でご機嫌だ。


「うん、おいし――」


 木々が、騒いだ。


「……何?」


 穏やかな空、暴れるほどの風が吹いているということもない穏やかな気候は、変わっていない。

 それなのに、森が騒いでいるとティナが感じたのはどうやら少し遅かったらしい。

 キツネがさっきまでの緩んだ姿とは反対に、警戒している本物のキツネみたいな体勢に。

 犬を見ると、かの獣は。

 空を仰いでいたが、ティナの視線に気がついて黄金色の瞳に一瞬ティナを映し、頭を右手に向けた。


『ああ、来た』


 声には、複雑な感情が滲んでいた。








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