王女様
アップルパイを食べる夢を見た。
翌朝起きると、昨日着ていた服ではなく、綺麗なドレスに着替えることになった。
素敵なドレスだと思う一方で、一人で着られそうにもないドレスで、女性に手伝ってもらって着替えた。
身分の高い人はこうした窮屈なドレスを毎日着ているのだろうか。大変だ。
「落ち着かないわ」
くるりと回り後ろを振り向くと、裾が広がる。
落ち着かない。確かにこの部屋に相応しいような装いだが、あまり動けそうにない。また、走れそうにもないと、靴も見る。
後ろには、着替える間そっぽを向いていたラザレスがいたので、自分を見下ろしながら聞いてみる。
「変?」
「いいや。いいんじゃないか」
ラザレスは「そういう格好も似合う」と微かに笑んだ。
変でなければいいのだが。
ティナとて、こういった服を着るのでは、似合っていないのではと心配のようになることもある。
しかし今から身分の高い人に会うためだと思うと、それ相応の装いになるという任務を果たせた気になる。
「では、ご案内致します」
着替えて、案内された先は、とある一室だった。
入った瞬間に花のようないい香りに包まれた。ティナが通された部屋が誰にでも合うような無難な部屋だとすると、この部屋は可愛らしい感じがした。
「セシナ様、お連れ致しました」
「ご苦労、下がって良いわ」
待っていたのは、金色の髪をした美しい女性だった。とんでもなく手がかけられていると一目で分かるドレスが似合い、それが自然体の女性。
ラザレスと入ってきたティナに目を留めた彼女は、にこりと微笑みかけた。綺麗で非の打ち所がない笑顔だ。
「こんちには、わたくしはセシナ、この国の第一王女よ」
なんと、第一王女様だった。
美女を見つめていながらも、一体誰だろうと思っていたら。
けれどティナは首を傾げたくなる。
カードの差出人は王子様ではなかっただろうか。「お会いになりたいと仰るお方がいらっしゃいます」と言われて、昨日会えなかった王子様に会えるのだと思って来たら、王女様。
これはどういうことだろう。
名乗り、挨拶してからラザレスをちらっと見ると、ラザレスは肩をすくめる動作をした。
「エドガーは忙しいから、わたくしがお相手をしようと思って。ごめんなさいね」
「そうなのですか。いいえ、私が突然来たものですから」
聞くと、今日も忙しいようで会えないらしい。これは困った。
勧められてテーブルにつくと、ラザレスは近くに立ち止まるだけで、空いている席に座ろうとはしなかった。
テーブルの上にはお茶をするための準備が揃っており、ティナが席につくと、淹れたての紅茶が前に置かれる。
テーブルの中央には、お菓子が飾られるように置かれている。
「どうぞ、どれでも召し上がって」
昨日とは違った形のクッキーを見つけて、食べたいなと思ったが、思い出したことがありちらっとラザレスを確認する。
ラザレスは食べるのか、と聞こえてきそうな表情をしつつも、短く頷いた。
それにしても笑顔がない。頷き、すぐに戻る表情は仏頂面に近い。
ティナはクッキーを食べたが、あまり美味しいとは思えなかった。実際は、味としては昨日と同じくらい美味であるはずなのに、何だか食べた気がしないような気もする。
今はキツネがいないからか、それとも前からの視線のせいだろうか。
「精霊の気配を感じるわ」
お茶を飲もうともせず、お菓子も食べようとしない王女は、ティナをずっと見たあと、ようやくそう言った。
「精霊の愛し子という話は本当だったのね。そんなものは、単なる噂に過ぎないと思っていたわ。……道理で手こずるはず」
「手こずる?」
ティナは引っかかった語を繰り返したが、王女は綺麗な笑顔を深めて、それに関しては何も答えなかった。
「なぜ王族でない者が選ばれたのか、わたくしもエドガーも理解に苦しんだわ。しかし精霊が側にいるようだと聞いた。精霊術師かと思えば、違う」
「精霊術師とは、何でしょうか?」
耳慣れない言葉だ。最近、聞いたこともないことばかり聞く。
「精霊術師とは、精霊の力を借り、その力を奮うことの出来る者のこと。知らないかしら」
「いいえ、それなら聞いたことがあります」
なるほど、噂の精霊の力を借りられる人を精霊術師と言うらしい。
「わたくしは精霊術師の端くれなの」
「そうなのですか?」
「ええ、だからわたくしも精霊と契約しているのだけれど……いつもと様子が違うわ。あなたがこの場に姿を現したときから、騒いでいる」
昨日から引き続いて精霊の気配をいくつも感じるので、王女様の側にいる精霊が混ざっているとは気がつかなかった。
それと精霊と契約とは何だろうか、また引っかかる点があったが、その都度尋ねるのもきりがなくなりそうなので、止めた。
王族と、自分とでは知識の違いが大きそうだ。
姿の見えない精霊を見るように、自らの周りに目を向けていた王女様が、ティナに視線を移す。
「あなたの元へ行った神の獣はね、二百年も眠っていたのよ」
ラザレスのことだ。話題が微妙に移ったことは気にならなかったが、ティナは耳を疑う。
「二百年?」
「ええ、二百年。幾度と代替わりの折が来ても、誰も選ばず、眠っていた。原因は分からないものの、もう目覚めないのではないかとされていた。けれど目覚め、姿を消し、今ここにいる。それも、王族以外の候補者を選び、帰ってきた……行方が分からなくなっていた神の獣の一柱が戻ってきたのは、喜ばしいことではあるけれど」
ちらりと、王女様の視線がティナの上方に動いた。ラザレスの方、だろう。しかしすぐにティナに戻る。
「神の獣が王族の血脈以外を選ぶとは、初めてのこと。わたくしたちは戸惑っているわ。久しぶりに目覚めた神の獣が乱心したのか、あるいは精霊の愛し子は精霊だけでなく神の獣も惑わせるのかし――」
「黙れ」
ティナに向かって何事かを言う美しい人の声を遮ったのは、背後にいるラザレスだった。
聞くからに鋭い声を出したラザレスは、声と同じ刺々しい表情をしていた。眉をきつく寄せ、前を睨む。
ラザレスがそんな声と表情をするのは、聞いたこともなかったし見たこともなかったから、ティナは見上げたままになる。
「誰を貶してる。大体、惑わせるだと。精霊を惑わし、他の獣を惑わしているのはお前達の方だ。当然のようにティナを貶す権利があると思うな」
さらには、空気に重さなんて感じたことがないのに、空気が僅かに重く変化したように思えて、戸惑う。
それだけではなく、ぴりりと肌がひりつくような感覚が生じる。何だろうか。
「腐り果てた血脈が。俺が乱心? むしろ他と比べて目が覚めている方だ。間違えるな、お前達がこの地を治める権利なんてとうの昔にない」
低い声、黄金色の瞳に浮かぶのは不快だと語る色。低く、刺々しくも言葉を重ねる度に、その色が、濃くなっているように、見える。
「俺が選んだのはティナだ。真に精霊に愛される人間こそが、この地の玉座に就くに相応しい。お前達の小細工は通用しないと、この一日で分かったはずだ。毒も、他の何からも傷つけさせない。このまま同じことを続けるなら、俺は関わった者全てを――」
「ラザレス」
通常でない様子が続き、増すので、少し心配になって呼びかけると、はっとしたようにラザレスが下を見た。
すると、色味が増していた金色の瞳がすっといつもの色合いに戻り、椅子に座るティナを映して、表情が和らいだ。
しかし、さっきまで険しかったからか、和らいだ瞬間に弱くも見えて手を伸ばす。
手はラザレスから伸ばされた手に迎え入れられて、頬を寄せられ、温かな肌に触れて、なぜかティナはほっとした。
「大丈夫?」
「ああ、…………悪かったな」
何に謝っているのだろうと思って、何が?と言おうとしたら、その前に空気が元通りになっていることに気がついた。
空気が軽い。
さっきまでと比べてそう感じ、空気には重い軽いがあるらしいと知った。一体、何だったのか。
前を見ると、王女様が一切の動きを止めているばかりか、顔が強張っていたので、「王女様?」と呼びかけた。
そうして初めて王女様は金縛りが解けたように瞬きし、ティナを見た。
「大丈夫ですか?」
凝視されて、ますます大丈夫だろうかと思いながら怪訝そうにしていると、王女様はふっと目を逸らしてしまった。
それきり、ここまで話をはじめていた側の王女様が話さなくなった。沈黙が生まれる。
誰も話さなくなったため、ティナは自分から話してもいいと取ることにして、王女様に話しかけてもいいかなと考える。
この場に着いてから、一度は話しかけられたから、不敬にはならない……と勝手に判断する。話したいことがあるのだ。
「王女様」
王女様が、顔をあげた。その顔に笑顔はない。
「あの、私が持っているという王位継承権のことなのですが」
「……それは、直接エドガーに話して」
「え?」
「わたくしは彼の味方として、姉としてここにいるけれど、わたくしが権利を有しているわけではないから」
笑顔が消えていた王女様が辛うじて浮かべた笑顔は、美しさが褪せたように感じられた。
「ごめんなさいね、エドガーとは必ず会えるから彼に直接言って」
結局王女様はお茶もお菓子も口にせず、少しすると気分が悪いからとお茶会は終わった。
王子様が忙しくて会えない代わりに、せめてもと会ってくれたのだろうか。王族の方とは、そんな気配りもしてくれるのだ。
部屋を出ると、どこからともなく出てきたキツネが足元に並んだ。
「アルヴィー、どこにいたの?」
『この姿を止めて、ティナの側にいたよ』
「そうだったの」
キツネの姿でなくなると、例外なくアルヴィーのことも見えなくなるのだ。アルヴィーがそうすることは珍しい。
ともあれ、足元に白い塊が戻ってきたのは嬉しいことだ。
ふわふわと揺れる白い尻尾を見ながら、ティナはふと、部屋でのことを思い出した。
「ラザレスは、二百年も眠っていたの?」
王女様との話は、用語だけでなく流れに置いてきぼりにされて、分からなかった部分が多かった。
その一因は、ラザレスが二百年眠っていたという年数に驚いて、桁を間違っていないだろうかとか考えていたからだろう。
「代替わりごとに目覚めるのなら、百年も経たないはずでしょ? 王女様がお間違えになったのかしら」
「いいや、合ってる」
見上げたラザレスは、首を振った。
「本当に二百年も?」
びっくりして、まじまじと見つめてしまう。二百年なんて、想像がつかない歳月の長さだ。
肯定は、同時にラザレスがそれほどの長さを生きているということでもあり、本当に人ならざる存在なのだ。
「どうして起きなかったの?」
「……俺好みの主がこの世にいないってことだったんだろ」
「そういうもの?」
「そもそもその前から、俺は嫌気が差していた。この地を治める座に就くべき者が、王族と呼ばれる者たちの中にはいないと気づいていた。だから俺は起きなかった。そのまま眠り続けようかとも思ってた」
ラザレスが立ち止まったから、ティナもつられて足を止める。
「お前は、俺自身で見つけ、俺が本当の意味で選んだ主だ」
ラザレスはティナの手を掬い、まるで神聖な儀式のように、恭しくもそっと唇を触れさせた。
その瞳はティナを真っ直ぐに見つめ、離さない。
『ティナを見つけたのは、僕が先だけどね』
掬い取られている手の上に、もふっとキツネが飛び乗った。
きらきらとした青い瞳が目の前にあらわれて、ティナはぱちぱちと瞬く。そうしてから、確かに出会ったのは先だと、「そうね」と頷いた。
「お前な……」
『やっぱり歳月の長さって大事だもんね!』
「そうね」
また頷くと、「ティナ……」とラザレスが力なく呼んでくるのだが、ティナは首を傾げた。
領民にしろ、精霊にしろ、付き合いの長さは大切だ。
来た道は、ティナは覚えていなかったけれどラザレスやアルヴィーが覚えているようで、いつの間にか部屋の前に着いていた。
ラザレスが立ち止まったことで、ここか、と気がついた。
何しろはじめて来た場所だ。景観を覚えているはずもない。
ラザレスが扉を開けてくれた――。
確かにその瞬間だった。誰かが、現れた。
銀色の髪をした男性が現れ、直後、ティナを庇うようにラザレスが立った。
ラザレスとは異なる黄金色の目が、背中で見えなくなる前に、確かにその目はラザレスを捉えた。そう、ティナには見えた。
刹那のこと。
「君には一度退場していてもらう」
消えた。
ラザレスが消え、ティナが驚いて瞬いていると、どこからともなく吹いた風に巻き込まれて、勢い余って数歩部屋の中に入ることになる。
慣れたものではない靴で、転びそうになって、やっと前を見ると、部屋の中には複数の人がいた。
「ティナ、部屋から出――」
背後からの焦ったアルヴィーの声は、扉の閉まった大きな音にかき消され、途絶えた。




