片田舎の娘
「お前に玉座を」
目の前で跪き、ティナの手を恭しくもすくい上げた男は、自然な動作で手の甲に唇をつけた。
獣だったはずの、男。
*
栄えていたとは、当の昔の話。
貴族の末端とは名ばかりで、完全に没落した家に生まれたティナは慎ましい暮らしをしている。
今も、服は汚れてもいい粗末なくすんだ水色のドレスに、つけ慣れた白いエプロンという姿で、家の裏口に繋がる数段の石の階段に腰かけていた。
お尻の下には何も敷かず、脚を折って座り、何も頓着していないせいで膝が見えてしまいそうになっている。
ここに数少ない使用人の一人である、最も古参の年老いた女中がいれば「お嬢様! なんてはしたない!」と口うるさく叱ったことだろう。
しかしながら女中も母も父もそこにはおらず、いるのは階段の下に寝そべっている大きめの黒い犬くらい。
流れ落ちてきた栗色の髪を再度背中に流したティナは、傍らにある編まれた篭の中を覗き込む。
篭には、溢れそうなほどにいくつも赤い果実が入っている。たくさんもらった。
そのうちの一つを手に取り、ティナは悩ましげに深い緑色の瞳で見つめる。
悩ましいが、リンゴが嫌いなわけではない。むしろ大好きだ。
理想のフォルムをした果実は、魅力的な赤さをしている。綺麗なリンゴだ。
小さく貧相なものではなく、丸々と赤々とした魅力的な果実をくるくると手の中で回し眺め、もう片方の手で撫で回す。
「美味しそう……」
ため息と共に言葉をこぼした声は、周りの新緑に吸い込まれるように消えていった。
「実は最近アップルパイを食べすぎたから、アップルパイは控えようと思っていたの」
『……』
「今度は何パイにするべきなの?」
『……』
アップルパイの材料の一つであるリンゴを見つめながら問いかけているのに、返ってくる声はない。
ティナは赤い果実を目の前から退けて、ちらりと下方を見やる。
「ねえラザレス」
『パイばっかり食ってると太るぞ』
名指しされてとうとう喋ったのは、ティナ以外に唯一その場にいる、大きな犬にも狼にも見える獣だった。
全身を覆っているのは、ちょっとだけ癖っ毛だけれど、柔らかな黒い毛。
口からは、短く喋ってから閉じられたのにも関わらず、鋭い牙がはみ出ていることで、近寄り難さを出す。
出された声は、見るからに犬で獣な見た目に似つかわしい獣めいたものではなく、獣が出す声にしては低く、耽美なまでの声だ。
と、第一印象で、あまりのギャップに思ったのだったかどうだったか。今となっては、ティナには聞き慣れた声なのでどうでもいいことかもしれない。
とにかく、そんな声の持ち主たる獣は、石段の下に前足に顎を乗せて地面に寝そべっている。
牙の間から心底どうでも良さそうな声を出すと大儀そうに、身体全体と同じく、例外なく黒い毛に覆われている瞼を開いた。
半分だけ現れた瞳は綺麗な金色で、階段に座るティナを捉える。
「それは考えものね」
『思ってないだろ』
「でも、こんなに美味しそうなリンゴをたくさん貰ったの」
元々起きていたことはお見通しで、ティナは返事が返ってきたことで自分のペースで悩みを話し続ける。助言が欲しいのだ。
手に持っているままのリンゴを、獣の目に見える形で、起きた証の表れた黄金色の瞳の視界に映るよう振って見せる。
すると獣は呆れたように――表情の機微なんてそれこそ目に見えては分からないが――瞼を閉じて、瞳に映るリンゴを遮断して一言発する。
『……じゃあアップルパイ作ればいいだろ』
「そうよね」
リンゴがあるのだから、アップルパイを作ればいい。
食べ過ぎたからといって、ティナがアップルパイが嫌いになったわけではなくむしろ大好きだからなおさら。
リンゴだって、美味しい内においしく食べてもらった方がいいに決まっている。
自分以外の賛同の声が得られて、ティナは微笑む。
あっさり考えを固め、手にして見せびらかしていたリンゴに鼻を近づけると、甘く良い香りが鼻孔をくすぐる。実に美味しそうだと、もう一度確認した。
そうと決まれば、アップルパイ作ろう。
瑞々しく美味しそうなリンゴを篭に戻して、リンゴの使い道も決まったことなのでティナがよいしょと階段から立ち上がると、獣もゆったりと身を起こした。
さっきまで背中を向けていた裏口から中に入る前に、犬のような狼のような獣が階段を上がってくるのを待つ。
そうしながらも、それにしてもたくさんもらってしまったと持ち上げた篭を見下ろした。
ティナが持っているのは、サンドイッチやリンゴを一つといった軽食を入れてピクニックへ、という可愛らしいサイズの篭ではなく結構大きな篭だった。
その篭にいっぱいのリンゴが入っている。近隣の人たちに貰ったのだ。
「ラザレス、リンゴそのまま食べる?」
『食べない』
「そう? おいしいのに」
ティナは、よいしょと持ち上げた篭からさっき仕舞ったリンゴを取り出した。
犬は食べないと言ったがティナは一口かじった。良い歯ごたえと共に口の中に果実の欠片が転がり込んできて、甘みがじわりと口内に満ちてくる。
やっぱり良いリンゴだ。去年もらって植えたリンゴの木の苗は、こんなにも美味しい実をつけるようになるのか。
そう想像すると、ティナは嬉しくなって満面の笑顔になった。
『お前の幸せは小さいよなあ』
気がつけば犬はとっくに身軽に階段を上ってきており、ティナを見上げて幸せに水を差すような調子で言ったのだった。
リンゴの欠片を噛み締め、果汁を味わうティナはそんな犬を見下ろす。
そんなこと、何が楽しくて自分の側にいるのか分からない犬に言われたくはない……と言うと、他の精霊たちに悪いので言えない。
とりあえず失礼な、と思って、犬の口に丸ごとリンゴを詰め込んでやろうと思ったけれど。
この犬がそのままのリンゴを望んで食べたことはない。望まれないまま食べられるリンゴの事を思って思い留まり、聞こえなかったふりをしてリンゴをもう一かじりした。
しゃくしゃくと噛む度、リンゴからは甘さが染み出てくる。
「美味しい」
『良かったな』
「うん」
結局、裏口を開けたのは、リンゴを一つ平らげた後だった。
赤い果実がたっぷりの篭を運んでいくには、片手では無謀な挑戦だからであり、魅惑の果実を途中で食べることを止めたくなかったからでもある。
さあ、アップルパイを作って、それから精霊の森に持って行こう。
「ジャムも作ろうかしら」
こんなにあるのだから。