第九話
「友達に誘われて飲んでいたら酔いつぶれた」と、春子にメールを送った。
我ながらしらじらしいメールだと思ったが、それ以上の文面が頭に浮かばなかった。三十分以上考えた結果がその一文だ。二日酔いのせいなのか、俺の心がどうしようもなく覚醒し、泡立っているからか分からない。
俺はそのメールを送りながらも、春子がそれを見なければいいなと思った。
そうすれば返事はこない。俺の中に浮かぶ怖いイメージも実現しない。もし、すぐにでも返信や着信が着たらどうしようかと俺は怯えた。
そして俺は家に帰った。
朝早かったことも有り、春子からのメールの返事はこなかった。
鍵を開けて家に入る。春子は寝ているようだった。
土曜の朝だ。特に予定もない。いつもなら俺も寝ている時間。
俺はそっと家に入りながら春子の様子を恐る恐る確認する。布団の中ですやすやと寝ている。その顔を見て安心する。
俺はシャワーを浴びて朝食を作った。
春子が起きて、俺は朝一番に謝った。
俺は泊まりになる時は毎回春子に連絡していた。それをかかしたことはなかった。今回が初めてだ。
春子は俺の顔をみてほっとしたようだった。
俺はメールで送った通り、「友達と飲んでいた」と説明した。
「そうなんだ。次からはちゃんと連絡してね」と春子は笑った。彼女はそれ以上聞いてこなかった。
俺は安心するも、心の中でどこかいいようのない気持ちを抱いた。
冬子なら・・・何か言ってくるだろうと思った。俺の事を疑い真実を突き詰めてくるだろうと。
でも、春子は聞いてこなかった。
なぜ春子は笑っているのだろう・・・
でも、俺の中に湧き上がるその気持ちを深く探ることはしたくなかった。それを見るのを俺は恐れた。
だからその感情を俺は無視した。
◆◇
海外赴任が決まった日。
俺の夢がかない、自分に誇りを持てるようになった日。
冬子とした日。
その日から俺と冬子の関係は変わった。
それまでは仲の良い英会話スクールの仲間だった。しかし、一線を越えたことで俺達の間に合った壁の様なものが一枚崩れた。冬子にはまだ壁を感じる。
でも、その壁は初回の時とは違うし、俺以外の親しい人、スコット先生に対するものとも違う。俺だけが彼女の内面に近づけた気がし、そこに優越感のようなものを感じた。俺は冬子の仲間、冬子の男になれた。冬子に選ばれたことに歓喜していた。
俺と冬子は度々合ってするようになった。
俺は冬子に「あの日のことは何も覚えていない。それに間違いだった」とは言えず、流されるままにそういう関係になった。
元々、冬子の事が好きだったのかもしれない。俺は冬子を尊敬していたし、仲間だと思っていた。それ以上に、彼女に惹かれていたのかもしれない。憧れの様なものを抱いていた冬子に近づけることが嬉しかったんだと思う。
彼女の能力的優位性、溢れるでるエネルギー、誰に対しても自分の意見を言い、迎合しない姿勢。それは俺の心を強く掴んだ。彼女の存在が、俺が成りたいと思っていた理想に近かったからかもしれない。彼女に近づくことで自分も理想に近づけるかもしれないかと思ったのだ。
だから俺はその関係を断ることが出来なかった。俺が心の隅で望んでいた関係だったから。それが実現し、拒むことはできなかった。冬子のおかげで俺は目標だった海外赴任のチャンスを勝ち取ることができた。自分にも誇りが持てた。
そんな恩師を裏切ることはできなかった。そこには恩がある。スコット先生、冬子、春子、三人のおかげで俺は夢を掴むことができたが、一番俺を刺激してくれたのは冬子だと思うから。だから、冬子を悲しませたくなかった。
俺は冬子のその笑顔が好きだった。自信のある姿が好きだった。そんな彼女を壊したくなかった。俺には付き合っている彼女、春子がいることは冬子には話していた。英会話スクールで度々春子の事を話したこともある。冬子もそのことは知っているはずだ。
しかし思い返せば、俺が春子の事を話している時、冬子の反応は普通とは違ったような気がする。俺は春子のことを話す際は必ず冬子の様子を確認した。彼女がどのような反応をするか気になったからだ。冬子が俺の事をどう思っているか常に確認していた。
俺は春子の事を話しても、冬子は他の女友達の様にその関係をちゃかしたり、褒めたりすることはなかった。他の女性の場合、春子がどういう人なのか聞いてくることが多い。でも冬子はそうしてこなかった。ただ単に恋愛に興味がないのかと思ったが、そうではなく、春子自信に興味がないのだと思った。冬子と春子は正反対だ。全く自分と相いれない人物には関心がないのだろう。
俺と冬子は肉体関係になった。冬子は俺の事が好きらしい。直接そう言われた、「愛している」と、堂々と。そんな風に言われたのは初めてだった。春子はそんな事は言わない。恥ずかしいのだろう。でも春子の気持ちは伝わってくる。彼女の雰囲気からそれを察っすることはできる。
昔の彼女の中にも「愛してる」と言ってきた女性はいたが、その言葉には何も感じなかった。それはただの言葉だった。何も共わないただのセリフ。漫画やテレビドラマで中で登場人物が言っていたから私もマネして言ってみた。ただのモノマネ。借り物の言葉。
でも、冬子のそれは違った。言葉と雰囲気両方で俺に伝えてくる。それが彼女の冷たい雰囲気と自信とつながり、形を持つ。体感を持った言葉だった。俺にはそれがとても魅力的だった。彼女が俺の事を本当に愛していると伝わってきた。彼女はそれを本心から信じているんだと思う。だからこそその言葉は俺の心に届いたと思う。
冬子は言う。愛してる。だから俺と性行為をする。あなたも私の事が好きだから問題ないと。彼女に聞くとそう言った。いつも通りはっきりと。そこに春子はでてこない。俺が春子と付き合っている事など全く問題ないようだ。事実、彼女の中では問題ないのだろう。
冬子は自分が興味がないものに関しては全く関心を持たない。彼女と同じ時間を過ごす中でその事を強く感じた。俺もその傾向があったが、彼女はそのレベルが違う。自分の考えに絶対の自信を持っているからこそ割り切れる。俺はそれができなかった。自分に関係がないと思っても、僅かに心に沸き上がる感情を気にしてしまう。
冬子の中では春子の存在など取るに足らないものなんだと思う。その事に俺は少しイラついた。俺が大事に思っている春子の事を冬子にも大事に思って欲しかった。でも、それは強制できない。冬子に春子のことを話すと、彼女はあまり良い顔をしない。はっきりと嫌悪感を表す。「そんなどうでもいい女の話はしないで」という表情だ。
俺は冬子のその態度にはイラつきながらも、彼女のそのきっぱりとした態度が俺の心を沸きたたす。さっぱりとした彼女の態度には嫌悪感を抱かない。冬子がくれるイラつきは心地よく、俺に活力なようなものをもたらしてくれる。こんな感情、エネルギーを感じたのは思春期以来だ。
そんな冬子が俺に言ってくれる言葉。「愛している」。
その言葉が俺の胸に刺さる。沸き立った俺の心に刷り込まれていく。冬子は心からそう思ってるんだと思う。自分の考えが正しいと。俺にその言葉に浸透していく。
ベッドの中で肌を合わしながら呟かれるその言葉。
冬子と体を重ねることでその言葉が体内に染み込んでいく。冬子の情熱的なそのプレイは俺の感覚を刺激する。彼女の溢れるようなエネルギーが俺にぶつけられる。彼女はそれを隠さない。好きな事を好きといえる。自分がしたい事をする。遠慮はしない。それが伝わってくる。体を重ねることでそれを発散しているようだった。
いくら有能な彼女でも、社会人なら我慢しなければいけない場面は多い。自分の思うがままに生きている風に見える彼女でもそれは同じだ。いや、強く自我ががあるからこそ、通常の人よりそのストレスは大きい。それがマグマのようなエネルギーとなって仕事や趣味、俺との関係にぶつけられているんだと思う。
冬子は体を密着させ、キスをしながらするのを好んだ。少しでも体を密着させたいと思っているようだった。隙あれば体を絡ませ、その接触面積を増やそうとしてくる。
火照った体、紅葉した頬、汗ばんだ肌が二人の境界線を曖昧にしていく。
しかし、一人で生きているような印象を受ける彼女に対してそれは新鮮だった。俺の中で冬子は無敵の存在だった。アニメや漫画に出てくる主人公。でも、性行為を通してそうじゃないんだと感じた。冬子も一人の人間で女性なんだと。
冬子は寂しかったのかもしれない。俺と同じように心の内ではその心細さを感じていたんだと思う。だからこそ、性行為で深く繋がることによりそれを埋めようとしているのだと。そう思うと、俺は冬子に対して愛着というか、保護欲のようなものを感じた。それら俺と冬子をさらに深く結びつけた。
ベッドの中での冬子はとても愛らしく見えた。普段は凛としている彼女。しかし内面に不安を抱えている彼女。服を脱ぎ裸になることでその内面が前に出てくる。服と共に彼女を覆っていた膜の様なものが脱ぎ捨てられたように。
そのギャップに心をときめかす。それが新しいエネルギーとなって性行為を加速させる。
そのせいか、俺と冬子との行為は大抵どちらかが力尽きるまで続く。全身からエネルギーが抜けるまで貪り合う。それは動物の様なそれだった。先に諦めることが負けだと思っていたのかもしれない。冬子は生粋の負けず嫌いだ。俺はそうではないけど、冬子に負けたくなかった。だから続ける。
俺は冬子の体を隅から隅まで覚えた。目をつぶれば彼女の肌の感覚が蘇る。それは俺の肌の記憶にすりこまれたんだと思う。何もないのにまるで触れているかのような感触。冬子の感覚が常に俺につきまとう。
春子とする時も同じだ。春子は大人しい。自己主張をあまりしない。空気を読み相手の思いを読み取る。それは性行為でも同じだ。春子は自分自身を全てさらけ出すことに抵抗感を感じているんだと思う。それが彼女の性質だ。
だから俺も彼女の思いをくむ。それはお互いを思いやる行為。言葉にすると綺麗なのかもしれない。でも、それは裏を返すと決して一線は超えない他人同士の関係。冬子との性行為の様に魂が繋がるという行為にはならない。
春子とのそれは、ストレスはないが、小さな刺激なくゆっくりと味わうもの、
冬子とのそれは、負荷は強いが、大きな刺激を劇的に味わうもの。
冬子とするようになってから、春子との行為には物足りなさを感じる。今まではそんな思いを抱くことはなかった。二人を比較することで改めて気づいたんだと思う。春子と性行為をしていても、その物足りなさから冬子を思い出す。その度に冬子の手触りが肌に蘇る。
春子に触れながらも冬子に触れているような感触。現実の感覚よりも肌に刻まれた感覚が俺の意識を奪う。冬子のひきしまった体と、春子の柔らかい体の違いを嫌でも意識してしまう。
目の前で春子の事を抱きながらも冬子のことを考える。そうすることによって、俺は自分を気持ちを高める。そうしなければ気持ちが萎えてしまうからだ。強い刺激に慣れてしまうと、弱い刺激では満足できなくなる。つまり反応しなくなる。
俺は性行為中に春子の名前を呼ぶことはなくなった。
その名前を呼べなかった。
その名を呼べば、俺はとたんにできなくなってしまう。
春子の名前がまるで足枷の様に俺の捕え、どこかに幽閉していく。