第八話
俺の英語はみるみる上達していった。
そしてちょうどいい事に、海外勤務の社内公募が発表された。俺は迷わず応募した。英会話スクールの経験で俺は自分の英語力に自信を持っていた。ペーパーテストも面接にも不安はなかった。
だが一応テスト対策はした。先輩方から過去のテスト内容を聞き、それに対して対応する。確認した所、面接も筆記もそれほど問題なさそうだった。
後は、英語以外の部分の要因だろう。ライバルの存在や、俺の社内での評価。それはうかがい知ることはできない。
だから考慮しない。とにかく試験に全力で臨む、それだけだった。
◆◇
「グッド!」
「おめでとう」
俺は英会話スクールで祝福される。
俺は海外勤務にほぼ内定した。まずは二年間程のアメリカ勤務になる。その後の事はアメリカでの勤務成績で決まる。そのことを二人に伝えたのだ。
スコット先生はへんな物を口にはさんでいる。あれだ。空気を入れると蛇の様にふくらむおもちゃ。よく夏の出店で売っている奴だ。
冬子は何故か、頭にへんな帽子をのっけている。でっかいシルクハット。あれだ、某テーマパークのお土産で見たことがある。何故かこの英会話教室の棚の上に鎮座していた物だ。先生のお土産かもしれない。
俺はほこりとか大丈夫かな?と思いながら冬子の姿を見る。冬子の綺麗な髪が汚れるのは忍びない。冬子は笑顔で自分の事の様に喜んでいる。俺はその笑顔を見ると、心の中からじわっとした物が湧き上がってくる。
「ああ、ありがとう」
俺は二人に礼を言う。急に目頭が熱くなる。耐えようと思ったけど、それはできなかった、思わず涙が出てくる。久しぶりに出た涙だ。ここ何年も涙など流したことはなかった。それが不意に出た。
長かった。厳しかった英語修練の期間が思い出される。最初はただの「イエスマン」だったけど、ようやくここまでこれた。これで目標を果たせた。
走馬灯のように俺の頭の中にこの英会話教室での思い出が映し出される。
ここまでこれたのは冬子とスコット先生のおかげだ。それに春子が家ではげましてくれたおかげでもある。三人がいなかったら俺の英語能力はここまで向上しなかっただろう。俺は三人の事を思うと胸が熱くなった。
「ほ、ほんとうにありがとう」
俺は泣きながら二人の手を取った。頭を下げ、泣き顔は見られないようにした。
「どうしたんだよ」っと笑顔で俺の肩を叩くスコット先生。
冬子は「よかったね」と言って俺の手を握ってくれる。
俺は嬉しかった。ただただ、嬉しくて泣いていた。会社で結果を知った時は表情には出さなかったが、ここにきて思いが爆発した。
思ってみれば、ここは俺にとって自由に感情を表現できる場所だった。会社では社会人として行動し、家では春子の彼氏として振舞う。そんな中、ここは素の自分を表現できる場所だったのかもしれない。
「でも、寂しくなるね。二人共いなくなるんて?」
俺はその言葉に「?」っとなる。
どういうことだ? 二人共・・・俺一人ではないのか。
俺は顔を上げてスコット先生と冬子を見る。冬子は罰の悪い顔をしている。俺から顔を逸らす。
「どういうことですか?」
俺はスコット先生を見る。
「だってそうだろ。タケダさんも、ダテさんもアメリカに行くんだから」
「?」
俺は頭が真っ白になった。
冬子もアメリカ・・・
俺は冬子を見る。口を尖らし俺から目をそらす冬子。彼女らしくない。いつもまっすぐな彼女とは違う。
「冬子、どういうこと?」
彼女は俺の声に反応して顔を逸らす。そして数秒経ってからこちらを振りぬく。その表情は、笑顔だった。
「私もアメリカ行くの、そういえば言ってなかったわね」
「え、なんで?」
「なんでって、私はそもそもアメリカに行くためにこの教室にきたんだから当然でしょ」
「そ、そうだな。確かにそうだ。でも、なんで言ってくれなかったんだよ」
「聞かれなかったからよ」
「そうだけど・・・」
俺はその先を冬子に聞こうとしたが、スコット先生が俺と冬子の間に入って、へびのおもちゃをふく。ピューっと音が鳴ってヘビの間抜けな顔が膨らむ。
「今日はお祝いなんだから楽しくいこう。それに、二人共同じロサンゼルスなんだから一緒に住めばいいよ。ルームメイト、僕の家族も住んでるから力になってくれるよ。話したろ、僕の生まれ故郷はロサンゼルスなんだ」
確かに、先生の故郷はロスだと言っていた。公募の赴任先が決まってなかった頃は映画の街というぐらいの印象しかなかった。でも、これから俺の生活する街だ。生活していく中でそのイメージがどんどんん変わっていくのだろう。
ルームメイト。その言葉は聞いた事がある。同じ部屋に他人同士が住むというあれだ。英語の勉強に使った海外ドラマで見た。大体は同性で住んでいるようだが、中には見知らぬ男女で住んでいる例もあった。海外では一般的なのかもしれない。
でも、俺と冬子が一緒に住むのはどうなのだろう?問題ないのか。しかし、それは確かに楽しそうだと思った。
その直後、俺の脳裏に春子の姿がちらつく。彼女との関係も決めなければならない。ここまで引き伸ばしてきたが、もうすぐ決断の時だ。海外赴任のための準備や研修があるので今すぐではないが、残された時間は短い。
俺は隣にいる冬子を見る。「ルームメイトか・・・」と呟いている。
「ほら、決まり決まり。二人なら上手くいくよ。すっごく相性いいから。僕が見た中で一番だよ」
そういいながらアルコールを飲むスコット先生。ハイネケンだ。そして先生が一人で陽気に歌っていた。
そんな陽気な先生を見ていると俺まで楽しくなってきた。俺も飲んだ。めったに酒は飲まないが、今日は特別だった。俺は海外赴任が決まったことが嬉しかったし、騒ぎたい気分だった。それに、せっかく嬉しい気分になのに暗い事を考えたくなかったんだと思う。
冬子も飲んでいた。そうして楽しい時を過ごした。何を話したかは覚えていないが、俺は飲んで騒いだ。
冬子もスコット先生も笑顔だったし、俺も笑顔だった。久しぶりに心から笑った気がする。楽しかった。
◆◇
チュンチュン。
雀の泣き声で目覚めると。朝日が俺の顔に当たっていた。
どこだここ?
俺は見慣れぬベッドで寝ていた。頭を動かすと、頭の中ににぶい痛みが走る。多分、二日酔いだろう。俺は額に手を当てながら首を回す。
見覚えのない場所。横には布団の膨らみが。そして僅かに寝息が聞こえる。その規則正しい音は、白い枕の下から聞こえる。
俺はその枕を恐る恐る取る。すると、そこには見知った女性がいた。特徴的な目元と、ベッドに溢れる艶やかな黒髪。その端正な顔立ち。
冬子がいた。
彼女はすやすやと穏やかな表情で寝ている。その寝息が聞こえてくる。
初めて見た冬子の寝顔だ。その姿はいつもの冷たい印象の彼女とは違い、温かさがあった。そのギャップに俺は惹かれた。
思わずその顔に見惚れる。
数秒見た後、我に返り首を振る。無意識の内に冬子の姿に虜になっていた。だめだ。現状を確認しないと。
俺がふと首元に手をやると、肌の感覚。俺は自分の姿を見る。
あまりのことで今まで気づかなかったが、俺は服を着ていなかった。それは冬子も同様の様だった。布団からでている首元やすらりと伸びた足でそれが分かる。
よく見ると、ベッドの周りには服が散乱している。
男性物の服と女性物の服が混ざり合っている。それは俺と冬子も服だ。昨日英会話教室で着ていたもの。その服が散乱していた。慌てて脱いだように散らばっている。
家では春子が綺麗に服を畳んでくるので、最近は見ることがなかった光景。
一人暮らし時以来のその風景。
春子・・・・
ふとその時、彼女の顔が頭に浮かぶ。俺は周りを見回す。
すると、携帯がチカチカと光っている。俺は一瞬躊躇するもその携帯に手を伸ばす。
俺が画面を見ると、そこには複数の着信があった。それは春子からだった。
メールも来ていた。それも春子からだった。
俺は顔が真っ青になった。急に視界が狭くなった気がした。体中から体温が抜けていく感覚。
直後、異が重くなる。どっしりとした物が胃に突如入ってきたようだ。そのせいで、普段意識することのない内臓の存在を体内に感じる。喉に湧き上がってくる違和感の様なもの。固形物は何もない。だが、何かが喉から、口から出たがっているように感じる。
ここで何があったかは分かる。俺と冬子が何をしたのか。
俺の体の感覚がそれを知らせる。あれをすると、その次の日の朝は感覚が違う。全身に僅かな倦怠感を感じる。それに、髄液を切らしたしまったのかのような感覚。
そして、俺の体から匂う普段と違う匂い。そう、冬子の匂い。それが肌に染みついているように感じる。
つまり、そういう事だ。
俺は慌てて服をかき集めてそれを着る。心が、体が俺を急かす。ここにいてはいけない気がする。一刻も早くこの空間から出なければいけないと。
「何、もうかえるの?」
冬子が寝ぼけながら何かいっている。その声は俺の心をドキリと揺らす。
俺は体を動かし、服を着ることに集中することでそれを聞き流す。今、ここでこれ以上冬子と会話するのはいけない気がする。
「帰る。また後で連絡する」
「うん」
そうして冬子は夢の世界に戻っていった。俺は冬子の家を出た。