第十三話 【春子√】
俺は公園から急いで家に帰った。
春子の待つ家に。
家に帰ると春子は泣いていた。
しくしくを声を出しながら布団の中で泣いていた。
ベッドの上で盛り上がった布団がごそごそと動き、泣き声に混ざって聞こえてくるBGM。
その音は彼女の好きな乙女ゲームのBGMだ。楽しい気分にさせるその音楽と彼女の泣き声は不思議と合っていた。
彼女は泣きながらゲームを進めているようだ。男性声優の渋いボイスが聞こえてくる。セリフが次々と流れている。彼女は俺が返ってきた事にも気づいていないだろう。乙女ゲームのセリフが止まることは無い。
俺は彼女に近寄る。
響く俺の足音。
ふとボイスの再生が止まった。
彼女が俺の存在に気付いたのかもしれない。
その証拠に、彼女の泣き声も同時に止まる。ごぞごぞ動いてた布団の動きも止まる。
沈黙。
「龍二?」
春子が俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。
期待と不安が入り混じったようなその声色。
つい数秒前まで泣いていたためか、その声色は安定していない。
そして布団越しに聞こえるためいつもより低い。
その春子の声が俺の心を震わす。
「あぁ、帰ってきた。話をしたくて。逃げ出してごめん」
春子は布団をかぶったままだ。
ピクリともしない。そこからでてはこない。
ただ、乙女ゲームの待機中のBGMが流れるだけだ。
「何しに帰ってきたの?」
探るようなその声。
先程のより僅かに安定した声。
春子は頭を切り替えて俺の事に思いを巡らしているようだ。
でも、同時に怯えているようにも思える。
俺が何を口にするのか。
「春子。悪かった。全て俺が悪い。だから謝らしてほしい」
彼女から返事はない。
ゲームのBGMだけが流れる。
俺はそれを春子の了承ととる。
「俺は冬子と関係を持った。冬子というのは英会話教室の伊達のことだ。本名は伊達冬子という女性だ。春子に彼女の事を知られたくないから男友達の様に話していた」
「・・・知ってる」
布団の中から聞こえる声。
やはり春子は知っていたようだ。それはそうだろう。気づかない方がおかしい。その違和感に。春子なら気づいて当然だ。
「冬子と英会話教室で一緒に勉強することで親しくなった。その・・・彼女に人として惹かれたんだと思う。自信があり、自己が強く、活動的な彼女の姿に」
「私とは正反対だね」
「あぁ。だからこそ惹かれたんだと思う。でも、それは仲間としてで異性として惹かれたわけじゃない。その証拠にしばらくはいい友達だった。でも・・・とある出来事で、偶然彼女と一線を越えてしまった」
沈黙。
僅かに動く布団。
「それって、あの日のこと?」
春子の声はいつのまにか冷静になっている。いつも通りの彼女の声だ。泣き声のような声色は息をひそめている。布団の中にいるので彼女の顔は見えないが、涙も止まっているのかもしれない。
あの日・・・
彼女がどの日をさしているのか詳しく言わなくても分かる。春子はその日の事を思い出したくないから具体的に言わないのだろう。それに触れてしまうことに怯えているから。
でも、今ははっきりとさせないといけない。目の前の事から逃げてはいけない。
「俺が始めて連絡を忘れた日だ。あの日、俺は初めて冬子と関係を持った。言い訳にならないと思うけど、あの時は酔っていた。それで、その後はそれを引きづって・・・いつの間にか合ってするようになっていた。本当に悪いと思っている。俺がすべて悪い。でも、春子の事が俺には一番大事なんだ。春子無では生きられない。だから、だから、春子に許してほしいと思ってる。そのためなら何でもする」
俺は床に座って土下座をする。
人生で初めての土下座だ。
それぐらいでしか俺の意思を見せる事が出来なかった。
沈黙。
いつのまにかゲームのBGMも消えている。
春子がゲームの電源を落としたのかもしれない。
布団がもぞっと動く。
布団に空いた穴。その中から春子がこちらを見ている
俺は床に土下座したままだ。
目の前には青いカーペットの生地。春子が同棲をする時に選んて、一緒に買った物。
俺は土下座しながらも、視界の隅で春子の姿を捕える。
布団がずれる音がする。
「龍二。顔、あげて」
俺は春子の声にそって顔を上げる。
そこには飛び込んでくるみかん。
顔面にそれがあたる。
俺はそれを避けなかった。避けてはいけないと思った。
続けて飛んでくる携帯ゲーム機。
俺の顔にあたる。
一瞬、新撰組風の絵柄が見えた。
俺の顔に当たったゲーム機はカーペットの上に転がっている。
痛い・・・。
ゲーム機があたった場所の体温が上昇する。
ひりひりとした痛み。
春子は俺を見ている。
その顔は満足していないようだが、怒ってもいないような複雑な顔だった。
俺がゲーム機をよけると思っていたのか、僅かにその表情に動揺が見えたが、すぐに表情を戻す。
「聞いて。私が言い終わるまで何も言わないで」
「あぁ」
しまった。
つい反射的に返事をしてしまった。
じろりと春子に睨まれる。
そんな表情は初めて見た。
俺は肩をすくめる。
「伊達さんとは関係を切って。もう合わないで」
春子は俺を見ている。俺は黙ってうなずく。
俺も冬子とは今後一切合わないと決めていた。冬子の事を心で拒絶しても、実際に合って時間を過ごせば、どうなるか分からないと思っていたから。接触を断つことが一番だ。
「これから毎日朝食を作って。掃除も。私がいいというまで」
俺は再び黙ってうなずく。
それぐらい問題ない。それで春子の気がはれるのなら。
「最後に一つ。もう絶対にこんなことしないで」
俺は頷く。
俺ももう二度々こんなことはしたくない。
春子の泣き顔をみたくなかった。
春子は俺の様子を見ながらもいいようのない表情だ。
どこにぶつければいいのか分からない感情を心の中に抱いているようだ。
しかし、彼女は俺を許してくれた。
自分の思いを抑えながらも俺を許容してくれた。
俺はこれから彼女の期待に応えたいと思った。
彼女が呑み込んだ気持ちを無駄にはできない。彼女が耐えた気持ちをこれからは俺も共有したい。俺はそう思った。
◆◇
英会話教室は辞めた。
元々辞める予定だったのだが、後数回授業が残っていた。そこで冬子に会うのを避けたかった。冬子がいないことを確かめ、スコット先生にそう伝えた。
詳しい話はしなかった。先生まで巻き込みたくない。
先生は悲しんでいるようだったが、その事を受け入れてくれた。
思い出がつまったその場所を俺は後にした。
◆
冬子にはメールで別れを伝えた。
もう合いたくない。俺が全て悪いと。冬子には何の問題もないと丁寧に理由を書き連ねた。冬子の場合、理由を明確に説明しないと許してくれないだろうと思った。
だが、冬子は納得しなかった。
メールと電話が何度も俺にかかってきた。
俺は冬子と実際に合う事をさけていた。冬子に合う事で俺の決意が鈍ると思っていた。冬子と合ってしまう事で、冬子の匂いを嗅ぐことで、彼女の手触りを思い出してしまう事を恐れた。一度体に染みついた手触り、匂いは中々薄れることは無い。それが快楽や感情を伴っている場合は強力だ。多くの人が麻薬やたばこをやめられない事からもそう思う。
俺は時より沸き起こってくる冬子の肌触り、彼女の温もり。体が冬子を求める衝動を無視した。大丈夫。我慢し続ければいつか消える。
その衝動は確かに大きいけど、春子への思いに比べると小さい。
俺は、冬子に根気強く謝り続けた。
だがやはり冬子。そんな事では納得しなかった。
彼女は俺を脅し始めた。
俺の会社に連絡して二股関係をばらし、俺の海外勤務を妨害するといってきた。
冬子はその能力から会社での評価も高く、大企業の幹部コースに乗っている。偶々俺の勤めている会社と同じ業界で、その影響力は計り知れない。その全てを使って俺を潰すと言ってきている。
俺は恐れた。せっかく掴んだ夢の機会。それを助けてくれた冬子が妨害してくると思わなかった。でも、冬子が本気かどうか分からなかった。そんなことすれば彼女の立場も危うくなる。そんなことを冬子がするであろうか?
でも俺は「冬子ならやるかもしれない」と思った。完全に否定できなかった。冬子の要求は、俺と、そして春子と直接会って話すこと。俺は迷ったが、受けるしかないと思った。このまま何もしなければ大変な事になると思った。
それに、俺が憧れていた冬子だ。彼女の事を信じてもいた。
だから俺は冬子と会う事にした。
春子にも訳を話して協力してもらった。
◆◇
数日後。
とある喫茶店。
場所は俺が指定した。俺の家や冬子の家ではまずいと思った。冬子が何かするとは思っていなかったが、用心したかった。第三者の目がある場所なら冬子もおかしなマネはしないだろうと考えた。春子を守るためにはそれが必須だった。
俺と春子が先に喫茶店に行き、冬子がくるのを待った。
俺は緊張しながらも、待った。横には春子がいる。彼女のためにも今回でけりをつけたかった。
冬子はいつものように、時間ぴったりにきた。彼女らしく、その姿はきまっていた。隙のないスーツ姿。髪も綺麗に手入れされている。
冬子は品定めするように春子を頭の先からつま先まで見る。
そして何やら満足して席に座る。
俺はちらっと春子を見たが、春子はそのあからさまな冬子の態度に対して表情を変えなかった。
俺は冬子が据わったのを見計らって口を開いた。
「冬子、悪かった。謝る。俺とはもう合わないでほしい。俺は冬子の事を尊敬しているし、仲間だと思っている。でも、俺は春子の事を優先したい。だからもう合わないでほしい。本当にごめん」
俺は冬子に向けて頭を下げる。
目の前に見えるカフェの机。こんなに近くで机を眺めたのは初めてだ。僅かに傷が見える。
俺の様子を無表情で見つめる冬子。
その表情に変化はない。いつかのように冷たい印象の冬子。
無言の空間。
俺はしばらくして顔を上げる。
冬子の反応を伺うようにして。
それを確認して冬子は口を開く。
「龍二の考えは分かったわ。そこの彼女を優先するために私を合いたくないということでしょ」
「あぁ、本当に悪い」
再び頭を下げる。
「私は嫌。これからも龍二と会うわ」
冬子は俺を見続ける。
「龍二にも私が必要なはずよ。誰のおかげで自分の夢を果たせたと思ってるの。そこのどんくさそうな子は止めときなさい。あなたのためにならないわ。どうしても見捨てられないなら愛人にすれば。私は龍二が私との関係を続けてくれるならそれでもかまわないわ」
「それは無理だ。もう合わないでほしい」
俺は再び同じことをいうが、冬子の雰囲気は変わらない。
冬子は春子を見る。
「あなた、春子さんだっけ?龍二にはあなたが必要なのかもしれないけど、あなたには龍二が必要ないでしょ。それなら龍二と別れてくれない。他の人を探して」
春子はその穏やかな表情を僅かに固める。
俺は心配しながら春子を見る。
「嫌です」
言葉短めに答える春子。春子はそれ程会話が得意じゃない。論戦などもっての他だ。
春子とは本質的に人と対立したくないのだろう。
でも、その春子がきっぱりと言い放つ。
「あなた、ゲームが好きなんでしょ。それなら一生ゲームでもして自分の世界にこもっていればいいと思うわ。それがあなたにはお似合いよ。だから別れて」
冬子は笑みを浮かべながら春子を見る。
その声に躊躇はない。
「嫌です」
その言葉を再度繰り返す春子。
その表情は硬い。
春子は冬子から目を逸らさない。
普段人と目を合わせて話すのが苦手な春子とは思えない。
「あなたね、それしかいえないの」
冬子が春子に対して小言のようなことを散々呟くが、春子は拒絶する。
すると、冬子は・・・
「もういいわ。あなたとは話が合わないわ。ねぇ、龍二、この子の一体どこがいいの?私には分からないわ」
「春子には春子のよさがある。多分俺が口で説明しても冬子には分からないと思う」
「そう。このまま話していても平行線ね。なら妥協しましょう。龍二、あなた、今回の海外勤務は諦めて。そうしてくれたら私はあなたのこと諦めるわ。私のおかげで夢が叶ったのだもの。私と別れるなら夢も諦めて。それがフェアだわ。言葉だけの謝罪なんて意味はないの。行動で示して」
冬子は俺を見つめる。
その表情は明らかに怒っている。冬子は自分の感情を隠すようなことはしない。
春子は心配そうにちらっと俺の顔をみる。
「それでいいのか?俺が今回の事を辞退すれば冬子は俺と切れてくれるのか?」
「えぇ。私は約束はやぶらないわ。あなたも分かってるでしょ。これでちゃらよ」
それは信頼できる。冬子の性格上、こういう約束は必ず守ると。
俺が夢である海外勤務を諦めれば冬子は俺から離れるだろう。
春子と存在と俺の夢。
そんなものは比べる必要もない。
俺の中ではずっと前から心が決まっていた。
もう迷わない。決断を引き延ばさない。
同じような間違いは起こさない。
俺にとって大事なものはもう手に入っているのだし、それを手放すことはしない。
過去に俺が起こした間違いや、それによって春子を傷つけた過去からも、俺は間違えてはいけないと思う。
春子が呑み込み、こらえてきた思いは決して無駄にしていいものじゃない。
どんなことがあっても俺は、それは守らないといけない物だと信じている。
答えは決まっていた。
「分かった。そうする。だからもう俺達の前には現れないでくれ」
「いいわ。必ず約束は守ってね。私がロスに行くからって変なことしても無駄よ。そうしたらあなたに必ず復讐するから」
「約束は守る。今回の件は辞退する」
「それじゃ。私は行くわ。龍二、あなたとの生活は楽しかったわ。それは本当よ」
最後に冬子は俺と春子を見て席を立つ。
机の上に千円札を何枚か置く。
俺たち全員分の会計代の様だ。
そして彼女は店を出て行った。
◆◇
二年後。
俺は海外勤務を辞退し、日本にいた。
スコット先生から冬子の話を聞いた。冬子はアメリカで上手くやっているようだった。彼女ならそれも当然だと思った。冬子には恩がある。そんな彼女に俺は悪い事をした。彼女から危うい事もされた。でも、俺は彼女の事は嫌いにならない。彼女には彼女の幸せを掴んでほしいと思った。俺は春子を選んだが、そう思った。
俺は春子と暮らしている。
春子との約束通り、俺が朝食を作り、部屋の掃除をする。
それはかかさない。
まったりと流れる緩やかな時間。
そんな心地よい空間の中で俺は春子と共に同じ時間を過ごしていく。その時間の積み重ねが俺と春子の境界線を緩やかにしていく。
冬子との一件で、俺と春子の関係は変わった。
これまではお互いに決して踏み込まなかった一線を徐々に崩していった。
俺は心に踏み込まれるのが嫌いだった。でも、それではだめだ。
自分が思っている相手の心なんてただの想像でしかない。
時には相手の心に踏み込み、自分の心に踏み込まれながらそれを共有していく必要が有ると思う。それが出来なければ人との関係など結べない。
春子ははじめその事に対して戸惑いを見せていたけど、徐々に適応していった。春子の内面を知ること、彼女が俺の心の中に踏み込んでくることによって、確かにストレスは感じる。でも、それは必要な事だと思うし、その事に嫌悪感は抱かなかった。
それに冬子との一件で春子の強さを知った。これまでは俺は春子を守らなければいけない存在と思っていた。彼女は外に対して無防備で弱い存在だと。でもそれは誤解だった。彼女の内面の強さを知ることで俺は彼女に頼るようになったし、彼女も同様だ。
お互いに助け合う事で、この関係をもっと長く深く維持していけると思った。
一人ではできないことでも二人なら乗り越えられると思った。
俺は海外勤務を辞退した。でも、夢は諦めていなかった。海外で働きたいという夢は心の中で持ち続けていた。
会社で海外勤務の募集があるということだった。一同受かって辞退した俺が受かる確率は低い。でも、俺はそれに応募しようと思っている。
春子と暮らしながらも、その次に夢を大事にしたかった。俺が海外勤務をあきらめた事を春子は気にしているようだった。顔や言葉には出さないけどそれは分かる。
だから、俺は次の海外勤務に応募した。
結果がどうであれ、俺は春子と共に過ごしながら夢を追いたいと思った。
春子と暮らすしながらも、夢は追うことはできると思った。
その夢が決して叶わなくても、春子と一緒に歩んだ時間が俺にとっては夢の様な時間だった。それさえあれば、何もいらなかった。何事にも中途半端だった俺は自分に誇りがもてた。俺は満足だった。
俺の心の隅に存在した「寂しさ」は気づくと消えていた。
それがなぜ消えたのか?
俺は春子の顔を見てそれに気づいた。
【春子√ END】
ここまでお読み下さりありがとうございます。
文章修練中のため、良点、悪点、違和感を感じた点など、ふとしたことでも遠慮なく書き込んで頂ければ嬉しく思います。ネガティブ評価でも構いません。今後に活かしたいと思っております。