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第四話 夏の海

 それは暑い夏の日のことだった。

 オレはその声を聞いた。

 『助けて』と。

 それは叫び声だ。

 悲痛で切実な、命を賭けた声。

 だが。

 オレは助けられなかった。


 一〇年前の今日。

 オレはアイツを失った。

 だからオレはここにいる。

 忘れないために。

 想い続けるために。


 *


 あれから一〇年が経つ。

 月日ってのはあっという間に過ぎていく。

 つくづくそう実感する。

 でもオレの中の『あのこと』は、昨日の出来事のように記憶に留まっている。

 防波堤から見下ろす海岸は、海水浴客でごった返している。

 これだけの人数だ。誰かが叫ぼうが喚こうが、きっと気にする人間はいないに違いない。

 オレはくわえたタバコに火を付けた。

 紫煙がゆっくりと周囲に拡散する。

 目を閉じれば思い出す。

 あの日のこと。

 あの声のこと。

 『助けて』と。


「くそっ」


 オレはまだ半分以上残っていたタバコを地に捨て、靴底で消した。

 ──いつまで悔やんでいる?

 それは答えなどない。

 誰も正解を持っていない。

 だからオレはここに来る。

 答えを探しに。

 ──いや。

 答えを求めて。


 *


「おじさん」

 やけに明るい声がオレの背中にぶつかった。

 おじさんか。

 っていやいや。

 オレはまだそんな歳じゃない。

 オレは振り返った。

 そこには中学生くらいの少年が何か不思議なモノを見るような目で突っ立っていた。

「……何の用だ?」

 初対面のガキに向ける言葉にしては、いささか乱暴だったかも知れない。

 だがこの日この場所で、オレに声を掛けてきたコイツにもその責任がある。

「おじさん、その花束」

 少年の視線は、オレの左手にある花束に向けられていた。

「それ、どうするの?」

 ──これだからガキってのは。

 海岸、夏、花束とくれば、大体想像出来るだろう?

 とはいえそれはこっちの理屈だ。

 この少年の疑問とは別問題だ。

「気にするな。お前にゃ関係ない」

 そうとも。

 オレはコイツの疑問を晴らす義務はない。

 オレは再びタバコをくわえようと、タバコのパッケージをポケットから引っ張り出した。

 空だった。

 ──コイツ、持ってないよな?

 どう見ても未成年。いや中学生くらいか?

 だが、今時のガキはどうだろうか?

 確かめる価値はある。かも知れない。オススメはしないが。

「なぁお前」

高梨祐一(たかなし ゆういち)

「あん?」

「僕の名前」

 どうやら自己紹介されたらしい。

 もちろん、そんなの知ったことじゃない。

「なぁお前、もしかしてタバコとか持ってねぇよな?」

「おじさんの名前聞いてないけど?」

 ──これだからガキってのは!

 オレは頭を掻きむしった。

 だが、いくら掻きむしってもタバコが出てくる訳じゃない。

 ここは大人らしく振る舞おうじゃないか。

「いいかガキ」

「祐一だってば」

「……」

 ダメだ。話が噛み合わん。

 オレは深呼吸した。そうでもしないと、目の前の少年を蹴っ飛ばしそうだったからだ。

「一度しか言わん」

「何を?」

江藤(えとう)だ」

「それが名前?」

「他に何がある?」

 オレは少年を睨み付けた。

 だが少年はそんなオレの視線など一向に意に介した様子はない。

 ケロリとした、表情の読めない顔をしたままだ。

「おじさんは『江藤さん』でいいのかな?」

 ここでオレは耳障りだった年齢設定を訂正した。

「オレはまだおじさんじゃねぇ。お兄さんだ」

「じゃ、江藤お兄さん」

「……江藤さんと呼べ。お兄さんなんてつけるな。気色悪い」

 オレは一体何の話をしてるんだ?

 気付けばすっかり少年のペースになっている。

 オレは再び深呼吸をした。

 オレはおじさんではないが、分別のある大人だ。ガキの言葉遣い程度で感情を揺さぶられるほど若くはないが。

「お前は一体オレに何の用が」

「だから祐一だってば」

「──」

 話が進まない。

 オレはため息をつき肩をすくめた。

「ああ、そうかよ。お前は祐一だ。それでいいんだな?」

「良かった、やっと名前で呼んでもらえた」

 少年はあからさまに安堵の表情を浮かべた。

 ──コイツは一体何の用事があってここにいるんだ?

 そもそもオレもなぜコイツと妙な会話しているんだ?

 ──仕切り直そう。

 オレはわざとらしく咳払いをした。

「で、祐一。お前は何でここにいる? 一体オレに何の用だ?」

「花束」

 祐一の端的で遠慮のない一言は、オレの古傷を抉るには十分な威力を持っていた。

「それがお前に関係あるのか? オレがここで花束持っていようと、ここに突っ立ってタバコ吸っていようと、お前に何か関係あるのか? 何か影響するのか? そもそも、オレがお前の疑問に答える義務はねぇ!」

 オレはガキ相手になんでここまでムキになっているんだ?

 そう思いつつも勢いは止まらない。

「一〇年だぞ! あの日から! たったの一〇年だ。昨日会った友人なんざ何の日だと言わんばかりな目でオレを見やがる。一緒にいたんだぞ? それで何で忘れられるんだ? オレには信じられねぇ!」

 オレは肩で息をしながら、少年──祐一を睨み付けた。

 この件に関して、祐一には何の責はない。それこそこっちの問題だ。

 だが。

 祐一の目は、オレの心中のどす黒い『何か』を吸い込むような、そんな色彩を放っていた。

「そっか」

 祐一は突然オレから視線を外し、海岸に目を向けた。

「一〇年前。大事な人が亡くなった。違う?」

 ──コイツっ!

 オレは瞬時に頭に血が上ったが、それを態度に表すほど若くはない。

 だから努めて冷静に、祐一の問いに応じた。

「……ああ、その通りだ」

「江藤さんは、それを悲しんでいる?」

 祐一がオレに向き直った。不思議な色の目をしながら。その瞳は、全ての感情を吸い込むような、そんな感触があった。

「……いや、悲しんじゃいねぇ」

「じゃあ、その花束は何?」

「今日がその日だからだ。誰かが覚えててやんねぇと悲しいだろうが」

 矛盾している。

 オレは、『悲しんでいない』と言いつつも『悲しい』と言った。

 オレは力なく、手に持つ花束をじっと見つめた。

「……あの日も今日みたいに良く晴れていた」

 オレは目を閉じ、過去へ遡った。

「ただ波が荒かった。台風が来ていた。でも、オレたちは海に出た。オレたちだけじゃない、今日みたいにたくさんの人が海水浴に来ていた。オレたちだけじゃなかったんだ……」

 オレは唇を噛み締めた。

 今オレの中にあるのは、後悔の念だ。

 あの時、あの声に気付いてさえいれば。

 いや気付いていたんだ。ただ手が届かなかったんだ。

 たらればではあるが、一〇年経った今でも、それを悔やまない日はない。

「でもそれは、江藤さんのせいじゃないでしょ?」

 祐一のその言葉からは感情はうかがえない。純粋な疑問から出た言葉に聞こえた。

「それに気付かなかったのは、皆一緒。江藤さんだけが悲しむのは変じゃない?」

 分かってる。

 そんなことは分かってるんだ。

 だがな少年(ガキ)

 それだけで割り切れるほど、世の中はシンプルじゃないんだ。

「いいか祐一。あそこを見てみろ」

 オレは人でごった返している浅瀬の海辺を指し示した。

「どれだけの人がいると思う? あそこに監視員だっている。きっとライフセーバーの連中だっているんだ」

 あの中で助けを呼んで気付かない訳がない。

 少なくとも当時のオレはそう思っていた。

「たまたまだ。波が荒くて、ビーチボートが沖に流された。でもそれはまだ見える範囲だった。だからオレたちは安心していた。きっと他の連中もそうだったろうさ」

 オレは誰もいない沖を見た。

 漁船が一隻、のんびりと浮いていた。

「そこに二メートル程の大波が来た。もちろん、そんなのは潜るか波に乗るかすれば大したことはない。だがあの時は違った。一緒に流れて来た木片がビーチボートを直撃したんだ」

 目を閉じればその光景が浮かび上がる。

 木片が突き刺さったアイツの足、流れる血、沈みゆくビーチボート。

 そして。

 叫び声。

 助けて、と。

「誰も悪くはない。偶然でしかない。だが確実に言えるのは、そこにいた全員がそれに気付いても何も出来なかったことだ」

 オレは左手に持つ花束を握りしめた。

 爪が痛みを伴って掌に食い込んだ。

 だがこんな痛みは、アイツを襲ったことに比べればないも同然だ。

「でも江藤さんは、助けようとした」

「ああそうだ。オレはアイツを助けようとした。だがオレも大波に飲まれた。で、次に見た時アイツの姿は、もうなかった」

 爪が食い込んだ掌から液体が滴る。赤い液体。あの時のアイツからも流れ出たに違いない──血。

「オレは探したよ。だが波が荒くて、思うようにそこに辿り着けないんだ」

 オレは目を閉じた。

 浮かび上がるあの時の光景。

 襲いかかる連続した大波。それに翻弄されるビーチボート。

「藻掻いたさ。それこそ必死にな。でも一ミリも進まないんだ。手で水を掻き、足で水を蹴っても前に進まない。あれはそう──悪夢だ。気が狂いそうだったよ」

 沈みゆくビーチボート。そこにはアイツの姿はない。

 伸ばせば届きそうな距離。

 だが届かない。

 足が、手が、体が鉛のように重く、思うように動かない。

「さっきまで目の前にいたはずのアイツが一瞬で消え失せ、海面に浮かぶ赤い血を見たオレは、オレは……」

 口が動かない。

 言葉が出てこない。

 ただ、花束を持っているはずの掌が熱い。火傷をしたように熱い。

 祐一は、黙ってオレを見ていた。

 気のせいかも知れないが、その目には『悲しみ』が宿っているように見えた。

「……気がつけば、オレは浜辺に寝かされていた。気を失っていたんだ。ここに」

 オレは自分のこめかみを指差した。八針も縫った大怪我だ。まだ傷跡が残っているはずだ。

「ここに木片が当たってな、気絶したらしい。そんなオレを友人たちが必死で引っ張り上げたそうだ。だがオレにとっちゃそんなことはどうでも良かった。アイツがいない。目の前で波に飲まれたアイツがいない。それに気付いたオレは、その時どうしたと思う?」

 少年に尋ねる内容じゃないのは分かっている。

 でも、なぜかコイツになら言ってもいい。そう思った。

 祐一は答えなかった。

 替わりに、無垢な目でオレを見上げた。

「……オレは錯乱したそうだ。良くは覚えていないが、何人かを殴り飛ばしたらしい。未だに友人連中から恨み節を言われるが、そんなのは大したことじゃない」

 掌が熱く脈動する。

 だがそれは、オレが生きている証拠だ。

「それが江藤さんの『忘れられないこと』?」

「ああそうだ。オレにとって、それは決して『忘れられないこと』になった。だからこうしてここにいる。毎年、この日、ここに来る。花束を持ってな。これが答えだ。満足したか?」

 オレは挑むような視線を祐一にぶつけた。

 だが祐一は、その視線を真っ向から受け止めた。

「会いたい?」

 ──何だと?

 今、コイツは何と言った?

 ──会いたい、だと?

「お前……今なんて言った?」

 オレは祐一に詰め寄った。

「江藤さんは、その人を助けらなかったことをずっと悔いている。悲しんでいる。違う?」

「……ああ、そうだ」

 オレはもう感情を隠せなかった。

「そして一〇年もその思いを持ち続けている。そうでしょ?」

 オレは答えなかった。

 それは口に出来ない。

 もし口に出せば、オレの一〇年が崩れてしまう。そう思ったからだ。

「だからさ」

 祐一はそんなオレの胸中など知ったことではないという風に、言葉を紡ぐ。

「僕はその感情の『重み』を知りたい。『深さ』を知りたい。それなら、江藤さんをその人に会わせてみよう。そう思ったんだよ」

「な、何だと?」

 コイツ一体何言ってんだ?

 アイツに会わせる?

 オレを?

 そんなこと、正気の沙汰じゃない。

 そんなこと、出来るはずがない。アイツはもういないんだ。

「江藤さんが望むのなら。僕にはそれが出来る」

 オレの望みだと?

 違う。

 オレはそんなの望んじゃいない。

「僕に出来ること。江藤さんが望むこと。答えは単純だよ」

 ──単純だと!

 オレは感情を爆発させた。

「てめぇっ!」

 オレは祐一の胸ぐらを掴み、乱暴に揺さぶった。

「オレをからかって何が楽しい! 死んだヤツは生き返らねぇんだよ! アイツはもういないんだ! それを『会わせる』だと? ふざけるなっ!」

 祐一は黙ってオレにされるがまま揺さぶられていた。

 まるであの時の大波のように。

 ──あん?

 オレは何かに違和感を覚えた。

 揺さぶっていた手が止まった。

 祐一がオレの手を掴みオレの動きを封じていた。子供の力ではなかった。

「お、お前何を」

 見ると、祐一の目の色が(くら)く沈んだ赤色に染まっていた。

 何だ?

 その奥にある『力』は何だ?

 オレはその目から発せられる強烈な『力』に圧倒され、その場にへたり込んだ。

「江藤さん。まだ『気付かない』?」

 ──何?

 オレは違和感の正体を知った。

 風の音がしない。

 波の音もしない。

 海水浴客の喧噪も、照りつける太陽も、鮮やかな色彩を放っていた夏の青い空も、その一切が動きを止めていた。

 ただ。

 一つだけ。

 『ビーチボート』だけが、そしてその上に乗っているアイツだけが、まるで切り取られた写真のように明瞭に俺の目に飛び込んできた。

「ゆ、祐一、お前」

 何をしたんだ?

「一〇年前。今この場所は、一〇年前に戻った。江藤さんの感情の元になっている『あの時』に戻した」

 ──何だと?

 オレは耳を疑った。

 一〇年前に戻しただと?

 オレは彩度を失った浜辺を見た。

 そこには、沢山の海水浴客がいたが、誰も言葉を発せず、動きもしない。

 ──これは何の冗談だ?

 オレは力なく浜辺に足を踏み出した。熱いはずの砂からは何も感じない。

 さく、さく、と歩を進める。

 アイツがいるその場所へ。

 止まったままの波に足が触れる。

 何も感じない。

 そのまま海に入る。

 それでも、何も、夏の暑さも、水の冷たさも、何も感じない。

 海水の抵抗を感じつつ、アイツの元へ突き進む。

 そこは既に足が届かないはずだが、なぜか前に進める。

 そして。

 オレはアイツの目の前に辿りついた。

 一〇年前は辿りつけなかったあの場所に。

 目の前には、鮮やかな赤のビーチビート。

 そしてその上に乗っている、アイツ。

 俺の目から、熱いモノがあふれ出る。

 今なら出来る。

 一〇年前は出来なかった。

 オレは手を伸ばした。

 そして『触れた』。

 アイツの手に。

 刹那。

 世界が暗転し、オレは闇に放り出された。

 その瞬間。

 オレは確かに聞いた。

 アイツの声を。

 『ありがとう』と。

 『助けようとしてくれて。覚えていてくれて』と。


 *


 気がつくと、オレは防波堤の上に突っ立っていた。

 さっきまで海の中にいたはずの体はどこも濡れていない。

 ──夢、なのか?

 オレは思い出したかのように辺りを見回した。

 あのガキ、いや祐一はどこにいった?

「おい、祐一?」

 返ってくるべき声はない。

「どこに行った? 祐一!」

 探すべき姿がない。

 ほんの数分前まで会話していた相手が忽然と消えた。

 感情を爆発させた相手が消え、オレはアイツに『会い』、『声を聞いた』。

 この手に残る感触は本物だ。オレは確かにアイツに『触れた』。

 だが今はどうだ。

 照りつける太陽はじりじりとオレを焦がし、周囲は海水浴で賑わっている。

 見上げれば、夏の青い空がどこまでも広がっている。

「これは一体何の冗談だ?」

 オレは気を落ち着けようとタバコのパッケージをポケットから引っ張り出した。

 中は空だった。

 オレはタバコのパッケージを握りつぶし、そしてあることに気がついた。

 花束がない。

 手に持っていたはずの花束がなくなっていた。そして血が滲む程握りしめたはずの掌の傷も消えていた。

 ──そんなバカな!

 オレは直観に従って、沖に視線を向けた。

 それにはある確信があった。

 じっと目を凝らす。

 そして『見つけた』。

 そこにはオレが持っていた花束が、波間に漂っていた。

 まるで、アイツがそこにいるかのように。

 同時に、オレの中でずっと重く沈んでいた感情が、軽くなっていることに気がついた。

 そして、心の中で『あの声』が蘇った。

 『ありがとう』と。

 『助けようとしてくれて。覚えていてくれて』と。

「そうか……」

 アイツはもう許してくれていたのか。

 助けられなかったこと。

 手を差し伸べられなかったこと。

 オレがずっと悔いていたこと。

 それらを全て許してくれていたのか。

 ──いや。

 今見たこと、聞いたことは、夢なのかも知れない。

 それは単にオレの願望に過ぎない、都合のいい夢なのかも知れない。

 ──でも。

 手に残る感触は、紛れもなく本物だ。

 オレは確かにアイツに『触れた』はずだ。

「お前がオレを許してくれても、オレはオレを許せないんだ。だがな」

 一〇年前。

 そして今。

 そして、数分前の出来事。

 果たして夢だったのか、現実だったのか判然としない出来事。

 だが。

 これだけは言える。

「『ありがとう』は、オレの台詞だ」

 ──そうだろう?

 オレは、ただただ防波堤の上に佇み、我が手を見つめていた。

 答えは返ってこない。

 だから来年もここに来るだろう。

 それは答えなどない、無限のループだ。

 いくら繰り返しても、誰も納得も、理解も出来ない。

 誰も正しい答えを持ち合わせていない。

 だからオレは、またここに来る。

 答えを探しに。

 ──いや。

 答えを与えに。

 そして、忘れないために。

 そして『ありがとう』と伝えるために。


 *


「人が人を想う気持ち。それは生半可なモノじゃない。それは一〇年という時間を経ても色あせない。江藤さんの心の奥底にはそれが焼き付いているんだね」

 祐一はそんな江藤の背中を見つめながらそう呟いた。

「本来なら代価を支払って貰うんだけどね。今回はサービスだよ。タバコを用意出来なかったしね」

 祐一は江藤に背を向け、ゆっくりと歩き出した。

「それに人間の心の深さや重み、それと長い時間を経ても色あせない感情。人間が持つ本質が分かったような気がするよ──ありがとう」

 その呟きと共に、歩を進める祐一の姿は音もなく消えた。

 まるで、そこに何もなかったかのように。


 *


 祐一は、色彩のない空間に漂っていた。

 そこに『声』が響く。


 どうだい? もう十分じゃないかな?


「いや──まだ、だと思うよ。人間の感情って喜怒哀楽で表せる程シンプルじゃない。しかも圧倒的なんだ。時間の流れをも凌駕する」


 へぇ。


「一〇年や二〇年なんてのは、僕からすれば大した時間じゃないけど人間にとっては貴重な時間だ。それを他の人間のために費やせる。それがその人にとって大事な人間なら尚更だ」


 そっか。じゃあまだまだだね。


「そうだね。まだまだだね」


 でもね。


「うん?」


 前も言ったけどさ。


「何をさ」


 忘れたのかい?


「僕が?」


 そう。


「忘れるなんて、それじゃまるで人間じゃないか」


 そうだね。人間そのものだよ、それじゃ。


「そうさ。君が言いたいのは時間のことだろう?」


 そう。時間は無限じゃない。君は気にしないかも知れないけどね。


「まさか。僕だってちゃんと気にしているよ──そろそろなんだろう?」


 分かってるじゃないか。

 そうさ。もう君に残された時間は少ないんだ。


「でもゼロじゃない」


 そうだね。ゼロじゃない。


「でも、もうじきゼロになる」


 そうだね。でもそうなったら、きっと君は人間を知るどころじゃなくなる。


「……分かってるよ。いつまでもこんなことは続けられない。それに、貴方がそう言うってことは、既にいるんだろう?」


 察しがいいね。


「僕を誰だと思ってるんだい?」


 はは。そうだね。それは失敬。


「ふん……それにしても、僕たちの世界は何てシンプルなんだろう」


 シンプル?

 そうかい?


「そうだろう? 僕がいなくなれば替わりの存在が姿を現す。開いた穴を埋めるようにね。これをシンプルと言わずに何と言ったらいいかな?」


 ああ、そうだね。


 その言葉が最後だった。

 祐一がいた空間は徐々に薄れ、白み、やがて消え失せた。


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