第一話 公園にて
夕刻。
太陽が徐々に光を失い、夕闇に取って替わる刻。
俗に逢魔が時と揶揄される時間帯だ。
季節は衣替えの頃。午後五時を回ってもすぐには暗くはならない。
だが年期の入った公園の照明灯達は、決まった時間だと言わんばかりに一斉に点灯を始める。まだ充分に公園を見渡せるにもかかわらずだ。
「これって電気の無駄遣いじゃないかなぁ」
人気のない公園では、高校生らしき女の子、矢作亜由美が、一人寂しくブランコを漕いでいた。
ブランコが往復する度、茶色がかった長い髪が棚引く。
この公園は、亜由美の通学路の途中にある。
亜由美の家から約一〇分程度。
住宅地の中にあり、ちょっとした散歩のついでに立ち寄れる。
見通しも良く、遊具も多いことから、子供の貴重な遊び場や、周辺住人の憩いの場として重宝されていた。
そのため、普段は小学生やその保護者がいる。高校生の亜由美としては何となく入り難かった。
それが今日に限って誰もいない。
だから何となく公園に足を踏み入れ、何となくブランコに乗ってみた。
久し振りだった。
ブランコ担当の古びた照明灯は、消えかけたり、ゆっくりと明滅したりで落ち着きがない。蛍光管の寿命が近いのかも知れない。
それを見ながら、亜由美はただただブランコに揺られていた。
──もう一〇年も経つんだなぁ。
幼い頃、休日の度に父に頼んで連れて来てもらったこの公園。
仕事で忙しかった父親との数少ない接点の一つだった。
そんな父は、一〇年前にこの公園で亡くなった。
以来この公園に足が向かない。小学生がいるからなんてのは言い訳だ。
どうしても思い出してしまう、父の大きな手。
思い出してしまう。
あの時起きた出来事を。
──私が我がままを言わなかったら。
それを思い出して涙ぐむ事はなくなったが、それでもまだ、ちくりと心が痛む。
「ねぇ」
やにわに少年の声がした。
声変わりしていない幼い声色。成熟していない小柄な体格。色素の抜けた明るい髪の毛。中学生だろうか。
そんな少年が亜由美の隣に立っていた。
「隣、空いてる?」
少年は二つあるブランコのもう一方を指差した。もちろんそこには誰もいない。
「え? ええ」
亜由美は戸惑った。
──さっきまで誰もいなかった……よね?
亜由美がここに来たとき、確かに誰もいなかった。
何よりも、こんなに近づくまで少年の存在に気付かなかった。
──幽霊とかが出るような時間じゃないわよね。
まだ夕闇に支配されていない公園では、遊具の輪郭がはっきり見える。
古びた滑り台、古びたシーソー。
それらは確かに古びているが、まだまだ現役だ。
「このブランコ、古いよね」
その少年は訝しがる亜由美を横目に、隣のブランコに立ち乗りし、勢い良く漕ぎだした。
古びたブランコは、抗議の声を上げるかのように、ぎしぎしと音を立てた。
今にもチェーンがはじけ飛びそうだった。
「お姉さんはさぁー」
少年は勢いに乗ったブランコに揺られながら、亜由美に声をかけた。
「今、悲しんでたでしょ?」
唐突だった。
「な、何よいきなり?」
「だからさ。──よっと」
少年は、勢いがついたブランコのチェーンから手を離し、宙に舞った。小学生男子が良くやる技だ。勢いをつけたブランコから飛び、その飛距離を競ったりするのだ。
亜由美も記憶の端で、似たような光景を思い浮かべていた。
ところが。
「へ?」
少年は砂地ではなくブランコを囲っている鉄パイプの上に綺麗に着地した。あまりにも身軽で、重力を感じさせない身のこなしだった。
これには亜由美も驚いた。
少年はそんな亜由美を気にする風でもなく、細い鉄パイプの上をとんとんとんとリズミカルに歩き、亜由美の目の前で立ち止まった。
「お姉さんは今、お父さんの事を思い出していた。それで悲しんでいた」
「──!」
亜由美は答えられなかった。
まさに今、亜由美は亡き父の事を想い、少年が言ったように『悲しんでいた』からだ。
「そ、そんな事ない」
「顔に出てるよ」
「え?」
亜由美は思わず両手で頬を覆った。もちろん両手くらいじゃ顔は隠れない。気持ちの問題だった。
「お姉さん、正直者だね」
「あ、あのねー」
からかわれたと知り、亜由美は攻勢に出た。
年下の男の子にからかわれたとあっては、現役女子高生の名が廃る。
「私は『お姉さん』じゃなくて、ちゃんと名前があるの」
「へぇ?」
「へぇ?」
亜由美は疑問形で聞き返した。
ここで怯んではいけない。
亜由美は、きっ、と少年を睨み付けた。
「普通男が先に名乗るもんじゃない? 初対面でしょう?」
「そうなのかな?」
「そうなの! だから先にあんたの名前を言いなさいよ」
亜由美は胸を反らし強気に出た。威嚇したという表現が近いのかも知れない。
さぁ、とっとと自己紹介なさい。話はそれからよ。
そう言わんばかりな態度だった。
ところが。
少年は表情一つ変えず、口も開かない。
無情にも時間は過ぎ去り、やがて一分が経過した。
少年は相変わらず好奇心に充ち満ちた目で、亜由美を見つめ返していた。
年の差こそあれ男女が見つめ合うこの状況。どこかの誰かが大きな勘違いをしそうだ。
──何よこれ。何なのよこの雰囲気は……。
亜由美はこのどうしようもない雰囲気をどうにかしようと考えた。考えたが何も思いつかなかった。
結局。
亜由美が先に折れた。
「ええとね」
「うん」
「初対面だから、まず最初は自己紹介だと思うのよ」
やんわりと言ったつもりだったが、実際の口調はかなり刺々しかった。
だが少年はそんな亜由美の態度など意に介さず、これまたやんわりと応じた。
「そうだね」
「で、私があんたに名前を聞いたわけ。ここまではいい?」
「うん、合ってる」
「ああ、良かった。言葉が通じてないかと思ったわ」
亜由美は大げさに胸を撫で下ろした。
「で、あんたはそのまま黙って突っ立ってるだけ」
「まぁ、座ってはいないね」
少年は器用に鉄パイプの上でバランスを取っていた。
「ああもう!」
亜由美はそもそも我慢強い女の子ではない。どちらかと言えば短気だ。
「私は矢作亜由美。高二。こう見えても書道初段」
その上一言余計だった。
「うん、分かった。亜由美って呼べばいいんだね?」
「年上を呼び捨てにしない!」
「年上?」
「あんた中学生でしょ?」
「ええと、そうかな?」
少年は首を傾げた。
「それなら少なくとも二つは私の方が年上。ちゃんと礼節を持って対応なさい」
少年はどうにも理解出来ないと言った表情を作った。
「何よ、文句あるの」
「いえいえ。滅相もない」
少年は鉄パイプに立ったまま、器用に頭を振った。
「で、お名前は?」
「僕の、だよね?」
「他にどなたがいらっしゃるのかしら?」
亜由美の我慢の限界は近そうだった。
少年は観念したように肩をすくめた。
「そうだなぁ……高梨、高梨祐一でいいよ」
「何その他人みたいな言い方」
「そうかなぁ?」
祐一と名乗った少年は、一向に飄々とした態度を崩さない。聞いているのかいないのか分からない態度だ。
結局亜由美が折れるしかない。なぜなら亜由美は短気だからだ。
「まぁ、いいわ」
「そりゃどうも。よっと」
祐一は鉄パイプから砂地に飛び降りた。
「それで亜由美お姉さんは何で悲しんでいたの?」
「それは……」
亜由美を見る祐一の目には、純然たる好奇心が宿っていた。人の心の中を見透かすような透明感。亜由美は何かを言い返そうとしたが、その目に気圧され押し黙ってしまった。
夕闇が迫り、公園の照明灯が徐々にその存在感を示し始めた。
静かだった。
今公園にいるのは亜由美と祐一だけだ。
それ以外何の気配も音もない。
まるで世界から切り離されたような、そんな感覚が亜由美を襲った。
「ねぇ、亜由美お姉さん?」
「え? あ、ええと何だっけ?」
「何を悲しんでいたのか」
「え? ええと、そうね」
亜由美は一呼吸間をおいた。
「私のお父さんね、ここで倒れたの」
何で自分はこんな事を話しているんだろう。初対面の、しかも年下の男の子に。
でも。
もう亜由美の口は止まらなかった。
「急に倒れて。私がいくら呼んでも答えないの。動かないの。そのうち救急車が来て、病院に運ばれて……」
亜由美の頬を熱い物が伝った。
──あれれ? おかしいな。もう泣かないって決めたはずなのに。
お父さんとの思い出は、自分の中でちゃんと整理したはずなのに。
一〇年かけて厳重に蓋をして、その上からまた蓋をして積み上げて来たはずなのに。
それを見ていた祐一は、静かにこう告げた。
「亜由美お姉さんは、それで悲しんでいたんだね」
「違う! 悲しんでなんかいない!」
即座に反論したその声は震えていた。
「もうお父さんはいないの! もう悲しくなんかない! そうしないと、そうしないと……」
最後は言葉にならなかった。
亜由美の嗚咽だけが公園に悲しく響いた。
祐一はそんな亜由美をじっと見ていた。
まるで時が止まったかのようだった。
その静寂を、祐一の一言が動かした。
「その『悲しみ』は、『辛い』?」
祐一の声は穏やかだったが冷徹な透明感があった。
「……辛くなんかない」
「じゃあ、『苦しい』?」
「苦しくなんかない! 何よあんた! 私の何が分かるってのよ!」
亜由美は顔を上げ、祐一を睨み付けた。
「あんたに何が分かるの? お父さんは休みの日はいつもここに連れてきてくれた。遊んでくれた。楽しかったの。嬉しかったの。だからお父さんがいなくても苦しくも辛くもない。そう決めたの」
一〇年間。
亜由美はこの感情が表に出ないように、時間をかけて心の奥底にしまい込んできた。
泣いてしまわないように。
悲しまないように。
自分が悲しむ事で『お父さん』が心配しないように。
「そっか」
祐一は穏やかな笑顔を浮かべた。
「亜由美はお父さんが大好きだったんだね」
それは優しく諭すような声。
亜由美はもう抗えなかった。
「……そう。私はお父さんが大好きだった。だからお父さんがいなくなっても辛くなんかない。苦しくなんかない。悲しくなんかない……」
──私が悲しめばきっとお父さんが悲しむ。
それは亜由美が自分で『決めた』事だ。
遺された者として、時間をかけて決めた事だ。
「それで、心の奥にそれを押し込んだんだね」
「……うん」
「亜由美は優しいんだね」
優しい?
──私は優しい? 誰に対して?
「会わせてあげようか?」
祐一のその言葉は、亜由美の理解が追いつかない。
「え? 会わせる? 誰に?」
「亜由美のお父さんに」
祐一の飄々とした口調に変化はない。
亜由美はその言葉の意味を図りかねた。
『会わせてあげようか』と祐一が言う。
──誰に?
『お父さんに』と祐一は言う。
そんなバカな話はない。
死んだ人間に会えるはずはない。
それでも聞かずにいられなかった。
「お……お父さんに?」
亜由美は、怖ず怖ずと祐一に尋ね返した。
対する少年は、何食わぬ顔で応じた。
「そう。亜由美のお父さんに会わせてあげるよ」
祐一の表情は相変わらず飄々とし感情が読めない。どこまでが本当なのか。亜由美には判断出来なかった。
だが。
「僕にはそれが出来る」
祐一と名乗った少年はその存在感を増し、圧倒的な言葉を亜由美に投げかけた。
「……本当に?」
「僕は嘘はつかないよ。ただ、その替わりに」
「替わりに?」
「その思い出を貰う」
「え?」
「亜由美をお父さんに会わせてあげる。でも代価が必要なんだ」
「代価」
「亜由美のお父さんは、一〇年前ここで亡くなった。そして亜由美はその事を今でも悲しんでいる。そして悔やんでいる──あの日、ここに連れてきて貰わなければ……」
「やめて!」
亜由美は叫んでいた。
「あの時、ここにお父さんといなければ」
心の中を鷲掴みにされたような感覚が亜由美を襲った。
「お願い! それ以上言わないで!」
亜由美は両手で耳を塞いだ。
だが祐一の言葉を遮る事は出来なかった。
「苦しく、辛い時間を過ごす事はなかった」
──やめて!
「その思い出を引き替えに、お父さんに会わせてあげるよ」
その言葉は、甘美な響きをもって亜由美の心を揺り動かした。
あの日、一〇年前の今日。
ちょっと体調が良くないと言っていたのを、自分が無理矢理引っ張ってこなければ。
もしかしたら。
我がままを言わなかったら。
ずっと悔やんできた、辛く苦しく悲しい思い出。
それがなくなるのなら。
「……本当に?」
亜由美が確認を求める。
だが祐一はそれを突き放す。
「決めるのは亜由美だよ。僕じゃない」
「決める……私が、決める……」
──何を決めるの?
「お父さんに会いたいんでしょ?」
「会いたい」
「その辛く苦しい思い出と引き替えだけど、それでいい?」
「……うん」
亜由美はゆっくりと、それでいて確かな意思を示した。
「──分かった。ちょっと離れてて」
「何をするの?」
「それは見てのお楽しみ」
亜由美は訝りながらも、二、三歩祐一から離れた。
祐一はそれを見て軽く頷き、両手をゆっくりと天に向けた。
体が燐光を帯び、夕闇が祐一の周辺だけ消え去った。
目に見えない『力』としか言いようのない何かが、祐一から放たれる。
その光景は、亜由美には光の輪が拡がっていくように見えた。
そして。
その光の輪は急速に収束し、天に向かって駆け登った。
天と地が繋がった。
それは光の柱だ。
ゆっくりと明滅する光の柱。
ややもすると、そこから『何か』が降りてきた。
──人の形?
光の中には、確かに人の形をした『何か』があった。
輪郭ははっきりとしない。でも、どこか見覚えのある人の形。見覚えのある大きな手。
──手、あの手は……。
「おとう、さん?」
亜由美のつぶやきに呼応するかのように、その『何か』が動いた。
明らかに亜由美の声に対しての反応だった。
「お父さん!」
亜由美は立ち上がり、衝動的に駆け寄ろうとした。
「ちょっと待った」
鋭い祐一の声が、亜由美の全ての行動を封じた。亜由美は足が砂地に縫い付けられたように貼り付き、そこから一切の身動きが出来ない。
──何よこれっ!
「何よ! 何をしたの?」
「まだだよ。まだ亜由美は『契約』を果たしていない」
「け、契約?」
「そう。僕はまだ代価をもらっていない。先払いなんだよ、これは」
「いいわよ、どうやって払えばいいのか分からないけど、早くして!」
亜由美は、光の柱を食い入るように見つめていた。
「いいんだね?」
祐一の凜とした声が、静かに周囲に拡がった。
これはそう──契約だ。
思い出と引き替えにする事で手に入れるモノだ。
手に入れる。
──何を?
亜由美の脳裏に疑念が浮かんだ。
──私は何を手に入れるの?
祐一は『契約』だと言った。
──お父さんを手に入れる? どうやって? 契約って何?
「もう一度聞くよ。『いいんだね』?」
亜由美は、祐一の声で冷静さを取り戻した。
──私は一体何をしようとしているの?
目の前で起きている出来事はあまりに突飛だ。
既に死んだ人間をどうやって手に入れるというのか。
しかもそれには代価が必要だと言う。
そしてその代価は、亜由美のお父さんとの『思い出』だと言う。
それが『契約』だからだ。
──お父さんを手に入れるために、私はお父さんとの思い出を失うの?
矛盾している。
亜由美の関心が、徐々に光の柱から離れる。
──違う。
亜由美は目の前の光景を否定した。
──お父さんはもういない。それに思い出がなくなったら、私はお父さんの存在すら否定してしまう。
亜由美はお父さんが大好きだった。
でもお父さんは一〇年前にこの世を去った。
それが現実だ。
お父さんの思い出と引き替えに手に入れる『モノ』は、きっとお父さんではない。違う『何か』だ。
今亜由美が立っている世界は『現実』なのだ。それはお父さんが『いない』世界だ。
だから答えは『分かっていた』。
違う!
そんな事、私は望んでいない!
亜由美がそう心の中で叫んだ瞬間。
亜由美を縛り付けていた、得体の知れない力が消え去った。同時に光の柱も消滅した。その中にいた『何か』も。
亜由美は体中の力が抜け、その場にへたり込んだ。
「……一体、何が……」
「大丈夫?」
祐一がゆっくりと歩み寄ってきた。
「な……なんとかね」
亜由美は、目だけ祐一に向けた。
「さっきのは何なの? あんたは一体誰?」
「質問が多いね」
祐一は肩を竦めた。
「僕は高梨祐一で、さっきのは亜由美の『お父さん』になるはずだったモノ」
「お父さんになる、モノ?」
「そう。亜由美から貰う思い出から創り出すはず、だったんだけどね」
祐一は天を見上げた。
「亜由美は『現実』を選択したんだね」
「現実……選択……?」
「亜由美のお父さんとその思い出。悲しく、辛い、苦しい現実。人間が選択するのは『実態』じゃなく『現実』なんだね」
──現実。
亜由美は自分の手を見た。
そこには数粒の砂がこびりついていた。
それを見て初めて、自分が砂地にへたり込んでいる事を知った。
──そっか、これが現実なんだ。
亜由美は立ち上がった。
そして祐一に向き直った。
「そう。あんたが何者なのかは分からない。どうやってお父さんと会わせてくれるつもりだったのかも分からない。でもこれだけは言える」
「うん」
「お父さんの思い出は、あんたの言う通り辛いし苦しい。それに悔しい。でもこれが現実。私とお母さんは、それを受け止めて一〇年間生きてきた。でもそれはお父さんそのものなの。何物にも代えられないの」
「あんた、じゃなくて祐一」
「え?」
亜由美は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。話題が急に飛んだからだ。
「名前だよ。高梨祐一。僕の名前」
「ああ、ええと、祐一ね。そうね」
「亜由美お姉さんの言う通りだと思うよ。さっき亜由美お姉さんが『お父さん』を選択したら、その思い出はきれいさっぱりなくなる。でもそれは違うんだよね、きっと」
「そう。違うわ。私のお父さんは、思い出も一緒じゃないとお父さんじゃない」
「うん、理解したよ。ありがとう、矢作亜由美さん」
そう言うと祐一は、パチンと指を鳴らした。
次の瞬間。
祐一は姿を消していた。
「え? ええ? ええええええ!」
亜由美は何が起こったのか理解出来ない。
慌てて回りを見渡すが、公園には自分以外誰もいない。
にわかに遠くから雑踏が聞こえ初めた。さっきまであった静謐な雰囲気が消えていた。
見回すと、公園の古びた照明灯たちは、何事もなかったかのように明滅していた。
世界が戻った。
「……一体何だったの……」
亜由美は呆然と立ち尽くした。
今まで起きた事は一体何だったのか。
今までそこにいた少年は一体どこに行ったのか。そもそも本当に『そこ』にいたのか。
急に現れて急に消えて。
いくら考えても分からない。理解出来ない。
その時救急車のサイレンが遠くから聞こえた。
その音で亜由美は、この世界が『現実』なのだという事を思い出した。
現実に戻った亜由美は、早速短気ぶりを発揮した。
「何だったのよ、アイツは!」
言いたい放題で大事な思い出を掻き乱され、亜由美の心の奥底まで入り込んで。
亜由美はスカートについた砂を乱暴に払い落としながら悪態をついた。
だが亜由美の表情は、その言葉と裏腹に穏やかだった。
「っとに変なヤツ。まぁ、でも、お礼言いそびれちゃったな」
一〇年前の今日。
父が亡くなった日。
ずっと蓋をしてきた辛く苦しいその思い出は、それもひっくるめて私のお父さんなんだ。
──思い出させてくれて、気付かせてくれて。
「ありがとう」
亜由美は誰にともなく呟くようにそう言った。
*
「聞こえてるけどね」
高梨祐一と名乗った少年は、宙から公園を見下ろしていた。
「変なヤツとは失礼な。でもまぁ、収穫はあったかな」
そうかい?
「あったさ。人間の思考。思い出の先にあるモノ。思い出から生じるモノ。面白いね、人間って」
見つかりそうかい?
「んー。まだだね。でも、喜怒哀楽を思い出に閉じ込めて、それを抱き続ける。これって膨大なエネルギーが必要だと思う。人間って凄いよね。どんなことでも『思い出』という『カプセル』に入れて持ち続けることが出来るなんてさ」
ふうん。そういう見方もあるかな。
「そうさ」
でも、まだ足りないんだろう?
「そうだね。まだ足りない。これだけじゃ人間を理解したとは言えないよ」
少年は再び指を鳴らした。
少年はその姿を消し、夕闇が辺りを支配した。
ブランコ担当の照明灯は、亜由美が公園から出ると同時に、静かにその使命を終えた。
まるで、亜由美がここに来て去るまでの間を見守っていたかのようだった。