13 エンドロールは魔女とともに
魔法特区から脱出するための魔法など、もともと想像もつかなかった。だが、それにしても、桐島御影が用意しておいた解答は、あまりにも予想外だった。
「記憶の抹消……? どういうことだ」
動揺を押し隠して、丈は尋ねる。
「そのままの意味よ。別に魔法特区はバカ高い壁に囲まれているとか、そういうわけじゃない。魔法特区を抜けられないのは、物理的障害のせいではなく、システムとかルールとか法律とか、そういう障害のせい。魔女の血を引く者は、魔法特区から出てはいけない――なら、魔女の血を引いていなければいいの」
「だが、俺は現に魔女の血を引いている」
「だから、その記録・記憶を消す。魔法が発動すれば、あなたは自分を魔女の子だとは認識しなくなるし、私も、阿澄さんも、あなたのお姉さんたちも、あなたが魔女の子だという事実を忘れる。そういう記録もすべて消える。あなたは、魔女の血を引いていない人間である、というふうに認識される。魔法特区内における、魔女の血縁か否かの判断は、自己申告、出生届、魔法使用の実績等々の記録類から判断される。目で見て、『この人は魔女だ』『この人は魔女じゃない』って判断してるわけじゃない。データベースに登録があるかどうかだけが判断材料。その記録を、全部吹っ飛ばす。それで全部解決……っていうのが、御影の提示した魔法」
「ちょっと待った。それは、だって、無理だろう。他人はともかく、自分や家族の記憶は、そう簡単にはいかないだろう。姉さんたちは魔女なのに、同じ母親から生まれた自分は魔女の血を引いていないと認識するのは無理がある」
「そういう齟齬、矛盾も発生しないように……そもそもあなたは、四葉ちゃんたちと姉弟であるということ自体、忘れることになる」
「……!」
丈は瞠目する。声が震えそうになった。
「……全部忘れてしまえば、置いて行っても、置いて行かれても、誰も不幸にはならないって、そういうことか?」
「そういうことになるわね」
邦子は迷いなく断言した。
丈は大きく溜息をつく。手に持っていた鍵を、テーブルの上に置いた。手放すことに、躊躇いはなかった。
「使うかどうかはあんたの話次第と言っていたが……迷う余地はなさそうだ。そういう話なら、俺は使わない」
御影が提示した魔法、確かにそれは、一つの方法かもしれない。忘れてしまえばそれでいいというのも、一つの考え方。だが、それは少なくとも、丈にとっては正しくない方法だ。
丈は阿澄を見遣る。丈の選択は、阿澄より家族を選んだ、阿澄を裏切るようなものに思われたかもしれない。しかし、阿澄は小さく微笑んで、頷いた。
あんたって、そういう奴だもん――そんなことを、言いたげな顔をしていた。
「まだ時間はある……外に出る方法は、何か別のものを……」
「ちょっと待って待って、話は終わってないから」
丈が結論を急ぐのを、邦子は慌てて止めた。訝しげに首をかしげると、邦子は困ったように溜息をついて、
「だから、今のは確かに御影が提示した方法だった。けど、そんなこと言われてさ、良識ある私が反対しなかったと思う?」
「あんた、良識あるのか」
「ねえツッコむところはそこなの?」
邦子は眉根を揉む。こんなに良識が溢れているのに、と邦子はぼやく。十人いれば八人くらいは異議を唱えそうな独り言だった。
「『それはちょっとないんじゃなーい?』って、私、言ったよ? 『あなた馬鹿じゃないの』って」
「馬鹿って……」
「だって、馬鹿でしょ。御影ってさ、天才の割に頭でっかちっていうか、馬鹿と天才は紙一重っていうか、妙なところで抜けてるんだよね。記録と記憶の抹消? そんなすごいことができるんならさ、もうちょっと有意義に使おうよって、私、提案しました」
まるで自分の大手柄だとでも言わんばかりに、邦子は胸を張る。
「だから、この鍵は、私のアイディアと御影の力で合作した、修正版・魔法の鍵ってわけ。三人寄れば文殊の知恵っていうくらいだし、二人でも聖くらいの知恵は出そうよね」
「聖の知恵って……いまいちすごさが解らない」
「とにかく、御影の第一草案は私が却下したの。ボツだったの。それから修正第二案を出したの!」
その流れは理解した。が、丈としては文句を言いたいところがある。
「最初からそっちを話してくれれば……」
「それじゃ私の優秀さがアピールできないじゃない」
こんなことを真顔で言う奴のどこに良識があるのだろうか。
邦子はこほん、と咳払いをして、自信満々に宣言した。
「驚くなかれ、二人で立て直した新計画では、鍵を使った瞬間、『魔法特区』はぶっ壊れます」
「…………は?」
丈と、それから阿澄の、素っ頓狂な声が重なった。
♪♪♪
こつこつ、とシャーペンの先で机をつつく。二つ目の欄まではなんとか埋めたのだが、三つ目以降が埋まらない。白紙で出すのは勿体ないから何がなんでも記入せよ、との担任の仰せだ。丈は迷った末に、一覧表の一番上に書かれていた名前から順番に適当に書き写した。
書き終わった瞬間、プロのスリ師並みの早業で用紙を掻っ攫われた。顔を上げると、机の前に立っていた阿澄が、人のプライバシーに関わるプリントを勝手に読んでいて、あまつさえ文句まで漏らした。
「あんた、これ第三から第五志望まで全部適当でしょ」
適当な仕事は、幼馴染には一発でばれた。
「神聖なる合格判定模試をなんだと思っているの」
「未だ夏休みボケ中の生徒に現実を見せつけるえげつない試験」
「その認識は間違ってないわね」
試験開始はいつもの授業と同じように八時四十分からだが、その前に、あらかじめ配られていた進路希望票を提出しなければならない。第五志望まで記入して提出すると、AからEで合格可能性が判定される。最低一つ書けば問題はないのだが、全部書かないと損である。
とりあえず第二志望までは真面目に考えたのだが、三つ目以降は思いつかなかったので、適当に書いた、というわけだ。
「あんた、もうちょっと真剣に考えなさいよ。大学よ、大学。そんないい加減じゃなくて、ちゃんとやりたいこととか考えてさあ」
「まあ、やりたいことはあるけど」
というのは表向きの話である。担任に進路を聞かれたとき、本当のことをありのままに話すのはいくらなんでもまずいので、そういう時のために用意してある表向きの設定だ。実際は結構酷い。少し前までは、いつだったか四葉がずばり指摘したように、特にやりたいこともないから学力的に安全圏内のところに進もうとしていた。現在は、幼馴染の行くところについていこうとしている、という、制服で高校を選ぶ以上に最悪な大学の選び方をしている。全国の真面目な生徒たちに申し訳ない話である。
自分でも馬鹿なことだとは思っているけれど、と丈は溜息をつく。だが、今更自分の馬鹿さ加減を嘆いても仕方がない。そもそも、そういう馬鹿な理由で、あの最後の魔女との勝負を挑んだわけで。
「進路って言えばさあ。いろいろみんなに話聞くんだけどさ、ここにきて進路をがらっと変える人がぽろぽろいるみたいよ」
「まあ、二年の夏だ、変えるには遅くない時期だろ」
「それはそうだけどね。やっぱりみんな、都会に行きたがるお年頃なのかしらねー」
「大学生の時期が一番自由にいろいろできるからな。その間にあちこち行ってみたい気持ちは解る」
「そうよねえ。若いときの苦労は勝手にしろってね」
「……買ってでもしろ、な」
阿澄は恥ずかしそうに咳払いをして誤魔化した。
「そういえば、最近白雪とは会ってるのか? 俺の周りには出没しなくなったんだが」
「ぶっきーはね、今忙しいんだって。害虫駆除の仕事を始めたって」
少し驚いた。ひらひらのワンピースを着て麗しのお嬢さまみたいな喋り方をしている、服は汚いけど仕草は上品という白雪には、あまりに似合っていないような気がした。しかし、よくよく聞いてみると、
「人間には無害だけど害虫には有害な毒ってのが評判いいみたい」
これ以上の天職はないのではないかと思えてきた。
「もう全国あちこちから引っ張りだこで、毎日飛び回ってるみたい。これは比喩じゃなくて、文字通り箒で飛び回ってるんだって。邦子さんとタンデム。勿論有料タンデム」
「戸隠がタクシーの真似事をしてるのか」
「そんなわけで二人とも忙しいわけよ。でも私は毎日のようにツイッターでリプ飛ばしあってるから」
「なんでお前にだけ教えてるんだ。俺はちっとも聞かされてない」
「女子だけのアカウントだって。丈からフォロリク来ても拒否るって宣言してた」
邦子が舌を出して笑ってる顔が思い浮かぶ。あのひねくれ者め。
今まで知らなかった魔女たちの近況を話した後は、阿澄が再び丈の進路希望を見遣って首をかしげた。
「でもさあ、第一志望のこの大学だと、実家からは通えないでしょ。一人暮らし、お姉さんたちはいいって言ってるの?」
「一人暮らしについては、今さらだろう。中学からそうだぞ」
「でも、実家から一キロしか離れてないじゃん」
「それはそうだけど。……まあ、その辺は多分心配ない。鬱陶しいが、はじめ姉と双美姉がついてこようとしている」
「え、なんで」
「はじめ姉は今の職場に嫌気が差したから転職するって。双美姉は謎のポーションショップ二号店を出すらしい」
四人の姉の中でも一、二を争う曲者がついてくると思うと、未来はあまり明るくない。
「はぁー、みんなアクティブだね。まあ、いままで田舎で燻ってた分、これから羽ばたいてきましょ、って話なのかな。むしろ、なんでいままで田舎に閉じこもってたのか解んないわよね」
「……ああ、そうだな」
やがて、予鈴が鳴り、担任が教室に入ってきて、阿澄は慌てて自分の席に戻った。丈はそこそこ適当な進路希望をそのまま回収に出して、試験開始を待った。幼馴染についていくことが現実的に可能かどうかは、最終的には学力的な問題に帰結する。ここでE判定を食らったら、ちょっとへこむ。
だが、焦ることはないだろう、とも思う。
その気になれば、たいていのことはなんでもできるし、どこへでも行けるのだから。
魔女でない者も、魔女も、魔女の血縁も、すべての者は等しく、どこへでも行けるし、なんでもできる。そんな当たり前すぎることを、人々はその夏休みに突然思い出した。まるで、そんな当然すぎる事実を不思議にも隠していた覆いが、すっかり掻き消えていったようだ。
その裏側の真実、夏休みに起きたことを、その中心にいた丈だけが覚えていた。
そこにあった檻も、檻があったという記憶すらも、一瞬にして人々の中から消えてしまった。今思うと、反則気味の魔法である。そんな馬鹿みたいな魔法を実現してしまった母というのは、実はかなり偉大だったんじゃないか、と丈は今更ながらに体感した。
今はもうなんの力も残らない、普通の鍵になってしまったものを、丈は今でもお守り代わりに持っている。最初で最後で最高の、母が遺した贈り物の鍵。その存在は、多くの魔女を引き寄せ、時には危険に陥り、うんざりすることもあった。
もしかしたら、そう思わせたかった、というのもあるかもしれない。ここは酷い場所だと思わせて、母は背中を押そうとしたのかもしれない。
確かにうんざりすることも時にはあったけれど。
丈は魔女たちのことを思い出す。魔女と関わり、戦った日のことを鮮明に思い出す。
鍵にまつわる魔女たちの記憶を、鍵と共に抱いて、きっとこれからも大切にしていくだろう――
完結しました。




