2 グレートディア
「なあ、リタとおじいさんが言う、グレートディアってなんなんだ?」
恐る恐る尋ねると、リタは青い顔のまま答えた。
「鹿型のモンスターです。体が大きくて、とにかく狂暴なんです。繁殖の時期に餌を求めて町に来ることもあるんですが、今は繁殖の時期でもないのに、どうして……」
「理由は分からねぇが、リタもそこのお兄さんも早く逃げな! 本来なら冒険者に頼んで駆除してもらうんだが、今は隣町に出たクラーケンを討伐するために、全員出払ってるんだ。とにかく逃げるしかない。さぁ早く!」
おじいさんに促されて、俺たちはリタの家から飛び出した。
人々の悲鳴や獣の唸り声が、先ほどよりもはっきりと聞こえる。危険は俺達のすぐそばまで迫っている。
「さぁ、こっちだ!」
アーカシの海岸の方向に向かって、おじいさんが走っていく。俺は訳が分からないまま、彼の背中についていく。
異世界転移したというだけでも大問題なのに、おまけに狂暴なモンスターだと?
勘弁してくれ。俺の胸の中が不安と焦りで満たされていく。
そんな気持ちを知ってか知らずか、リタは俺を急かす。
「ヒロさん、急いで! ディア種はあまり海水を好みません。海岸のほうへ逃げれば、追ってくる可能性はグッと低くなります!」
「急ぐんだ!」と叫ぶおじいさんに続いて、海岸まで全力で走る。
一生懸命に足を動かすものの、日頃の運動不足が身に染みる。脇腹が痛くてちぎれそうだ。こんなに全身の筋肉を使ったのはいつぶりだろう。
大した距離を走った訳でもないのに、海岸にたどり着く前に俺の体が悲鳴を上げ始めた。
「ハァッ、ハァッ、俺もう走れないかも……」
俺が情けない声をあげると、リタがこちらをキッと睨んだ。
「そんなこと言わずに、もう少し頑張ってください! 今はモンスターが来ないところまで急いで逃げないと!」
リタはそう言うが、これ以上全力疾走するのは無理だ。疲労で足がもつれる寸前だ。
俺はもうダメかもしれん……と思ったその時、背後から女性の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「坊や! 坊や!!!」
声につられて振り返ると、泣き叫ぶ女性と、転んでしまった男の子がいた。さらにその後ろには、その子供に今にも迫ろうとするモンスターがいた。見たことがないほどに大きな鹿だ。
「あ、あ、アレが……」
俺はその鹿のあまりの大きさに、ゴクリと唾を飲み込んだ。
高さはゆうに2メートルを超えている。大人の大男よりもさらに大きい。
体を包む赤い体毛は見事に逆立ち、白く濁った眼はこれでもかというほど吊り上がっている。
「あれがグレートディアです! もうこの辺まで来てるだなんて!」
リタが悔しそうに唇を噛む。
グレートディアはじりじりと男の子との距離を詰めていく。その口元から、涎がダラリと零れ落ちた。
「なあ! あのデカい鹿は人を食べたりするのか!?」
「いいえ、人を食べることはありません。でも、あの巨体で体当たりしたり牙で突かれたりすれば、生身の人間は無事ではいられません!」
見ると、グレートディアとやらの頭には恐ろしく尖った角がついている。
確かに、あの角で突かれれば無傷ではいられないだろう。
そうしている間にも、モンスターと男の子の距離はどんどん縮んでいく。このままではあの男の子の命が危ない。
「何か、あの男の子を助ける方法は!? なんか武器とかないの!?」
俺が問いかけると、リタは苛立ったように言った。
「私のスキルじゃ役に立ちません! 武器もないです! それに、この町の人たちもほとんどが商業スキルだから、モンスターは撃退できない! 冒険者がいない今は逃げるしか——」
「ねぇ、ス、スキルって何!?」
「誰だってスキルくらいあるでしょう!」
リタはさっきよりもイラついた様子で言った。
「そんなの、知らないよ! 俺の住んでる場所には、スキルとか、そういうのはなかったんだよ!!」
「じゃあ、『ステータスオープン』と唱えてください! 人間は誰だって、何かしらのスキルを持っているものです。何か使えそうなスキルがあれば使って、グレートディアの気を反らしてください。その隙に、私があの子を助けます!」
モンスターが出現しただけでも勘弁してほしいのに、おまけにスキルだなんだって、意味が分からない。勘弁してくれ!
俺はただ仕入れのためにバスに乗っていただけなのに、どうして訳の分からない世界に来て、こんな目に合わなくちゃならないんだ!
けれど、今ここで不満を募らせたってしょうがない。目の前で子供が危険に晒されているというのに、黙って見ている訳にはいかない。
俺は苛立つ心をぐっと押さえつけ、大きな声で唱えた。
「ステータスオープン!」
すると、目の前に突然水色の窓が現れた。
そこには、色々な文字や数字が書かれている。学生時代にやり込んだRPGゲームが頭をよぎった。
「色々書いてある、この窓みたいなやつは何なんだ」
「それがステータスウィンドウです! そんなの常識じゃないですか。それで、ヒロさんのスキルで使えそうなものはありましたか!?」
ステータスウィンドウに見入っていた俺は、リタの声ではっと我に返った。
そうだ、今はぼうっとしている暇はない。俺のスキルを把握して、なんとか鹿の気をあの子供から反らさないといけない。
目の前のステータスウィンドウにはこう書かれていた。
〈ムラタ・ヒロ〉
職業:串焼きマスター
スキル:串うち——Lv.1
食材確保——Lv.1
炭起こし——Lv.1
書いてある文字は読める。しかし、意味が全く分からない。これがモンスターに対して使えるのかどうかも分からない。
せめて炎魔法とか風魔法などと書かれていれば攻撃できたかもしれないが、串焼きマスターってなんなんだ? 絶対にモンスターと戦えなさそう。
その時、耳をつんざくようなグレートディアの鳴き声が響き渡った。
「ピギィィィィィィ!!!!」
鼓膜がビリビリと震える。
もう考えている時間はない。俺は腹を決め、グレートディアのほうに駆け寄った。
俺のスキルが有効かどうかは分からないまま、いちかばちか、ステータスウィンドウに表示されていた言葉を大声で唱える。
「しょ、【食材確保】!」
その瞬間、俺の右の手のひらから、モンスターめがけて大きな網が飛び出した。
今まで何もなかった手のひらから、どうして網が飛び出すのか。これは魔法か何かだろうか。
網はグレートディアの上に広がると、瞬く間にその巨体を包み込んだ。
ギィィ!ギィィ!
奴はその中で唸り声をあげ、激しくもがいている。
どうやら、目の前のモンスターを捕獲することに成功したらしい。
「やった!!」
リタが嬉しそうな声をあげ、男の子のところに駆け寄った。
恐怖のあまり腰が立たない男の子を抱え、急いでその子の母親のところまで連れていく。
「捕まえられたた……のか?」
ほっと胸を撫でおろした瞬間、再びグレートディアが大きな唸り声をあげた。見ると立派な角で俺の繰り出した網を破り、抜け出しているではないか。
「クソ! さっきのじゃ捕まえきれなかったのか!!」
網から抜け出したグレートディアは先ほど以上に体毛を逆立て、今度は俺をめがけて突進してきた。白濁した目はまっすぐに俺を捉えている。
もう一度、何かスキルを発動しなければ。さもないと、あの大きな鹿に一突きにされてしまうだろう。
俺は先ほどのステータスウィンドウに書かれていた文字を思い出し、再びグレートディアに右の掌を向けて唱えた。
「【串打ち】!」
すると、今度は手のひらから何本かの竹串が勢いよく飛び出した。
ブスブスブス!!
俺の手のひらから飛び出た竹串は、そのままグレートディアの体にブスブスと突き刺さった。
「ギギャッ!?!?」
突如体に刺さった竹串に驚いたグレートディアは、その場で立ち止まった。
ダメージが入ったかと喜んだのもつかの間、グレートディアはブルブルと体を震わせて串を振り落とすと、唸り声をあげながらこちらに向き直った。
白濁した目はには、明らかな殺意が浮かんでいる。やばい、殺されそう。
「ヒロさん!! 逃げて!!」
リタの切羽詰まった声が聞こえる。
逃げたところで、あのデカい鹿から逃げ切れるだろうか。一生懸命走ったところで、俺とあの鹿では体の大きさが違い過ぎる。すぐに追いつかれてしまうだろう。
いっそ、戦った方が賢明ではないのか。
俺はもう一度ステータスウィンドウの文字を思い出す。確か、もう一つスキルがあったはずだ。
「ええと、【炭起こし】!」
俺がそう唱えると、今度は手のひらからポロポロと、火のついた木炭が零れ落ちた。
「わぁ、どこでもバーベキューできるじゃん」
思わず間抜けな声が漏れた。なるほど、炭焼きで食材を焼くときにはとても便利そうなスキルだ。
しかし、モンスターに向かって飛んで行ってくれないことには攻撃にならない。
ヤバい、もう打つ手がない……!
リタの言う通り、さっさと逃げるべきだったか……!?
グレートディアは炭を前に立ち尽くす俺に向かって、ついに走り込んできた。
万事休すか、と思ったその時。
「フギャアアアン!!!」
つんざくような悲鳴を上げて、グレートディアの体がぐらりと傾いた。
そのまま地面に倒れると、四肢はビクビクと痙攣し、みるみる間に口から大量の涎が流れ出す。
何が起こったのか分からずグレートディアをよく見ると、その脇腹には太い弓矢が突き刺さり、その下には血だまりができていた。
倒した!
ん、待てよ、誰が倒したんだ……?
弓矢が飛んできた方向を恐る恐る見ると、弓を構えた男がこちらを見ている。
「おう兄ちゃん、無事か? 遅くなってすまねぇな」




