1 アーカシの海岸
「……ですか、大丈夫ですか?」
誰かが俺に呼び掛けている……?
目を開けると、見知らぬ女の子が俺の顔を覗き込んでいる。
ゆっくりと起き上がって辺りを見回すと、どうやらここは海岸らしい。砂浜の砂が全身にまとわりついて、服はびっしょりと濡れている。
でも体の感覚はしっかりあるし、どこも痛くない。試しに手を握ったり開いたりするが、何も問題はなさそうだ。
「海に落ちて、もうだめだと思った。俺は……助かったのか!?」
「そうだと思います! こんなところで寝てるから、びっくりしちゃいましたよ」
見知らぬ女の子が、俺の顔を覗きこみながら笑顔で言った。風が吹き、彼女の赤茶色のロングヘアがなびいた。
彼女の明るい茶色の瞳に、間抜け面の俺が映りこんでいる。
「君が助けてくれたのか?」
「いえ、私はいまここを通りがかっただけです。ケガはないですか?」
俺は立ち上がって、腕や足を曲げ伸ばししてみる。
海水をふんだんに吸った服が重くて動きづらいが、大きなケガなどはなさそうだ。
しかし、辺りには俺の知らない景色が広がっている。雰囲気は赤石海岸によく似ているが、見慣れた建物が何もない。海岸の周りは閑散としている。俺はどこかへ流されてしまったのだろうか?
「ここは赤石海岸からは近いのかな?」
俺が尋ねると、彼女は目を丸くして答えた。
「アカイシ? ここはアーカシの海岸ですよ」
アーカシ? 聞いたことがない地名だ。それともう一つ気になることがある。
「俺、バスから投げ出されたんだ。運転手がどうやら居眠り運転してたらしくって。結構大きい事故のはずだから、ニュースになってないかな」
「ばす? それは何ですか?」
「バスは赤石市営バスだよ。ホラ、赤と白のしましまのやつ。知らない?」
彼女は怪訝な顔のままふるふると首を横に振った。
どういうことだ。赤石のこともあんなに大きな事故のことも分からないくらい、遠くの地域まで流されてしまったのだろうか。
「ごめん、そもそもこの場所の名前は……」
「アーカシの海岸です」
「そう、それ! アーカシって、何県になるのかな?」
「なにけん、って何のことでしょう? あなたの言ってることが良く分からないんです。外国の商船から海に落ちてここに流れ着いたとかですか?」
「いや、俺は船に乗ってなんかいない」
「うーん。状況を整理するためにも、一旦場所を移動しませんか? 着替えもしたいでしょうし」
女の子は俺の服を指さした。確かに、俺の服は海水と砂にまみれてぐちゃぐちゃだ。
彼女は俺が立ち上がるのを確認すると、「ついてきて下さい」と言って海岸と反対方向へ歩き出した。
それにしても、どうしてこんなにも話がかみ合わないんだ?
赤石市はそれなりに大きい市だから、他の地域であっても名前だけでも知っている人は多いはずだ。それに、バスという単語も通じなかった。彼女が世間知らずなだけなのか、それとも……。
考えたくはないが、俺は既に死んでいて、ここは天国だったりするのだろうか?
俺は不安を払拭するように、首を横に振った。考えるのはよそう。まだ死んだとは思いたくない。俺にはまだやりたいことだってある。死んでたまるか!
しかし彼女について歩けば歩くほど、不安な気持ちが膨らんでいく。目に映る景色に見覚えがなさすぎる。知らない町であっても、日本国内であれば見慣れた景色が広がっているはずだ。
今俺の視界にあるのは、まるで外国のような町並みなのだ。ほとんどが細長い二階建ての造りで、背の高い建物は一切ない。木製と思われる外壁に、屋根の色は鮮やかなオレンジ色ばかりだ。
「こんな街並み、初めてみたよ……」
俺が小声で呟くと、彼女はニコリと笑った。
「綺麗でしょ? アーカシは漁村なんですけど、海岸の美しさと魚介類が美味しいことで有名なんです。観光客も結構いるんですよ!」
彼女はエヘンと胸を張って誇らしそうにしている。
彼女に続いて歩くうちに、小高い丘の上に出た。丘の上に広がる町からはアーカシの海岸が一望でき、青い海と白い砂浜がキラキラと輝いている。
一体ここはどこなのだ。言葉は通じるが、地名や単語に通じない部分がある。町ゆく人の服装が中世ヨーロッパのようだが、髪色が皆ド派手だ。緑やピンクなど色とりどりで、まるでファンタジーの世界だ。
俺が状況を把握しきれないまま悶々と歩いていると、急に女の子が振り返った。
「着きました! 我が家です!」
見ると、やはりオレンジ色の屋根に、外壁は白いペンキで塗装した木製だ。
「兄の服をお貸しするので、よかったら着替えてください」
「ああ、ありがとう。お言葉に甘えます」
俺は無理やりに口角をあげ、笑顔を作った。
見ず知らずの俺にこんなに親切にしてくれているのに、ずっと辛気臭い顔を見せるのも申し訳ない。俺だってもう20歳だ。いい大人なんだから、気持ちを切り替え、まずは今できることをやろう。
彼女のお兄さんの服とタオルを借りて、シャワーも貸してもらった。べとべとした海水や砂を洗い流すと、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのを感じる。
体を拭いて洗濯された綺麗な衣服へと着替えると、自然と前向きな気持ちになってきた。
さっぱりした俺は、食卓を挟んで女の子と向き合うように座った。
「シャワーも服もありがとう。おかげ様でスッキリしたよ」
今度は作り笑顔ではなく、心からの笑顔で言う。
「それは良かったです。あ、自己紹介がまだでしたよね。私の名前はリタ。18歳です。去年までは兄と一緒に住んでたんですけど、今は一人暮らしです」
「俺の名前はムラタ・ヒロ。20歳です。ヒロって呼んでもらえるかな」
「ヒロさんですね! あ、何か飲みますか?」
彼女は人懐こい笑顔で言った。キッチンから、お湯を沸かす音がコポコポと聞こえてくる。
「そういえばヒロさんって、黒髪なんですね。珍しい! サラサラでツヤもあって、綺麗だな」
リタは俺の髪色をしげしげと眺める。
「この髪、やっぱり珍しいんだ? さっきからすれ違う人の髪色が皆カラフルで、俺みたいな髪の人はいないから、びっくりしたよ。俺の住んでいた場所では、黒髪の人の方が多かったから」
「へえ! そんな場所があるんですねぇ」
リタがしみじみと言う。
「この国では、黒髪が多い人の地域って聞いたことないですねぇ。他の大陸にはあるかもしれませんが」
「他の大陸? いや、そもそもここは何ていう国なの?」
「ランスという国ですよ」
ランスと言う国名など聞いたことがない。俺は一体どこまで流されてしまったのか。
そもそも、ここは俺がいた世界ではないんじゃないか? 異世界に転移してしまったという漫画を読んだことがあるが、それではないのか。海に流されたのではなく、海で死にかけて異世界転移してしまった。そう言われた方がしっくりくる。
けれど、リタに「ここは異世界ですか」と聞ける訳もない。彼女にとっては俺の方が異世界人なのかもしれない。
リタに聞きたいことがありすぎて、考えがまとまらない。
俺がウンウン唸っていると、いつの間にか目の前にカップが置かれていた。リタが用意してくれたらしい。紅茶が注がれたカップの表面からは、白いゆげが立っている。
「上等な茶葉じゃないですけど、それなりに美味しいですよ。紅茶を飲んで気持ちが落ち着いたら、なんでも質問してください。私もヒロさんがどこから来たのか気になります。でも、まずは気持ちを落ち着かせないとね」
彼女の心遣いが身に染みる。カップを持つと、紅茶の爽やかな香りが鼻を抜けた。
一口飲むと、段々と気持ちが落ち着いてきた。まずは、ここが俺の知っている世界なのかどうかをはっきりさせなくてはならない。
リタに何から聞くべきか考えていると、玄関の扉がバン! と勢いをつけて開いた。
「リタ! 大変だ!」
白髪頭のおじいさんが、扉の向こうで息を切らせている。顔は真っ青だ。
「グレートディアが出た! ちくしょう、こんな時に限って! 今は町の冒険者が全員出払っているっていうのに!」
「グレートディアですか!?」
リタの顔もみるみる青くなっていく。グレートディアが何かは分からないが、二人の慌てぶりから、何かトラブルが起こっていることは明白だ。
家の外からは人々が叫ぶ声や逃げ惑う音に混じって、獣の唸り声もかすかに聞こえてくる。一体、家の外では何が起こっているのだろう?
分からないことだらけだが、一つだけ確信したことがある。
ここは、俺が知っている世界ではない。
日本じゃないどころか、地球ですらなさそうだ




