1.芽吹き、そして緑の誓い
王都の生活に慣れ始めたリゼのもとに花束が届く。それは単なる昇任祝い以上の意味を、彼女の心に投げかけるのだった。
◇◇◇
ある日リゼが宿舎に戻ると、花束が届いていた。
送り主はなんとギルベルトだ。部屋付き就任の祝いに昼食を共にしたいというメッセージもついている。力強く流麗なその文字を見て小さく胸が跳ねた。
今リゼが感じている胸の高鳴り、その原因はいくつもある。
仕事を認められた喜び、新たな業務への意気込み、頼もしい年上の人への憧れ。中でもいちばんリゼの心を占めているのは──
その先は考えるべきではないと、リゼは軽く頭を振った。
リゼの心中はどうであっても、きっとギルベルトとの距離感が変わることははないだろう。なにしろ彼は侯爵家の子息。彼が家のために望む相手は、決して自分などではないのだから。
ギルベルトは純粋に昇任を祝おうとしてくれているだけなのだと、リゼは自分に言い聞かせていた。
ギルベルトから会食場所として指定されたのは、王宮で働く人のための食堂だった。ギルベルトはもちろんリゼも多忙の身だ。仕事を休まなくてもいいようにという計らいなのだろう。
リゼが食堂へと向かう途中、見知った人物が正面から歩いてくる。相手もリゼに見覚えはあるが思い出せない様子で、訝しげにこちらを見ていた。
そして会釈をしてすれ違う瞬間、リゼは肩を掴まれた。
「あんた、前に子爵領にいた……!」
驚いてリゼの顔を覗き込んだのは、ギルベルトと共にルースライン領に来た調査官セイン・ハイモンドだった。
「そういえばギルベルトの推薦で室長が呼び寄せたんだったか。上手くやったな。あいつに色目でも使ったか?」
あまりにも下世話な言葉に思わず絶句する。
リゼの衝撃を見て取ったセインは満足げに言葉を続けた。
「でも無駄なことだ。あいつの家はうちとの見合いが決まってるんだ。あんたがいくらのぼせたところで、田舎の貧乏子爵家なんてお呼びじゃないんだよ」
セインはそれだけ言うと鼻を鳴らして立ち去った。
彼の目線や言葉の一つ一つが棘となってリゼに刺さる。そこに込められた悪意に、胸の奥がひやりと冷えた。
そうしてまんまと傷ついている自分に気づいた時、リゼは自らの想いを、胸が高鳴る理由を認めるほかなかった。
しかし同時に、その想いが決して報われないことをも思い知る。
いずれ家のために政略結婚をすると言っていたギルベルトが、その言葉どおりに家同士の縁談を成立させる──それは貴族の責務に忠実な彼にとっては順当な未来であり、リゼが想いを寄せたところで揺らぐことのない事実だ。
元より報われるはずもない、分不相応な想いだった。
ギルベルトの内面を知るうちに、いつしか抱いてしまった身の程知らずな想い。それがこれ以上育つ前に気づけて良かったのだと思い直し、リゼは食堂へと急いだ。
◇◇◇
ギルベルトはすでに来て食堂の端の壁にもたれていた。
リゼに気づくと目元をほころばせ、軽く手を挙げ合図を送ってくれる。
今までにないフランクな仕草にドキリとし、想いを自覚したとたん姿を見るだけで惹かれてしまう自分に呆れる。
リゼが近づくと、ギルベルトが壁から背を離し歩き出した。
食堂を通り過ぎいくらか歩いた先の扉にギルベルトが入る。リゼも続いて入室すると、そこは個室のダイニングルームだった。
「食堂の隣にこのような部屋があったなんて知りませんでした」
「食事を摂りながらの会談に使われる部屋です。空いていれば私的利用も認められています」
上質な調度品と品よく生けられた花々が、ここがもてなしのための場所だと物語っている。ついたての奥は食堂の厨房につながっているのか、給仕が支度をしている気配がする。
やがてランチボックスが二つ、カートに載せられ運ばれてきた。
「祝いと言いながらこのようなもので申し訳ない。マナーには反してしまうが食べながら話そう」
「行儀作法に自信がないので助かります。お誘いいただきありがとうございます」
少人数の会食用であろうさほど大きくはないテーブルに向かい合わせに着席し、二人きりとなった室内の静けさに照れながらも笑顔で答える。ギルベルトがリゼに向ける眼差しがこれまでになく優しげで面映ゆい。
食事を始めてしばらくはリゼの仕事や王都での生活について話した。やがて話題はより私的な内容に変わっていく。
「まあ、それではロランツおじ様とは何年も会っておられなかったのですか」
「ああ。母の葬儀を最後に十五年ほどね。新たに来た室長に最初は戸惑ったが、今はあの人が上司で良かったと思っている」
ロランツとの再会について話すギルベルトの表情は柔らかい。
ほんの何時間か前には、彼がこんなにも様々な表情を見せてくれるとは思いもしなかった。ギルベルトと知り合って一年以上が経つが、初めて会った時に感じたあの冷たさを今はもうどこにも感じない。
想いを抑えようと思うのに、共に過ごすほどにギルベルトのことをもっと知りたくなってしまう。
この食事会が昼休憩で良かったとリゼは思った。
間もなく始業時間となり普段の生活に戻れば、この先ギルベルトに会う機会はそれほどないだろう。そうすればリゼの想いが今以上に育つことはないはずだ。
鈍くきしむ胸の痛みに気づかないふりをして、リゼはこの時間を楽しむことに専念した。
「さて、そろそろ時間か」
どんなに惜しんでも時間は過ぎていく。
リゼが内心で寂しく思っていると、ギルベルトが立ち上がりリゼの横までやってきた。
驚いて腰を浮かせたリゼに向き合い、彼は小さな箱を差し出す。
「リゼ嬢、昇任おめでとう。こんなに早く実力を認められるとは、王都に来てもらった甲斐があった。あなたのさらなる活躍を、私にも願わせてほしい」
この箱を受け取ってしまったら、戻れなくなる予感がした。
言葉に窮するリゼに、焦れたギルベルトが箱を開く。
リゼは息を飲んだ。
そこには緑色の宝石がついたイヤリングがあった。
「ギルベルト様! 私などがあなたのお色のものをいただくわけにはいきません」
「祝いなどともっともらしく理由をつけたが、本当は私があなたと話したかっただけなんだ。このイヤリングも私がただあなたにつけてほしくて選んだ。どうか受け取ってくれないか」
「でも……それではギルベルト様の縁談に差し支えてしまいます」
「今私に縁談は来ていない。あなたが躊躇う理由が私のためならば、無用の心配だと言わせてほしい。それよりもあなたは? 私はあなた自身の気持ちを知りたい」
緊張と熱をはらんだギルベルトの目がリゼを射貫く。
彼を信じてその手を取りたい。
けれど先ほどのセインの言葉が棘となってリゼが一歩踏み出すのを縫い留めていた。
ギルベルトが嘘をついているなどとは思わないが、彼の結婚は父親である侯爵が決めることだ。もしも彼の知らないところで侯爵が縁談を進めていたらと思うと、リゼの気持ちを伝えることは躊躇われた。
焦る思いで返事を探すが、言葉は何一つ浮かんでこない。二人の間のわずか半歩の距離が、リゼには途方もなく遠く思えた。
「ギルベルト様……」
互いに目を逸らせないまま長く短い数瞬がすぎたあと、リゼの口から出たのは愛しい人の名前だった。
リゼの震える声が、潤む眼差しが、きっと彼に全てを伝えてしまっただろう。
ギルベルトはおもむろに立ち上がり、ゆっくりと踏みしめるように半歩を進めた。そして小箱から取り出したイヤリングを、慣れない手つきでリゼの耳につけた。
目を細めながら「よく似合う」と呟いたギルベルトが、こわごわとどこか不安げに腕を伸ばす。
彼の腕が届いてしまえば、きっとリゼはもう気持ちを抑えることはできなくなるだろう。そうわかっていても、体は動かなかった。
「これが私の勘違いなら、突き飛ばしてくれて構わない」
壊れものに触れるかのようにそっと柔らかく抱き締められたリゼは、想う人からの抱擁を、拒むことはできなかった。
そして返事の代わりにギルベルトの背にそっと手を添えるのだった。
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