2.心に残る光と、予期せぬ縁談
護岸工事という大事業の主幹として、ギルベルトはかつてない激動の日々を駆け抜けていた。重圧と困難に直面するたび、彼の背中を押したのは、あの日見たルースラインの人々の涙と笑顔だった。
◇◇◇
ロランツにルースライン領の報告を行って以降、ギルベルトは多忙を極めることとなった。
有識者チームの立ち上げから始まり、支援策の検討に予算確保、技師団の人員選定に至るまで、折衝や打ち合わせを数え切れないほどおこなってきた。
途中まではロランツが主だって動いていたが、ギルベルトが技師団の主幹となってからは調整役の全てを担うこととなり、奔走する毎日が始まった。
莫大な費用と人員が動く大事業だ。
自分が本当にやり遂げられるのかと何度自問したかわからない。
技師団内で対立が起きて、着工目前に技師の半数が辞めてしまった時などは全て投げ出したくなった。
ロランツや同僚たちに大いに助けられてどうにか施工にこぎつけた時、ギルベルトが最初に感じたのは深い安堵だった。
隣国技術による護岸がルース川に建設される。これでどれだけの人々の生活を守ることができるだろうか。
自分たちが安穏と見過ごしてきたものの多さを考えると忸怩たる思いはあるが、今この時点から守れるものも少なくはないと信じて前を向いた。
ルースライン領へ再調査に赴き、護岸工事について伝えた際の領主家族の反応を思い出す。
彼らは支援の遅さを責める素振りもなく、皆で手を取り合って「良かった」と繰り返した。
アルフレートは喜びの涙を流し、その背をさする夫人とリゼの目にもまた光るものがあった。
初めて調査に訪れた際のリゼの悲痛な訴えと共に、この光景を忘れてはならないとギルベルトは胸に刻んだ。
工事と調整に明け暮れた日々は瞬く間に過ぎた。
慣れない業務に手探りで挑む毎日は緊張の連続だったが、領民の声を聞き人々の暮らしに接していると、不思議と疲れを感じることはなかった。
長期工事を終え王都に戻ったギルベルトは、技師団の面々と地方調整室に向かう。
にこやかなロランツに出迎えられたギルベルトは、ようやく肩の力を抜いた。
「技師団一行、ルースライン領より帰還しました」
「やあギルベルト君、技師団の皆さん、本当にご苦労様でした。無事に戻ってきてくれて何よりです」
「工事は概ね予定どおりの進捗です。今後はルースライン領より定期報告が送られてきますので、室長の方でも目通しをお願いします」
「承知しているよ。ギルベルト君にはこのまま最後まで力を尽くしてもらいたい。僕も完成記念式典でルースライン領に行くのが今から楽しみだよ」
ギルベルトは長らく滞在したルースライン領に思いを馳せる。
かの領は水害と悪路のせいで昔から半ば捨て置かれた土地だったという。にもかかわらず領民の表情は明るく、領主によって善く治められていることがわかる。
そんな地の人々の暮らしを守れたことが、ギルベルトの胸に大きな充足感をもたらしていた。
「ルースラインと同様の工事を待っている領がある。次の工事の主幹はセイン君で、ギルベルト君には補佐に入ってもらいたい。休む間もなくて大変だけど、よろしく頼むよ」
ロランツの励ましにギルベルトはしっかりと頷く。
心のうちには、川面の光と人々の笑顔が確かに残っていた。
◇◇◇
ある日ギルベルトは、父からの呼び出しを受け侯爵邸に向かった。
父と会うのは実に半年ぶりだ。
王都を離れる前に挨拶に赴いた際、留守の間の縁談は断ってほしいと父に伝えていた。
「久しいな、ギルベルトよ。地方調整室での活躍は聞き及んでいるぞ」
いつもと変わらないはずの父の声が、どこか遠くから響く気がした。気のせいだろうとすぐに意識を戻す。
「ひとまずの工期を終え、地方より帰って参りました。早速ですが父上、この度の呼び出しはどのような用件でしょうか」
「まあそう焦るな。お前が王都に戻った途端にもう縁談が来たのだ。留守の間は言われたとおり断っておいたが、戻ってきたのだから受けても構わんだろう?」
妻亡き後、父は仕事に没頭し続けていたが、子どもが適齢期を迎えてからは縁談を探すことに熱意を注ぐようになった。
三人の兄たちはすでに良縁に恵まれ、政略結婚ながら円満に過ごしている。
ギルベルトも父が薦める縁談を受け入れる心づもりでいるが、何度見合いをしても父が納得することはなかった。
ギルベルトは今後は地方出張が増えるため、見合いの時間を作ることが困難となることを告げた。
「業務に注力したいと思いますのでこのまま縁談は全て断っていただけないでしょうか」
「仕事が楽しい時期というわけか。ではお前が落ち着くまでは断ることにするが、すでにハイモンド伯爵家からの縁談を受けてしまったのでな。そことの見合いだけは出てくれぬか」
ハイモンド伯爵家、それは同僚のセインの家だ。
業務においてセインの補佐にまわるよう指示を受けたが、近ごろ彼の顔を地方調整室で見かけることはほとんどない。
「そういえばハイモンドの次男はお前と同じ地方調整室勤めであったな。同僚と縁付くのは不満か?」
「そういうわけではありませんが、あの家は現当主に関してあまり良い噂を聞きません」
ハイモンド家は由緒ある名家であり、今も様々な事業を行って権勢を振るっている。
しかし現当主になってからは詐欺まがいの方法で財産を増やしているという話を、ギルベルトも何度か聞いたことがある。
「ハイモンド伯爵はやり手だからな。おおかたやっかまれてそのような噂が出ているのであろう。まあ気が乗らないのなら断ればよいが、先方が明日にでもここに来ると言うのでな。お前も顔だけは出しなさい」
そう言われ翌日も侯爵邸に出向いたギルベルトだったが、その日、見合いが行われることはなかった。
約束の時間に侯爵邸を一人で訪れたハイモンド伯爵は、父の前に出るなり平身低頭で話し出した。
「誠に申し訳ございません! せっかく会っていただけるというのにこのような事態は無礼千万と存じます! しかし娘が体調を崩しており如何ともし難い状況なのです。見合いを楽しみにしている娘に免じてどうか! どうか再びの機会をいただけませんか!」
父は訝しげな顔で伯爵の謝罪を見ていたが、女性の体調不良と聞いてにわかに態度を軟化させた。
「それは心配でしょう。わざわざ伯爵自ら来てくださったんだ、日を改めざるを得ませんな。良いな? ギルベルト」
侯爵の許しを得て見合いの延期を取りつけた伯爵は、安堵も顕に足取り軽く帰っていった。
しかしその後ぱたりとハイモンド家からの沙汰は止み、立ち消えになったと思われた。
見合いに煩わされることがなくなったギルベルトは、少しの安堵を覚えた。ようやく業務に集中できる──ただそれだけを考えていた。
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