3.自分のための選択
護岸工事は順調に進んでいる。
滞ることなく定期報告を送り、王都からは毎月ギルベルトが査察に来る。その際のリゼの所在は様々で、毎回必ず会うというわけではなかった。
以前、査察に来たギルベルトが、護岸を眺めながらわずかに目元を緩ませるのを見かけたことがある。
無機物にかけるにはそぐわない優しい視線がひどく印象的だった。
今月の査察にリゼは同行していない。
その日、リゼは邸の執務室で書類整理をしていた。
兄はどうにも書類仕事を怠りがちで、少し目を離すと散々なことになってしまう。普段は兄の部下が仕分けているが、ここしばらくは何かと忙しく部下も手が回らないようだった。
書類整理とはいっても、リゼに出来ることはそれほど多くはない。報告に関わるものを拾い上げて束ねる程度だ。定期報告は次回が最後になるので、不要な書類をまとめていく。
書類の山と格闘していると、アルフレートが帰ってきた。
やや緊張した声と共に執務室の扉が開く。
「リゼ、ギルベルトさんが話があるそうだよ」
「えっ、ギルベルト様が?」
これまで彼がリゼ個人に用があったことはない。さらに言えば、査察のあとに邸に立ち寄ることすら初めてだ。
「突然申し訳ない。今日は私の上司からの願いを言付かってきました。リゼ嬢、王宮で働く気はありませんか?」
ギルベルトの急な来訪への驚きに加えて、さらに予想だにしないことを言われて耳を疑った。
混乱するリゼを宥めるようにアルフレートが付け加える。
「ギルベルトさんの上司の方が、以前からうちの定期報告をえらく気に入って下さっていてね。リゼが書いていると知って、このように声をかけて下さったそうだよ」
「私の上司はリゼ嬢の能力を賞賛しています。相手の立場で物事を考えられるのは、学んで出来ることではありません。それはあなたの素質そのものです。どうかリゼ嬢の力を国のためにふるってもらえませんか」
「そんな……私など……」
困惑し続けるリゼにアルフレートが言葉を掛ける。
「リゼ、私などと言ってはいけないよ。お前の能力は王都でも通用すると、これまでずっと助けられてきた私が保証する。
──とは言えギルベルトさん、あまりに急なお話です。少し考えさせていただいても?」
「もちろんです。出来れば次の査察日までにはお返事を聞かせてください」
ギルベルトの話はリゼを大いに悩ませた。
書類を書く手がいつの間にか止まり、考え込んでしまうことがしばしばあった。
兄やギルベルトの上司はリゼを高くかっているが、果たして王都で自分に何ほどのことが出来るだろうか。
そんな不確実なことよりも、今までどおり領のため、兄のために生きたいとも思う。貴族の務めとして、政略結婚を受け入れる覚悟だってある。
しかし兄はおそらくそのようなことは望まず、無為に時間だけが過ぎていく。そんな将来を想像して、リゼは息苦しさをおぼえた。
選択ひとつで大切なものを失ってしまう予感は消えない。
どれだけ考えても、答えは出せなかった。
リゼの部屋にノックの音が響いた。
「リゼ、お邪魔するよ。お前のことだ、迷っているんだろう?」
そう言ってアルフレートが顔を覗かせる。リゼは小さく頷き兄の言葉を待った。
「お前はいつも人のことを一番に考えるけれど、今くらいは自分の思いを最優先に考えてみないか?」
「私の思い……ですか?」
「そう。リゼがずっとうちに居てくれても、王都で自分の道を見つけることも、どちらも私にとっては嬉しく幸せなことなんだ。だから私たちのことは気にしないで、リゼの気持ちだけを考えてごらん」
兄のことも領のことも脇に置いて自分の思いに向き合った時、リゼの答えは───
朝日が白々とルースライン領の景色を浮かび上がらせ始めた頃、子爵邸の前から一台の馬車と一騎の人馬が出発した。
門の前には子爵夫妻と使用人一同が並び、みなめいめいに手を振っている。
リゼは馬車の窓から身を乗り出して振り返り、家族が見えなくなるまで手を振り続けた。
◇◇◇
リゼを乗せた馬車が見えなくなってしまった。
八つ違いの妹は、長子のあとしばらく子宝に恵まれなかった家族にとって待望の第二子だった。
両親や自分から溺愛と言えるほどに可愛がられた幼少期を過ごし、素直で活発な性格は誰からも好かれた。
大人と接することの多い境遇で育ったせいか、他人との距離を察することに長けている。
本人は隠しているつもりのようだが、負けず嫌いで気の強い一面もあって、そこもまた彼女が人を惹き付ける所以なのかもしれない。
領の子どもたちに混じって育ち、かけっこも木登りも、そして川原の石を磨く遊びも、リゼは同年代の中では負け無しのお転婆だった。あの頃がつい最近のことのように思い出され、笑みがこぼれる。
アルフレートが父と一緒に領内を巡回しに行くと、自分も兄と同じように一人で馬に乗るのだと厩番に頼み込んで教わり、ポニーではあるがすぐに乗れるようになった時はずいぶん驚かされたものだ。
九年前、父が街道工事の事故で帰らぬ人となった。妹は十歳だった。
リゼを女学校へ行かせるか、家庭教師を雇うかと家族で希望を膨らませていた矢先のことだった。
事故の死傷者への見舞金や工事再開の準備に追われ、蓄えは底をつき、リゼの勉学どころではなくなった。
それでも母や私の妻となった幼馴染みから知る限りのマナーを教わり、執務室で部下たちのやり方を観察して計算や補佐を学んできたリゼが、ついには王宮から請われるまでになったのだ。
リゼの努力が認められて、これほど嬉しいことはない。
母は父の四年後に、洪水後のぬかるみで転倒した馬に巻き込まれて亡くなった。
やるせなさに飲まれそうになったが、妻とリゼがいたから前を向いてやってこられた。
私はリゼからたくさん幸せをもらった。だからこれからはリゼ自身が幸せになる方法を見つけてほしい。
馬車に乗り込む際、ギルベルトの前でリゼが可憐にはにかむところを見た。いつも屈託なく笑う妹の、初めて見る表情だった。本人も自覚していないだろうが、それはまだ恋情とも言えない、関心の芽生えのようにアルフレートには思えた。
ギルベルトは確かに良い青年だが、身分も価値観もあまりにも違いすぎる。彼には彼に、リゼにはリゼに、それぞれ似合いの人がいることだろう。
王都にはこことは比べ物にならないくらい多くの人がいる。今後様々な人と知り合って、リゼ自身を見てくれる人や、損得勘定なくリゼを想ってくれる人に出会ってほしい。
アルフレートはただ一人の妹の幸せを、心の底から願った。
◇◇◇
王都から来た迎えの馬車には、ギルベルトの上司の妻ローラが乗っていた。
ローラは夫の不在を丁寧に詫び、後見人としてしっかり面倒を見ると兄たちに頭を下げた。
兄や義姉より十ほど年上に思えるが、残される家族を慮り誠実に接するローラに、リゼは好感を覚えた。
馬車に乗り込んだローラはいくぶん砕けた調子で話し出す。
「改めましてリゼさん。ローラ・ケイブよ。夫はロランツっていうの。夫婦で似た名前でしょう?会うのは王都に着いてからになるけど、今は名前だけでも覚えてあげてね」
茶目っ気たっぷりに笑うローラに、リゼの緊張はゆるやかに解れていった。
王都までの道中、リゼの仕事について説明を受ける。
なんと王女宮で侍女として働くそうだ。
「王女殿下の宮に私のような者が上がって大丈夫でしょうか? マナーは子爵家のものですし、教養も独学で……」
「そこよ! 独学で領主の補佐なんてそうできることではないわ。もちろん指導もするけれど、教わらなくても察して正しく動けることが私たち侍女には必要なの」
「そういうものなのですね。あの、ローラさんも王女宮で侍女をされているのですか?」
依然不安はある。それでも、ローラも同じ職場にいると聞けば心が少し軽くなった。
「私は以前は王宮で侍女をしていたけど、出産を機に辞めたの。でも王女殿下のお輿入れが決まってから人手が足りないと呼び戻されてね。今はリゼさんと同じ立場の臨時任用よ」
ローラは侍女長の補佐に就いているそうだ。リゼと同じ立場というのは少々ざっくりしすぎだと思ったが、それもきっと彼女なりの気遣いなのだろうと思うと胸が温かくなった。
「それにね、特定の方にお仕えするわけじゃないから難しく考えなくても大丈夫。とにかく王女宮全体が忙しいから、言い方は悪いけれど雑用係のようなものだと考えてあまり気負わないでね」
「雑用なら私にも出来そうです。何でもおっしゃってください」
「ふふ、やっと良い顔で笑ってくれたわね。無茶を言う人はいない職場だから安心して。それで出仕するときの格好だけど───」
気づけば馬車は隣の領を走っている。
郷里を離れる不安はいつの間にか薄れていた。
その後もローラから仕事に関することを色々と教えてもらった。
勤めの際の服装は手持ちのドレスでもお仕着せでもどちらでも良いそうだ。
「当面リゼさんはお仕着せを借りると良いわ。仕事の内容によってはドレスも必要になってくるから、私のお下がりで良ければもらってくれないかしら?」
「私がいただいていいのですか?」
「いいのよ。しまい込んでおくよりもリゼさんが着てくれるとドレスも喜ぶわ。仕立て直しも頼んでおくわね」
住まいは侍女用の宿舎に入るようすでに手配がなされており、準備が整うまではケイブ邸に滞在させてもらうらしい。
──ローラさんはとてもいい方だし、お仕事もどうにかやっていけそうで良かったわ。ギルベルト様の上役の方はどんなお方なのかしら。
ふと何気なく窓の外を見る。騎乗したギルベルトが並走していた。
ローラがリゼの視線に気づいて可笑しそうに言った。
「私は護衛を雇うだけでいいと思っていたんだけど、ギルベルト君が行くと申し出てくれて。侯爵家のご子息様をお供にするなんて畏れ多いったらないわ」
そう言って笑うローラと、いつもの無表情で前を見ているギルベルトが対照的で、リゼもつい笑ってしまった。
◇◇◇
完成間近の街道を通る道程は、天候にも恵まれ想像以上に快適だった。
休憩の際には皆で食事をとる。
ローラの話にリゼが相槌を打ち、ギルベルトはたいてい聞き役でいた。口数は一番少なかったが、それでも休憩のたびにリゼと目を合わせて体調を訊ねてくれた。それが単なる義務感によるものだとしても、幾度も交わされるその単純なやり取りがリゼは妙に楽しかった。
旅路を終えた三人は、そのまま後見人が待つケイブ邸へと向かった。
邸内でリゼの後ろを歩くギルベルトにローラが声を掛ける。
「ギルベルト君もお疲れ様。職場の外で主人に会うのは久しぶりでしょう? 可愛い甥っ子なんだからたまにはうちに来てくれたらいいのにってあの人いつもぼやいているから、きっと喜ぶわよ」
なんと後見人はギルベルトの叔父だそうだ。
ギルベルトがそのまま歳を重ねたような厳めしい人物を想像しリゼの背筋が伸びる。けれどじきにそれは杞憂だったとわかった。
「やあ初めましてリゼ君。遠いところ来てくれてありがとう。僕はロランツ・ケイブ。ギルベルトのいる地方調整室の室長をしているよ」
年の頃はおそらく四十すぎ、リゼの記憶の中の父くらいだろうか。国の偉いお役人というイメージからは程遠く、愛嬌と親しみに満ちている。夫婦ともに人好きのする性格のようだ。
「今は寄宿舎にいるけど、うちには男の子しかいなくてね。だから娘が出来るみたいで楽しみにしていたんだ。リゼと呼んでもいいかい?あ、僕のことはお兄ちゃんとでも呼んでくれればいいからね」
「室長、娘と言いながらそのように呼ばせるのはいかがなものかと」
「おやギルベルト、ようこそ我が家へ。うちの奥さんの護衛ご苦労様だったね。ちょっと僕は今リゼと話しているからね」
「あなた、いくらなんでもお兄ちゃんはどうなのかしら。ほら、リゼさんも呆れているわ」
「だからと言ってお父様というのは違うだろう? ロランツさんなんて呼ばれても家族らしさがなくて寂しいんだ」
賑々しく楽しげな会話が交わされる。その温かな雰囲気に、両親がいた頃を思い出したリゼは懐かしさに胸が詰まった。
「リゼ嬢どこか具合でも?」
自分にかけられた声にふと我に返ると、ギルベルトがこちらを見ていた。旅路の間に何度も交わしたやり取りを思い出し、肩の力が抜ける。
義務感かもしれない。それでも、リゼの些細な様子に気づいて声をかけてくれたことが嬉しかった。
「いいえ大丈夫です。ありがとうございます」
笑顔で答えたつもりだけれど、おかしな顔になっていなかっただろうか。嬉しいような、それでいてなぜか泣きたくなるような気持ちになって、リゼは目元に力を入れた。
王都への道中で何度も感じた心のざわめきが、今もまたリゼを落ち着かなくさせる。新しい生活への緊張のせいだろうと結論づけて、後見人夫妻との会話に意識を戻した。
結局ロランツのことは『おじ様』と呼ぶことになった。
王都での生活はもう始まっている。
自分で踏み出した第一歩だ。
お読みいただきありがとうございます。




