1. 捨てられた領地と冷酷な調査官
断続的な雨が一週間ほど続いた。
ある日の夕刻、ルースライン子爵邸に一報が入った。
「何だって? また岸が決壊した!? 逃げ遅れた民はいないか!」
ルースライン領では毎年のように洪水が発生する。
領の中央を通るルース川のおかげで土地は肥沃で作物はよく育つが、実った矢先にそれらが流されてしまうことも多かった。
川と共存してきた領民は洪水に慣れ、今では人的被害は少ない。とは言えもちろん無いわけではない。加えて、丹精込めて育てた作物や家畜を何度も失う経験は、人々を疲弊させていた。
「お兄様、中央に支援を頼みましょうよ!」
リゼは子爵邸の執務室で部屋の主であるアルフレート・ルースラインに詰め寄った。
「そうは言っても、要請を出したところでほとんど意味はないんだ。お前も知っているだろう?」
兄妹の父である先代子爵が存命だった頃は、災害の度に国に支援を要請した。
けれども王都への早馬も、王都からの調査官も、到着には困難を要したという。
それというのも、王都とルースライン領の間にある二つの領地は荒れ地ばかりで宿もなく、通過のためには迂回を余儀なくされた。
さらには迂回先もひどい悪路であったため、王都への行き来は一月ほどかかることもあったそうだ。
当然、調査官が来る頃には水は引き、そのうえ人的被害も少ないとなれば軽微な災害として報告された。結果、支援がおざなりになるのは必然だった。
「でも今なら道はずいぶんと良くなっているわ! 街道を通れば危険な場所もないもの」
「街道か……。最近王都のほど近くまで出来上がったとあちらの領から知らせがあったな。よし、早馬を出してみるか」
渋るアルフレートの背中をリゼが押し、ようやく久方ぶりの要請に至った。
昔と今は違う。父と兄が文字どおり心血注いできた街道を今こそ使わなくてどうするのか。リゼの頭はその思いでいっぱいだった。
しかし、やってきたのは希望ではなく、冷酷な現実だった。
領民に混ざって被災地で復興作業に勤しむアルフレートとリゼのもとに、見慣れない男が二人、案内されながらやってくる。
兄妹は作業の手を止め、彼らの方へと駆け寄った。
「中央から来られた調査官殿でしょうか。遠路お越しいただきありがとうございます。私は領主のアルフレート・ルースラインです。この者は妹のリゼです」
「内務部 地方調整室から来ました。調査官のギルベルト・ヴィンロードです。こちらは同じく調査官のセイン・ハイモンドです」
自己紹介中にも関わらず、セインと呼ばれた調査官は俯きため息をついている。街道を使ってもなお遠路と言える道程だ。疲れているのも無理はない。
その様子に申し訳なさを覚えつつも、かつてよりも早い到着に期待が募る。
水はあらかた引いているが、洪水の爪痕はそこかしこに色濃く残っている。生々しい被災地を目にすれば、これまでとは違った被害報告が為されるはずだとリゼは調査官の言葉を待った。
しかし彼らは無情だった。
「見たところたったの七日でずいぶん片付いているようですね。要請時の報せによると、人的被害はなく流されたのは家畜小屋が一軒。被害は軽微と言えますね。他に被害がなければ我々はこれで失礼しますがよろしいですか」
リゼは絶句した。
『中央の役人はろくに調べもしない』──父や兄から聞いていたとおりだ。彼らはいつ誰が来てもすぐに帰ってしまい、領の実情に則した支援が為されたことなど未だかつてなかったと。
そうして国に頼ることをやめてしまった兄を、リゼはずっと歯痒く思っていた。
悔しさのあまりリゼの口から言葉が溢れ出る。
「死者が出なかったのは、何度も大水を経験して逃げ方を知っていたからです。流された民家がなかったのは、何度も流されてもう何も建てられないと学んだからです。私たちは……私たちは、あとどれだけ失えば被害に遭ったと認められるのですか」
リゼの訴えにセインが初めて口を開く。
「そうは言っても実際におたくらで復旧できてるじゃないですか。わざわざ調査に来てもいつもいつも小規模の災害ばかりだし、ここ何年かは要請すらなかったようですねえ。それって国が支援しなくても何とかなってるってことでしょ」
「ここ数年要請を出さなかったのは、急な当主変更で余裕がなかったせいもありますが、私が怠っていたせいでもあります。私の不徳はお詫びしますが、どうか今一度被災地を見ていってくださいませんか」
アルフレートが下手に出つつも願い出る。
普段は気の弱いところもあるが、妹だけを矢面に立たせるわけにはいかないと思ったのだろう。
しかし兄妹二人がかりの訴えに、セインはさらに鼻白んだ。
「まるでこちらがいい加減なことをしてるみたいに言いますけどね、私だってここに来る前に記録を遡って見てきてるんだ。それを踏まえて何をどう報告するかはこちらが決めることであって、おたくらの要望をいちいち酌んでたらキリがないじゃないですか。私が言ってることわかります?」
うんざりした調子で諭されて、いかにもこちらが無理難題を押し通そうとしていると言いたげな態度だ。
調査を聞き取りだけで終わらせずに被災地を実際に見てほしい。そう願うことはそんなにも無理なことなのだろうか。リゼにはそうは思えなかった。
「報告が終われば任務完了のあなた方と違って、私たちはこれからもずっと洪水に脅えて暮らさないといけないんです。お願いします、もっとしっかり被害を見て聞いてください。あなた方が頼りなんです、お願いします!」
「そんなことあんたみたいな小娘に指図される謂れはないんだよ──おい、行くぞ」
リゼが言い募るほどにセインは心底面倒そうな顔になり、ついには表面上の言葉さえも取り繕わなくなった。そのままギルベルトを促して馬の方に向かう。
リゼは追い縋り、今この時を逃せば後はないとばかりに懇願した。
「お願いします! この川は何度も決壊を繰り返しています! いくら溢れた岸を直そうとしてもダメなんです! よそにもここのような川はありませんか? そこの人たちはどう対処していますか? せめてお知恵を! 情報をください! お願いします!」
セインはもうリゼの方を見ることなく馬に跨がっている。
ギルベルトはふと立ち止まり振り向いて、何の温度も感じられない瞳でリゼを見つめた。
しかしそれも一瞬のことで、すぐに目を逸らし、被災地を見ることなく去ってしまった。
泥だらけの岸辺に兄と妹はただ佇む。
領を守りたいという気持ちがどれだけ強くても、それだけではだめなのだと思い知らされた。父と兄は、何度こんな思いを味わったのだろうか。やるせなさが込み上げて、目頭が熱くなる。
衝動のままに泣いて怒って吐き出したら楽になれるのかもしれない。けれどもそうしたところで何になるというのだろう。兄も領民も必死で復興に取り組んでいるなか、リゼだけが立ち止まり泣いている場合ではない。領主の妹としての矜持がリゼの感情を押し留めた。
「お兄様、ごめんなさい。私がもっと落ち着いて対応できていたらいくらか引き止められたかもしれないのに。せっかくの機会を台無しにしてしまったわ」
「リゼのせいじゃないさ。あの役人たちは最初からすぐに帰るつもりだったんだ。調査結果を見たお偉い人が被害を重く受け止めてくれることを願おう」
期待などわずかばかりもしていないような草臥れた声で、それでもリゼを元気づける言葉を口にして、アルフレートが弱々しく笑った。
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