3.前を向く
イアンが立ち去り、会議室に残されたリゼとギルベルト。3カ月ぶりの再会に、二人は。
◇◇◇
「じゃ、ギルベルトさん、そういうわけですから。私もグレイスも楽しみにしていますよ」
イアンはギルベルトの肩を叩き、会議室を出ていった。ご丁寧に扉はぴたりと閉じられている。
リゼは慌てて書類を手に取ると、部屋を出ようとイアンを追った。
「リゼ嬢」
扉に掛けたリゼの手に、ギルベルトの手が重なる。
ハッとして隣を見ると、リゼをまっすぐに見つめる彼と目が合った。
それは以前の彼が見せてくれたものと同じ、強い想いを感じさせるものだった。
彼に触れられ名を呼ばれる。
リゼは溢れそうになる想いに必死に蓋をした。
あの別離の日からずっと、どこか薄布のこちらから世界を見ているような日々を過ごしてきた。
領へと馬を走らせた日も、明るい展望が見えた日も、いつか女官にと意気込んだ日も、いつも体はそこにあるのに、心だけがあの日から一歩も動けずにいた。
リゼに触れる彼の熱が、心を現実に引き戻す。
彼の強いまなざしが、薄布の向こうからリゼを射貫いた。
不意にギルベルトが手を離し、リゼの頬を撫でる。
彼の手は濡れていた。
「あ……」
リゼの目からは次々と涙が溢れ、ギルベルトの手を濡らす。
やがて彼はハンカチを取り出し、リゼの頬や目元に優しく押し当てた。
彼の前で泣くつもりなどなかった。リゼは居たたまれず、顔を上げることができない。
「私にこんなことをいう資格はないのでしょうが……リゼ嬢、どうか辛い時は泣いてください。いつでも笑顔でいる必要などないのです」
リゼは下を向いたまま頷く。
こんなにも優しく触れて、リゼを心から想う言葉をくれるのに、彼は他の女性の婚約者なのだ。
──そうだ、彼はイアンと父親について話していた。
未来の義兄弟、姻戚としてここで何事かを話し合っていたのだろう。
リゼは思わず後ずさる。
自分たちはこんなところで二人きりで過ごして良い関係ではない。
ギルベルトは悲しげな目をしながらももうリゼに触れることはなかった。
代わりにハンカチをリゼに持たせる。
「あなたはもうしばらくここにいた方が良い。これはあなたに預けます。次に会った時に返してください」
リゼと扉の間に出来た隙間にするりと滑り込むと、彼は会議室を出ていった。
リゼはしばらくそこにとどまってから、午後の業務へと戻った。
◇◇◇
領のことや日々の業務に追われているうちに、気づけば王女のお輿入れまでもうあと三週間となっていた。
その慌ただしさ賑やかさは途方もなく、リゼは優雅さを心がけながら神経を張り詰めて毎日くたくたになるまで励んでいる。
そんな中でもライナスは侍女たちとの会話を欠かすことがない。
なるべく平常どおり過ごそうとしてくれる気づかいが、このともすれば殺伐としがちな雰囲気の中の一服の清涼剤のようでもあった。
しかし今日のライナスの口調はいつになく硬く力みが感じられる。
「あと少しでみなさんとお別れだと思うと本当に寂しい限りです。
以前私がこぼした言葉を覚えている方はいますか?
隣国へ私と一緒に渡ってくださる方はいないかという件です。実は私かなり本気であなた方を引き抜きたいと思っていまして、侍女長にもお話ししたのです。そうしましたらなんと、直接お誘いして本人に承諾してもらえたらお連れしても良いと言ってもらいましてね。
どうですか? まさか無理矢理にとは言いませんが、今後しばらく隣国は王太子妃ブームとなるはずです。妃殿下がいらした王女宮出身のあなた方なら、まず間違いなく公私ともに引く手あまたとなることでしょう」
部屋付きの侍女たち四人で顔を見合わせた。
夫と婚約者がいる侍女二人は『光栄なことですが…』とその場で断りを入れている。
未婚で婚約者もいないリゼともう一人は、さすがにすぐには返事はできないと伝えた。
「それは当然です。お返事はあなた方がその気になるまでいつまでも待ちます──と言いたいところですが、残念ながらそういうわけにもいきません。
とりあえずあと二週間。お輿入れの一週間前までに考えてみていただけますか。出入国書類はお二人分用意しておいて、不要になれば私が泣く泣く破棄します」
そう言いながらライナスが泣き真似をするものだから、みなで笑ってまたいつもの空気に戻るのだった。
リゼは領地の兄に書類を送る準備をしながら、これをイアンから受け取った時のことを考えていた。
ギルベルトがあの時あの場にいたのは、間違いなくイアンが仕組んだことだろう。
イアンの考えなどリゼには見当もつかないが、あの兄弟に対する苦手意識がさらに強くなってしまったのは仕方のないことだと思う。
けれどもあの日からリゼは身が軽くなったように感じる。
ギルベルトに会って、彼がイアンと交流しているのを目の当たりにして、リゼだけが立ち止まっていたことを痛感した。
ギルベルトもリゼと同様に忘れがたい想いを抱えたまま、それでも前に進んでいる。
自分はずいぶん茫漠と時を過ごしてしまったのかもしれないと、涙を流しすっきりした頭で考えてようやく自覚した。
リゼは書類を送るにあたり兄に手紙をしたためた。
鉱物保護の下準備は整えたこと、他にできることがあれば頼ってほしいこと、そして自身の今後のことを書いた。
領は発展目前。ギルベルトは前を向いている。
リゼももう足踏みを止めて薄布の外に歩きだそう。その決意を兄への手紙に込めたのだった。
◇◇◇
天気は快晴。
王女の門出を寿ぐかのような素晴らしい青空の下を、輿入れ一行はゆっくりと進み出す。
昨日のうちに別れの挨拶を済ませたリゼは、大きく手を振りたい気持ちをぐっとこらえて深々と頭を下げた。
別れを伴う転換期というものは、これから先、何度経験してもきっと慣れることはないだろう。
晴れやかさと寂しさとがない交ぜになりリゼは自然と涙がこぼれる。
昨日挨拶した際にも皆でずいぶん泣いたというのに、まだ涙は枯れていなかったらしい。
けれどそれで良い。涙を堪えなくても良いとギルベルトが言ってくれたのだから。
たくさん泣いて別れを惜しんだら、あとはまた前を向いてより良い未来を模索しよう。
リゼはそう思えるようになった自分が誇らしかった。
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次からギルベルト3が3話、その後エピローグとなります。




