秋めく晩夏に長唄を
※夜鷹とは:夜に河原などで身売りをする女性のこと。遊女の中の最底辺。
河原の夜鷹は月が嫌いだ。
お天道様はもっと嫌いだが、日の高く登っているうちは寝ていられる。厭な現世を離れられるだけまだよい。
夜鷹には月を風情があるなどと宣う連中が理解できなかった。満月などは夜鷹の面窶れした姿を客の前に暴き立てるのだから、無粋の極みだと思う。
それでも路に立たねば明日食うにも困る。夜鷹は黄色く変色した手で薄汚れた男を手招いた。
夜鷹の根城は河原にある小屋とも言えぬ小屋だった。腐りかけて打ち捨てられたよしずを拾い集め、かろうじて円錐形にしてある。地面にはこれまたボロボロの茣蓙が敷いてあって、寝転ぶとチクチクと背中が痛んだ。
夜鷹は河原の水でまめに身を清めていたが、訪れる男達のにおいまで消しされはしない。彼女の相手する男はいつも小汚かった。売春婦の中でも最も位が低い身なのだから、相手するのも貧しく不潔な者ばかりだったのだ。下肥え買いの訪れた時など、着物に染み付いた強烈なにおいが数日間取れなかったほどである。
夜鷹を脅かすものは飢えや不潔だけではない。彼女の小屋の周りには野犬が出た。その野犬は隙あらば小屋に侵入して、とっておいた干し餅などを漁るし、何より人肉の味を知っていた。
その味を教えたのは夜鷹である。
夜鷹とて最初からこのような暮らしをしていたわけではない。かつては美しく、格の高い妓楼に身を置いていた。そこで覚えた長唄は格別の響きがあるとして、美しい容姿とも相まって大層評判になっていた。
華やかな世界に身を置き、いつか身請けされることを夢見て生きていた。流行り病に倒れ、疱瘡の跡が醜く残るまでは。命を取り留めたところで地獄行きに変わりはなかった。
流れに流れ、今は握り飯一つで身を売る女となった。
食うや食わずで客を取り、子を孕むに至ったのは当然の成り行きである。
しかしそのような立場では、堕胎薬などという高級品が手に入る道理もない。膨れ上がった腹を自ら打ち付けても流れる気配もなく、その子は生まれてきた。
茣蓙に転がり一晩中呻き苦しんだ後、子猿のようにしわくちゃで、とんでもなくちいさな生き物が夜鷹の股の間に転がっていた。
廓で生まれ、物心付いた頃には折檻を受けながら遊女教育を受けていた夜鷹の、初めて知るぬくもりだった。生まれたらすぐに縊り殺すつもりだったのに、手はそっと赤子の頰を撫でていた。
夜鷹はそのやや子を可愛がった。
乳が出ないと見るや、金子の持ち合わせが多そうな商人に振り払われても振り払われても縋り付き、ようやく手に入れた銭で滋養のある物を買い食らった。
産後の肥立ちが悪くあばらの浮いた体で、毎夜五人も六人も小屋に連れ込み、やや子を守るため生きようと足掻いた。
けれどもそのやや子こそ、春をひさぐには邪魔になる。ある晩小屋に訪れた男が、ぐずるやや子をうるせぇと蹴り飛ばした。やや子は鞠のようにぽーんぽーんと、歯抜けのよしずを突き抜けて河原を転がっていった。
幸いやや子は無事であったが、もう夜の間はとても小屋には置いておけない。夜鷹は男を連れ込んでいる間、やや子を河原の藪に隠しておくことにした。
少し離れた藪の中、母を求め暗闇に怯える乳飲み児の泣き声が、月の浮かぶ空に吸い込まれていく。それは狼の遠吠えにも似て、町では河原に獣の妖が出ると噂が立つほどであった。
その噂はある晩を境に鬼女の噂へと変わる。
いつもの通りに辻で男を引っかけ、いつもの通りに小屋で仕事をこなした夜鷹は、いつもと違い静かな藪を覗きこんだ。
そこには口を赤く血で濡らした野犬がいた。腑を食い漁られた我が子がいた。
血走った目で、ざんばらの髪を振り乱し、夜鷹は野犬を打ち据えた。
木の棒を何度も何度も、何度も何度も狂ったように振り下ろす。その様を見た通りすがりの酔っ払いが情けない声を上げて逃げていくが、そんなことを夜鷹は気にも止めない。
振り下ろす。——外れる。
振り下ろす。——当たる。
振り下ろす。——野犬が棒に食いつく。
背を強く打たれた野犬は、ギャン、と一声鳴いて逃げていった。
それからも夜鷹の生活は変わらなかった。以前の必死さは鳴りを潜め、一晩誰の訪れも無い日もある。
虚ろな目で子守唄を唄う夜鷹を町の人々は気味悪がった。それでも、茶屋遊びなど出来ない貧しく女に飢えた男達は、ぽつりぽつりと河原を訪れた。
幽鬼の如き有様でも、男と交合えば子もできる。再び腹が膨れそして萎んだ女は、生まれた赤子を今度は躊躇なく野犬に与えた。
どうせ育てられぬなら、最初から情などかけまい。しかし夜鷹は自分の手で縊る事だけはどうしても出来なかった。
河原には人肉の味を覚えた野犬が彷徨くようになり、益々人の足が遠のいた。
犬が夜鷹に近づいてきた時は棒を振り回して追い払っているが、それも身に力のあってこそ。何かしらの均衡が崩れた時、自分はこの卑しい犬に食い殺されるのだろう。諦め混じりに女はそう思っていた。
小屋に珍しい客が訪れた時も、夜鷹は無気力に唄っていた。
——馴し廓の袖の香に 見ぬやうで見るやうで
「こりゃあ、こんなとこに置いとくにゃあもったいない声だ」
身なりのいい番頭風情の男がよしずの隙間からヒョイっと顔を覗かせた。
「これは珍しいお客さんだこと。あたしのような立ちんぼに、一体全体何の御用で」
「腕に勘吉って起請彫りのある女ってなァ、あんたかい」
「肌が見たきゃァお駄賃恵んでおくんなせぇよ」
こりゃ失敬、と膝を叩いて、男は女に小銭を(女からすると大金を)渡して茣蓙に胡座をかいた。
未だ不審げな態度を崩さない夜鷹を無視して、男はとある妓楼の名前を出した。女の顔色が変わる。
それを見て、ああやっぱり、と男は頷きながら語り始めた。
——油屋の勘吉ってご存知ない? いいやご存知の筈ですぜ。それがあっしの主なんですけどね。そう、かつてあんたを身請けしようとした男でさァ。ある日突然顔を出さなくなったでしょう。そんときゃあ商売が上手くいかなくなってた時期でねえ。ようやく立て直して身請けしようって時にゃぁあんたはもう居なくなってたってわけさ。
病に倒れて死体みたくなってンのを辻に捨てたって聞いて、旦那は真っ青になってましたぜ。なにせあんたはあの人の初恋の女性であり筆下ろしの相手ですからね。
ここで男はくつくつと下卑た笑いを浮かべた。
——まあ居なくなっちまったのは仕方ないってんで結婚したんですけどね。なんせ、遊女を本妻にするなんてのは大奥様は大層反対してらしたんで。でもこれが、嫁いできた奥方は何年経っても孕まねえ。終いにゃ石女ってんで大奥様が追い出しちまって。次の嫁も、また次の嫁も駄目でね。
こうなるともう、勘吉に嫁ぐと姑にいびり殺されるって噂が立っちまって、良縁も来ない。旦那もすっかり悄気ちまって。
運命の女性と結ばれ損なったからこうなったんだ。やっぱりあの女がいい、あの女でなきゃ駄目だ、ってね。
そこであっしが一肌脱いだってわけでさ。勘吉の起請彫りが入って、長唄の一等上手な遊女を探してね。
「今更あたしにどうしろと……こんな醜い形で勘吉様の元に顔なんてだせません」
「なァに、醜い形だからいいんですよ。そのあばた面で旦那の目を醒まさせてやってくだせぇ」
番頭風の男は冷たく笑った。次の満月の晩、ここに来る、と。
夜鷹は再び半狂乱になって辻に立った。普段食べ物を代金がわりに夜鷹の身を貪る馴染みを袖にし、金を持っていそうな男に的を絞る。乞食まがいのことをしてまでかき集めた銭で、白粉を買った。紅を買う金はなかった。
夜には投げ込み寺とは名ばかりの廃寺へ忍び込み、無造作にころがされた女達の中からまだましな召し物を剥ぎ取った。
冷たい川に身を浸し、虱の住み着いた頭をがしがしと強く擦る。栄養不足でひび割れた肌の襞を爪で搔きむしり、溜まった垢を削ぎ落とした。
河原に住み着いた野犬を探し、石で殴って殺した。じゅくじゅくと滲む血を指で掬い、唇に塗りたくる。
満月の晩、女は染め抜き模様のほつれた着物を身にまとい、白粉を顔中にはたいて河原に立った。
「本当にこんなところに居るのか?」
「間違いありませんぜ、旦那。エエ、あっしがしかとこの目で確認しましたから」
町の灯りを背に二つの人影が近づく。一歩、二歩。
月の中にぼうっと浮かぶ女の顔を勘吉の目が捉えた。
白髪混じりの髪はざんばらで、所々禿げて頭皮が覗いている。乾ききってひび割れた肌に無理矢理白粉を乗せた顔はカビた餅のようだ。その下部に、血のように赤い唇がぬらぬらと光っていた。
「本当に……本当に志乃さんなのかい。こんな姿になって」
勘吉は震える手を伸ばし、触れるのを躊躇って途中で止めた。
「病に倒れ、これほどまでに醜く変わり果てたあたしを、そうまっすぐ見ないでくだしゃんせ」
夜鷹は顔を逸らし手で覆い隠した。
「志乃さん、遅くなってすまなかった。迎えに来たよ。もうこんなつらい生活に身を置かなくていい。長い時間がかかってしまったけれど、迎えに来たんだ」
「ちょっと待ってくだせえよ旦那! 本気でこの婆アを引き取る気ですかい? 冗談じゃねえや、大奥様が許しやしませんぜ!」
「もうあの人の好きにはさせない」
勘吉は強く言い切って、顔を覆う夜鷹の手を着物の袖越しにそっと握った。
再び夜鷹の醜い面差しが月明かりに晒される。
「この格好では家には呼べないから、明日綺麗な着物を持って来るよ。身を清めて待っていておくれ」
「勘吉さん、ほんとうに?」
「ああ、もちろん。ずっとずっと、あなたのことを忘れたことはなかった。今夜は志乃さんの唄が聞きたい久し振りに聞かせておくれ」
——女郎の誠と玉子の四角 あれば晦日に月も出る しょんがいな
薄明かりに照らされ女は唄う。白粉がつらつらと雫に流され跡を残す。それを赤裸々に満月が暴きたてた。
河原の夜鷹は月が嫌いだ。
一晩たち、二晩たち、河原の小屋からは人の気配が消えた。
のそり、のそりと町の中を女が歩く。頭には萎れた花を指し、唇には鼠の血を塗り、着飾っているつもりらしい。
——あたし綺麗にならなきゃいけないの、ねェ協力しておくんなましよおにいさん。イイコトしてあげるからサァ
道行く人一人一人に声をかけて練り歩く。
——慣れし廓の袖の香に 見ぬやうで見るやうで
幽鬼まがいの女にしては美しく洗練された唄が、血塗れの真っ赤な口から流れ出る。
ふと女の視線が一点に留められた。
連れ込み宿の手前で、身形の良い一端の商人風の男が、若い娘の腰を抱いている。娘がゆったりと男にしなだれかかり、拗ねた風に口を尖らせた。
「聞きましたヨォ——さん、河原の鬼婆を身請けするとか」
「まったく、うちの番頭も口が軽い。いくら醜く変わり果てようとも、男は初恋の女性の心にいつまでも美しい思い出として住んでいたいものなのさ。安心してくれ、本当はもちろん私の心は君だけのものだよ」
「——さんったら」
女に娘の声は聞こえない。その可憐な桃色の唇が呼ぶ名など、聞こえない。
——男の誠と玉子の四角 あれば晦日に月も出る しょんがいな
満月の夜には鬼女が出る
唄い手招く鬼女が出る
あばた面の鬼婆で
子供を獲って喰うとか喰わぬとか
白粉には血涙のあとが、幾筋も付いているとかいないとか
若く美しい娘を抱き寄せる男を月が照らす。
河原の夜鷹は月が嫌いだ。