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第二章 風の守り神

 夏休みになった。

 だが、それは名ばかりで、実際は地震のために減ってしまった授業時間を取り戻すため、補習課外が続くのだった。

 夏休みに入ってから最初の日曜日がやってきた。

 わたしは、地震が起こるまで暮らしていたマンションに、久しぶりに戻ることにした。避難所には必要最低限のものしか持ち出せなかったので、部屋に残していた参考書や問題集が補習課外で必要になったのだ。

 もちろん一人ではない。母と一緒だった。母は、わたしが一人だけでマンションに戻ることを決して許さなかった。

 朝早くから避難所となっている体育館を後にして、母とわたしはマンションに向かった。

 必要な荷物を持ち帰るため、二人とも大きなショルダーバッグを肩から下げていた。朝といっても真夏の陽射しはとても強烈で、ちょっと歩くだけですぐに全身から汗が噴き出してきた。

 額の汗を手の甲で拭うわたしに目をやりながら、母がフッと小さく笑った。

「ねぇ、妙。あなた、最近元気が出てきたみたいね。地震のせいで避難所暮らしが始まった頃は、顔色も悪くて、いつも眉間に皺を寄せてたけど……お母さん、ちょっと安心したわ……でも、色々苦労かけてごめんね」

 わたしは、いつも母から小言を食らっていた。几帳面な母からすれば、何事にも大雑把な娘にイラつくことも多いのだろう。そんな母から急に謝られて、返す言葉が見つからず、空中に視線を漂わせていた。

 そんなわたしの様子に目を細めながら母が微笑んだ。

「あのね、妙……おばあちゃん、今、入院してるでしょう」

「うん……」

 おばあちゃんというのは母のお母さんだ。


 母の幼い時に母のお父さんが病気で亡くなって、おばあちゃんは女手一つで母を育てたそうだ。そんなこともあってのことだろうが、母は、おばあちゃんのことをとても大切にしている。自分たちのマンションを決める時、おばあちゃんの家の近くにしたのも同じ理由からだ。

 おばあちゃんの家はマンションから歩いて十分ぐらいのところにあった。古い木造平屋の小さな家で、そこは母が育った場所でもあった。

 自分たちのマンションと同じく、おばあちゃんの家も地震の震源地に近かった。そのため、おばあちゃんの家は完全に潰れてしまった。でも地震が起こった時、布団の中にいたおばあちゃんは奇跡的に助かった。

 自衛隊の人が何時間もかかって潰れた屋根を引き剥がして、やっとおばあちゃんは助け出された。そのまま担架に乗せられて、救急車に運び込まれるおばあちゃんの姿に涙が止まらなかった。そのことは、今でも鮮明に覚えている。


 命は助かったが、元々身体が弱っていたおばあちゃんは今だに退院できない。

 母は話を続けた。

「あのね……お母さん、後悔してるんだ……なんでおばあちゃんと一緒に暮らさなかったんだろうって……一緒に暮らしていれば、こんなことにはならなかったのにって……」

 今度も返す言葉が見つからなかった。でも、「一人で暮らすのがいい」って言い張ったのは、おばあちゃんの方だと記憶していた。それでも母は、自分を責めて後悔しているようだった。

 母が新しい家を探すのに時間がかかっているのも、おばあちゃんが退院したら一緒に暮らそうと考えているためだ。身体の弱ったおばあちゃんのため、バリアフリーで三人が生活できる家を探しているみたいだった。だけど、地震であちこちの建物が壊れている今の状況では、そんな物件は簡単には見つからないらしい。

「ねぇ、妙……あなたも色々忙しいとは思うけど、時間を見つけてお見舞いに行ってあげてね。おばあちゃんは、あなたの顔を見るのが一番嬉しいみたいだから」

「うん、分かった!」

 わたしは力強く頷いた。自分に出来ることはそれぐらいしかなかった。それに孫四郎にも、おばあちゃんと会わせたかった。

 それから十分ほど歩き続けると、マンションに着いた。

 マンションの入り口の壁には大きな紙が貼り出されていた。そこには大きな文字で〈危険〉と表示されている。その張り紙の色は黒ずんだ赤で、まるで血に染められているように思えた。反射的に足げ竦んで動けなくなった。

 そんなわたしの横顔に目をやると、母は「さぁ、行くよ!」と喝を入れた。それからマンションのエントランスに足を踏み入れ、振り向きもせずに先へ進んでいった。

 母の背中に引っ張られるようにして、わたしもエントランスに入った。

 地震の影響でエレベーターは止まっていた。わたしたちはエントランスの奥にあるドアを開けると、階段の上り口に進んだ。幸いにして自分たちの部屋は二階だったので、階段でもさほど不便ではなかった。二階の廊下に出ると、階段口から三軒目の部屋に向かった。そこがわたしたちの家だった。

 部屋の前に着くと、母がポケットから鍵を取り出した。玄関のドアノブに鍵を差し込んで回すと、カチッと小さな音が廊下に響いた。

 母が玄関のドアノブを掴んで開けた。わたしたちは玄関口から部屋の中を恐るおそる覗き込んだ。

真っ暗だった。

 電気が止まっているのだから、当然といえば当然だ。誰もいないマンションは怖いぐらいに静まり返っていた。

 わたしは目の前の暗闇に吸い込まれそうな気がして、ゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。ほんの少し前まで自分たちが暮らしていた空間とは、とても思えなかった。空気も澱んでいて、部屋の中からムッとする熱気が押し寄せてきた。

 母は、ショルダーバッグから懐中電灯を取り出すと、部屋の中に灯りを向けた。すると、奥のリビングに続くフローリングが暗闇の中から浮かび上がった。

 母は玄関の靴箱を懐中電灯で照らしながら、スリッパを二足取り出した。

「これに履き替えて、妙」

 母からスリッパを受け取ると、靴を脱いで履き替えた。

 懐中電灯を高く掲げるようにしながら、母が部屋の奥へと進んでいった。その背中にピッタリと張り付くようにしながら、わたしは一歩ずつ前へ進んだ。

 母はリビングの一番奥まで辿り着くと、窓のカーテンを掴んで、放り投げるように開いた。シャーッとカーテンレールの金属音が響くと同時に、サッと陽射しが差し込んだ。

 母が、次々と部屋中のカーテンと窓を開けた。それまでの圧するような暗闇が消えた。

 ここは三ヶ月前まで、わたしたちが暮らしていた部屋だと、ようやく実感できた。

 それでも外には風が全く吹いておらず、部屋の中の空気は澱んだままだった。むしろ外気のために湿度が上がり、ムッとする空気が肌にまとわりついて、首筋に汗が滲んできた。

 わたしは、あちこちの部屋を見回っている母から身を隠した。

「孫四郎、いるの?」

『いるよ、妙ねぇちゃん!』

 待ってましたとばかりに、孫四郎がすぐに返事をした。

「あんまり暑いから、ちょっと風を吹かせてくれない?そよ風ね。そ、よ、か、ぜ!」

 そよ風というフレーズをことさら強調した。孫四郎にものを頼む時は、出来るだけ具体的に言わないと間違いのもとになる。そのことは今までの経験で痛いほど分かっていた。

『いいよ。分かった!』

 孫四郎の軽やかな返事が頭の中に響いた。次の瞬間には、スーッと頬を撫でるような、そよ風が窓から吹き込んできた。部屋の中に満ちていた澱んだ空気が一気に抜けていった。

「とっても気持ちいいよ。ありがとう、孫四郎!」

 孫四郎の風はまさしく天然のエアコンだった。

『へへへっ、よかった!ところで、ここが妙ねぇちゃんの家なのかい?』

「そうだよ。地震で、もう住めなくなっちゃったけど……」

『そっかぁー。妙ねぇちゃんも大変だねぇ。こんなに素敵な家なのに、住めないなんて残念だよねぇ』

「そうなのよ」

 ヒソヒソと声を忍ばせながら孫四郎と喋っていると、不意に背中に悪寒が走った。

 咄嗟に振り向くと、いつの間にか母が背後に立っていた。母は眉をひそめながら、わたしの様子を窺っていた。部屋の隅っこに隠れるようにして、ブツブツと独り言を呟くわたしを、母が不審に思っているのは間違いなかった。

「いったい何やってんの!さっさと参考書を探しなさい!お母さんは、キッチンとリビングを片づけるからね!」

 母の一喝に首を縮めるようにしながら、慌てて自分の部屋に向かった。

 熊本地震から三ヶ月経った今でも余震は続いていた。地震はいつ起こるか分からない。もしもこの瞬間に大きな地震が起こったら、このマンションが崩れる可能性だってある。心の底では母も不安なのだろう。

 自分の部屋に入ると、床には洋服が散乱し、足の踏み場も無い状態だった。机の上に目をやると、参考書が乱雑に積み重ねられていた。ここは、二度目の大地震に襲われて極限状態の中で避難所に向かった、あの日のままだった。

 不意にあの時の悪夢のような記憶が蘇ってきた。

 本震が直撃した時、天地が崩れるような凄まじい揺れに、わたしは、「ギャー」と大きな悲鳴を上げていた。

 本震の揺れが治まった後も、激しい余震が繰り返し襲ってきた。その度に、ギギッーとマンションのコンクリートが軋む音が部屋の中に響いた。なすすべもなく、わたしは母と抱き合って震えていた。

 遂には母が沈痛な面持ちで、「ここを出よう」と告げた。その瞬間、この世の終わりを迎えたような深い絶望感に襲われた。

(もう……元の暮らしには戻れないんだ……)

 瞳に涙が滲んできた。零れ落ちる涙を手の甲で拭いながら、ポケットからハンカチを取り出した。

『妙ねぇちゃん……大丈夫かい?』

「うん……大丈夫……孫四郎……ありがとね……」

 ハンカチを瞼に押し当てながら声を絞り出した。

『おいらにできることがあったら、なんでも言ってね、妙ねぇちゃん』

 孫四郎の言葉にコックリと頷いた。いつも傍にいてくれる孫四郎は、今のわたしにとってかけがえのない存在だ。

 やっと涙が治まると、机の上の参考書の山に近寄った。地震の直後で慌てていたとはいえ、それにしてもヒドイ散らかりようだ。あまりの状態に、どこから手をつければいいのか分からず、しばらくの間、途方にくれていた。

 不意に、ついさっき母から「さっさと探せ」と一喝されたことを思い出した。必要な参考書を一冊ずつ確認していたら何時間かかるか分からない。

(これはヤバイ!)

 わたしは、ろくに確かめもせず、参考書や問題集を手当たり次第にショルダーバッグに放り込んだ。バッグがはち切れるほど一杯になったところで、一旦、両手で持ち上げてみた。ズシンと掌に重みが伝わる。指がちぎれそうだ。

(これゃあ、無理だ。絶対持てない!)

 バックの中から、使わないと思われる参考書を取り出すと、そのままフローリングの上になりふり構わず積み上げていった。バックの中が半分ぐらいになったところで、もう一度、両手で持ち上げてみた。

(これならなんとか持てるかも!)

 ショルダーバッグの帯紐を肩に担いで立ち上がった。

 リビングに戻ると、母がダンボールの中へ衣類を畳んで詰め込んでいた。どうやら避難所に持っていくつもりのようだ。

「終わったよ、お母さん」

 母は顔を上げると、眉間に皺を寄せた。

「早かったわね、妙。忘れ物とか無いでしょうね。そんなに頻繁には来れないんだから」

 母の小言は、いつものことだ。わたしは、「うん、大丈夫!」と軽い調子で話を合わせた。実はテキトーにカバンに詰め込んだだけ、なんてことは絶対に言えない。

 それから母とわたしは、ダンボールを抱えながら、マンションの部屋を後にした。

 外は眩しいほどの陽射しが容赦なく照りつけていた。

 ダンボールには衣類しか入れてないので、それほど重いわけではない。それでも、参考書を詰めたショルダーバックを肩から下げたまま、母と歩調を合わせながら大きなダンボールを抱えて歩くのは大変だった。

 避難所となっている小学校の体育館に辿り着いた時には、全身汗ダクになっていた。ダンボールを下ろした瞬間、体育館の床にへたり込むと、しばらくの間、ハァハァと荒い息を吐いていた。


 母と一緒にマンションに戻った数日後のことだった。

 補習課外は続いていた。相変わらず太陽は殺人的な陽射しを降り注いでいた。でも、窓を全開にした教室の中には、爽やかなそよ風が吹き抜けていた。

 もうすぐ朝一番の課外授業が始まる。先生はまだ教室に姿を現していない。

「夏休みなんて名前だけじゃん……まったく冗談じゃないよ……」

 机に突っ伏しながら、独り言のようにグチをこぼした。

「グチっても、どうしようもねぇだろう」

 隣の席の相川が冷ややかに呟く声が聞こえた。わたしは机に突っ伏したまま、相川の方に顔を向けた。相変わらず首にアイシングのベルトを巻いている。

「あんたは、それをしてるから、暑さも平気なんだよ」

 相川は机の上で頬杖を突きながら、わたしに一瞥を投げた。

「そういうお前も、毎日、孫四郎に頼んで、そよ風を吹かせてもらってるだろ。まぁ、俺を含めて、クラスのみんなが恩恵を受けてるんで文句はないがな」

 相川が正面に向き直った。クールな横顔が小憎らしい。

(やっぱりコイツにはバレてたのか!)

 教室を吹き抜けるそよ風は、孫四郎が吹かせているものだった。そのおかげで毎日なんとか暑さを凌げている。孫四郎のことを大声で話すわけにもいかず、わたしは、プッと頬を膨らませると、背筋を伸ばしながら椅子に座り直した。その瞬間、教室のドアが開いて、先生が教室に入ってきた。

 朝の登校時刻は夏休み前と同じで、午前中は補習課外が続くが、午後には解放される。エアコンの効かない教室では、さすがに先生たちも暑さに音を上げたのだろう。

 学校を後にして自転車をノロノロと走らせながら、わたしは考え込んでいた。

(明日の課外の参考書、どうしよう……マンションに置いてきたみたいだし……)

 結局、マンションに忘れ物をしていた。

 ろくに確かめもせずにカバンに詰め込んだのだから、当然といえば当然だ。あの時、母から「忘れ物はないか」と何度も念押しされた。今さら、「忘れ物したからもう一度マンションに行きたい」なんて、とても言えない。大目玉を食らって、散々絞られるだろう。

(このまま自分で取りに行くしかない。まだお昼だし。なにより孫四郎が一緒だし)

 マンションの鍵は、以前からカバンの中に入れていた。わたしは制服姿のまま、自転車でマンションに向かった。

 既に避難所の近くまで来ていたので、五分ほどでマンションの前に着いた。空を見上げると、どんよりとした曇り空になっていた。朝のネットニュースで夕立に注意と言っていたのを思い出した。

『あれっ、妙ねぇちゃん。ここって、妙ねぇちゃんの昔の家だよね?』

 孫四郎は、いつもの帰宅ルートと違うことに気づいたようだ。

「そうだよ、孫四郎。今日は、ここに用事があるんだ」

『でも、妙ねぇちゃんの母上が、一人で行っちゃダメだって言ってたよね。大丈夫なのかい?』

「そうだね。でも、わたしは一人じゃないよ。だって、孫四郎が一緒でしょ。だから、大丈夫だよ」

 わたしのテキトーな言い訳に孫四郎は大喜びだった。一人前に扱われたことがよほど嬉しかったのだろう。舞い上がったように、『そっかぁ、そっかぁ』と、何度も独り言を繰り返していた。

 そんな孫四郎の呟きをBGM代わりにしながら、マンションの駐輪場に自転車を止めた。

 通学用のカバンを肩に掛けると、マンションのエントランスに入った。

 二階まで上って廊下の軒先から空に目をやると、灰色の雲が一面に広がっていた。

(もうすぐ雨が降るかもしれない。急がないと!)

 急ぎ足で廊下を進んだ。自分たちの部屋は階段口から三軒目だ。

 真っ直ぐ伸びる廊下の先に目をやると、ちょうど三軒目の部屋の扉の前に誰かがいた。廊下に膝をつきながらドアノブに手をかけている。

 わたしは、ギョッとして立ち止まった。

 その気配に気づいて、その人が慌てて立ち上がった。一瞬、こっちに目をやると、わたしの視線を避けるようにアゴを引いて俯いた。黒っぽい作業服を着て、ツバ付きのキャップを被った五十歳ぐらいのおじさんだ。見覚えは全く無かった。

 おじさんは右手でキャップのツバを引き下げながら、わたしの方を盗み見るように窺っていた。

 わたしはじっと立ち竦んだまま、反射的に両手の拳をギュッと握っていた。

「どっ、どちら様ですか?」

 沈黙に耐えきれずに問いかけた。なんとか絞り出した自分の声は震えていた。

 おじさんはキャップのツバを右手で掴んだまま、「市役所の者です。このマンションは危険なので、誰か残っていないか、見廻っていたんですよ」と、よどみなく答えた。まるで最初からセリフを用意していたようにも感じられた。

 おじさんから視線を外さぬようにしながら、黙って頷き返した。

「さあ、あなたも早く退避して下さい。危ないですから!」

 命令口調で呼びかけるその声は、どこか上滑りしていた。まるで覚えたてのセリフを棒読みしているみたいで、とても違和感を覚えた。

 おじさんを横目で見ながら、口元を掌で隠すと、「孫四郎。あのおじさん、どう思う?」 と囁いた。

『よく分からないなぁ……』

 孫四郎もどこか怪しいと思っているようだ。

「ちょっと確かめてくれない、孫四郎?」

『確かめるって、どうすればいいんだい、妙ねぇちゃん?』

「そうねぇ。じゃあ、まずはあの帽子を吹き飛ばしてみてよ」

『分かった!やってみるよ!』

 孫四郎の勢い込んだ声が頭の中に響いた。

 口元に手を当てて何かブツブツ言い続けるわたしを、キャップのツバの陰からおじさんが睨んでいた。いっこうに立ち去ろうとしない、挙動不審の女子高生に業を煮やしたのだろう。遂には、「さあ、危ないから早く建物から出て!」と怒鳴り声を張り上げた。

 その瞬間、おじさんの顔に向かって、ビュンと突風が吹きつけた。キャップのツバがめくれ上がり、そのまま後ろに吹き飛ばされた。ボサボサに乱れた白髪が逆立っていた。

 廊下のコンクリートの上に、おじさんのキャップが落ちた。それと同時に、チャリンという甲高い金属音が響き渡った。

 わたしの視力は、裸眼で左右ともに二.〇を超えている。そんな自分の眼に、コンクリートの廊下に転がっている鍵の束がはっきりと映った。

(コイツは空き巣だ!)

 そう確信して、思わず後退りをした。突然、わたしが現れたので、咄嗟にキャップの中に鍵を隠したのに違いない。

 慌てた様子で空き巣のおじさんは、クルリと背中を向けて廊下に屈み込んだ。右手を伸ばして鍵の束とキャップを掴むと、コンクリートの廊下に膝を突いたまま、わたしの方に振り返った。

 空き巣のおじさんが、後退りをしているわたしに、刺すような視線を投げた。途端に、その表情が鬼のような形相に変わり、うずくまった姿勢から飛び上がるようにして走り出した。逆立った白髪を振り乱しながら、血走った眼でこっちに向かってきた。

 わたしは慌てて、クルリと後ろを向いた。運の悪いことに、肩から下げていたカバンのチャックが開いていた。カバンを振り回した反動で参考書が廊下に散らばった。走り出そうと足を踏み出して、それを踏んづけた。廊下のコンクリートの上で参考書が滑り、そのまま転んでドンと膝を痛打した。

 空き巣のおじさんがすぐ背後に迫ってくる気配を感じた。

『妙ねぇちゃん!危ない!』

 ブンと空気を切り裂く音が背中越しに聞こえた。

 廊下に膝を突いたまま振り返ると、真後ろに竜巻が現れていた。

 人の背丈ほどの大きさで、ゴゴゴッーと地響きのような唸りを上げている。竜巻が起こす突風に煽られて、自分の髪が逆立っておでこが全開になった。廊下に散らばった参考書が四方に吹き飛んでいく。

 竜巻の渦の中にぼんやりと人影らしきものが見えた。その人影は竜巻の中で、グルグルと、もの凄い勢いで回っていた。まるで洗濯機の脱水モードみたいで、見ているこっちが目を回しそうになるほどだ。

「孫四郎!」

 目の前の竜巻に向かって叫んだ。

 次の瞬間、竜巻が消えた。

 空き巣のおじさんは、竜巻の遠心力で廊下の先へ飛ばされた。そのままゴロゴロと廊下を転がっていき、廊下の一番奥の壁にドンとぶつかった。そのまま手足を広げて仰向けに倒れたまま、空き巣のおじさんはピクリとも動かなかった。

 わたしは廊下に手を突きながら立ち上がった。

『妙ねぇちゃん、大丈夫かい?』

「うん、大丈夫だよ、孫四郎。ホントにありがとう。助けてくれて」

『良かった。妙ねぇちゃん、あいつは泥棒かい?』

「たぶん、そうだと思う。あの人、死んじゃったの?」

 空き巣のおじさんは、廊下の端で大の字のまま、完全にのびていた。

『死んじゃいないよ。気絶してるだけ』

 孫四郎の言葉にホッとした。目の前で人が死ぬのは怖すぎる。

 ポケットからスマホを取り出すと、警察に電話をかけた。

 マンションの住所を告げて電話を切った瞬間、いきなり両足の力が抜けて、そのまま廊下にへたり込んだ。全身に悪寒が走り、震えが止まらない。

『妙ねぇちゃん!どうしたの?寒いの?』

 ガチガチと歯の根も合わず、わたしは喋るどころじゃなかった。

『寒いんだね。分かった。任せといて!』

 わたしの体を包むように、ゆっくりと周りの空気が動き始めた。頬に触れる風が人の体温のようにポカポカと暖かい。まるで孫四郎に優しく抱き締められているみたいだった。

 風の渦の中には、ほんのりと甘酸っぱい香りが漂っていた。柑橘系の果物の香りのようでもあり、幼い赤ちゃんの匂いにも似ている。なぜか懐かしい気がした。

(これは……孫四郎の匂いなのかもしれない……)

 そのまま暖かな微風と甘酸っぱい香りに全身を包まれていた。

 だんだん体の震えが治まってきた。さっきまでガチガチと激しく鳴っていた歯の音も、いつの間にか消えていた。

「あっ……ありがとう……孫四郎……もう……大丈夫よ……」

 やっと喋れるようになって、孫四郎にお礼を言った。

『暖かくなったかい?無理しないで、そのままでいなよ』

 それからしばらくの間、わたしは廊下に座り込んでいた。孫四郎の風の渦に身を任せながら、ゆっくりと深呼吸を続けた。まるで甘酸っぱい香りに全身を浸しているみたいだった。

 しばらくすると、「ウー、ウー」というパトカーのサイレンの音が微かに聞こえてきた。その音は徐々に大きくなって、最後には辺りを蹴散らすような大音量で鳴り響くと、突然消えた。

 それと同時に、わたしを包んでいた孫四郎の風の渦が消え去った。

 すぐにタッタッタッと階段を駆け上がってくる靴音が聞こえた。二人のお巡りさんが階段口に姿を現わし、廊下に座り込んでいるわたしに駆け寄った。

 お巡りさんの一人が廊下に片膝を突くと、わたしの顔を覗き込みながら、「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。見た目は自分と同年齢ぐらいに思えるほど、若いお巡りさんだった。制帽を被った姿が凛々しい。

「はっ、はい」

 わたしは、ぎこちなく返事をした。

 もう一人のお巡りさんは、仁王立ちのまま、左右を見回しながら辺りを窺っていた。銀縁眼鏡をかけた角刈りのおじさんで、強面の威圧感がハンパなかった。そのお巡りさんが廊下の端に大の字で横たわっている空き巣のおじさんの方に視線を向けた。

「おい、あれ!」

 角刈りのお巡りさんが大声を張り上げながら廊下の端を指差した。

 若いお巡りさんは片膝を突いたまま、その指差す方向に目をやりながら眉をひそめていた。そして、わたしの顔に視線を戻すと、「ちょっと待っていて下さいね」と、切れ長の目尻を下げながら優しく微笑んだ。よく見ると、醤油顔で鼻筋がスーッと通った爽やか系男子だった。わたしはコックリと頷いた。

 二人のお巡りさんは腰に巻いたベルトから警棒を取り外すと、廊下の端でのびている空き巣のおじさんに近寄った。

 廊下の端に辿り着くと、手足を大の字に広げている空き巣のおじさんに向かって、角刈りのお巡りさんが、「おい!」と怒鳴った。

 空き巣のおじさんがやっと目を覚ました。でも全身に打ち身を負っているようで、体を動かそうとする度に呻き声を上げていた。全く立ち上がれない様子で、横たわったまま、角刈りのおじさんから手錠をかけられていた。

 若いお巡りさんが、わたしの方に近づいてきた。 廊下に座り込んだままのわたしの目線に合わせるように、また片膝を突いた。

「もう大丈夫ですからね。立てますか?」

 わたしはコックリと頷き返すと、廊下に手を突いて立ち上がった。

 周囲には参考書が散らばっていた。若いお巡りさんは、わたしと一緒に参考書を拾ってくれた。

 参考書をカバンに詰め終わると、お巡りさんに先導されてマンションの外に出た。

夕暮れ間近の空は鉛色の雲に覆われていて、辺りは既に薄暗かった。マンションの周囲には野次馬が集まっていた。

 若いお巡りさんは、野次馬たちの視線からわたしを守るようにして、そのまますぐにパトカーの後部座席に乗せてくれた。それから立て続けに何台ものパトカーがマンションの前に到着した。

 パトカーの車内では、若いお巡りさんが自分の隣に座った。バインダーに書類を挟むと、わたしに質問しながら、ボールペンを走らせた。わたしは、ごまかしようも無いので、正直に話すしかなかった。ただし孫四郎のことだけは言わずに、「急に突風が吹いた」と嘘をついた。

 事情聴取が終わるまで三十分ほどかかった。

「じゃあこれで終わりです。もしかしたら警察署で、もう一度お話しを伺うことになるかもしれません。その時はあらためて連絡しますからご協力お願いします」

 パトカーの後部座席とはいえ、爽やか系男子と二人っきりの時間が終わってしまうのがちょっと残念だった。

 パトカーの後部座席から外に出ると、辺りはすっかり暗くなって、おまけに小雨まで降っていた。マンションの周りには、既に野次馬は一人も居なかった。

「松下さん、避難所まで送りますよ」

 若いお巡りさんがパトカーの中から傘を取り出した。

「えーっ、いいんですかぁ!」

 思わず声がうわずってしまった。カッコいいお巡りさんに避難所まで送ってもらえると思うとテンションが上がった。でも次の瞬間、人の行き来が激しい避難所の周囲では、すぐに人目に付くだろうと思い直した。そうなると、母の耳に入って……それ以上は想像するのも恐ろしかった。

「すっ、すいません。そこまでは大丈夫です。近所に友達がいるので、すぐに迎えに来てくれると思います」

「分かりました。じゃあ、そのお友達が来てくれるまで、一緒に待っていますよ」

 若いお巡りさんは持っていた傘を開くと、小雨に濡れないように、わたしに差しかけてくれた。

「ありがとうございます。すぐに来てもらいます」

 申し訳ない気持ちでいっぱいで、慌ててスマホをポケットから取り出した。

(この状況で頼めるのは……アイツしかいない……)

 わたしは連絡先を検索して発信ボタンを押した。耳にスマホを当てると、プルルという呼び出し音が鳴るや否や、「おい、どうした!」と、相川の声が聞こえてきた。

(早っ!ワンコールで出やがった)

 わたしは、ちょっと動揺した。

「ごめん……ちょっと迎えに来て……ほしいんだけど……」

「分かった。今、どこだ?」

「前に住んでたマンションのとこ。でも、いいの?」

「すぐに行くから、待ってろ!」

 相川が怒鳴るような調子で言い放つと、プツンと通話が切れた。わたしはスマホを耳から離すと、お巡りさんに向かって、「すぐに来てくれるそうです」と告げた。

 わたしは、マンションの隣にある二階建ての家に目をやった。コンクリート打ちっ放しで、いかにも頑丈そうだ。この家が相川の自宅だった。

 ガチャンと乱暴にドアを開ける音が辺りに響き渡った。玄関からTシャツにスウェットパンツ姿の相川が出てきた。そのままパトカーの横で相合い傘をしているわたしとお巡りさんの方にダッシュで駆け寄ってきた。片手には閉じた傘を握っている。

 相川はわたしたちの目の前で立ち止まると、ピンと背筋を伸ばした。

「どうもすいませんでした」

 お巡りさんに向かって、相川が深々と頭を下げた。そのままじっと固まっている。

(コイツめ……わたしがなんかやらかして、警察に捕まったと思っていやがるな……)

 頭を下げたまま身動き一つしない相川を睨みながら、わたしは仏頂面でフンと小鼻を膨らませた。お巡りさんは、わたしと相川へ交互に目をやりながら、「顔を上げてください。松下さんは、何も悪いことはしてないですから」と、相川に告げた。

 相川はパッと顔を上げると、「えっ、そうなんですか?」と目を丸くした。

「そうですよ。空き巣と遭遇して、危ないところだったので、警察で保護したんです。松下さんを避難所まで送って頂けますか?」

「わっ……分かり……ました……」

 まだ半信半疑の様子で、相川が頷いた。

「よろしくお願いします。じゃあ、松下さん、気をつけて帰って下さいね」

 優しげな笑みを浮かべながら、お巡りさんは、わたしたちを送り出した。

 それからわたしは自転車を押しながら、避難所への帰り道を歩いた。その横に並んだ相川は、傘を開いてわたしに差しかけていた。

 辺りはすっかり宵闇に包まれ、雨がシトシトと降り続いていた。傍目からは、相合い傘をしながら散歩している仲のいいカップルにでも見えるかもしれない。

 わたしは相川の顔を見上げた。相川はふてくされたように黙り込んでいる。

「ごめんね。巻き込んじゃって」

 自転車のハンドルをギュッと握り締めながら、早口で謝った。相川がギロリと鋭い視線を返した。

「まったく冗談じゃねぇよ。部屋でベッドに横になって、うたた寝してたら、いきなり竜巻が起こったんだぞ。おかげでベッドから転げ落ちて、膝を打ったんだからな」

「えっ!」

 相川の言葉に驚いて立ち止まった。

「なんだよ。その様子じゃあ、お前も知らなかったのかよ」

 わたしに傘を差しかけたまま、相川も足を止めた。しょうがねぇなぁ、といった様子で、相川は、フーッと大きな溜め息を吐いた。そして、空中に向かって、「おい、孫四郎!お前だろ、俺を叩き起こしたのは!」と大声を張り上げた。

『ごめんよ、大輔にいちゃん』

 急に孫四郎の声が頭の中に響いてきた。でも姿は見えない。わたしも空中に向かって、「本当にあなたなの、相川を起こしたのは?」と問いかけた。

『うん、そうだよ。だって、妙ねぇちゃんが、若いお武家さんに捕まっちゃったから』

「なに?お武家さんって?」

『あの帽子を被ってた男の人だよ。妙ねぇちゃんを大きな赤い提灯をつけた車に乗せてたじゃないか』

 相川は眉間にシワを寄せながら、わたしの顔を眺めていた。

「赤い提灯って……ああ、パトカーのことね。じゃあ、お武家さんって、お巡りさんのことかあ。まぁ、今の時代のお武家さんと言えなくはないねぇ」

『だから、助けて欲しくて、大輔にいちゃんを起こしたんだよ。妙ねぇちゃん、大輔にいちゃんに、ごめんなさいって伝えてよ』

 孫四郎は、わたしのために相川を叩き起こしていた。だから電話した時、相川はワンコールで出たのだ。わたしは、相川の方に顔を向けた。

「相川、あのね。孫四郎が、『ごめんなさい』って言ってるよ」

 相川は深々と頷いた。

「分かった。孫四郎が自分でやったってことなんだな。それならいいよ、孫四郎、気にすんな。俺は大丈夫だから」

 虚空に向かって微笑むと、相川がわたしのほうに向き直った。

「いったい何があったんだ。説明しろよ」

 避難所に帰り着くまで、わたしはマンションで起こったことを全て話した。相川は、相槌を打つように何度も頷いていた。

 十分ほどで、わたしたちは避難所になっている小学校の校門の前に着いた。いつの間にか雨は止んでいた。相川は、立ち止まって傘を畳んだ。

「大変だったな、松下。それと、孫四郎、よく松下を守ったな。エラかったよ、お前。でも、もう二度と二人だけでマンションには行くなよ」

『分かったよ、大輔にいちゃん』

 孫四郎の返事が頭の中に響いた。

「孫四郎が、『分かったよ』って言ってる」

 相川は小さく頷いた。

「それに、今日はありがとう。ここまで送ってくれて」

「それも、孫四郎が言ってんのかよ」

 思わず言葉に詰まった。

「まっ……孫四郎とわたし……二人とも……そう思ってる」

 相川がフッと小さく笑った。

したり顔の相川に、わたしは、「なによ!」と思わず逆ギレしてしまった。

「なんも言ってねぇだろう。もう帰るからな」

 クルリと背を向けると、相川がスタスタと歩き出した。夕闇の中を遠ざかっていく背中を、わたしは自転車のハンドルを握り締めながら、じっと見つめていた。

 曲がり角にさしかかったところで、相川が遠目からチラリとわたしの方に目をやったような気がした。

 そして、相川の姿が見えなくなった。その瞬間、わたしは、ハーッと大きな溜め息を漏らした。

 いつの間にか目の前に着物姿の孫四郎が立っていた。首を少し傾げながら、俯いて地面へ視線を落としている。

『妙ねぇちゃん……大輔にいちゃんとケンカしないでね……』

 頭の中に響く孫四郎の声は、ちょっと悲しげだった。わたしは自転車のスタンドを立てると、ハンドルから手を離した。そして、膝に手を突いて孫四郎に目線を合わせた。

「心配いらないよ、孫四郎。別にケンカしてた訳じゃないから」

『妙ねぇちゃんと大輔にいちゃんには仲良くして欲しいんだ。だって二人は……』

 孫四郎が途中で言葉を飲み込んだ。

「二人は、なに?」

 わたしの問いかけに、孫四郎が顔を上げた。

『ううん、なんでもないよ。ケンカじゃなかったらいいんだ』

 取り繕うような孫四郎の口振りがなんとなく気にかかった。でも、今日は色んなことがあり過ぎて、あれこれ考えるのはもう限界だった。

「今日は、ありがとね、孫四郎」

 微笑みながら孫四郎の頭を撫でようと右手を伸ばした。すると、孫四郎の頭に触れそうになった掌がそのまま通り抜けた。空を切るように全く感触が無かった。

(やっぱり孫四郎に触れることはできないんだ……)

 わたしを見つめる孫四郎の瞳が潤んでいた。咄嗟に背筋を伸ばして両手を広げながら夜空を見上げた。雨雲が浮かんでいる夜空に星は一つも見えなかった。

「さあ、帰ろう!孫四郎!」

 目の前にいる孫四郎はコックリと頷いた。

 それから駐輪場に自転車を止めると、わたしたちは体育館に向かった。

『妙ねぇちゃん、月が出てるよ』

 孫四郎の声に導かれるように夜空を見上げると、雲の切れ目から三日月が顔を出していた。キュッと弓を引き絞ったような曲線が夜空に白銀の光を放っていた。

「お月様、キレイだね、孫四郎。今日はホント、ありがとう!」

 地面を踏みしめるように歩きながら、あらためて孫四郎にお礼を言った。

(孫四郎は、わたしの守り神だ)

 心からそう思った。


 マンションに一人で行ったことは、幸いにも母にはバレなかった……と思っている。

 マンションに行った次の日の朝のことだった。わたしは、避難所の自分たちの区画で母と一緒に朝食を取っていた。すると母が、フッと何かを思い出したように、わたしの顔に目をやった。

「そういえば、昨日、帰るのが遅かったわよねぇ。妙、あなた、いったい何してたの?」

 やはり母はカンが鋭い。咄嗟に、(やばい!)と焦った。内心の動揺をごまかすために、朝食で配給された味噌汁を、ズズズーッと音を立てながら啜った。このまましばらく時間を稼ぐしかない。

「ねぇ、妙。どうなの?」

 わたしは口の中に味噌汁を含んだまま、頬を膨らませた。

(味噌汁を飲み込む前に、うまい言い訳を考えるんだ……頑張れ、わたし!)

 母は食事の手も止めて、わたしの顔を覗き込んでいた。

 口に含んだ味噌汁を飲み込みながら、味噌汁の茶碗をダンボール箱の上に置いた。避難所での生活が始まってから、このダンボール箱をテーブル代わりに使っていた。

「えっと、何してたっけなぁ……昨日でしょう?うーん。あっ、そうだ。ちょっとショッピングセンターに寄ってたの。おばあちゃんのお見舞いに何か買おうかなって思って。わたし、今日、学校の帰りにお見舞いに行ってくるよ」

 我ながら、うまい嘘をついたものだ。母は、「そうだったの。じゃあ、お見舞いよろしくね、妙。きっとおばあちゃんも喜ぶから」と、ご満悦の様子だった。

(良かった……うまくごまかせた……ふぅ……)

 心の中で安堵の吐息を漏らしながら、卵焼きを口に放り込んだ。

 午前中の学校の課外が終わると、おばあちゃんが入院している病院へ自転車を飛ばした。避難所への帰り道からすれば、だいぶ遠回りになるが仕方がない。

 おばあちゃんが入院している病院は大きな総合病院で、避難所からは自転車で二十分ほどの距離にあった。

 病院に到着すると、駐輪場に自転車を止めた。おばあちゃんへのお見舞いに買ってきたお花を自転車の籠から取り出すと、病院の入り口に向かって歩き出した。自分の横には、着物姿の孫四郎が並んでいる。

 孫四郎には、わたしのおばあちゃんに会わせてあげると伝えていた。孫四郎は、そのことを予想以上に喜んでくれた。今は、自分の横でスキップでもするように飛び跳ねながら歩いている。小さくジャンプする度に、紐で結んだ前髪がピョコピョコと揺れていた。

 おばあちゃんが入院している病院も地震で被災して、正面玄関は立ち入り禁止になっていた。だから今は別の入口から建物に入るしかない。来る度に違う出入口を使うので、毎回迷ってしまう。わたしは十分ほど病院の中をさまよって、やっとおばあちゃんの病室に辿り着いた。

 花束を片手に抱えながら、おばあちゃんの病室の扉の前に立ち止まった。扉の上には412号室という表示に並んで、佐々(ささき)静代(しずよ)という名札が貼ってあった。おばあちゃんの名前だ。

 わたしは片手で扉の取っ手を掴むと、体重をかけながら横に開いた。おばあちゃんの病室は一人部屋で、部屋の真ん中にベッドが据えられていた。

「どなたですか?」

 おばあちゃんがベッドの上で両手を突っ張るようにしながら、ゆっくりと上半身を起こした。胸元からコードが伸びて、ベッドの脇の機械に繋がっていた。

「わたしだよ。妙だよ。おばあちゃん!」

 その瞬間、おばあちゃんの顔がほころんだ。でも、頬がこけて眼の周りも落ち窪んでいる。まだ体調は悪いのだろう。

「まぁ、妙かい。よく来たねぇ。学校は忙しくないのかい?」

 それでも、おばあちゃんの声は以前と変らず優しげだった。若い頃に夫に先立たれたおばあちゃんにとって、母はただ一人の娘であり、わたしはただ一人の孫だった。おばあちゃんはいつも優しくて、可愛がってもらった記憶しかない。

「うん、大丈夫。今は夏休みだしね。でも、毎日、補習課外でたいへんだよ。おばあちゃんは、具合はどう?」

 おばあちゃんはニコニコと笑っていた。

「もうすっかりいいんだけどねぇ。まだ検査の結果が出なくて、いつ退院できるかは分からないんだよ」

 おばあちゃんの言葉に小さく頷き返した。

「そうだ、おばあちゃん!わたし、ヒマワリの花束を買ってきたよ。花瓶ってあるかなぁ?」

 おばあちゃんは部屋の隅を指差した。

「まぁ、きれいだねぇ。ありがとう、妙。洗面台の下の開き扉を開けてごらん。たしか花瓶があるはずだよ。いつか八重子(やえこ)が持ってきてくれたから」

 八重子というのは、わたしの母の名前だ。思い起こしてみると、母はおばあちゃんのことを、とても大事にしていた。現に今も母は、おばあちゃんと一緒に暮らせることを絶対条件にして、新しい住まいを探していた。

 女手一つで娘を育てるって、きっとたいへんなことだ。まだ高校生で生来お気楽な自分にはとても想像がつかない。母は苦労を重ねながら育ててくれたおばあちゃんのことを、かけがえのない大切な存在と思っているのだろう。

 洗面台の収納スペースの扉を開けると、プラスチック製の緑色の花瓶を見つけた。水道の蛇口を捻って水を注ぐと、買ってきたヒマワリを花瓶に挿して、おばあちゃんのベッドの横のテーブルに飾ってみた。咲き誇っているヒマワリは、部屋の中を照らす真夏の太陽のようだった。

「なかなかイイじゃん!これ!」

 自画自賛しながら、ベッドの上で上半身を起こしているおばあちゃんの方に振り返った。

 おばあちゃんは、なぜかわたしの横をじっと見ていた。その視線の先には、ニコニコと微笑んでいる孫四郎が立っていた。

 すると、おばあちゃんが孫四郎に向かって微笑みかけた。

「妙。その着物を着た男の子はお友達かい?なんとも可愛らしい子だねぇ」

「えっ!」

 おばあちゃんの言葉に絶句しながら仰け反った。

「妙の横に並んでる、その子だよ。まぁ、こんなに綺麗な顔立ちの子なんて見たことがないよ」

 返す言葉も見つからず、わたしはポカンと口を開けていた。

(おばあちゃんには孫四郎の姿が見えてるってこと?マジで……)

 状況を理解できないまま、わたしは、微笑みを交わしているおばあちゃんと孫四郎へ交互に目をやった。

「あなた、名前はなんて言うんだい?」

 おばあちゃんは、わたしの横に立っている孫四郎に向かって喋りかけた。

『おいら、孫四郎っていいます。おばあちゃん、よろしくね!』

 わたしの頭の中で孫四郎が声を弾ませた。

「孫四郎っていうのかい。いい名前だねぇ。その着物も可愛らしいし。どうか妙と仲良くしてやって下さいね」

 驚いたことに会話が成立していた。姿が見えるだけでなく、おばあちゃんには孫四郎の声まで聞こえている。思いもよらぬ事態に、わたしはベッドの横に置いてあった腰掛け椅子にヘナヘナと座り込んだ。

「孫四郎さん、あなた、何歳だね?」

『九歳だよ、おばあちゃん』

 おばあちゃんの問いは耳から聞こえ、孫四郎の答えは頭の中に響いてきた。おばあちゃんと孫四郎は、そんな不思議な会話を三十分ほど続けていた。

 おばあちゃんは、孫四郎をすっかり気に入った様子だった。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」

 わたしはベッドの横の腰掛け椅子からヨロヨロと立ち上がった。理解はできないものの、この摩訶不思議な状況にも慣れて、やっと下半身に力が入るようになっていた。

「今日はありがとうね、妙。おかげでずいぶん元気が出たよ。気をつけて帰るんだよ」

 わたしは、病室の扉を開けながら振り返った。

「うん、分かった。おばあちゃんも元気でね。また来るからね」

「妙、ありがとう。孫四郎さんもありがとうね」

『またね、おばあちゃん!』

「じゃあね、おばあちゃん!」

 孫四郎とわたしの声が重なった。

 病室の扉を閉めて病院の廊下を歩き出した。それからエレベーターで一階に降りて、病院の出口に向かった。

「おばあちゃん、元気そうで良かった。孫四郎もありがとうね」

 いつもなら孫四郎の合いの手が入るところだが、なぜか何も反応が無かった。ふと横を見ると、孫四郎は、わたしの視線を避けるように俯いていた。

「ねぇ、孫四郎。ちょっと聞きたいんだけど、なんでおばあちゃんは孫四郎の声が聞こえるの?それに姿まで見えるみたいだし」

 孫四郎はためらいがちに顔を上げると、『うーん……そのぅ……』と言い淀んでいた。こんなことは孫四郎には珍しい。わたしは急に不安になってきた。

「いったいどうしたっていうの、孫四郎?ねぇ、答えてよ」

 しつこく問い質すと、孫四郎は訥々と喋り始めた。

『あのね……妙ねぇちゃんにおいらの姿が見えて声も聞こえるのは……石を触ったからだよ……だから、普通の人はおいらの姿も見えないし、声も聞こえない……』

「ふーん、そうなんだ」

『でもね、おいらの姿が見える人も時々いるんだ。以前にもお城の中で見られたことがあるんだよ』

「へえー、そっか」

 能天気な相槌を打ちながら、出口にある自動ドアの前に立ち止まった。すぐにドアが左右に開いた。外に足を踏み出した途端、ギラギラと焼けるような夏の陽射しに目が眩んで、思わず額に掌をかざした。

『妙ねぇちゃん……おいらの姿が見える人はね……』

「うん」

『もうすぐ……死ぬ人なんだ』

「えっ……」

 思いもよらぬ言葉に固まった。

「どっ、どういうこと、孫四郎?」

 慌てて孫四郎の顔を覗き込んだ。

『おばあちゃんは、あの世に行くことになるんだ……たぶんすぐに……』

 申し訳なさそうに、孫四郎は肩をすぼめていた。

「すぐにって……どれくらいなの?」

『もう一日も無いと思うよ、きっと……ごめんね……もっと早く言えば良かったけど、おばあちゃんの前では、さすがに言えなかったんだ』

「そっ、そんな、一日って……」

 わたしは言葉を失った。おばあちゃんが死んでしまう。それも、もう一日も残っていないなんて。

(いったい……どうしたらいいの……)

 病院の出入口の外で夏の陽射しにジリジリと焼かれながら、しばらくの間、呆然と立ち尽くしていた。通りがかった人たちが、わたしの顔に目をやると、気の毒そうな表情を浮かべながら足早に立ち去っていった。きっと顔色が真っ青なわたしを見て、深刻な容態の身内がいると察したのだろう。

(そうだ、お母さん!お母さんに早く知らせないと!)

 次の瞬間、駐輪場に向かって駆け出した。

自転車の籠にカバンを放り込むと、サドルに跨ってペダルを踏み込んだ。すぐに立ちこぎの姿勢になって猛スピードで避難所へと向かった。孫四郎の姿はいつの間にか消えていた。

 避難所に着いた時には、全身が汗でグッショリになっていた。体育館の中に駆け込むと、自分たちの区画に目をやった。そこには誰もいなかった。

(お母さん、どこに行っちゃったんだろう?今日は仕事が休みって言ってたのに……)

 母に電話をかけようと思い、ポケットからスマホを取り出した。まるでタイミングを合わせたかのように着信音が鳴りだした。スマホの画面を見ると、母からだった。嫌な予感がした。

 通話ボタンを押して、スマホを耳に当てた。

「お母さん、どうしたの?」

「妙!すぐ病院に来て!おばあちゃんの具合が悪いの!」

 早口でまくしたてる母の声から激しい動揺が伝わってきた。

「分かった。お母さん、今どこ?」

「たった今、病院から連絡があって車で向かってるの。妙、すぐに来て!」

 母の声は、最後はまるで悲鳴のようだった。

「すぐに行くから!」

 スマホの送話口に向かって叫ぶと、通話の停止ボタンを押しながら駆け出した。

 駐輪場で自転車に飛び乗った。自転車の籠には、さっき病院を出る時に放り込んだカバンがそのまま残っていた。わたしは、力いっぱいペダルを踏み込んだ。つい今しがた通ってきた道を、逆方向に猛スピードで走り続けた。

(ほんのさっきまで、おばあちゃんと話しをしてたのに……やっぱり孫四郎の言ったことは本当だった……でも、おばあちゃんが死んじゃうなんて……)

 向かい風に髪を振り乱しながら、わたしは懸命に自転車をこぎ続けた。

 病院に着くと、駐輪場に自転車を放り込んで、そのまま駆け出した。

やっと病室の前に辿り着くと、はあ、はあと荒い息遣いのまま、扉の取っ手を両手で掴んで力任せに開いた。

 誰もいない。ベッドも無い。

 目の前の光景に、頭が真っ白になった。

『妙ねえちゃん、しっかりして!』

 不意に孫四郎の声が頭の中に響いて、ハッと正気を取り戻した。病室を飛び出すと、同じフロアのナースステーションに向かった。

 ナースステーションでは、いつもと変わらず看護師さんたちが忙しそうに働いていた。

「あの、すいません。412号室の佐々木静代は……」

 目の前にいた年若い女性の看護師さんが、わたしの方に一瞬目をやると、気の毒そうな面持ちで視線を逸らした。

「ちょっとお待ち下さい」

 淡々とした口調で答えると、その看護師さんはナースステーションの奥に引っ込んだ。その看護師さんと入れ替わるように、四十代ぐらいの女性の看護師さんが奥から出てきた。きっとチーフなのだろう。その看護師さんがわたしの目を見据えながら、「佐々木さんのご家族の方ですか?」と尋ねた。

「はい、そうです」

 チーフの看護師さんがゆっくりと頷いた。

「佐々木さんは、容態が急変して先ほどお亡くなりになりました。ご遺体は、地下の霊安室に移してあります。本当にご愁傷様です」

 チーフの看護師さんは深く頭を下げると、ナースステーションの奥へ戻っていった。

(おばあちゃんが……)

 そこで思考が止まった。

周りの風景から色が消えて、まるでモノクロの夢でも見ているような感じだった。

 霊安室は病院の地下一階にあった。

 霊安室の入口は重々しい鉄製の両開き扉で閉じられていた。その扉を開けると、灰色のコンクリートの壁に囲まれた部屋になっていた。その部屋の真ん中に、一つだけベッドが置かれていた。ベッドの横の腰掛け椅子に母が座っている。母は肩を落として、うなだれていた。

 ベッドには、おばあちゃんが横たわっていた。穏やかな表情で目を閉じている。まるで普通に眠っているようだった。

 母は、わたしに目をやると、「心臓発作だって……病院に着いた時には、もう……」とハンカチを口に押し当てながら、必死に嗚咽を堪えていた。

 わたしは言葉も無く、瞼を閉じているおばあちゃんの顔を見つめた。

 ほんのついさっきまで、おばあちゃんは嬉しそうに笑っていた。まるでモノクロの夢を見続けているみたいで、おばあちゃんが死んだということがどうしても実感できなかった。

 わたしたちは次の日の夜にはお通夜、その翌日には葬式を、家族だけでささやかに執り行った。母は一人っ子で親戚も近くにいない。それに地震の混乱が残る中で、ホテルを確保することもままならない状況では、県外の親戚も熊本に来るすべがなかった。

 母は納骨を済ませてからも、ずっと落ち込んでいた。食事もほとんど喉を通らないみたいだった。わたしが「元気を出して」と慰めても、母には何の効果も無かった。

 おばあちゃんの葬儀を終えて避難所に戻った最初の朝、食事を終えて体育館の中をプラプラしていたわたしは、ふと床に落ちている新聞に目を留めた。

その新聞の一面には、熊本地震による死亡者が一人増え、合計で九十人を超えたという記事が載っていた。

 そういえば昨日の夜に、「おばあちゃんは熊本地震の関連死ということになった」と、母が言っていた。この記事はきっとおばあちゃんのことだ。〈死亡者が一人増えた〉という文字。それがとても残酷に思えた。

 その〈一〉という数字に置き換えられたのは、わたしのおばあちゃんなのだ。おばあちゃんは、いつも優しい微笑みを浮かべていた。わたしを心底から可愛いがってくれた。わたしにとってかけがえのない存在だった。

 新聞記事に載っている死亡者の合計の九十という数字だってそうだ。その一人ひとりの周りには、その死を心から悼み、悲しみに暮れている人たちがいる。決して単なる数字ではないはずだ。

 わたしは、その新聞記事が母の目に留まらぬように、そっと手に取るとカバンの中にしまい込んだ。

 その日から母は、時々立ち眩みを起こすようになった。そのうえ日中でも体調が悪いと言って、仕事も休んで避難所で床に伏せるようになってしまった。

 そんな母を無理やり病院に連れていったが、体の具合が悪い訳ではないことが分かっただけだった。やはり母は、口に出しては言わないが、おばあちゃんが死んだのは自分のせいだと思い込んでいる。そうして自分自身を責め苛んでいるに違いなかった。

 わたしは、どうすることもできず、途方にくれるしかなかった。


 母が床に伏せるようになって数日経った、ある金曜日の夜のことだった。

 避難所の区画は幅と奥行きが三メートルほどの広さで、人の背丈ぐらいの高さのダンボールの間仕切りで区切られていた。その区画の真ん中にダンボールを置いて、テーブル代わりに使っていた。

 ダンボールの上には二人分の夕食が載っている。だけど母は食事にほとんど手を付けないまま、毛布を被って横になった。

 ダンボールの間仕切りの方を向いて寝そべっている母の背中を横目で見ながら、わたしはお盆の上に食器を重ねていた。母が残した夕食を紙製の茶碗の中に集めると、お盆を持って立ち上がった。

 それから避難所のゴミ捨て場に向かうと、紙製の食器と食べ残しを分別して捨てた。全てのゴミを片付けると、思わずフッと小さく溜め息を吐いた。そしてお盆を片手に握り締めながら、自分達の区画の方に歩き出した。

 その時、何気なく体育館の出入口の方に視線を向けると、体育館の中を覗き込んでいる相川の姿が目に入った。何かを探すようにキョロキョロと左右に目を泳がせている。

(こんな時間に……なんだ、アイツ?)

 挙動不審としか思えない相川の様子を眺めながら、わたしは立ち止まって眉間に皺を寄せていた。そのうち相川は、わたしの方に視線を向けると、ハッと目を見開いた。そして、〈こっちに来い〉とでも言うように手招きをした。

(なんなのよ、コイツ!)

 頬を膨らませながら、自分達の区画に戻った。テーブル代りのダンボールの上にお盆を載せると、横になったまま身動きもしない母に目をやった。まるで何ものをも拒むかのように、母は頭から毛布を被っていた。わたしはガックリと肩を落とすと、体育館の出入口の方に歩いていった。

 わたしが出入口に辿り着くと、相川は無言のまま、わたしに背中を向けて運動場の方に歩き出した。Tシャツにスウェットパンツという相変わらずラフな格好をしている。わたしは憮然としたまま、相川の背中に付いていった。

 宵闇に包まれた運動場を、わたしたちは星明かりを頼りに進んだ。運動場の隅にあるブランコのところで、相川が立ち止まった。そしてブランコの一つに腰を下ろすと、わたしの顔を見上げた。

「何かあったのか?」

「はーあ、何かってなによ!アンタが勝手にきたんでしょうが!」

 キレ気味に返事をしながら、相川の隣のブランコに腰を下ろした。わたしの剣幕に、相川はちょっとたじろぎながら、「最初からキレるなって。まぁ、聞けよ」と、強張った笑顔でわたしを宥めた。

「なによ!」

「あのな、さっきまで部屋でまったりしてたんだよ、俺は」

「うん」

「そしたら、いきなり竜巻だよ。握ってたスマホを吹き飛ばされたんだぞ。冗談じゃねぇよ」

 ようやくわたしにも事情が分かってきた。これは孫四郎が仕組んだことに違いない。

 母のことが心配で、最近、孫四郎のことを忘れていたことに気づいた。ふと思い起こしてみると、ここ数日は孫四郎と全く喋ってない気がした。

「うん、それで」

 頷き返しながら、相川に先を話すように促した。

「スマホが壁に激突してマジで慌てた。まぁ、幸い画面も割れなかったし、なんとか大丈夫だった」

「アンタのスマホの話はいいから」

「ああ、それで孫四郎が何かを知らせてるんだと思って、ここに来たんだよ」

「それで?」

「それでって、そういうことだよ。お前の方こそ、何かあったんじゃないのか」

「分かった」

「分かったって、何がだよ」

「ちょっと待って」

 話を制するように相川の方に掌を向けた。星明かりに照らされた運動場には誰もいない。

 わたしは空中に向かって、「孫四郎!いったいどういうつもり!」と声を張り上げた。

 すると、ブランコに腰掛けているわたしたちの目の前に小さな竜巻が現れた。運動場の土埃が舞い上がって、思わず口元を掌で押さえた。

 竜巻が消えると、星明かりに照らされながら、いつもの通りの着物姿で孫四郎が立っていた。

「ちょっと、孫四郎!どういうことなの?」

 ちょっとキレ気味で問い詰めたが、孫四郎は、いっこうに無頓着な様子でニコニコと微笑んでいた。

『ごめんよ、妙ねぇちゃん!』

 天真爛漫そのものの孫四郎の声が頭の中に聞こえた。言葉では謝っているんだけど、悪びれてる様子じゃない。むしろ楽しそうに笑っていた。

 頬にエクボを浮かべた無邪気な笑顔に、わたしは天を仰いだ。やっぱり孫四郎には敵わない。わたしは、目の前にいる孫四郎に向き直った。

「いったいどうしたのよ、孫四郎?なんで相川を呼び出したりしたの?それに、ここ数日は、わたしに話しかけることもなかったじゃん」

『それはね、妙ねぇちゃん。今、おいらは、ずっとおばあちゃんといるからなんだ。おばあちゃん、色んな話をしてくれるよ。妙ねぇちゃんやお母さんの小さい頃の話とかね』

「えっ……」

 孫四郎の話に息を呑んだ。相川は、何事かと眉間に皺を寄せながら、わたしの横顔をじっと見つめていた。

「おばあちゃんって、わたしのおばあちゃんのこと?」

 その〈おばあちゃん〉という言葉に、隣のブランコに座っている相川がビクッと反応した。どうやら相川は、わたしのおばあちゃんが亡くなったことを知っているらしい。

『そうだよ。他に誰がいるっていうんだい』

 孫四郎はおばあちゃんといる。そのうえ話までしている。たしかに孫四郎ならありえないことじゃない。生きていた頃のおばあちゃんには孫四郎の姿が見えていたのだ。

「ねぇ、孫四郎?おばあちゃん、今、どうしてるの?」

『おばあちゃん、元気にしてるよ』

 死んだ人が元気にしてるってのも、なにか変な感じがした。

「そっ、そうなんだぁ……おばあちゃんは元気にねぇ……」

 わたしはテキトーな相槌を打った。相川は息を凝らすように、わたしを凝視していた。これはただ事じゃないって思っているみたいだった。

『でもね、おばあちゃんは、もうすぐあの世に行かなきゃいけないんだ。だけど、その前にどうしても伝えたいことがあるんだって』

「なに、それ?あの世に行く前に伝えたいことって?」

『おばあちゃんは、お母さんのことを心配してるみたい。だからね、明日、おばあちゃんの家にお母さんを連れてきてほしいって』

「それって、どういうこと?地震で潰れたおばあちゃんの家にお母さんを連れていくの?いったいなんで?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせると、目の前の孫四郎は、困ったように小首を傾げていた。

『うーん、おいらにもよく分かんないよ。とにかくお母さんを連れてきてほしいって』

「うっ、うん、わかった。お母さんをおばあちゃんの家に連れて行けばいいんだね。だけど、うまく連れ出せるかなぁ」

 今の母は、自責の念に苛まれて生きる気力そのものが消えかけているような感じだ。そんな母をうまく外に連れ出すことができるか、全く自信が無かった。

『だからね、大輔にいちゃんに来てもらったんだよ』

 孫四郎がニッコリと笑った。

「お母さんを連れ出すのに、相川になんの関係があるの?」

 名前を呼ばれて、また相川がビクッと反応した。

『いいかい、妙ねぇちゃん。お母さんには、こう言うんだよ。大輔にいちゃんがどうしてもお母さんに相談したいことがあるって』

「えっ!」

 わたしは横に座っている相川の方に顔を向けた。すると相川はギョッとした表情で仰け反った。

「なっ、なんだよ。いきなりこっちを向くんじゃねぇよ」

「あのね、今、孫四郎がこう言ったの。お母さんを外に連れ出すために、相川がお母さんに相談したいことがあるって言えって」

「なんだよ、それ……」

わたしはゆっくりと首を振った。

「わたしにも分かんない。でも、そう言えって、孫四郎が。それから、おばあちゃんの家までお母さんを連れて行けって言うの。おばあちゃんが伝えたいことがあるからって」

 それからしばらくの間、相川は顎に手を当てながら、「うーん」と唸っていた。わたしと孫四郎は、そんな相川の様子を見つめながら返事を待ち続けた。

 おもむろに相川は大きく頷いた。

「分かった。孫四郎、お前の言う通りにするよ」

 目には見えないはずの孫四郎に向かって、相川が声を張り上げた。

 わたしは大きく目を見開きながら、「本気なの、相川?」と聞き返した。

「もちろん本気だよ。明日の朝、お母さんにそう言えよ。俺は、校門の前で待ってるからさ。それで、松下のおばあちゃんの家まで歩きながら、何か相談すればいいんだろう」

『さすが、大輔にいちゃん!』

 ピョンと孫四郎が飛び上がった。その足元には小さな渦巻きができている。その渦巻きに向かって相川が微笑みかけていた。相川には孫四郎の姿は見えないし、声も聞こえないはずなのに、この二人の結びつきというか、信頼関係はいったいなんなのだろう。ちょっと羨ましい気もした。

「じゃあ、孫四郎の言う通りにするから。明日はよろしくね、相川。それに孫四郎!」

 相川と孫四郎へ交互に視線を向けながらブランコから立ち上がった。

『よかった。おいら、おばあちゃんのところに知らせてくるから。じゃあ、明日ね、妙ねぇちゃん。大輔にいちゃん』

「じゃあね、孫四郎」

 たちまち孫四郎のまわりに小さな竜巻が現れ、次の瞬間には消えていた。それっきり孫四郎の声も聞こえなくなった。横を向くと、相川もブランコから立ち上がっていた。星明かりに照らされながら、相川は夜空に向かって両腕を突き上げるようにして背筋を伸ばしていた。

「じゃあ、明日な。松下」

「うん、ゴメン。よろしく頼むね」

 相川を見送ると、体育館に向かって歩きだした。

(孫四郎は、おばあちゃんのところに行くって、言ってたっけ。いったいどこよ、それ?)

 色んな疑問が浮かんだが、とりあえず今は気にしないことにした。考えたってしょうがないことは考えない。それがわたしのポリシーだ。人は、それを行き当たりばったりと言うかもしれないけど。


 次の日の朝がやってきた。土曜日なので学校の課外も休みだ。

 朝食の配給の時間になると、母を揺さぶって無理やり起こした。母は眼の周りに薄っすらと隈ができていた。一日中、ずっと横になっているはずなのに、きっと眠れてはいないのだろう。

 やはり母は朝食にほとんど手も付けなかった。そんな母に向かって、わたしは、「気分転換に散歩しよう」と軽く誘ってみた。しかし母は全く乗り気じゃない様子で、まるで小さな子供が駄々をこねるように首を振るだけだった。

 食事を終えると、すぐに母は毛布を被って横になった。そんな母を横目で眺めながら、(やっぱりこの手しかないのか……はーあ……)と心の中で溜め息をついた。

 そして背を向けて寝転がっている母の耳元に口を寄せた。

「実はね、お母さん。相川がお母さんにどうしても相談したいことがあるんだって」

 突然、母が毛布を跳ね除けながら上体を起こした。

「なにっ!大ちゃんが私に相談?」

 いきなり食い付いてきた。効果てきめんだ。母は相川のことを幼い頃から変わらず、いまだに大ちゃんと呼んでいる。

「そうなのよ。なんか相談したいことがあるんだって。それで朝から校門で待ってるらしいのよ」

「分かった!すぐ行く!」

 慌てふためきながら、母が立ち上がった。そして化粧道具を詰め込んでいるポーチを鷲掴みにすると、そのまま洗面所に向かって走り出した。

(なによ、それ!娘の誘いは完全拒否で、相川の名前が出た途端、その反応はなんなのよ!)

 寝癖のついた髪を振り乱しながら洗面所に駆け込んでいく母の背中を睨んだ。

 それから三十分経っても、母は洗面所から出てこなかった。

(まったくいつまで化粧してるんだよ。しかし、それにしても孫四郎の読みはズバリ当たったなぁ。やっぱりわたしだけじゃ、こんなにうまくはいかなかったよなあ……)

 洗面所の方に目をやると、やっと化粧を終えて身支度を整えた母が出てきた。目の下にあった隈が化粧で跡形もなく消えている。

 母は戻ってくるなり、「さあ、早く行こう、妙。大ちゃんを待たせちゃ悪いから」と、わたしを急かせた。

(まったくもう。なんなんだよ、この変わりようは!)

 心の中で舌打ちしながら立ち上がった。

 母とわたしは体育館の出入口で靴を履くと、運動場を横切って校門に向かった。運動場の真ん中まで来ると、校門のところで手持ち無沙汰にしている人影が目に入った。相川に違いない。

 遠目から見ると、相川は俯き加減で背中を丸めながら、手元を覗き込んでいた。きっと暇つぶしに自分のスマホでゲームでもやっているのだろう。

「大ちゃん!」

 甲高い声を張り上げながら、母が右手を高く掲げた。その声に反応して、相川がわたしたちの方に顔を向けた。母の呼びかけに応えるように、相川は片手を差し上げると、ゆっくりと掌を左右に振った。すると母は、掲げた掌を左右に揺らしながら駆け出した。

 遠ざかっていく母の背中に呆れながら、(あのねー、彼氏と彼女じゃねぇんだし。なんだよ、そのノリは……)と大股で歩きだした。

 母が校門に辿り着いた。

「おはよう、大ちゃん。待たせてゴメンね」

 息を弾ませながら、母が相川に笑いかけた。

「全然待ってないですよ。こっちこそ、朝早くからすいません」

 相川が満面の笑みを浮かべながら、軽く頭を下げた。

わたしは校門に辿り着くと、母の横に並んだ。

「相川、おはよう。お母さんを連れてきたよ」

 同時に片目でウインクをした。〈よろしく頼むよ〉という合図だ。

「ああ、ありがとな」

 相川が仏頂面でボソッと呟いた。母の時とはずいぶん対応が違う。思わずムッとした。一瞬だけど。

 相川は母の方に顔を向けると、甘えるように少し上目遣いになって首を傾げた。

「おばさん、ちょっと歩きながら話していいですか?」

「いいよ、大ちゃん。こうして話すのも久しぶりだし。一緒に散歩なんてないもんねぇ。うん、歩こう、歩こう!」

 母はすっかり乗り気だ。

 母と相川が並んで歩きだした。わたしは二人の背中を眺めながら、その後ろを付いて行った。

「ホントに久しぶりねぇ。すっかり背も高くなっちゃって。もう大人だねぇ」

「いや、そんなことないですよ。母からは、もっとしっかりしろって、いつも怒られてます」

 輝くような笑顔で母と世間話を続ける相川の背中を一瞥しながら、わたしは、(このマダムキラーが!)と心の中で毒づいていた。

 まだ朝早い時間だったが、眩しいほどの陽射しが照りつけていた。

 和やかな会話を続ける相川と母の後ろを歩きながら、伸びをするように両手を広げて空を仰いだ。突き抜けるような青空には綿菓子みたいな入道雲が浮かんでいた。

「ねぇ、大ちゃん。相談ってなぁに?」

 母が相川の顔を見上げた。

「えっとですねぇ……実は……」

 ちょっと目を泳がせながら、相川は言い淀んでいた。その背中を眺めながら、わたしは、(どうせ、おばあちゃんの家まで会話を繋げばいいだけなんだから、テキトーでいいのに)と、やきもきしていた。

「そのぅ……ですねぇ……」

 相川は自分の頬を人差し指でカリカリと掻いていた。これは追い詰められて焦っている時のコイツの癖だ。子供の頃から変わってない。

(これゃあ、助け船を出さないとダメかも……)

 どんなふうに会話を繋ごうかと頭を巡らせた。だけど、相川が母に相談を持ちかけるなんて、そもそも設定自体に無理があった。

(しょうがないや。適当になんか話すしかない)

 覚悟を決めると、前を歩く相川と母の背中に向かって、「えーっと……」と喋りかけた。

 その時、相川が、「実は、俺、看護師になりたいんです!」と声を張り上げた。

「えっ!」

「エッ!」

 母とわたしの声が重なった。

「大ちゃん、そうなの?なんで?」

 わたしは前かがみの姿勢になって聞き耳を立てた。

「俺、小学一年の時に、おばさんの病院に入院したことがあったでしょう」

「急性の気管支炎になった時ね。覚えてるわ」

 わたしが小さい頃から、母は近所にある小児科病院の看護師だった。

「その時、母が仕事の都合でどうしても付き添いができない夜があって、俺一人で一晩を過ごしたんです」

「うん、うん」

「その頃の俺って甘ったれのヘタレで、その時は死にそうなくらい不安だったんですよ」

「そっか」

「でも、その夜は、おばさんがちょうど夜勤の日だったんで、一時間毎に俺の顔を見に来てくれたでしょう。それで、泣きベソをかいている俺の手を握って、『大丈夫、大丈夫』って何度も励ましてくれたじゃないですか」

「そうだっけ。そこまで覚えてないなぁ」

「俺は、今でも覚えてますよ。絶対忘れないです。あの時は、ありがとうございました」

 相川は、母に向かってペコリと頭を下げた。

(へぇー、そんなことがあったんだ……)

 相川と母の背中へ交互に目をやりながら、ちょっとホッコリしていた。

「そんなあらたまって感謝されるとなんか、くすぐったいな。だって、それが仕事だからね」

 照れくさそうにちょっと頬を赤くしながら、母は笑っていた。一方で相川の眼差しは真剣そのものだった。

「だから、俺、看護師になりたいんです。おばさんみたいな、子供の不安を和らげ、心まで癒せる、そんな看護師になりたいんです」

 キッパリと断言する相川に、わたしは、(コイツ……本気だ……)と驚いていた。

 母は、相川の真っ直ぐな思いを感じて、ちょっと困ったように瞳を左右に泳がせていた。そして、アゴに手を当てて小首を傾げながら、「うーん」と、しばらく唸っていた。その間、相川は唇を真一文字に結んでいた。

「大ちゃん、あのね」

「はい」

 相川が食い入るように母を見つめていた。母は、その視線に耐えられないようで、伏し目がちに目を逸らしていた。

「大ちゃんが本気なのは分かった。分かったけど、男性の看護師は、最近、増えてきたみたいだけど、やっぱりまだ少ないわ。うちの病院にはいないしね」

「はい」

「それで、男性の看護師って、力仕事とか、パソコンとかの機械に強いとか、色々重宝もされるけど、それでも難しいところもあると思うわ」

「はっ、はい」

「例えば、女性の患者さんは、男性の看護師のお世話を嫌がって断ることもあるらしいわ。それってなぜだか、分かる?大ちゃん」

「はい……なんとなく……想像つきます」

「看護の現場って、生身の人間が相手だから、やりがいもあるけど、その分大変なこともあるのよ。想像してるよりもずっとね」

「はい」

 さっきから、「はい」という返事を繰り返している相川は、怖いくらい真剣な表情をしていた。こんな相川を目にしたのは初めてだった。

「時には、患者さんと、どうしても上手くいかないこともあるし、最悪の場合はトラブルになることだってある」

「はい……」

「そんなことが、男性の看護師は、女性の看護師よりもたくさんあると思うよ。これは仕方がないことでもあるんだ」

「はい」

「大ちゃんが、心も癒せる看護師になりたいって気持ちは素晴らしいと思う。大ちゃんって本当に優しいし、人のお世話をするのは向いてると思うよ。だけど、現実は、そんなに甘くない。傷つくこともたくさんあるはずだし」

「はい」

「だから、急がないで、ゆっくり考えた方がいい。私は、そう思うよ。よく考えた上で、それでも看護師になりたいんだったら、私は、全力で大ちゃんを応援するから」

「はい。分かりました」

 相川がコックリと頷いた。

 そんな二人のやり取りに、わたしは、なにか不思議な絆みたいなものを感じて、ちょっと妬けた。

 なによりも驚いたのは、いつもはクールで何を考えているのか、よく分からない相川が、こんなにも真面目に自分の将来のことを考えていることだった。それもよりによって、わたしの母の姿に自分の将来の夢を重ねているなんて思ってもみなかった。

「こんな俺の話を聞いていただいて、ホントにありがとうございます」

 ペコリと頭を下げる相川に、母はクスッと笑った。

「お礼なんていいのよ、大ちゃん。そうだ!私も大ちゃんにお礼を言わなきゃいけないことがあったわ」

 相川は顔を上げると、微笑んでいる母に目をやった。

「なんですか?お礼って」

「たしか大ちゃんと妙が小学六年生の時だったと思う。いつか小学校からの帰り道に、妙のことでクラスメイトとケンカになったでしょう」

「アッ!」

「エッ?」

 今度は、相川とわたしの声が重なった。

「実は、あの時、たまたま近くにいたのよ、私。路地の陰に隠れて見守っていることしかできなかったけど。ゴメンね」

「そっ……そうだったんですか……」

 相川の頬がたちまち赤く染まった。

「お友達が、『妙は生意気だ』って悪口を言って。まぁ、妙はこんなふうだからねぇ」

 わたしは、(こんなふうって、どんなだよ!)と、心の中で母に突っ込んだ。

「それを大ちゃんは、『そんなことない!』って言い返してくれたでしょう。そしたら、お友達が大ちゃんと妙のことをはやし立てちゃって。それで、最後にはケンカにまでなっちゃったわよねぇ。でもね、私、あの時は涙が出るほど嬉しかったわ」

 相川は、顔を真っ赤にして俯いていた。

「大ちゃん、本当にありがとう。いつも妙を見守ってくれて。私、いつか大ちゃんにお礼が言いたいと思っていたの。こうやって言う機会ができてよかったわ」

「はっ……はぁ……」

 相川がぎこちなく頭を下げた。

 わたしも頬が火照って、顔全体から汗がどっと噴き出してきた。慌ててポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。

(そんなことがあったんだ……)

 思い返してみると、相川が、幼馴染みのわたしから急に距離を取るようになったのも小学六年生の時からだった。そして母が、相川のことになると特別に肩入れする理由も分かった気がした。

 母がフッと空を見上げた。ギラギラと輝く夏の太陽の陽射しに目を細めながら、母は片手を額に翳した。

「いいお天気ねぇー」

 独り言のように呟きながら、母はポケットからハンカチを取り出すと、首筋の汗を拭った。さっきまで生気もなく横になっていた母とはまるで別人のようだった。

 おばあちゃんの家は、避難所となっている小学校から歩いて十分ぐらいの距離にあった。

 焼けつくような陽射しのなか、わたしたちは額に汗を滲ませながら、のんびりとした足どりで歩き続けた。おばあちゃんの家の前に辿り着くと、三人とも同時に足を止めた。

 母は息を飲むようにして黙り込んでいた。相川とわたしに導かれるようにして、思いも寄らない場所に来てしまったことに動揺しているみたいだった。

 おばあちゃんの家は小さな平屋建てだった。今は、その狭い敷地を埋め尽くすように、木材と瓦が散乱している。地震でおばあちゃんの家は完全に潰れていた。地震があってから三ヶ月も経つのに、倒壊した家は、まだ手付かずの状態だった。どこの業者に頼んでも手が廻らなくて断られると、母が愚痴をこぼしていたことを思い出した。

 地震があった夜、自衛隊の人が屋根を引き剥がして、おばあちゃんを助け出した光景が脳裏に蘇ってきた。あの時のまま、時間が止まっているように思えた。隣に立っている母は、真っ青な顔で唇を微かに震わせていた。

 瓦礫の山となったおばあちゃんの家を目の前にして、母は足が竦んで動けなくなっていた。

 すると突然、意を決したように、相川が瓦礫の中に足を踏み出した。そして、足元を確かめながら一歩ずつ進んでいった。

 抜き足差し足で相川が瓦礫の上を歩いていくと、時々パキッと木材が折れる音がした。その甲高い音が響き渡る度に、母はピクッと体を震わせた。

 ここは、母が子供の頃、おばあちゃんと一緒に暮らしていた家なのだ。木材が折れる音が聞こえる度に、母は、実際に自分の身体に痛みを感じているのかもしれない。わたしは、隣にいる母の手をそっと握った。母の指先は小刻みに震えていた。

 母とわたしは、瓦礫の上を歩く相川を静かに見つめていた。

 足元を注意深く見定めながら、一歩ずつ進んでいた相川が立ち止まった。そして瓦礫の中に両手を突っ込むと、何かを引っ張り出した。それは二つの小さな腰掛け椅子だった。それを左右の手で掴みながら、相川が引き返してきた。

 わたしたちの目の前まで戻ってくると、相川は腰掛け椅子の丸いクッションを手で叩いて埃を払った。そして何も言わずに、その腰掛け椅子を母とわたしの前に置いた。

「あっ、ありがとう、相川。さぁ、お母さん、座ろう」

 プルプルと震えている手を取って母を座らせると、わたしはその横に並んで腰を下ろした。母は血の気を失ったような真っ青な顔をしていた。

 横に立っている相川の顔をわたしが見上げると、相川が小さく頷き返した。

わたしは口元を掌で覆うと、「孫四郎。お母さんを連れてきたよ」と囁いた。

『妙ねぇちゃん。今から言うとおりにして!』

 頭の中に響く孫四郎の声にコックリと頷いた。

『立って!』

 孫四郎の声に合わせて、スッと立ち上がった。横に立っていた相川が、思わずビクッと反応した。母は瓦礫の山を凝視したまま、身じろぎもしない。

『真っ直ぐ歩いて!』

 瓦礫の中に足を踏み出すと、足元を見定めながら慎重に一歩ずつ足を運んだ。それでも時々、バランスを崩して倒れそうになった。その度に、いつの間にか真後ろにいた相川が手を伸ばして支えてくれた。

 瓦礫の山の真ん中まで進んだところで、

『そこで、止まって!』

 と、孫四郎が大声を上げた。

 慌てて立ち止まると、わたしの背中に貼りつくように進んでいた相川も足を止めた。そんなわたしたちを、母は呆けたようにぼんやりと眺めていた。

『右に五歩進んで!』

 孫四郎の指示どおりに、心の中で一つ、二つと数えながら足を踏み出した。そして五歩進んだところで立ち止まった。

『目の前に瓦が重なっているでしょう。それをどけて!』

 わたしは、後ろに振り返って相川の顔を見上げた。

「孫四郎が、そこの瓦をどけろって言ってる」

 目の前にある割れた瓦の山を指差した。

「分かった。任せろ」

 相川はわたしの前に回り込むと、瓦礫の上に屈み込んだ。そして目の前に重なっている割れた瓦を、一枚ずつ両手で持ち上げては横に積んだ。相川が最後の瓦を持ち上げると、埃まみれになった一冊の冊子が現れた。

『それ!それだよ!それをお母さんに見せてって言ってるよ。おばあちゃんが!』

 わたしは腰を屈めながら相川の耳元に口を寄せた。

「これをお母さんに見せろって……孫四郎が……」

 相川は黙って頷き返した。

 わたしは両手を伸ばすと、その冊子を掴んで拾い上げた。その表紙をそっと撫でるようにして埃を払うと、黒い厚紙の表紙が見えた。それは一冊のアルバムだった。

 そのアルバムを両手で胸に抱えながら、瓦礫の上を一歩ずつ母の方に引き返した。

 依然として、母はぼんやりと瓦礫の山を眺めていた。放心状態のようで目の焦点も合っていない。

 母の目の前に立ち止まると、そのアルバムを両手で捧げるようにして差し出した。呆けたように座り込んでいる母がゆっくりと顔を上げた。

「これ、見つけたんだけど。ちょっと見てよ、お母さん!」

 母は、わたしの顔を虚ろな瞳で見上げた。わたしは無理やり押し付けるようにして、そのアルバムを母の手に握らせた。母は、手元のアルバムに視線を落とした。そして、アルバムの表紙を指で摘まむと、ゆっくりとめくった。

 そこにあったのは、玉のような赤ちゃんが写っている白黒の写真だった。どうやら女の子らしい。母は、その写真を食い入るように見つめていた。途端に母の瞳が潤んで、どっと涙が溢れてきた。溢れ出る涙を拭うこともせず、更にページをめくった。

 着物を着た幼い女の子のカラー写真が現れた。どうやら七五三のお祝いらしい。三つ編みのお下げ髪が可愛らしかった。

 母は、涙をポタポタとアルバムの上に零しながら、次々とページをめくった。

 このアルバムは、幼い頃の母の写真を綴ったものだった。

 写真の枚数は決して多くはない。それでも、生まれた頃から成長していく姿を刻み込むように、どの写真も丁寧に撮影されていた。

 全ての写真を見終わってアルバムを閉じた時、母は、うっ、うっと激しく嗚咽していた。その頬には涙の筋が止めどなくつたっていた。

 そんな母の姿に、わたしも涙が止まらなかった。わたしは手の甲で涙を拭いながら、隣の腰掛椅子に腰を下ろした。そして、涙を流し続ける母にハンカチを渡すと、母の背中をそっと掌で撫でた。相川は息を凝らすように、わたしたちの背後に立っていた。

『妙ねぇちゃん!おばあちゃんがお母さんに話したいことがあるって!』

「わっ……分かった……わたしが……お母さんに伝える……」

 わたしは涙で声を詰まらせながら、母の耳元に口を寄せた。

「ねぇ、お母さん。おばあちゃんがね、お母さんに伝えたいことがあるって」

 母はハンカチを瞼に押し当てたまま、わたしの方に顔を向けた。訝しげに眉根を寄せている。

 なぜわたしがおばあちゃんの言葉が分かるのかなんて、母に説明できるはずもない。だって、わたしと孫四郎が二人がかりで、おばあちゃんの言葉を伝えているのだから。

 孫四郎の声が頭の中に響いてきた。

『八重子。そのアルバムはねぇ、私の宝物なんだよ』

 わたしは孫四郎の言葉をそのまま声にした。

「八恵子。そのアルバムはねぇ、私の宝物なんだよ」

 突然、名前を呼ばれて、母がビクッと身を引いた。怪訝な表情で更に眉間の皺を深くしている。

 そんな母の反応に構うことなく、頭の中に響いてくる孫四郎の言葉をオウム返しに声に出した。

「でもね、本当の宝物はね。あんただよ、八重子。あんたが五歳の時、お父さんが癌で亡くなった。気の弱い私は、もうどうしていいか、分からなかったよ」

 母に向かって、一言ひとことを刻み込むように語りかけた。

「ただ泣き崩れる私に、五歳のあんたが言ってくれた。『お母さんは、わたしが守る』って。忘れないよ、あの言葉は。あの時、私は、あんたと二人で生きていこうって決心したんだ」

 わたしの言葉に、母は、涙に潤んだ瞳を大きく見開きながら唇を震わせていた。

「あんたは、私にとって、自慢の娘だったよ。小学校でも中学校でも生徒会長。しっかり者で成績も優秀。スポーツも万能だった。でもね、分かってたよ。私に心配をかけないようにと思って、あんたは頑張ってくれてたんだよね」

 わたしを見つめる母の瞳から、また涙がどっと溢れてきた。

「八重子。あんたはなんの心配もかけずに成長してくれた。そして、あんたが和夫さんと結婚して、妙が生まれた。私は本当に嬉しかったよ、あんたが幸せでいる。それが、私は何よりも嬉しかったんだよ」

 母は俯いてハンカチを目に押し当てながら、コックリと頷いた。

「でもね、和夫さんが癌で亡くなった時、私は運命を呪ったよ。なぜ八重子が、私と同じ目に合わなきゃいけないのかってね」

 母が、うっと嗚咽の声を漏らした。

「まだ赤ん坊の妙を抱いて泣き崩れていたあんたの姿を見て、私は、ほんとに辛かった。でもね、八重子。私は、その時こう思ったんだよ。私が本当に辛かった時、支えてくれたあんたを、今度は私が支えなくちゃいけないってね」

 母は、ハンカチを口に押し当てるようにして、必死に嗚咽を堪えていた。

「あんたは、よく頑張ったよ。妙もこんないい子に育ってくれた。あんたは、私の自慢の娘だよ」

 わたしの瞳にも涙が溢れてきて、目の前の母の姿が滲んだ。わたしは必死に声を絞り出した。

「八重子……私が死んだのは、決してあんたのせいじゃない。これはね、どうしょうもないことなんだよ。私はね、あんたにお礼が言いたかったんだよ。私は幸せだった。あんたが娘でいてくれて、ほんとに良かった。ありがとう、八重子」

 母が倒れかかるようにして、わたしの胸に顔を埋めた。

 わたしは、母の頭を両手で包むように優しく抱きしめた。母は、子供のように肩を震わせて、しゃくりあげながら泣いていた。

「ほんとにありがとう、八重子。これで、もう思い残すことはない。妙、大輔君、孫四郎。ありがとうね。みんな、さようなら」

 わたしの頭の中に響いていた孫四郎の声がフッと消えた。

 母は、わたしの胸にしがみつくようにしながら、

「お母さん……」

 と、小さな声で呟いた。

 わたしは、母が泣き止むまでずっと母の頭を撫で続けた。相川は、わたしたちの後ろに立ったまま、その様子をじっと見つめていた。空には、真夏の太陽が眩しいほどの陽射しを注いでいた。


 その日から、母は、元の母に戻った。

 母は、以前にも増して、わたしに小言を言うようになった。だけど、わたしは、それも母の愛情だと受け止めることができるようになった。

 全ては孫四郎のおかげだ。孫四郎は、おばあちゃんとわたしたちの心を繋いでくれた。お母さんの心を癒し、わたしたちを救ってくれたのだ。

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