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第一章 不思議な出会い

 ドンと下から突き上げられるような衝撃で、わたしはベッドから転げ落ちた。

 ゴゴッーという地鳴りとともに、マンション全体がバリバリと音を立てながら前後左右に激しく揺れていた。

「ギャー!」

 真っ暗闇の中で、思わずわたしは悲鳴を上げていた。荒れ狂う波涛のように揺れる床の上で、自分の体がゴムボールみたいに弾んでいた。コンクリートがメリメリと軋み、立て続けにガシャン、ガシャンとガラスが割れる甲高い音が響いた。

 不意に、大地の揺らぎが止まった。

 その途端、自分の手足も見えない暗闇の中で、海の底のような深い静寂に包まれた。

(たえ)!大丈夫なの?(たえ)!」

 わたしの名前を呼ぶ母の声が遠くに聞こえた。


 その瞬間、毛布を跳ね除けて飛び起きた。

 皮膚にまとわりつくような、ネットリとした気持ちの悪い汗を全身にかいていた。指先が小刻みに震えている。

(また……地震の夢だ……)

 フーッと大きな溜め息を吐きながら再び横になった。

 鉄筋の筋交いの入った板張りの天井が目に映った。オレンジの電球がまばらに灯されている。

 ここは、わたしと母が寝泊りしている小学校の体育館だ。

 二〇一六年四月に起こった熊本地震から三ヶ月が経っていた。

 大地を揺るがすような本震は、前震から一日が経過した真夜中に起こった。震度七の地震が二回も起こるなんて、誰も予想していなかった。

 母と二人で暮らしていたマンションは柱や壁のあちこちにヒビが入り、近くの小学校の体育館へ避難するしかなかった。

(今、何時だろう?)

 枕元に置いていたスマホの画面を見ると、まだ午前三時だった。

 避難所では家族毎にダンボールの間仕切りはあるものの、深夜でも周りに人の気配を感じて目を覚ましたり、今晩のように悪夢で飛び起きることも度々だった。

 朝までぐっすり眠れたことなんて、今まで一度もない。

 わたしは毛布を頭から被って無理やり目を瞑った。それでも、なかなか寝入ることはできなかった。やっとウトウトし始めた頃には、もう明け方近くになっていた。


「起きなさい、妙。朝よ!」

 母の声に瞼を擦りながら、わたしは上半身を起こした。

「ふぁあ。おはよう」

 アクビ交じりに母に返事をした。

「早く起きてよ、妙。今日は日勤だから、あなたを送り出してから、すぐに病院に向かわないといけないんだからね」

「ふぁーい」

「何よ、その返事。ちゃんと学校には行かなきゃダメだからね」

「分かってるって」

 わたしは口を尖らせながら毛布を畳んでいた。そんなわたしに鋭い一瞥を投げると、母は朝食を取りに体育館の一角にある配給所へ向かった。

 母は近くの小児科病院の看護師で、被災してからは夜勤を免除してもらっていた。それでも月に一度くらいは人手不足で急に呼び出されることがあった。そんな時は、朝早く帰ってきても、ザワザワした避難所ではとても眠れないようで、車の中で仮眠を取っていた。 

 朝食を手早く済ませると、わたしは身支度を整えた。それから、通学用のカバンを肩に掛けながら、「じゃあ、行ってくるよ」と母に声をかけた。

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

「はい、はい」

 何気ない会話をしているだけなのに、お互いにどこか棘を感じてしまう。慣れない避難所生活も三ヶ月を越え、わたしも母も限界寸前で、心もささくれ立っていた。

 体育館を後にして、わたしは自転車で高校に向かった。

 地震から一ヶ月後には学校が再開されていた。それ以来、とにかく毎日、高校には通い続けている。

 だけど、授業の内容はさっぱり頭に入らず、ボーッと聞き流すだけだった。高校三年のわたしは、今年は受験生だ。でも、これからどうなるのだろうという不安でいっぱいで、ろくに勉強も手に付かなかった。

 そんな状態だったが、わたしは、毎日、学校帰りに熊本城へ寄り道をした。

 わたしが通う高校はお城のすぐ傍にあり、校舎の窓から天守閣を見上げることもできた。

 わたしは、このお城が大好きだ。自分でも理由はよく分からない。

 今日も学校の授業が終わると、照りつける七月初旬の陽射しも構わず、お城に向かった。

 熊本城は小高い丘の上にある。お城の外周を囲む石垣を横目で見ながら、自転車を立ち漕ぎして急な登り坂を一気に駆け上がった。途端に全身からドッと汗が噴き出した。

 二の丸と呼ばれる広場までやってくると、わたしは駐輪場に自転車を止めた。

 地震のために、あちこちでお城の石垣が崩れて立ち入り禁止となっているが、この広場は封鎖を免れた数少ないエリアだった。

 自転車の後輪に鍵をかけると、前籠から通学用のリュックを取り出して肩に掛けた。

 空を見上げると、突き抜けるような真っ青な青空に、白い入道雲がムクムクと湧き上がっていた。太陽は西の空に傾いていたが、日が沈むまで、まだずいぶんと時間があった。

 わたしはセーラー服のブルーの袖口を捲り上げながら、鮮やかな緑の芝生の上に足を踏み出した。周辺の街並みよりも高台となっている広場には、涼しげなそよ風が吹き渡っている。わたしのショートボブの黒髪がサラサラと靡いていた。

 ふとお城の天守閣に目をやると、黒い屋根瓦がすっかり剥がれ落ちていた。屋根の天辺で尾ひれを空に突き上げていた二体のシャチホコも無くなっている。その姿に、胸に鈍い痛みが走った。

「妙ちゃん!」

 不意に名前を呼ばれて振り返ると、お城の管理事務所の伊藤さんがいた。

 伊藤さんは、薄い水色の作業服に、濃紺のツバ付きキャップを被り、弾けるような笑顔を浮かべていた。キャップの後ろから覗いているポニーテールに束ねた黒髪が、陽の光を浴びて艶やかに輝いていた。

「こんにちは、伊藤さん。今日は暑いけど、風が気持ちいいですねぇ」

 わたしは、自然と顔がほころんでいた。

 伊藤さんは市役所に入ってまだ三年目で、管理事務所には他に若い女性がいないらしい。

 わたしがお城好きで年齢が近いこともあって、私たちは実の姉妹のように仲が良かった。

 性格も似ていて、お互いに開けっ広げで飾らない。一人っ子のわたしにとって、伊藤さんはどんな事でも遠慮なく相談できる、お姉ちゃんのような存在だった。いつも学校帰りにお城に寄り道をする理由の一つが、伊藤さんと言葉を交わすだけで元気が貰えるからだった。

 

 そんな伊藤さんとは忘れられない思い出がある。

 前震と本震という二つの大きな地震が起こった後、わたしたちの生活は一変していた。

 高校も休校になった。それでも本震発生の数日後に、わたしは自転車をこいでお城に向かった。

 既にお城は立ち入り禁止になっていた。

 わたしは、道路脇に自転車をとめると、目の前に広がる光景に呆然と立ち尽くした。

 石垣が根こそぎ崩れ、斜面の赤い土が露わになっていた。まるで皮膚を剥ぎ取られ、内側の肉が剥き出しになっているみたいで、あまりにも無残な光景だった。

「妙ちゃんなの?」

 振り返ると、そこに伊藤さんがいた。

「いっ……伊藤さん……」

 わたしの声は震えていた。伊藤さんは瞳を潤ませながら、わたしに抱きついた。

「うっ……うっ……」

 わたしの耳元で伊藤さんは苦しげに嗚咽していた。

「伊藤さん……」

 わたしの瞳から涙が溢れ、頬をつたった。

 わたしと伊藤さんは抱き合ったまま、地面に膝を突くと、そのまま泣き崩れた。

 その時のことは未だに忘れられない。


「妙ちゃん、今日、すごい石が見つかったんだよ!」

 伊藤さんが興奮気味に捲くし立てた。

 その勢いにちょっとたじろぎなら、「どっ、どんな石なんですか……伊藤さん?」と問い返した。

「それがね、崩れた石垣のね、石の表面に人の形が彫ってあるんだよ。目や鼻もはっきり描いてあるし。とにかくスゴイんだから!」

「えーっ、見てみたい!」

 思わずわたしの声が裏返った。伊藤さんにとって、わたしの反応は予想通りだったのだろう。ニンマリと笑いながら、わたしの耳元に口を寄せた。

「妙ちゃん、ちょっと見せてあげようか?」

「ホントですか!」

 わたしと伊藤さんはイタズラを思いついた子供のように、クスッと含み笑いを交わした。

「石が置いてあるテントはこっちだよ」

 伊藤さんはクルリと背を向けると、足取りも軽やかに歩き出した。わたしがその横に並ぶと、自然と互いの歩調が揃った。二人は背丈もほぼ同じだ。伊藤さんが童顔なので、二人とも私服の時に、女子高生のペアと間違えられたこともあった。

 五分ほど歩き続けると、立ち入り禁止エリアの入口に着いた。

 一般の人は、ここから立ち入ることはできない。お城の石垣があちこちで壊れているので、今は、城内にあるほとんどの広場が石置き場になっていた。

 目の前には、工事現場で見かけるような赤白のコーンが点々と置かれ、その間を赤白のポールが塞いでいた。ポールはちょうど膝ぐらいの高さだ。

 その手前で立ち止まった伊藤さんは、周囲を窺うように左右を見廻した。周りに人影は無い。

「行くよ、妙ちゃん」

「はい」

 片足を持ち上げて伊藤さんがポールを跨いだ。その背中に隠れるようにしながら、わたしもポールを跨ぎ越した。 

 そこには見渡す限り一面に、たくさんの石が並べられていた。それらの石は積み木のように角張っていて、一メートル近い大きさのものもあった。石の下には鉄道のレールのように二本の木の板が敷かれている。まるで遊園地で見かける模型列車の車列がどこまでも続いているようだった。

 石の間を縫うように進んでいくと、わたしは、その一つひとつの隅に小さく、番号が書き込まれているのに気づいた。

「伊藤さん、この番号って?」

「ああ、それはね、石を元の場所に戻すための番号だよ」

 その答えに、わたしは絶句した。こんなにたくさんの石を元に戻すなんて、一体いつになったら終わるのだろう。

「これぐらいで驚いちゃダメだよ、妙ちゃん。ここにある石は、地震で崩れた石垣のほんの一部なんだ。でもね、わたしたちは、きっと終わるまで続けるんだ。もしもわたしがいる間に終わらなかったとしても、きっと誰かが引き継いでくれるから……」

 空に浮かぶ入道雲に視線を向けながら、伊藤さんが遥か彼方を見るような遠い目をしていた。その横顔がとても眩しく感じられた。

 更に奥へと進んでいくと、四方を防風幕で覆われた真っ白いテントが張られていた。

 伊藤さんは、そのテントの前で立ち止まると、もう一度周囲を見廻した。そして、誰もいないことを確認すると、防風幕の隙間からサッと身を隠すようにテントの中に入った。その背中に続いて、わたしもテントの中へ飛び込んだ。

 テントの中は薄暗く、地面にはブルーシートが敷かれていた。その上に様々な大きさの石が十個ほど並べられている。ここに運び込まれているということは、どれも貴重な石なのだろう。

 伊藤さんは、ブルーシートの真ん中に置かれている幅六十センチほどの石を指差した。

「あれよ。今、懐中電灯を点けるからね。近づいて、よく見てごらん」

 伊藤さんがテントの柱に掛けられた懐中電灯のスイッチを入れると、パッと視界が明るくなった。わたしは、伊藤さんが指差している石に近寄ると、ブルーシートに膝を突いて、その表面を覗き込んだ。

 そこにはまるでコケシのような形で、丸い頭と長い胴体が彫り込まれていた。

 頭と胴体を合わせても、大きさは二十センチほどだ。丸い頭の輪郭の中には、目と鼻と口が単純な直線で描かれている。そのうえ胴体に至っては、単に二本の線が縦に引かれているだけだ。まるで幼い子供の悪戯書きのようだった。

「どう、すっごいでしょう、妙ちゃん!」

 伊藤さんは得意満面といった様子だった。でも、わたしはちょっと期待外れで、「そうですねぇ……でも幼稚園児の落書きみたい……」と、思わず本音を漏らしてしまった。

「なに言ってんのよ!石垣の中からこんな人の形をした線刻が見つかったのは初めてなんだからね。まったくもう……」

 伊藤さんは、頬を膨らませながら口を尖らせた。

「いや、そんなつもりじゃなくて。もっと写実的な絵って思ってたから。どうもすいません……」

 わたしは軽く頭を下げた。

「まあ、謝るほどのことはないけどね……そうだねぇ。単純な素描だけど、これって、もしかしたらカタシロかもしれないって聞いたよ」

「なんですか、カタシロって?」

 おもむろに伊藤さんが胸元のポケットからメモ帳とペンを取り出した。そして、メモ帳の上にペンを走らせると、「ほら、これよ」とわたしに差し出した。受け取ったメモ帳には、〈形代〉と書かれていた。

「ふーん、これがカタシロなんですね。どんな意味なんですか?」

「カタシロってね、人間の身代わりをする人形のことだよ……ちょっと呪術的だけどねぇ……」

 わざとらしく伊藤さんが声を落とした。どうやらわたしを怖がらせるつもりらしい。でも、わたしはオカルト系の話はいたって平気だった。まあ、そもそも鈍感なのかもしれないが。

「ふーん。カタシロって……呪いの藁人形……みたいなものなんですねぇ……」

 わたしは、ことさら声を押し殺すように囁いた。

「きゃーっ、それ以上は言わないで!」

 伊藤さんが両耳を掌で塞ぎながら悲鳴を上げた。実は伊藤さんこそ、幽霊やお化けなどのオカルトじみた話しが大の苦手だった。

 今にもテントから逃げ出しかねない伊藤さんの反応に、わたしは慌てて、「今のは、ほんの冗談ですって」と、強いて明るく声を弾ませた。せっかく貴重な石が目の前にあるのに、ここで終わってはもったいない。

 とにかく話を変えようと思い、まだ顔色が青ざめている伊藤さんに向かって、「ちょっと触ってもいいですか?」と問いかけた。

 伊藤さんは、「えっ」と小さく声を上げると、顎に手を当てながら黙り込んでしまった。とりあえずは伊藤さんの気を紛らすことができたようだ。

 それからしばらくの間、伊藤さんは首を左右に捻っていた。そして、唐突にフッと小さく息を吐くと、「ちょっとだけだよ。秘密だからね」と、わたしに向かって目配せをした。もしかすると恐怖心のせいで判断力まで鈍っているのかもしれない。

 引っ込みがつかなくなったわたしは、「はっ、はい」と頷くと、目の前にある石の表面に向かって、人差し指をゆっくりと近づけた。

 頭の輪郭の一番上のところに、わたしの指先が微かに触れた。

 その瞬間、石の表面から、ゴゥと突風が吹き付けた。

 強烈な風圧に煽られて、わたしは真後ろにひっくり返り、そのままドスンとブルーシートに背中を打ちつけた。伊藤さんは、「ギャー」と甲高い悲鳴を上げていた。

 咄嗟に何が起こったのかも分からず、わたしは慌てて、ブルーシートの上に手を突いて起き上がった。既に突風は治まっていたが、なぜか辺りには甘酸っぱい香りがほんのりと漂っていた。

 わたしは、「なんだったんです……今の?」と虚ろな瞳で伊藤さんに問いかけた。伊藤さんは首を左右に振りながら、「分かんない……テントの中で、あんな風が吹くなんて……」と声を震わせていた。どうやらさっきの呪い藁人形という言葉が脳裏に蘇っているみたいだった。

「もう出よう、妙ちゃん」

 すでに伊藤さんは懐中電灯のスイッチに手をかけていた。その唇が小刻みに震えている。

「分かりました。出ましょう、伊藤さん」

 なんとも不思議な体験だったが、わたしは、さほど怖いとは思わなかった。それどころか辺りに漂っている、もぎたての果物のような香りに、遠い昔に嗅いだことがあるような懐かしさを感じていた。

 伊藤さんは、懐中電灯の灯りを切ると、そそくさとテントの外に出ていった。その後を追って、わたしが足を踏み出した瞬間だった。

『妙ねぇちゃん……』

 わたしの名を呼ぶ、男の子の声が聞こえた気がして、立ち止まって振り返った。テントの中にはまだ甘酸っぱい香りが漂っていた。

 わたしがテントの外に出ると、遠ざかっていく伊藤さんの背中が見えた。どうやら外に出るや否や、そのままダッシュで駆け出したみたいだ。

「えーっ!」

 思わず調子外れの声を上げた。伊藤さんのオカルト嫌いにもほどがある。わたしを置き去りにして逃げだすなんて。

 一人残された石置き場は、周りに人影もなく、怖いぐらい静かだった。

 突然、ピキッという破裂音が石置き場に響き渡った。

 きっと石の下に敷かれている木の板が軋んで音を立てたのだろう。それでも、その音がした瞬間、思わず飛び上がった。伊藤さんの恐怖心が乗り移ったように、背筋に冷たいものが走った。

 わたしは駆け出した。

既に遥かに遠くなっている伊藤さんの背中を必死で追いかけた。だけど、その背中は遠ざかるばかりだった。

(伊藤さん、早すぎ!)

 真っ青な顔で髪を振り乱しながら、わたしは走り続けた。セーラー服姿で全力疾走する女子高生を目にした人がいれば、何事かと思ったに違いない。

 やっと二の丸広場に辿り着いて足を止めると、膝に手を突きながら肩で息をした。噴き出した汗が顎の先からポタポタと滴り落ちていた。

 目の前には同じように前屈みになって、ハァハァと息を切らせている伊藤さんがいた。

「ひっ……ひどいですよ……伊藤さん……わたしを置いて……いきなり走り出すなんて……」

 乱れた呼吸もそのままに、声を絞り出した。

 伊藤さんは手を合わせて、わたしを拝むようにしながら、「ごっめーん、妙ちゃん。もう怖くて堪らなくなって、勝手に足が走り出しちゃったのよぅ」と頭を下げた。

 わたしはやっと呼吸が元に戻ってきた。

「まったくもう。石置き場には、これからも行かないわけにはいかないでしょう!」

 わたしの指摘に、伊藤さんは絶句していた。それから天を仰ぎながら首を激しく振ると、「無理、無理、無理。もう絶対あそこには近づかない!」と、駄々っ子のように地団駄を踏んだ。

 ここまでくるとさすがに可哀想になってきた。幽霊やオカルトの類いが、伊藤さんはとにかく大の苦手なのだ。

「そんなに気にすること無いですよ。さっきのは、たまたまですよ。たまたま強い風がタイミング良く吹き込んだだけですから。大丈夫ですって!」

 優しく宥めるように伊藤さんの右手を握った。その指先は小刻みに震えていた。

「そうだよねぇ……たまたま、だよねぇ……」

 自分自身に言い聞かせるように、伊藤さんが呟いた。

「そうですよぅ。たまたまです」

 伊藤さんの言葉をオウム返しに繰り返しながら、その掌を両手でそっと包み込んだ。わたしに頷き返す伊藤さんのポニーテールが、広場を吹き抜けるそよ風に靡いていた。

 伊藤さんは、ようやく気持ちが落ち着いてきたようだった。()()がり小法師(こぼし)のような立ち直りの早さが伊藤さんのいいところだ。ここが勝負どころと、伊藤さんの手を握る指先にギュッと力を込めた。

「そうですよぅ。ぜんぜん気にすることないですって」

「ありがとう、妙ちゃん!」

 わたしの手を握り返した伊藤さんの指先はもう震えていなかった。伊藤さんの手を離すと、わたしは駐輪場に向かって足を踏み出した。

「じゃあ、もう帰りますね。さよなら、伊藤さん!」

「気をつけて帰ってね、妙ちゃん。さよなら!」

 伊藤さんは、空に向かって突き上げるように伸ばした掌を、大きく左右に振っていた。


 広場の駐輪場に戻ると、サドルに跨がりながら、テントの中で起きた出来事を思い返した。

(それにしても……いったい何だったのだろう……さっきの突風は?……)

 ペダルに足を乗せてグンと踏み込むと、自転車が勢いよく走り出した。

 西の空に目をやると、夕日が山の稜線にかかっていた。これなら日没までになんとか避難所に戻れるはずだ。

 ショートボブの髪を靡かせながら立ちこぎになると、ペダルをこぐスピードを更に上げた。おでこ全開のままでハンドルを握り締めながら、歩行者も疎らな幅広い歩道をかっ飛ばしていった。正面から吹きつける向かい風が心地よかった。

 不意に、石に刻まれていた絵が鮮明な画像となって頭の中に浮かんできた。

(不思議な絵だったなあ……)

 真ん丸に描かれた顔の輪郭に、単純な直線で目と鼻と口が描かれているだけだった。でも、その残像は、いつまでも自分の頭の中から消えなかった。それどころか時間が経つにつれて、ますますくっきりと脳裏に蘇ってきた。

 半ば無意識のままでサドルに腰を下ろすと、スピードを落として、ゆっくりと自転車をこぎ続けた。

 車の往き来が多い大通りを抜けて住宅街の路地に入った。避難所となっている小学校まで、もうすぐだ。西の地平線に近づいた夕日が路地をほんのりと赤く照らしていた。

 その時、路地の先に見覚えのある白いカッターシャツの背中が目に入った。

(あれっ、相川(あいかわ)じゃん!)

 両耳にイヤホンを突っ込んで音楽を聴きながら、チンタラと自転車をこいでいる姿は、相川(あいかわ)大輔(だいすけ)に間違いなかった。


 相川大輔とわたしは幼なじみだ。

 通っている高校も同じで、クラスまで一緒なのは、まさに腐れ縁だろう。

 まだ幼い頃、相川は、チビで痩せっぽち、そのうえ甘ったれで泣き虫だった。

 わたしが住んでいたマンションの隣に相川の自宅があったので、小学校の低学年の頃は一緒に登校していた。相川のお母さんに頼まれて、学校に行きたくないと駄々をこねる相川の手を引いて学校に連れて行ったことも一度や二度ではなかった。その頃はお互いを、「(たえ)ちゃん」、「(だい)ちゃん」と呼び合っていた。

 でも、小学六年生の時、突然、相川がわたしと不自然なほどに距離を取るようになった。とりわけ周りに誰かがいる時は、喋りかけても返事さえしなくなった。当時のわたしは訳が分からずに戸惑った。正直言って、とても悲しかった。今でもその理由は謎のままだ。

 その頃から、相川は急に身長が伸び始め、すぐにわたしは追い越された。高校生になった今では身長が百八十センチ近くにもなっている。ヒョロッと痩せた体躯は変わってないので、まるで巨大なゴボウみたいだった。

 ビジュアルはというと、これが美人のお母さんにソックリで、歌舞伎の女形のような端正な顔立ちをしていた。やたらと長い睫毛と、大きな目と、スッと通った高い鼻筋をしていて、まぁ、いわゆる今風のイケメンってやつだろう。

 それから、その高い身長を活かしてと思うが、相川はバスケ部に入っていた。

 うちの学校のバスケ部なんて、たいして強くもないのだが、相川の突出したビジュアルのおかげで、バスケ部の練習はいつも女子が取り巻いていた。

 わたしは、そんな光景を横目で見ながら、(小さい頃は、わたしの背中に隠れるようにして泣きベソかいてた、アイツがねぇ……)と、いつも首を傾げていた。

 それでも、相川には浮いた噂など一切聞いたことがなかった。体はデカくなっても、内気で引っ込み思案な性格は子どもの頃と変わってないのだろう。


 今は、地震のために全ての部活動が休みになっている。だから相川は、こんな時間に下校しているのに違いない。

 相川の自宅は頑丈な鉄筋コンクリートの一戸建てだったので、幸いにも地震の被害は、ほとんど無かった。

 わたしは、立ちこぎになって自転車のペダルを強く踏み込みながら、相川の自転車を一気に追い抜いた。

 その瞬間、相川が、「あっ、松下(まつした)!」と、大きな声を張り上げた。その声を背中で聞き流しながら、わたしは自転車のスピードを更に上げた。

「おっ、おい!ちょっと待てよ、松下!」

 相川の声が自分の背中に迫ってきた。どうやら相川は、わたしに追いつこうとしているみたいだ。

 追われると逃げたくなる野生の本能で、わたしは立ちこぎの姿勢のまま、犬に追いかけられる猫さながらに、全力で自転車を走らせた。

「待てったら、松下!」

 相川の声が更に近づいてきた。焦ったわたしは、フルスピードのまま、住宅街の交差点に突っ込んだ。

 その時、ちょうど交差点の左からシルバーのミニバンが現われた。

(あっ!)

 反射的にブレーキをかけると、そのままバランスを崩して自転車が横倒しになった。ヨロけながら片足を地面に着くと、背後から「アブナイ!」と叫ぶ相川の声が聞こえた。

 ミニバンが自分の真横に迫ってきた。

(ヤバイ!ぶつかる!)

 思わず目を閉じた。

 その瞬間、『妙ねぇちゃん、危ない!』という男の子の叫び声が聞こえた。同時に、ブンと空気を切り裂く音が鼓膜に響いた。

 途端に、フワッと体が軽くなった。まるで無重力状態で宙に浮かんでいるような感覚だった。

(わたし……もしかして死んだ……の?)

 恐るおそる瞼を開いた。

 自転車のハンドルを握り締めている自分の両手が視界に飛び込んできた。わたしは自転車に乗っていた。

 でも、なにかが違う。

 自転車のタイヤの先に白い壁が見えた。目を凝らすと、それは自転車ごと、わたしの周りを包んでいる風の渦だった。ものすごい勢いで回り続けるさまは、まるで竜巻だ。

 その風の渦の中は、ゴゴーッという轟音が響き、鼓膜が痛いほどだった。でも、なぜか不思議なことに、爽やかな甘酸っぱい香りが漂っていた。

 足下に目をやると、風の渦の向こう側に、銀色の四角い物体が薄っすらと見えた。

(さっきぶつかりそうになった車だ!)

 わたしは、シルバーのミニバンの真上にいた。竜巻に包まれて、フワフワと空中に浮かんでいる。竜巻は、そのまま車の上を通り過ぎると、ゆっくりと地面に降下した。

 自転車のタイヤが地面に着いた瞬間、フッと吹き消すように竜巻が消えた。わたしは、自転車に跨ったまま、両足を地面に着けていた。何が起こったのか、まったく理解できず、ただ呆然としていた。

 バンと大きな音を立てながら、ミニバンのドアが開いた。小柄で太ったおばさんが車の中から出てきた。その見た目から、歳はアラフィフといったところだろう。

「あっ、あんた……だっ、大丈夫なの!」

 おばさんの声は震えていた。

「あっ……大丈夫……です……」

 消え入りそうな声で、わたしは返事をした。

おばさんは、「だって、あんた、飛んだでしょう、車の上を!いったいどうやったの!」と、眼を見開いていた。

 そんなこと聞かれたって、わたしにも分からない。わたしは自転車のサドルに跨ったまま、おばさんの顔を無言で見つめ返した。おばさんはワナワナと手を震わせていた。

「ちょっと……あんた……もしかして……」

 眉をひそめながら、おばさんが一歩後退りした。どうやらわたしのことを、宇宙人か、それとも化け物の類いと思い始めているみたいだった。

(こりゃ、すぐに退散しないと、警察でも呼ばれそう……)

 その時、わたしとおばさんのやり取りを見かねたように、「おい、松下!行こう!」と相川が大声を張り上げた。声のした方に目をやると、相川は既に自転車で走り出していた。

 ここは相川の助け舟に乗るしかない。

「じゃあ、もう行きますんで。さよなら!」

 投げ付けるように言い放つと、相川の背中を追って自転車のべダルを踏み込んだ。そのまま立ちこぎの姿勢になって、一気にスピードを上げた。

「ちょっと、待ちなさいよ!」

 必死に呼び止めようとする叫び声が、わたしの背中に浴びせられた。

 おばさんを置き去りにしたまま、わたしは更に加速した。いつの間にか相川が自分の横に並走していた。

 おばさんに追いつかれないように、わたしたちは住宅街の路地の角を何度も曲がりながら、無我夢中で自転車をこぎ続けた。

(それにしても、さっきの竜巻は何だったの?……今日は不思議なことが続くなあ……)

 辺りを見回すと、夕日は西の地平線に沈んで、既に周囲は薄暗くなっていた。フーッと大きく息を吐きながら、立ちこぎの姿勢からサドルに腰を下ろした。

「もうここまでくれば大丈夫だろう、松下」

 並んで自転車を走らせている相川が、チラリとわたしに目をやった。

「まぁね」

 わたしは軽く頷いた。相川は自転車のハンドルから片手を離すと、人差し指をわたしに向けた。その指先がちょっと震えていた。

「おい……いったい……さっきのは……何だったんだよ!」

「わたしにも分かんないわよ!」

 オバケでも目撃したように、怯えた表情を浮かべる相川に、ちょっと逆ギレした。

「だっ、だって……お前……飛んでたぞ……」

「だから!わたしだってワケ分かんないんだって!」

 ふてくされたようにプイと横を向いた。

「キレるなって。心配してんだから。ちょっとあそこの公園に寄らないか?」

 ちょうど目の前に三叉路が見えた。その突き当たりに公園があった。

 相川はわたしを気遣っている。それは分かっていた。だけど、とうてい理解できない出来事に、わたしは激しく動揺していた。

(とにかく一度、気持ちを落ち着かせよう。このまま避難所に帰っても、今夜は絶対、眠れない気がする……)

 わたしは、「あんたが誘ったんだから、ジュース、オゴリね」と言い放つと、公園の出入口にある自動販売機の前で自転車を止めた。

 無理やりオレンジジュースを奢らされた相川は、ブツクサとぼやき続けていた。それから、わたしたちは公園の隅にあるベンチに並んで座った。

 公園の真ん中にポツンと立っている照明灯が辺りを照らしていた。

 見渡す限り、公園の芝生を埋め尽くすように車中泊の自動車が駐まっていた。今でも続いている余震に怯えて、自宅で暮らせない人たちなのだろう。

 それぞれの車の窓には、布や新聞紙で内側から目隠しがされていた。わたしたちに目を止める人は誰もいなかった。

 プシュッと音を立てながら、二人同時に缶ジュースのプルタブを開けた。ジュースを口に含むと、甘酸っぱいオレンジの香りが口の中いっぱいに広がった。わたしは、ゴクリと喉を鳴らしながら飲み込んだ。

(何でこんなにオイシイの!)

 思わずもう一口、ジュースを喉に流し込んだ。いつの間にか口の中がカラカラに渇いていた。わたしを横目で見ていた相川がフッと小さく笑った。

「だいぶ喉が渇いてたんだな」

「そりゃそうだよ。ずっと全力で自転車をこいでたんだから」

「まぁ、それもあるだろうけど……とにかく、さっきのは何だったんだ?ホントに自分でも分からないのかよ」

 わたしは激しく首を振った。

「サイコキネシスみたいな念力が覚醒したとか。さすがに、それゃあ……ないか……」

「何よ、それっ」

「とにかく、なんか思い当たるようなことはないのかよ。ホントに普通じゃありえないぞ。竜巻を起こして空中を飛ぶなんて」

 わたしは俯きながら、「うーん」と小さく唸ると、最近、身の回りで起こったことを思い起こした。

(えーっと、なんかあったっけ……最近は避難所と学校を往復するだけだし……今日もお城に寄り道して……伊藤さんに会って……)

「あっ!」

 思わず大声を張り上げた。すると、隣に座っていた相川がベンチから飛び上がった。コイツがビビリなのは小さい頃から変わってない。

「なっ、なんだよ、突然!」

 大袈裟に反応してしまったことをゴマかすように、相川は制服のズボンをはたきながらベンチに座り直した。その頬がほんのりと赤かった。

「変わったこと、あった!」

「何があったんだよ」

 相川は訝しげに眉根を寄せていた。

「今日、学校帰りにお城に行ったの。それで、伊藤さんに会って、石を見せてもらった。コケシみたいな絵が描いてある石。崩れた石垣の中から見つかったんだって!」

 相槌を打つように、相川は小さく頷いていた。

「わたしがその絵に触れた瞬間、突風が吹いたんだ。まるでその絵から風が吹き出しているみたいだった。スゴイ勢いでね。その突風に煽られて、そのまま後ろにひっくり返ったの」

「うーん……たしかに変な話だな……」

「でしょう。さっき車にぶつかりそうになった時、わたしの周りには竜巻ができてた。なんか関係あるのかなぁ……」

 俯きながら額に掌を当てると、わたしは瞼を閉じた。

 車にぶつかりそうになった場面を思い起こした。わたしを包む白い風の渦が頭に浮かび、ゴゴッーと轟く音が耳に蘇ってきた。

「おっ、おい!松下!松下!」

 突然、相川が、わたしの名を連呼した。

 パッと瞼を開いて相川のほうに目をやると、真っ青な顔をしながら、右手の人差し指を伸ばしていた。その指先が小刻みに震えている。

 相川が指差す方向に視線を移すと、ベンチに並んで座っているわたしたちの目の前に、高さ一メートルぐらいの小さな竜巻が現れていた。まるで大きなソフトクリームのコーンのように、白い渦がグルグルと回っている。

(なっ……なんなの……これっ……)

 わたしと相川は、目の前の小さな竜巻を凝視しながら固まっていた。

 フッとロウソクの炎を吹き消すように、不意に竜巻が消えた。

 その跡には和服姿の男の子が立っていた。わたしの顔をじっと見つめながら微笑んでいる。辺りには、もぎたての果物のような甘酸っぱい香りが漂っていた。

 その男の子は、浴衣のような薄い紺色(こんいろ)の着物を身につけていた。キュッと腰に巻かれた濃紺の帯が、痩せた体躯を際立たせていた。前髪は髷のように紐で結んでいる。それが、ちょこんと額に垂れている様子は、まるで時代劇に出てくる子役のようだ。ベンチに座っているわたしと、目線の高さがちょうど同じぐらいの背丈で、見た目は小学四年生ぐらいに思えた。

 なにより印象的なのは、その顔立ちだった。

 透き通るような白い肌。切れ長の涼やかな目元。頬に寄せたエクボ。

 とても可愛らしいルックスだ。でも、触れると壊れてしまうガラス細工のような繊細さをまとっている気がした。

 そんな男の子が、目の前でニコニコと笑っていた。澄み切ったつぶらな瞳で、真っ直ぐにわたしを見つめている。その視線を眩しく感じた。

 その子がわたしに向かって口を動かした。

『こんにちは、妙ねぇちゃん』

 自分の名前を呼ばれて、わたしはベンチからピョンと飛び上がった。そのままドンと大きな音を立てながらベンチの背もたれに倒れこんだ。

 爽やかなボーイソプラノの声が、耳ではなく頭の中に直接響いてきた。その声音(こわね)は無邪気そのもので、まるで近所の小学生の男の子から話しかけられているみたいだった。

「あっ……あんた……誰?」

 震える声で問いかけた。

『おいらは孫四郎っていうんだ』

 また、頭の中に声が響いてきた。

「まっ……まご……しろう……だって?」

 隣に座っている相川が、わたしの肩に手を置いた。

「おい、松下!しっかりしろ!何を喋ってんだよ、お前!」

 相川がわたしの肩を揺さぶった。わたしは、ゼンマイ仕掛けの人形のように、相川の方へ顔を向けた。

「ヤバイぞ、お前。目がイッテルぞ。どうしたんだよ!」

 相川が、更にわたしの肩を激しく揺さぶった。ハッと正気に戻ると、わたしは相川の手を払いのけた。

「相川、あんた、見えないの?」

「見えないって、何が?」

「だから、あの子!」

 目の前に立っている着物姿の男の子を指差した。

「あの子って、何だよ!」

 頬を引きつらせながら、相川は仰け反るようにして腰を引いた。

(相川には見えてない!この子が見えているのって、わたしだけ?)

 途端に怖くなって、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。

(これは……本物のオカルトだ……マジでヤバイ……)

 だんだん意識が遠くなっていく気がした。

『妙ねぇちゃん、あのね、落ち着いて聞いてよ』

 また、頭の中に孫四郎の声が響いてきた。この状況に不釣り合いなほど、まさに天真爛漫といった感じだった。

『おいらは、ずっとお城にいたんだけど、妙ねぇちゃんがおいらを石から解放してくれたんだ』

「お城?お城にいたって……あんた、まさか、あの石の……」

『そうだよ、あの時からついてきたんだ。さっきぶつかりそうになった時、助けたのもおいらだよ。ちゃんと気をつけないと、ほんとに危ないよ』

 目の前に立っている孫四郎は弾けるような笑顔を浮かべている。その頬には可愛らしいエクボを寄せていた。

 車にぶつかりそうになった時、空気を切り裂く音とともに、たしかに男の子の声がしたことを、わたしは思い出した。それに今、周囲に漂っている甘酸っぱい香りは、竜巻の中で嗅いだものと全く同じだった。

(じゃあ、あの竜巻は、この孫四郎という子が……)

 孫四郎は、クリクリとしたつぶらな瞳で私の顔を覗き込みながら、「思い出したかい?」と小首を傾げた。その姿を見ていると、まるで小春日和のそよ風が吹き込んでくるように、なぜか胸の奥がほんのりと暖かくなった。そのうえ、そのボーイソプラノの涼やかな声は、遠い遠い昔にどこかで耳にしたことがあるような懐かしい感じがした。

(この子ってなんだろう?)

 どこかで触れたことのある温もり。目の前にいる孫四郎をそんなふうに感じ始めていた。

 わたしは、顔を引きつらせている相川に向き直った。

「ねぇ、相川」

「なっ、何だよ……」

「あのね、今、わたしたちの目の前には着物姿の男の子がいるの」

「何だよそれ、冗談ならやめろよ。俺は、その手の話が全然ダメだって知ってるだろうが!」

「ホントだって。さっきお城で石に触った時、変なことあったって言ったでしょう。あの石の霊というか、妖精みたいなもんらしいよ」

「マッ、マジか……たっ、助けて……」

 相川は、血の気が引いたように真っ青な顔をしていた。目の焦点も合っておらず、気を失いかけているみたいだった。

「助けてって言ってるけど、この子は、さっきもわたしを助けてくれたんだよ。車にぶつかりそうになった時に!」

「ホッ……ホントかよ……それって……」

「そうだよ。それに子役俳優みたいに超カワイイんだから」

「なっ……なんだそれ。お前、まさかビジュアルで気に入ったんじゃないだろうなあ。言ってみりゃオバケだろ、そいつって」

 呆れたように相川が肩をすくめた。どうやらこのビビリ野郎も、やっと落ち着いてきたようだ。

「オバケじゃないよ。孫四郎って言うんだって」

「なっ、名前があんのかよ!」

「うん、そう聞いたよ」

 わたしと相川のやり取りを食い入るように見つめながら、孫四郎は真ん丸な瞳を輝かせていた。

「とにかく、このことは他の人にはしゃべんなよ。お前、オカシクなったと思われるぞ!」

「分かってるって。大丈夫。あんたもしゃべんないでよ」

「誰がしゃべるかよ。俺は巻き込まれるのはゴメンだからな!」

 そう言い放つと、相川はベンチから立ち上がった。

「じゃあな、松下。気をつけて帰れよ」

「あんたもね、相川」

「孫四郎ってヤツにも伝えてくれよ。松下に変なマネするんじゃねぇぞってな」

 相川は孫四郎の方に目をやった。相川には孫四郎は見えていないはずだから、竜巻が現れた空間に孫四郎がいると見定めて、じっと睨んでいるようだった。

『分かったよ。心配しないで』

 孫四郎は相川に向かって微笑んでいた。

「孫四郎がね、〈分かったよ。心配しないで〉、だってさ」

 わたしは孫四郎の言葉を通訳した。

「なんだ、それゃあ。じゃあな」

 片手を上げると、相川は背中を向けて歩き出した。その背中が小さくなると、わたしは目の前の孫四郎に視線を戻した。

「孫四郎、助けてくれて、ホントにありがとうね」

『別に気にしなくていいよ、妙ねぇちゃん!』

 孫四郎は、透き通るような笑みを浮かべながら、頬のエクボを深くした。

 ベンチに手を突きながら、わたしは立ち上がった。

『これから、どうするんだい?』

 孫四郎は小首を傾げていた。

「避難所に帰るんだよ」

 孫四郎は、つぶらな瞳をウルウルさせながら、『おいらも付いて行っていいかなぁ?』と、上目遣いでわたしの顔を覗き込んできた。その姿は萌え死にしそうなほど可愛い。

「いいけど、みんなを驚かさないようにしてね。お年寄りも多いんだから」

 嬉しそうに、孫四郎がピョンと飛び上がると、着物の裾がフワッと広がった。

『やったぁ!ありがとう。もちろん、誰も驚かさないよ。おいらって姿も消せるから』

 弾んだ声がわたしの頭の中に響くと同時に、孫四郎の体を包むように竜巻が現れた。そして、次の瞬間には竜巻が消えて、孫四郎の姿も見えなくなった。

「孫四郎?どこ?」

 わたしは、孫四郎がさっきまで立っていた地面の辺りに視線を漂わせた。

『いるよ、妙ねぇちゃん。大丈夫!』

 孫四郎の声だけが頭の中に響いてきた。自由に姿を消せるなんて、まったく便利なものだ。でも、わたしだけにしか見えないなら、あんまり意味はないかもしれない。

『早く行こうよ、妙ねぇちゃん!』

「じゃあ、姿を消したままでついてきてね」

 わたしは公園の出入口へと向かった。停めていた自転車の鍵を外してサドルに跨がると、ペダルを踏み込んだ。


 避難所になっている小学校の体育館に着いた時には、すっかり暗くなっていた。

 母はずいぶん心配していたようで、わたしの顔を見るなり、「もっと早く帰れ」と小言を言い始めた。危うく事故に遭いそうになって孫四郎の竜巻に助けられた、なんてことは言えるはずもない。

 母は、「なんでこんなに遅くなったんだ」と、更に問い詰めてきた。わたしは、言い訳もせずに、「ゴメン」とひたすら頭を下げて、なんとかその場をごまかした。

 ひとしきり小言を言い尽くすと、母はやっとわたしを解放してくれた。

 孫四郎は、お城から外に出たことがないらしく、とにかく見るもの聞くもの全てが珍しいようだった。なかでも避難所に備え付けてある大型テレビに、とりわけ興味を引かれていた。テレビには、ちょうど夕方の地方ニュースが映し出されていた。

『妙ねぇちゃん!あの箱はなんだい?声が聞こえるけど、人が入ってるのかい?』

 クタクタに疲れていたわたしは、説明するのも面倒になっていた。

「あー、あれね。あれは、異世界を映す鏡なんだよ。だから、ここと違う場所の風景や、ずっと昔に起こった事が見えるんだよ。すごいでしょう!」

『うわーっ、すごいねぇ!』

 わたしのテキトーな説明に、孫四郎は素直に感動していた。ここまでくると、ちょっと後ろめたい気持ちになる。

『あっ、妙ねぇちゃん!見てよ、おいらが映ってるよ!』

 飛び跳ねるような孫四郎の声が頭の中に響いた。反射的にテレビの画面に目をやると、画面には伊藤さんに見せてもらった石が映し出されていた。避難所にいる人々が行き交う喧騒の中で、テレビのスピーカーから流れるアナウンサーの声に耳を澄ませた。

「熊本地震で崩落した熊本城の石垣から人の形が彫られた石が見つかりました。大きさは顔と胴体を合わせて約二十センチで、本日、報道陣に公開されました」

子供のいたずら描きのような単純な直線で描かれた目と鼻と口、それを囲む丸い顔の輪郭が画面にドアップになった。

『うっわー、おいらだ!おいらだよ、妙ねぇちゃん!』

 孫四郎は、興奮のあまり、キンキンと大声を張り上げていた。咄嗟に耳を塞いだが、直接、わたしの頭の中に響いてくる声の音量が変わるはずもない。

「ちょっと!孫四郎、うるさい!」

 思わず大声で怒鳴ると、一斉に周囲の視線が自分に集まった。わたしは、顔を強張らせながら、テレビの前から足早に逃げ出した。頬を赤くして俯きながら歩き続けていると、『ごっ、ごめん……妙ねぇちゃん……』と、孫四郎が謝ってきた。

 目に見えない孫四郎と会話をしていたわたしは、傍から見れば、不気味な呟きを続けるアブナイ女子高生だったようだ。そのうえ最後には、突然キレ気味に怒鳴り声を上げたのが決定打だったのだろう。わたしは、避難所にいる市役所の女性の職員さんに呼び止められた。

「あなた、ちょっといいかしら。お名前はなんていうの?」

「松下……妙……ですけど……」

 女性の職員さんは、手元のバインダーに挟んだ書類をパラパラとめくっていた。

「えーっと松下さんね。お母さんと一緒に避難されてるんだったわね。さっきからずっとブツブツ言ってるけど大丈夫なの?ちょっとこっちにいらっしゃい!」

 三十代と思しき、その女性の職員さんはわたしの手を握ると、有無を言わさず避難所の臨時救護所に連れていった。

「大丈夫ですから。わたし、なんともないですぅ」

 そんな逃げ口上には全く耳を貸そうともせず、その女性の職員さんは無理やり、わたしを簡易ベッドに寝かせた。ベッドの上で横になったわたしは、「はーぁ」と小さくため息を吐いた。

 女性の職員さんは、グイッとわたしの脇に体温計を突っ込んだ。それから、おもむろにわたしの右手の脈拍を測り始めた。

 すると、さっそく孫四郎が、『妙ねぇちゃん、いったい何やってんの?』と尋ねてきた。

体育館の天井を見上げながら、(わたしだけ、孫四郎の声が聞こえるのも考えものだよ……はぁ……)と心の中でぼやいていた。

 孫四郎はその間も、『ねぇ、ねぇ、何してるの?』と繰り返していた。わたしは頭の中で、(お願いだから、しばらく黙ってて) と、孫四郎に頼んでみた。でも、全く伝わらないようで、孫四郎は質問を止めようともしない。孫四郎の声はわたしの頭の中に直接聞こえるのに、わたしは声を出さないと孫四郎に伝わらないなんて厄介な仕組みだ。

 ベッドの上で仰向けになったまま、わたしはさりげなく唇に人差し指を当てた。〈静かにして〉という仕草だ。幸いにして孫四郎は、その仕草の意味を理解したらしく、それからは黙ってくれた。

 ピピッという電子音がして、女性の職員さんがわたしの脇から体温計を取り出した。

「うーん、熱はないようだし、脈拍も正常。ねぇ、あなた、毎日、ちゃんと眠れてるの?」

 今度はカウンセリングが始まった。

「えっと……いちおう眠れてますけど……」

 わたしのたどたどしい返事に疑念が晴れないようで、女性の職員さんは眉根を寄せていた。

「ねぇ、あなた、何か心配ごととか、不安とか、あるの?」

 もしも、〈今日から、わたし、和服姿の男の子の姿が見えて、声も聞こえるようになりました〉なんて言ったら、そのまま病院に連れていかれるのは間違いない。

 わたしは、コホンと一つ、咳払いをすると、

「被災してから慣れない避難所生活で、少し疲れは溜まってますけど、母も一緒だし、学校でも友達と色々話せるし、大丈夫です」

 と、今度はよどみなく答えた。

「そうなのね。分かったわ。これからも、何かあれば遠慮なく相談してね」

 そう告げると、女性の職員さんは、ようやくわたしを解放してくれた。

 そそくさと臨時の救護所を後にして、わたしは、ダンボールの間仕切りで区画された自分たち家族のスペースに戻った。母はスマホで不動産情報を熱心に調べていた。幸いなことに、わたしが救護所に連れていかれたことには気づいてないみたいだ。

 わたしは平静を装いながら、毛布を羽織って横になった。

『妙ねぇちゃん、おいらのせいで、なんか変な人に捕まっちゃってゴメンね』

 しょげかえった孫四郎の声が頭の中に響いてきた。相変わらず姿は見えない。

 孫四郎は、自分のせいで、わたしが救護所に連れていかれたことを理解していた。まあ、これでしばらくは孫四郎の質問責めを受けずに済むだろう。

 わたしは口元を毛布で覆いながら、「いいよ、孫四郎。気にしないでね」と小さな声で囁いた。

『ありがとう。でも、ほんとにゴメンね……』

 孫四郎は、きっと素直な子なのだろう。そのうえ、とても利発で優しいのだ。

 そんな孫四郎のことが、とても愛おしく思えた。

 わたしは一人っ子だ。そんな自分に、突然、弟ができたみたいな気がした。いつもわたしのそばにいる風の童。それが孫四郎だ。

 いつの間にか消灯時間になっていた。体育館の天井のライトが一斉に消された。既に母は、毛布を被って横になっていた。母から距離をとるようにダンボールの間仕切りのほうに寝返りを打つと、わたしは毛布で口元を覆った。

「ねぇ、孫四郎。ちょっと聞いていい?あんた、いつから、あの石垣の中にいたの?」

 孫四郎は間髪を入れず、『お城ができた時からだよ』と返事をした。

 熊本城が築城されたのは約四百年前のことだ。

(じゃあ、四百年もあそこにいたってこと……そんなに……)

 四百年という永い時間は、十八歳の今の自分には、ちょっと想像もつかなかった。そんなに長い間、孫四郎は独りぼっちでいたのだろうか。返す言葉も見つからず、そのまま黙り込んでいた。

『どうかしたかい?妙ねぇちゃん?』

 そんなわたしを気遣うように、孫四郎が声をかけてきた。

「ううん、なんでもないよ。おやすみ、孫四郎」

『妙ねぇちゃん、おやすみ』

 そのまま目を閉じた。いつもなら横になっても、なかなか寝付けない。でも、孫四郎がそばに居てくれると思うと、なんだか心が安らいで、あっという間に眠りに落ちた。

 その晩、不思議な夢を見た。

 わたしを包むように、つむじ風がぐるぐると吹き渡っていた。すると突然、風が止んで、目の前に孫四郎が現れた。孫四郎は、わたしの顔を見上げながら微笑んでいた。

 孫四郎は、初めて見た時と同じく、薄い紺色の着物に濃紺の帯を腰に巻いていた。つぶらな瞳で、わたしを真っ直ぐに見つめている。

 その時、孫四郎が口を動かした。わたしに喋りかけているみたいだったが、声がまったく聞こえない。

 遂には両手の掌をメガホンのように口元に当てながら、孫四郎が何かを叫んでいた。懸命に何かを伝えようとしているみたいだった。

 それでも何も聞こえなかった。

 わたしが眉根を寄せながら小首を傾げていると、、孫四郎は、とうとう諦めて口をつぐんだ。黒い瞳が悲しそうに潤んでいた。

 そこで目が覚めた。

 まだ夢見心地のまま、たった今見ていた夢を思い返した。

(なんで孫四郎の夢なんて見たんだろうなあ?)

 夢の中で、孫四郎は必死に叫んでいた。でも、その声はまったく聞こえなかった。

(うーん……なんだったんだろう……まあ、いいかぁ……)

 わたしは取り敢えず気にしないことにした。それでも、その夢のことは、いつまでも忘れることができなかった。


 孫四郎と共に生活する日々が始まった。

 朝から晩まで一日中、孫四郎は傍にいた。もちろん学校でも一緒だった。

 孫四郎は、姿を現わすことは滅多になかった。でも、わたしの頭の中にだけ聞こえる声で、たびたび質問責めにした。避難所で臨時救護所に連れていかれたことに懲りて、わたしは、周りに人がいる状況で孫四郎と話す時は口元を掌で覆うようにした。

 そんな努力の甲斐もあって、孫四郎は学校の授業中など、静かにして欲しい時は素直に言うことを聞いてくれた。

 クラスでは、わたしの席は最前列の真ん中で、教壇の目の前だった。

 学年の始めは後ろのほうの席だったが、一度、授業中に派手なイビキをかいて寝てしまった。それ以来、わたしの席は最前列の真ん中になった。担任の木村先生の指示で、クラスの席替えの時も、わたしの席だけは固定だった。だからクラスのみんなからは、不動のセンターと呼ばれている。アイドルのポジション争いじゃあるまいし、まったく冗談じゃない。まあ言ってみれば、わたしはクラスのいじられキャラだった。

 朝のホームルームの時間がきた。目の前の教壇には担任の木村先生が立っている。木村先生は、布袋(ほてい)(ばら)のでっぷりと太った五十過ぎのおっさんだ。首にかけたハンドタオルで額の汗をしきりに拭っていた。

 わたしは席に座ったまま、横目で窓の外に目をやった。真夏の陽射しが容赦なく照りつけていた。

 気温は四十度を超えていて、普段ならエアコンをつけて当然だった。だけど、うちのクラスは地震でエアコンが壊れ、まだ修理されていない。だから教室の窓を全開にして、授業を受けるしかなかったのだ。

 その日は、そよとも風が吹かず、教室はまるで蒸し風呂のような状態だった。

(あっつぅ……)

 座っているだけで額に汗が噴き出してきた。わたしは、ウチワ代わりに、ノートをパタパタと扇いでいた。ハンドタオルで何度拭っても、額の汗は止まらなかった。

 ふと隣の席に目をやると、涼しげな顔で相川が座っていた。俯きながら机の上に開いたテキストをボンヤリと眺めている。

(うん?なんか首に巻いていやがるぞ、コイツ)

 相川は、カッターシャツの襟の中に隠すようにして、首にビニール生地のベルトみたいなモノを巻いていた。

 眉根を寄せながら、わたしは目を凝らした。そのベルトは、色は地味なダークブルーで、一見しただけでは気づかないだろう。

 わたしの視線に気づいたようで、相川がこっちへ顔を向けた。

 わたしは、自分の首元を指差しながら、ちょっとだけ首を傾げた。〈首に巻いてる、それはなに?〉というジェスチャーだ。

 相川は、メンドくさそうな様子でシャープペンを走らせると、ポンとわたしの机の上に丸めた紙切れを放り投げてきた。

 わたしは机の上を転がる紙切れを掌で受け止めた。さりげなくノートを盾にしながら、紙切れを開いてみると、〈ネックアイシング。バスケ部のやつを借りた〉と書いてあった。

 どうりで一人だけ涼やかな顔をしていられるわけだ。相変わらずソツがないヤツだ。

 わたしは相川の方に向き直ると、自分の首元を指差してから人差し指を立てた。ジェスチャーで〈もう一つないの?〉と聞いたのだ。

 相川は両手の人差し指をクロスしてバッテンを作った。〈ない〉というジェスチャーだ。それからすぐに正面に向き直ると、澄まし顔で黒板を見上げた。

 わたしは相川の横顔を睨みながら、(テメエ、クールにもほどがあるぞ)と、心の中で悪態をついた。

 わたしの額に噴き出た汗がポタポタと机の上に滴り落ち、慌ててハンドタオルで拭った。

(こりゃ、もうやってられない!)

 もう我慢の限界を超えた。咄嗟に、わたしはハンドタオルで口元を覆った。ハンドタオルは汗を吸い込んでベタついていたけれど、この際、そんなことは構っていられなかった。

 わたしは小さな声で、「ねぇ、孫四郎。いるの?」と囁いた。隣の席の相川がチラリとわたしの方に目をやった。

『ああ、いるよ。妙ねぇちゃん!』

 孫四郎の涼やかな声が頭の中に響いてきた。羨ましいことに、孫四郎には暑さは関係ないらしい。

「ちょっと頼みがあるんだけど……」

『なんだい?』

「あんまり暑いし、教室の空気も息苦しいの。ちょっと風を吹かせてよ、孫四郎」

『ふーん、いいよ。わかった。任せといて!』

 わたしは頬杖を突きながら、さりげなく教室の窓の外に目をやった。中庭の木立の間に、一瞬、小さな竜巻が現われてフッと消えた。クラスメイトたちは、うだるような暑さにすっかり音を上げている。ほんの一瞬だけ現れた竜巻には誰も気づかなかった。

 次の瞬間、スーッと窓の外から風が吹き込んできた。

 そよ風に煽られて、わたしのショートボブの黒髪がサラサラと靡いた。涼しくて、とても気持ちがいい。すぐに汗が引いてきた。

(すずしーい!孫四郎、最高!)

 孫四郎の風のおかげで、教室にいるみんなの生気が蘇っていくのが分かった。さっきまでの澱んだ空気が嘘みたいに澄んでいく。

 わたしの後ろの席には佳奈(かな)が座っている。佳奈とは、クラスの中で一番仲が良かった。

「うわっ、奇跡じゃね」

 佳奈が漏らした呟き声を背中で聞きながら、わたしは、(ありがとう。孫四郎!)と心の中で感謝した。

「おーい、聞いとるか!」

 目の前の教壇に立っている木村先生が声を張り上げながら、首にかけたハンドタオルで顔全体から滴り落ちる汗を拭った。こんなに涼しい孫四郎のそよ風でも、肉の塊のような木村先生の汗を引かせるのは簡単ではないらしい。見てるこっちまで暑苦しくなるほどで、わたしは頬杖をつきながら机の上に視線を落とした。

「よく聞け。今年のクラスマッチは予定通り開催することになった」

 その言葉に、パッと顔を上げた。

「やった!」

「マジかよ!」

 クラスメイトたちが一斉に歓喜の声を上げた。

 わたしの高校では夏休みの直前に行われる学年毎のクラスマッチが恒例行事になっていた。レクレーションとはいえ、毎年、クラス毎に一致団結して、かなり白熱したゲームが繰り広げられる。

 ところが今年の夏休みは、地震のためにできなかった授業の代わりに課外が追加されることが決まっていた。そんな状況の中で、クラスマッチは中止になるという、もっぱらの噂が広がっていた。

「お前ら、ちょっと落ち着け!じゃあ選手の振り分けは例年通りクジ引きだからな。後はクラス委員に任せる!」

 そう一方的に言い放つと、木村先生はハンドタオルで額を拭いながら、足早に教室を後にした。

「おい、やったなあ!」

「ああ、ここんとこ溜まってたストレスを久々に発散できるぜ!」

 教室中がクラスメイトたちの興奮で湧き立っていた。それほど暗いことが続いていたのだ、あの地震から。

 さっそくクジ引きが行われた。女子はソフトボールとバレーボールが競技種目で、男子はサッカーとバレーボールだった。

 わたしはバレーボールのチームになった。佳奈も同じだったので、ちょっと安心した。

 わたしは学校の部活動を何にもやってない。いわゆる帰宅部だ。だけど割と運動神経はいいほうだと手前勝手に自負していた。まあ取り敢えず人並みには何でもこなせるって程度だけど。

 だから、クラスマッチでも、そこそこはやれるだろうとタカをくくっていた。


 それから一週間後に、クラスマッチの開催日を迎えた。

 朝から運動服に着替えると、クラスの女子は、まず男子のサッカーの応援をするためにグラウンドへ向かった。

 クラスマッチでは、各クラスで種目毎に選抜チームを出して、トーナメント方式で優勝を争うことになっていた。クラスの親睦を深めるのがクラスマッチの趣旨らしい。だけどクラスの女子の応援を受けて、男子たちはかなりマジに試合をやっていた。反則ギリギリの激しいプレイの応酬で、下手すれば怪我人が出そうな勢いだった。

 グラウンドの横に広がる芝生の上で、わたしと佳奈は並んで腰を下ろしていた。わたしたちはクラスメイトの男子たちに向かって、「ファイトー!頑張れー!」と声高らかに叫んでいた。

 男子たちに黄色い声援を浴びせながらフィールドを眺めていると、ゴールポストの前に相川がいるのに気づいた。手袋をしてポケーッと突っ立っている。どうやら身長の高さを買われて、ゴールキーパーをさせられているみたいだった。

(あんだけ背が高いんだから、バレーボールに出りゃ、ちょっとは活躍できるだろうに……クジでサッカーチームになったんだろうけど……相変わらずクジ運が悪いというか、ツキには恵まれないヤツだなあ……)

 手持ち無沙汰のようで、相川は手袋の掌で拍手を打つように、パンパンと乾いた音を立てていた。わたしはメガホンのように口元に手を添えると、「おーい、相川!しっかり守れよぅ!」と声を張り上げた。

 相川がけだるそうに片手を上げた。

 突然、隣に座っている佳奈が、わたしの耳元に口を寄せてきた。

「ちょっと、妙。あんまり相川と馴れ馴れしくしてると、クラスの女子を敵にまわすよ」

 小声で囁く佳奈の言葉を軽く受け流しながら、さりげなく周りの様子を窺ってみた。たしかに佳奈の言う通り、なんとなく周囲の女子たちの間には変な空気が漂っている。女子特有のジェラシーってヤツで、〈幼馴染だからって、調子に乗って相川を独占するんじゃねぇぞ〉って感じだ。勝手にイケメンに成長したアイツのせいで、なんで自分がこんな風に見られなきゃいけないのか。ぜんぜん納得がいかない。

(アイツは、ただの幼馴染だし……それ以上でも、以下でもねぇつうのよ!)

 勝手に心の中で毒づいていた。

 すると急に孫四郎が、『大輔にいちゃんたち、楽しそうだねぇ。おいらもやりてえなあ、玉蹴り』と話しかけてきた。わたしは慌てて右の掌で口を覆った。

「孫四郎、絶対ダメだからね。ガマンして!」

『分かってるよ、妙ねぇちゃん。学校では大人しくするよ。楽しそうだから、ちょっと言ってみただけだよ……』

 少し心残りもあるようだったが、孫四郎は素直に諦めてくれた。

 女子たちの声援の甲斐もなく、クラスの男子サッカーチームは一回戦で敗退した。

 これでケチが付いたのかもしれないが、それから、女子のソフトボール、男子のバレーボールと続けざまに初戦敗退となってしまった。

 残っているのは、女子のバレーボールだけとなった。試合会場の体育館にクラスの全員が集まってきた。

 クラスの女子バレーのメンバーは、放課後にちょっと練習をやっただけだった。ところが、対戦相手のチームには女子バレー部の選手もいた。試合開始前の練習のラリーでボールを落とすのは、わたしたちのチームばっかりだった。

 練習のラリーが終わって、わたしたちは相手チームとネットを挟んで整列した。隣に並んだ佳奈が、「これゃあ、わたしたちも初戦敗退かもね」と自嘲気味に囁いた。

「まぁねぇ……」

 わたしは軽く頷き返した。残念ながらチーム全体に諦めムードが漂っていた。

 クラスマッチは九人制で交代は自由だ。わたしは先発としてコートに入り、一番後ろの真ん中、いわゆる後衛のポジションについた。佳奈は交代要員としてベンチに座っていた。

 ネット横の審判席には、体育の高柳(たかやなぎ)先生が座っていた。高柳先生は、三十代の男の先生で、Tシャツ一枚という格好だった。Tシャツの上からでも、逞しい胸の筋肉が浮き出ているのが分かる。生徒の間では、もっぱら筋トレマニアで鏡に映った自分の身体を眺めるのが趣味らしいと噂されていた。

 高柳先生が、ピィッとホイッスルを吹いた。

「頑張れ!」

 コートを遠巻きに囲んでいるクラスメイトの男子たちがヤケクソ気味に大声を張り上げていた。そんな男子たちの群れの中に相川の顔を見つけた。特に声を出すでもなく、ポケーッとコートを眺めている。

(なんじゃ、アイツ。目が死んでるし)

 傍目から見ても、わたしたちの敗色は濃厚なのだろう。

 ネット越しに相手チームへ目をやると、前衛はみんなバレー部の選手だった。

(これゃあ相手チームはマジだな……)

 嫌な予感がした。

 試合は、わたしたちのチームのサーブで始まった。

 緩い弧を描いて、ボールがネットを超えた。

 相手チームは難なくレシーブして、前衛中央のセッターの選手がトスを上げた。ボールは美しい放物線を描きながら空中に舞い上がった。

 わたしたちは腰を落としてレシーブのポーズをしながら身構えた。

 相手の前衛の選手が高くジャンプすると、そのまま右手を鞭のようにしならせながら、放物線の頂点に達したボールを叩いた。その瞬間、バシッと鋭い音が体育館に響き渡った。

 ボールは、もの凄いスピードで体育館の床に突き刺さると、バンと大きな音を立てながらバウンドした。

 わたしたちは一歩も動けなかった。

 そのまま怒涛の勢いで、相手チームが得点を連取した。

 相手が打ち込むサーブを、わたしたちはレシーブするのが精一杯で、とてもアタックなどはできなかった。なんとか相手のコートにボールを返しても、その度に簡単に拾われて、鋭いアタックを返された。ずっとその繰り返しで、いつしかコートを囲むクラスメイトたちの声援もかき消え、みんな押し黙ってしまった。

 結局、わたしたちは一点も取れないまま、第一セットが終わった。

 相手チームとのレベルが違い過ぎた。

クラスマッチはラリーポイント制で、先に二セットを取った方が勝利となる。わたしたちは、ガックリと肩を落として、うなだれながらコートチェンジをした。

 ベンチに目をやると、佳奈が涙目になっていた。コートの周りを囲むクラスメイトたちも重い沈黙に包まれていた。

 わたしは天を仰いだ。

(このままじゃ一点も取れないかもしれない。これじゃあ、あんまり惨めだ!)

 後衛のポジションにつくと、わたしは、さりげなく口元を右手で覆った。

「孫四郎!いるの!」

 クラスマッチの会場となっている体育館の中は、あちこちから上がる歓声が反響していた。わたしの呟きが周りに聞こえることは、まず無い。

『いるよ、妙ねぇちゃん!』

 待ってましたと言わんばかりの孫四郎の声が頭の中に響いてきた。

「ねぇ、孫四郎。バレーボールっていう試合をやってるんだけど、ちょっとだけ手伝ってくれない?」

『いいよ、妙ねぇちゃん!どうすればいいの?』

 舞い上がるような勢いで、孫四郎が声を弾ませた。自分も参加できることが、よっぽど嬉しいのだろう。孫四郎は、既にやる気満々だ。

「あのね、わたしが合図したら、網の向こう側の白い線で囲まれたところに球を落として欲しいの。分かる?」

『向こう側の床に球を落とせばいいんだね。分かったよ、妙ねぇちゃん!』

 もともと孫四郎は利発で機転が利く。どうすればいいのか、すぐさま理解したようだ。

 第二セットは、相手チームのサーブで始まった。

 スピードに乗ったサーブが鋭く打ち込まれてきた。わたしたちは、レシーブするのが精一杯だ。なんとかボールを相手のコートに返しても、相手チームは強烈なアタックを容赦なく叩き込んできた。

(これじゃあ、第一セットの繰り返しだ。なんとかしないと……)

 わたしは、孫四郎に合図を送るチャンスを窺がっていた。その間に、どんどんゲームは進んで、あっという間に相手チームのマッチポイントになっていた。

 相手チームのサーブが後衛のわたしに向かってきた。

(よし、これだ!)

 わたしは両手を揃えて下に伸ばすと、レシーブの姿勢で腰を落とした。ボールが自分の真正面にきた。

 ボールを腕の内側で強く弾き返すと、パンと乾いた音がした。ボールは、大きな弧を描きながら、そのままネットを高く越えていった。

「あーあー」

 コートを取り巻くクラスメイトたちが嘆声を漏らした。誰が見ても、相手チームにレシーブされ、アタックで返されて万事休すだ。

 ボールがネットを越えた瞬間、わたしは口元を掌で覆った。

「孫四郎、今よ!」

 大きな弧を描きながらネットを越えたボールが、ブンと空気を切り裂く音とともに、突然、垂直に落下した。

 バンと大きな音を立てながら、ボールが床を叩いた。

「えっ!」

 コートの中にいた全員が驚きの声を上げた。相手チームの選手たちは、バウンドを続けるボールを呆然と眺めていた。

「ピッ」

 静まり返ったコートにホイッスルの音が響いた。審判の高柳先生が、「ボッ、ボールイン……サーブ……チェンジ」と上擦った声で、わたしたちの得点をコールした。

「わぁー」

「ラッキー!一点入ったぞ!」

 コートを囲むクラスメイトたちが次々に大きな歓声を上げ、体育館全体にどよめきが響き渡った。遠目からは、点数が入ったのはただの偶然と見えたようだ。それなら、それで都合がいい。

 やっとサーブ権がこっちに移った。次にサーブを打つのは、わたしだ。

「妙!がんばれっ!」

 ベンチに座っている佳奈が金切り声を張り上げていた。わたしは、佳奈に向かって力強く頷き返した。

「松下!リラックス!気楽にいけよ!」

 相川の声も聞こえた。どよめくようなクラスメイトたちの歓声の中でも、不思議と相川の声は聴き分けることができる。小さい頃から聞き慣れた声だからなのかもしれない。

 わたしは、両手でボールを掴むと、そっと額に当てた。そして祈るように、(孫四郎、頼むよ!)とボールへ念を込めた。

「ピッ」

 ゲーム再開を告げるホイッスルの音が響いた。

 わたしは、アンダーハンドでサーブを打った。

 フワッと浮き上がったボールは滑らかな弧を描きながら、相手チームのコートに向かって飛んでいった。相手の選手たちがレシーブのポーズで身構えた。

 ボールがネットを越えた瞬間、

「孫四郎!」

 と、小さな声で囁いた。

 ブンという風を切る音とともに、ボールの軌道が直角に曲がった。ネットすれすれを掠めるように真下に落ちて、そのまま床に叩きつけられた。バンという音とともに、ボールが高く跳ね上がった。

 ありえないボールの軌道に、相手の選手たちは呆然と立ち尽くしたまま、トントンと床の上でバウンドを続けるボールを見つめていた。

 審判の高柳先生もしばらくポカンと口を開けていたが、ハッと我に返ると、「ピッ」と、短くホイッスルを吹いた。

 コートの周りを囲んでいるクラスメイトたちが一斉に歓声を上げた。

「いいぞ!松下!」

「すげぇなぁ、あいつ!」

「ナイス、妙!」

 ベンチの方に目をやると、佳奈が立ち上がってガッツポーズをしていた。

 また、ボールがわたしのところに戻された。点数を取られない限り、このまま自分がサーブを続けることになる。

 わたしは、ボールを床で弾ませながら、(いいぞ、孫四郎!次も頼むよ)と心の中で念じていた。

 相手チームは、ボールの急激な変化に備えて、ネット際に前衛の選手が張り付いていた。次こそレシーブしてみせるという気迫なのだろう。ネット越しに鬼気迫るような目つきで、わたしを睨んでいた。

「ピッ」

 サーブ開始を告げるホイッスルの音が響いた。

 わたしは、再びアンダーハンドでサーブをした。ボールは、さっきよりも少し高い弧を描いて飛んでいった。

「集中!」

 相手チームの選手が声を揃えた。

 ボールがネットを超えた。

「孫四郎!」

 自分の呟きと同時に、ブンと空気が震える音がした。次の瞬間、ボールが急激にカーブした。なんとかレシーブしようと、相手の選手が手を伸ばしてきた。その間を縫うようにして、ボールが軌道を左右に変えていく。ボールが軌道を変える度に、ギュンと風を切る鋭い音が響いた。

 ボールがそのまま床に突き刺さった。バンと大きな音を立てると、ボールがバウンドして、コートの外に転がっていった。

 その瞬間、コートを囲むクラスメイトたちから、どっと歓声が湧いた。

「ピッ」

 ホイッスルの音が響いて、審判の高柳先生がネット横の審判席から降りると、転がるボールを手に取った。先生はボールを目の前に持ち上げると、その表面を舐めるように眺めていた。どうやらボールがどこかおかしいのではないかと疑っているみたいだった。

 ポンポンとボールを掌で弾ませると、先生は首を捻りながらボールを交換した。

 ボールに怪しいところなんてあるはずがない。わたしは新しいボールを受け取った。

 それからも自分のサーブは続いた。孫四郎のおかげで、上下左右に急激に変化する軌道は尋常ではなく、そんなボールをレシーブできる人間なんているはずがなかった。

 いつの間にか、わたしたちのコートに周りに人垣ができていた。わたしのサーブが相手のコートに突き刺さる度に、地鳴りのような歓声が沸いた。

 そして遂に同点に追いついた。これでデュースだ。あと二点続けて得点すれば、このセットはわたしたちが取ることになる。

「いけっ、松下!」

「やったれ、妙!」

 興奮で上気したクラスメイトたちが口々に叫んでいた。佳奈が頬を赤くしながら、ベンチで金切り声を上げていた。

「ピッ」

 ホイッスルが鳴った。わたしはゆっくりとした動作で、ボールをすくい上げるようにサーブをした。

 ボールは体育館の天井に向かって高く上がった。そのまま高い弾道でボールがネットを越えていく。

 ボールを見つめながら、「孫四郎!」と呟いた。

 その途端、ボールは左右に激しくブレながら急降下していった。

 なんとかレシーブをしようと、相手チームの選手たちが体を投げ出すようにして、手を伸ばしていた。ボールは、その腕を掻い潜るようにして小刻みに変化した。その度に、ギュンと空気を切り裂く音が響いた。

そのままボールが床を叩いた。

「うおー」

「きゃー」

 コートを囲む群衆の歓声で体育館のガラスが震えていた。

 この得点でわたしたちが逆転した。あと一点でこのセットが取れる。

 ベンチに目をやると、全員が立ち上がっていた。佳奈が興奮で顔を真っ赤にしながら叫んでいた。でも、周りの歓声にかき消されて、何を言っているのか全く分からない。

「ピッ」

 高柳先生がホイッスルを鳴らした。

 相手チームの前衛の選手たちは、唇を噛み締めながら手の甲で瞼を拭っていた。どうやら悔し涙を流しているようだった。ちょっと可哀想だったが、もはや後戻りはできなかった。

 わたしは、手を大きく後ろに反らすと、アンダーハンドでボールを強打した。

 猛スピードでボールが一直線に飛んでいく。

 ボールの勢いが強過ぎた。このままでは、相手チームのコートを超えそうだ。既にボールは弾丸ライナーでネットを超えていた。

 慌てたわたしは、「孫四郎!」と大声を張り上げた。今ならどれだけ大声で叫んでも、轟くような歓声が体育館全体に反響して誰にも聞こえるはずがなかった。

 ブンと風を切る振動を体に感じた。コートを超えようとしていたボールが、一瞬、空中で停止すると、次の瞬間、逆戻りするような軌道で鋭角に曲がった。そのままボールはコートのラインの内側ギリギリに落ちた。

 コートを超えるに違いないと、ボールを目で追っていた相手チームの後衛の選手たちは、棒立ちのままだった。

「ピッ」

 ボールインを告げるホイッスルが聞こえた。

とうとう一セットを取ったのだ。

 佳奈がベンチから飛び出すと、わたしに抱きついてきた。コートを囲んでいたクラスメイトたちも、歓声を上げながらコートの中になだれ込んできた。

 みんな、今日はずっと屈辱感でいっぱいだったのだろう。わたしは、クラスメイトのみんなに揉みくちゃにされていた。

「すっげぇぞ、松下!」

「妙、やったぁ!」

 コートを囲む他のクラスの観衆たちもどよめいていた。遠巻きにしている観衆の中に、ニヤつきながら、わたしに視線を向けている相川の姿が目に入った。

(コイツにはバレてんな。孫四郎のおかげだってことが……まぁ、いいか……)

 わたしは、クラスメイトのみんなが押し合う輪の中心にいた。みんなが興奮して抱きついてきて、蒸し風呂のように暑くて堪らなかった。押しくら饅頭のような状態で、誰かがわたしの足を踏みつけた。

「痛っ!もう助けてよぅ!」

 照れ隠しもあって、わたしはわざと大声を出した。

『妙ねぇちゃん!』

 不意に、うろたえたような孫四郎の叫び声が頭の中にコダマした。次の瞬間には、自分の身体を包むように竜巻が現れていた。

(まっ、まずい!)

 わたしは慌てた。

「孫四郎!まっ……」

 待って、と言い終わる前に、ドンという大きな破裂音が体育館に響き渡った。

 自分を包んでいた竜巻が強烈な突風となって四方へ広がり、自分の周りに群がっていたクラスメイトたちが散り散りに吹き飛ばされた。

 わたしの真正面にいた佳奈は、五メートルぐらい吹き飛ばされ、背中から体育館の床に叩きつけられた。

 慌てて佳奈に駆け寄ると、「ゔぅー」と苦しげに唸っていた。背中を激しく打った衝撃で呼吸困難に陥っているみたいだった。佳奈を抱き起こしながら、「佳奈……大丈夫?しっかりして……」と、背中をさすった。

「ううっ……なっ……なんだったの……今の?」

 息も絶え絶えに喘ぎながら、佳奈がわたしに視線を向けた。わたしは頭の中が真っ白になっていた。唇を震わせながら、ひたすら佳奈の背中をさすり続けた。

 周りに目をやると、クラスメイトのみんなが丸く円を描くよう床に転がっていた。高柳先生と相川が、横たわったまま呻いている彼らに駆け寄っていた。

「おい、保健室から担架を持ってきてくれ!急いで!」

 呆然と立ち竦んでいる他のクラスの生徒達に向かって、相川が大声を張り上げていた。

 さっきの破裂音は学校中に響き渡ったのだろう。次々に先生や生徒が体育館へ駆け込んできた。まるで戦場のような有様に、先生達は目を剥いていた。そして、すぐに床に倒れているクラスメイトたちの介抱を始め、担架に乗せて運んでいった。

 幸いにして骨折などの重症者はいなかった。でも、クラスメイトのほとんどが身体のどこかに打撲を負っていた。

 一方で、わたしはというと、職員室に監禁されて、夕方まで事情聴取を受ける羽目になった。最後に、一部始終を見ていた高柳先生が、「松下に罪は無い」と断言してくれたので、やっと開放された。

 職員室から出てきた瞬間、フーッと大きなため息を吐いた。緊張のあまり、首筋と肩がガチガチに凝っていた。左手で首筋を揉みほぐしながら、肩を落としてトボトボと廊下を歩き始めた。クラスマッチで事件が起こって、生徒はみんな帰宅させられていた。夕方の校舎は既に人影も無く、パタパタと廊下を歩く自分の足音だけが響いていた。

 廊下の角を曲がったところで、

「松下!災難だったな!」

 と、背中越しに聞き慣れた声がした。振り向くと、そこには相川がいた。

「相川はまだ帰ってなかったの?」

 相川が自分の横に並んだ。教室に向かって、わたしたちは歩き出した。

「慰めてやろうと思ってな、孫四郎を。きっと落ち込んでるだろうと思ってさ」

 相川がフッと小さく笑った。

 その時、わたしたちの目の前に小さな竜巻が出現した。渦巻く風に煽られて廊下の埃が舞い上がった。思わず手で口を覆いながら立ち止まると、その竜巻がフッとかき消えた。

 竜巻の跡には孫四郎が立っていた。いつも通りの薄い紺色の着物姿で、しょんぼりと俯いていた。髷のように紐で結んでいる前髪がしおれたように額に垂れていた。

 相川は、孫四郎の方を指差した。

「そこにいるんだろう、孫四郎。お前は悪くないよ。気にするなよ」

 思わず涙がこみ上げてきたようで、孫四郎は手の甲で瞼を拭っていた。

『あっ……ありがとう……大輔……にいちゃん……』

 しゃくり上げる孫四郎の声が頭の中に響いた。

「あのね、『ありがとう、大輔にいちゃん』だってよ、孫四郎が」

 孫四郎の言葉を伝えると、相川は頷いた。わたしは、膝に手を突きながら前屈みになって、孫四郎と目線の高さを合わせた。

「そんなに泣かないでよ、孫四郎」

『だっ……だって……友達のみんなが怪我しちゃったし……』

 孫四郎は着物の袖口を瞼に押し当てていた。

 相川は、わたしと同じように前屈みになると、孫四郎の方に視線を向けた。それに応えるように、孫四郎が顔を上げた。相川には孫四郎が見えてないはずだ。それなのに、相川の視線は孫四郎の潤んだ瞳を捉えていた。

「だから、気にするなって、孫四郎。お前が悪いんじゃない。悪いのは松下だから」

 思わずムカッときて、わたしは相川の横顔を睨みつけた。

「なんで、わたしなのよ!」

 前屈みの姿勢からスッと背筋を伸ばすと、相川がわたしの方に向き直った。

「だって、そうだろう。まぁ、バレーの試合で孫四郎に手伝ってもらったところまでは、何も言わない。今日、俺たちのクラスは散々だったから、孫四郎のおかげでちょっとは気が晴れたしな」

「だったらいいじゃないの!」

「だけど、第二セットを取った後、みんなに揉みくちゃされたお前が調子に乗って、『助けて!』なんて悲鳴を上げたから、孫四郎が慌てたんだぞ!」

 相川の鋭い指摘に、返す言葉もなく黙り込むしかなかった。

「お前が助けを求めたから、孫四郎は、突風を起こしただけだと思うぜ」

 理路整然と弁じる相川を、わたしはふくれっ面をしながら横目で睨んでいた。

 居たたまれない様子で、孫四郎は肩をすぼめながら俯いていた。わたしは孫四郎の方に向き直った。そして、背筋を伸ばして姿勢を正すと、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい、孫四郎。調子に乗ったわたしが悪かった。許して!」

『そんな!謝らないでよ、妙ねぇちゃん。みんなに怪我をさせちゃったのは、おいらなんだし。これからはもっと気をつけるから』

 わたしが頭を上げると、目の前の孫四郎は、もう泣いてはいなかった。頬にエクボを寄せながら微笑んでいる。

「ありがとう、孫四郎!さあ、行こう」

 わたしたち三人は、歩調を合わせながら教室に向かった。わたしを真ん中にして、右側には相川、左側には孫四郎がいた。


 翌日、学校側が事の顛末を公式に発表した。

 その内容は、体育館で何らかの気象条件が重なって突風が発生した、というものだった。

 でも、そんな後付けみたいな説明に、保護者たちはともかく、クラスメイトたちが納得するはずがなかった。おかげでその日から一週間ほど、みんなから質問責めに遭うことになってしまった。

 その度にわたしは、「ホントに分かんないんだって。なんであんなことになったのかは!」と、逆ギレ気味に、とぼけるしかなかった。

 クラスマッチでは女子のバレーボールは中止という扱いになった。他の競技で全て初戦敗退だったわたしたちのクラスは結局最下位となった。

 孫四郎とのコンビであれだけ頑張ったのに、ほんとに報われない散々な結果だった。

 クラスメイトたちに問い詰められる度に、孫四郎が申し訳なさそうに謝ってきた。でも、相川の指摘どおり、今回は孫四郎を責められない。これは自分の責任だ。それに、一セットでも取れたのは、孫四郎のおかげだったのだ。あんなにみんなを喜ばせてくれたのだから、孫四郎のせいにはできなかった。

 クラスマッチから一週間が過ぎると、みんなの記憶も徐々に薄れて、クラスマッチのことも話題には上らなくなった。わたしは、やっと元の平穏な日々に戻れると、ひと安心していた。

 でも、しばらくしてクラスメイトの男子たちが、わたしのことを、〈トルピちゃん〉とか、〈トルピ〉と呼び始めた。パーティーピープルならぬ、トルネードピープルの略だそうだ。それはすぐに浸透して、最後にはクラスメイトのほとんどから、そう呼ばれるようになってしまった。

 だけど、その呼び名は、あながち間違ってはいない。だって、わたしの傍には、いつだって風を操る孫四郎がいるのだから。

 ある時、孫四郎が尋ねてきた。

『妙ねぇちゃんは、なんでみんなから、トルピって呼ばれてるの?』

 わたしは〈竜巻の女の子〉という意味だと教えた。

『へぇ、そうだったんだー。すごいやぁ!』

 孫四郎は無邪気に喜んでいた。きっと、孫四郎とわたしのコンビを、みんなに認めてもらえたみたいで嬉しかったのだろう

(まぁ、しょうがないかぁ……)

 手放しで嬉しがる孫四郎の様子に、わたしは、そのアダ名を受け入れるしかなかった。

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