第六話 三度目のアレクセイ②
「莫迦がまた莫迦を言っていると思っておったが、どうやらおぬしの妄想ではなかったようじゃのう?」
卒業パーティの会場で幸せそうに踊るエカテリナとイヴを瞳に映し、姉のアリーナが微笑んだ。
彼女はずっと私の言葉を信じてくれていなかったのだ。まあ、ずっとと言っても一週間に過ぎないが。
だれにとっても青天の霹靂だったようで、エカテリナ達は会場中から視線を浴びせられている。
「ユロフスキー公爵はふたりの婚約を許したようですよ」
「そうであろうな。エカテリナをひとりにしておいたら、あの尻軽女の代わりに公務を任せるため形だけの妃にされかねん。娘の幸せを願う父親なら、もっとマシな男をあてがおうと思うものよ」
「尻軽女とはだれのことですか?」
「わかっておろうが。男爵令嬢レーヴナスチナのことじゃ。あのデカい腹から出てくる赤子は、何色の髪と瞳を持っておるじゃろうなあ?」
「私か彼女と同じ色の髪と瞳でしょうよ」
「そうじゃな。おぬしとおぬしの側近どもは色味が似ておるからな。上位貴族は政略結婚が盛んだから、当然のことではあるがの」
姉は、私の愛しいレーヴナスチナが側近達とも関係を持っていると言って憚らない。
そんなことあるはずがないのに。
レーヴナスチナが愛しているのは私だけだ。初めて体を重ねた日から考えると腹が大きくなったのが早過ぎる気はするものの、そういう体質の家系だというのだから問題ない。
「たとえ高位貴族の養女になろうとも、学園在学中に孕むような尻軽女が王太子の妃になれると思うなよ?」
「身籠ったのは彼女のせいではありません。……私の情熱のせいです」
「男爵令嬢といえども貴族、どこへ行くにも侍女と護衛が同行するものじゃ。自らひとりになり、もしくは彼女らの目を盗んで男と密会したのなら、それは本人の決断の結果であろう。……ふふっ」
「なんですか、姉上」
「おぬしの側近どもは婚約を破棄せなんだのじゃな」
私の側近達は、それぞれの婚約者と踊っている。
エカテリナの友人でもあった彼女達もイヴとのことは知らなかったらしく、ダンスのパートナーである側近達よりもふたりのことを気にしているように見えた。
「破棄する必要がありませんからね。……彼らはレーヴナスチナの恋人ではない」
「ははは、我が弟君は人が良いのう。あんなにもおぬしを慕っておったエカテリナでさえ心の奥ではほかの男を求めていたのじゃぞ? 忠誠とは言葉ばかり、王太子の名前に寄生していたクズどもなら思うだけでは終わるまいよ」
「私の側近を莫迦にしないでいただきたい」
「おお、これはすまなんだ。エカテリナがイヴの嫁になるのなら、結局わらわの義妹になる。それに免じて弟を苛めるのはやめておこう」
姉は昔からエカテリナを可愛がっていた。
学園に入学してから死人のような顔色になった彼女のことを心配して、何度も私に忠告という名の罵声を浴びせかけてきたものだ。レーヴナスチナとのことも事細かく駄目出しされた。
人のせいにするわけではないものの、私がレーヴナスチナに溺れたのは姉への反抗心もあったような気がする。
「わらわ達も踊るか?」
「やめておきます。姉上と踊れるのは、ガチンスキー大公家の白熊だけです」
姉のダンスは激し過ぎて、彼女を愛してやまない大公家の長男以外ついていけない。
黒髪の弟と違って隣国出身の母から受け継いだ白金の髪を持つ兄は同じような厳つい外見ながら、熊は熊でも白熊と呼ばれていた。
どこが良いのか知らないが、未来の義兄は姉といるといつも蕩けそうな顔をしている。今、エカテリナと踊っているイヴと同じ顔だ。
エカテリナが疲れたのだろう。
ダンスの輪から外れて、ふたりは飲み物が用意された区画へと向かった。
以前なら私の瞳と同じ緑色の飲み物を好んでいたエカテリナが、イヴの瞳と同じ琥珀色の飲み物を手に取っている。本当は、前からそうしたかったのかもしれない。
エカテリナがイヴに微笑む。
氷青の瞳が和らいで春空の淡い青になる。
飲み物で湿った瑞々しい薔薇色の唇は優しい弧を描いていた。近くにいた男が見惚れている。不機嫌そうな顔のイヴに抱き寄せられた理由が、エカテリナにはわかっていないようだ。厚く逞しい胸の中で不思議そうな表情を浮かべている。
胸が疼く。
じりじりと心臓が締め付けられ、言いようのない感情に炙られる。
裏切り者め裏切り者め裏切り者め! そう叫びたかったが、叫んだら私以外の全員に鏡を見ろと言われることはわかっていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──男爵令嬢のレーヴナスチナを王太子の妃にすることなど出来るはずがない。
とある伯爵家が養女にしても良いと言ってくれたが、私は断った。
彼女が産んだのはだれがどう見ても私の子だった。彼女の言う通り、腹が大きくなるのが早い体質だったようだ。姉のアリーナはそれでもレーヴナスチナを尻軽だと言う。べつに逆らう気はなかった。……どうでもいい。
私は太子を辞して、レーヴナスチナの実家に婿入りした。
レーヴナスチナにはとても嫌がられたけれど、彼女の子どもの父親なのだから当然だ。
私といるのがつまらないのなら、これからも側近達と遊べばいいさと笑いかけたら、化け物を見るような目で見られた。実際私は化け物なのかもしれない。心のどこかが壊れている。
イヴの隣で微笑むエカテリナの姿だけが頭の中で踊っている。
姉の王配として王家に婿入りした兄の代わりにガチンスキー大公家を継いだイヴとエカテリナは仲良くやっているという。イヴによく似た子どもが生まれたという噂も聞いている。
私によく似たレーヴナスチナの子どもに対する関心は湧いてこない。この子が私の血を引いていることは間違いないのに、どうしても愛することは出来なかった。愛する以前に興味がないのだ。可哀相にな、と思うことはある。
私の側近達はみな、婚約を解消されて廃嫡されている。
姉が彼らとレーヴナスチナとの関係を暴いたからだ。レーヴナスチナがエカテリナのみならず側近達の婚約者にも苛められたと嘘八百を広めて悲劇の主人公を気取っていたのが、姉にはどうしても許せなかったそうだ。
前から、同じ時期に学園に通っていたら在学中に始末していたのに、と息巻いていたな。
私は朝起きてから夜眠るまでずっと、エカテリナのことを考えている。
あのときの言葉が嘘であるようにと願いを込めて。
彼女に愛されていない、愛されていなかったと思うだけで、自分のすべてが消え失せるような気分になるのだ。一日──いや、ほんの一瞬でもいい。イヴを愛する心の隅でいいから、私を愛する気持ちが存在したことがあってくれと、私は願い続けている。




