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はじまり

作者: 橋本たなか

 すべてを吹き飛ばしてしまいそうな風が吹いていたその翌日、私は初めてあなたを認識した。身体全体を電流が駆け抜けるような衝撃が走ったのを、記憶している。

 あなたに早く会いたかった。でも、私はあなたに見合う人間なのか……とても不安になった。不安とあなたに会えるという興奮とそれに伴う緊張で、その日の夜は上手く眠ることができなかった。

 朝になって、鉛のように重くなった身体を起こすことができず、隣で眠る人の体を揺すって朝を伝えた。その人は「おはよう」を私に言うと、布団の上で猫のような伸びをした。起き上がれずにいる私に気が付くと、心配し、私の頭を壊れ物を扱うように優しく撫でた。そして「早く帰ってくるね」と言ってくれて、私の仕事場に休みの電話まで入れてくれた。

 その優しさが有難く、同時に申し訳なく思った。優しいこの人はその優しさのまま、私を受け入れてくれるのだろうか。私ばかりが浮かれてしまっているけど、あの人の気持ちはどうなのだろうか。私に見切りをつけてどこか遠くに行ってしまうのではないだろうか。枕を濡らしながら考えていると、誰かが私の頭を撫でた。

 多分気の所為。でも、確実に誰かが撫でた。あの人の撫でかたに似ているから、朝の経験が思い出させているのだろうか?でも、違う。多分……いや、絶対に違う。そう確信したとき、身体が風船がしぼんだように軽くなって、とてもお腹が空いた。

 確か、美味しいと噂になっていたパン屋さんで買った、スーパーのより高い食パンがまだ残っている。それを食べよう。お腹がいっぱいになったら散歩に出掛けよう。そうだ、近くの小学校まで行こう。その後に近くにある公園。あ、海が見たい。私の故郷と同じにおいがする海。少し遠いけど、あのどこまでも果てしなく続く海が見たい。

 今日の予定を決めると、二枚に切った食パンはトーストもせずバターも塗らず、牛乳で流し込みながら一気に食べた。噂通り美味しかった。水筒には冷えた麦茶を入れ、買ったばかりの靴を履いて、朝と午後の中間、私が一番好きな時間に玄関を開けた。

 小学校には歩いて五分程度で着く。中には入れないから、塀に囲まれている小学校を見上げながらゆっくりと歩く。運動場は静まり返っていた。しかし、舌っ足らずな大きな声と、それを鎮めようとする貫禄のある声が聞こえた。人の姿は見えないのに、小学校全体が活気に満ちているのを感じた。

 小学校のすぐ近くには住宅街がある。その中に公園もあり、いつもは親子連れや犬の散歩をしている人たちで賑わっているけど、今日は誰もいなかった。誰もいないから、ブランコに乗る。全力の一歩手前を漕ぐ。漕ぐ。風を感じた。草のにおいと湿った土のにおい。あ、空が青い。でも、頭が痛くなる青さじゃない。雲も適量程度にある。すべてが正しくそこに存在している。あぁ、なんて愛おしいのだろう。ブランコの速度を緩める。公園から海へはバスが出ている。携帯の時計を確認すると、丁度バスがやって来る時刻になろうとしていた。ブランコを飛び降り、駆け足でバスに向かった。

 ギリギリセーフ。私は後ろから三列目の二人座れるスペースに行き、静かに腰を下ろして周りを見渡した。前方には、母親と幼稚園児くらいの男の子が乗っていた。そのすぐそばには老夫婦。男の子が指さしている窓の外を、その老夫婦と母親はニコニコと眺めていた。

 通路を挟んだ隣には外国人のカップル。その二人も男の子を見ながら異国の言葉で談笑していた。カップルと目が合った。軽く会釈をすると、微笑んでくれた。恥ずかしくなって前を向くと、男の子とも目が合った。私が小さく手を振ると、たどたどしく振り返してくれた。

 なんて優しい世界なのだろう。私はこの街であの子に会うんだ。このバスにあの子と乗るんだ。天にも昇れてしまいそうな、世界なんて簡単に救ってしまいそうなそんな気持ちになった。

 「次はー海岸通り~海岸通り~」

 アナウンスが流れ、私は降りるボタンを押す。バスを降りるとき、運転手さんに「ありがとうございました」と言ってみると、「お気を付けて」と言ってくれた。それだけで、私の足取りは羽根のように軽くなる。

 潮の匂いが漂う道を歩きながら、さっきの男の子を思い返してみた。髪型は坊ちゃん刈りって呼ばれてるアレ。振り返してくれた手は葉っぱみたいに小さかったけど、パンみたいにムチムチしてた。でも、一番思い出されるのは、好奇心に窓の外を見ていたあの表情。見るもの全てが目新しくて、瞳の奥で記憶しようと輝く二つの眼。すべてが愛おしくなり、立ち止まって潮の匂いを思いっきり吸い込もうとしたとき、私の両隣を二人乗りをした自転車が二台、勢いよくやって来た。

 「ふらふら歩いてんじゃねぇよっっ!ババアー!」

 中学の制服を着崩した明るい髪色の少年たちが、笑いながら通り過ぎて行く。

 まだ授業がやっている時間のはずなのに、鞄を持っていなかった。学校を抜け出してきたのか、はたまた最初から行ってないのか。姿が見えなくなった少年たちの後姿をずっと見つめ、心臓に手を置く。ドクドクと音を立てていた。怖かった。ビックリした。何だアレは……なんて恐ろしい。

 そうだ。私はこの世界の美しいところをたくさん知っているけど、それ以上に醜くて汚らわしい面も見てきているから知っている。それをあの子に見せる覚悟はある?あの子が怖くて痛くて消えてしまいそうになっている時、私は傍にいてあげれる?あの子が私のことを嫌いになってしまっても、私はずっと愛しているって、心の底から言える?そんなの分からない。怖い。こんな気持ちであの子に会っていいはずがない。そうか、今ならまだ間に合う。会わないという選択肢だってある。あるんだよね?分からない。何も分からない……

 潮の匂いがどんどん濃くなってくる。気持ちが悪い。吐き気がする。どうして海に行きたいなんて思ったんだろう。そんな綺麗なものでもないし、潮と汗で全身がベタベタするし。最悪だ。でも、行かなければならない使命感のようなものがあった。息を整えながら歩く。あと少し。海はもうすぐそこにあるのに、海沿いには木々が生い茂っているからか中々姿を現さない。ようやく砂浜の入り口が見えた。あと少し。

 ……ハッと息を飲む。狭まっていた視界が一気に開けた。砂浜と海しかない。さっきまで暑いだけだった風が、昨日は全てを吹き飛ばそうとしていたあの風が、今は全てを包み込むように優しく吹いている。流れる汗も気持ち悪くなくて清々しい。傍にあったベンチに座り、ハンカチで汗を拭う。水筒に入れていた麦茶を飲むと、麦茶が血液と共に全身を巡っていった。

 目の前には、広大で、どこまでも続く海。この海が、あの子に繋がっているような気がした時、さっきまでの恐ろしい考えは消え去っていた。あの子に会わないという選択肢をしたら、私は一生後悔する。海を見る度に、バスに乗る度に、ブランコを漕ぐ度に、子どもと大人の掛け合いを聞く度に、生きている実感を持つ度に。私はあの子を思い出して、きっと言葉にならない涙を流す。この世界の恐ろしいものなんて塵のように感じるほど、私はあの子に会いたい。果てのない海とそれを覆う空を、目ではなく頭で眺めた。

 海はいつの間にか濃い藍色に変化していた。どれくらいこの場にいたのだろう。携帯が小刻みに光っていることに気が付いた。一件のメールが届いていた。

 「体調はどうですか?家に着いたのですがどこにいますか?迎えに行きましょうか?」

 優しいあの人からだった。

 今日、あの人に話さなければいけないことがある。もし、あの人が困ってしまったら、その時は納得してもらえるまで一緒に何度でも話し合おう。きっと分かってくれる。あの子に会うと、きっと笑顔になってくれる。この決断は間違っていなかった、そう笑い合える日が必ず来ると確信している。あの人の携帯番号を、一つ一つ確認しながら押した。

 

 あの時に記憶した海と空、感じた気持ち、あの日言ってくれたあの人の優しい言葉を、私は今でも鮮明に覚えている。 

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