月とTKG
「あー、腹減ったー……」
俺は誰ともなく言ったはずだったが、隣りを歩いていた広美には聞こえていたようで「家に帰ったらすぐご飯だから、もう少し頑張りなさい」と叱咤された。
「了解」
とはいえ、夕方のアーケード街の店先にはうまそうなものが所狭しと並べられている。タレをたっぷりとつけた焼き鳥、揚げたてのコロッケに唐揚げ……俺の口の中はすでに大洪水だった。
「ところで、今日のメニューはなんだ?」
俺は買い物袋を両手に持っていたが、中身は聞いていなかった。別々に分かれて買い物をしているときに広美が買ってきたもので、合流したときに「持って」と言われ運んでいたものだ。そのときは単に「ああ、わかった」と受け取っていたが、商店街で夕飯の材料を買う素振りを見せないところを見ると、このビニール袋の中身が今日の夕飯の材料の可能性が高かった。
「それは、お・た・の・し・み」
俺は恐怖に慄いた。広美は決して料理が得意ではない。俺たちが出会った二年前からようやく広美のお母さんから学び始めたぐらいだ。だが二十九歳の年齢からいえば、花嫁修業というべき特訓の時期よりも、母に甘えて育った期間の方が遥かに長いのだ。早々に腕が上がるわけでもないのだが、彼女の作る手料理に文句を言うようなものなら、しばらくの間ギスギスとした関係が続いてしまうので、俺は相当なものが出ない限りは口を噤むスタンスを貫いていた。
だが、今日の広美は、異様に晩ご飯作りに積極的だ。こんなときは、新しいレシピの実践か、成功率の上がった料理の実践かによる。後者はまだいいのだが、前者が問題だ。俺は広美の料理に新レシピが加わる度に、例えは悪いが実験用のモルモットになったかのような気持ちになっていた。
「そ、そうか。期待しているからな」
「うん。今日のは自信あるからね。頑張るわ」
――頑張らなくていいのに……。そう思っても、俺は口には出さなかった。実際、広美の手料理にいまは甘えているのだから、文句も言えない。
俺たちはアーケード街を抜けた。
そこで広美が「あ!」と言葉を上げた。
「どうしたんだ?」
俺がそう尋ねると、彼女は指を一本立てて夜空へと向けた。
「流れ星!」
「え?」
俺は急いで視線を広美の指先から頭上に広がる夜空へと向けた。目を凝らして見ると、爛々と輝く北極星の方向から、いくつもの光の筋が夜空に伸びていた。
俺は今朝のニュースを思い出した。出勤時間ぎりぎりで見たそのニュースは、今夜、北の空に獅子座流星群が流れるというものだった。
見ると、周囲の人々は夜空を見上げながら胸の前で両手を組み、なにかを願っているようだった。そして、広美も。
しばらくすると広美は手を解き、夜空に広がる星々を見つめた。
「で、なにを願ったんだ?」
すると、俺を見ると広美は少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「な・い・しょ!」
そう言うと、彼女は再び視線を夜空へと向けた。その横顔が、なんだか懐かしく思えた。いまの広美の無邪気さは、ついぞ忘れかけていた出会ったばかりの頃に見せていた面影を思い出させるものだった。
俺も夜空に向き直った。そして、今度は俺が目を閉じて願いを込めた。これだけ流れ星が降っているのだから、一つぐらい俺の願いを叶えてくれてもいいだろう、そう思っていた。
俺にとっては短い時間だったが、実際の時間では二~三分は掛かっていただろう。その間、広美はジッと俺の横顔を見ているのを感じていた。
「……なんだ?」
「ううん、なんでも。どんなお願いをしたのかな、なんて」
「なんでもない。な・い・しょ」
「広美も内緒なんだろ。お互い様さ」
「そうだけど……」
「さあ、家に戻って晩飯を食べよう」
「うん。でも、あと少しだけ、この夜空を見させて」
それからまた、俺たちは光り輝く夜空へと視線を向けた。
その夜空は、言葉を失うほどに、美しかった。
「ねえ、トマト取って」
「ああ、はい」
街外れにある築十年のマンションの一室。そこが俺たちの暮らす根城だった。その根城のキッチンに俺たちは立っている。今日は、美しい流星群に時間を割いてしまったため、既に時刻は二十二時を過ぎていた。急いで夕飯を食べなければいけなくなってしまったため、珍しいかもしれないが、俺もキッチンに立ち、広美の手伝いをしていた。
トマトを買い物袋から取り出すと、「切ってちょうだい」と彼女に言われたので、引き出しから包丁を取り出した。切る前にトマトをさっと洗い、芯を取り八等分に切る。そして、スーパーから買ってきたポテトサラダに添えた。
「できたぞ、サラダ」
すると、彼女はオーブンに二つの耐熱皿を入れるところだった。
「うん、ありがとう」
広美はオーブンの時間設定をすると、コンロにかけていた鍋にスライスしたタマネギとニンジンを入れ、コンソメを溶いた。どうやらスープを作っているようだった。
俺が、作ったサラダと取り皿をテーブルに運ぶと、広美はカップにスープを盛っていた。
「はい、持っていって」
「ああ」
俺はスープをこぼさないよう気を付けながら歩を進めた。なみなみと盛られたスープからは、熱熱の湯気がたっていた。
どうにかこぼさずにテーブルへと運んだ丁度そのとき、ピロリロリと、オーブン終了のメロディが聞こえた。
「焼けた焼けた。さあ、ご飯にしましょう」
俺が席に座ると、広美は湯気のたつ皿を正面に置いた。
「お、今日はグラタンか」
目の前の皿にはマカロニやほどよくキツネ色に色づいたチーズが見えた。その様子に、自然と唾が溢れてきた。
広美が向かいの席に座るのを待って、俺は「いただきます」と挨拶をした。
「どうぞ、召し上がれ」
俺は口いっぱいにグラタンを頬張った。が、その瞬間、俺はすべての動きを停止した。
「……どうしたの?」
不思議そうに広美が訊いてきた。
「……固え」
「え……うそ」
広美も続けてグラタンを頬張った。そして、これまた俺と同じように動きを止めると「冷たいね……」と呟いた。
俺はどうにか口に頬張っていたグラタンを呑み込むと、冷えてしまった喉元を温めるようにスープを呑みこんだ。
「はあ、やっぱ初めてじゃダメね。何回か練習しないと、ちゃんとおいしくはできないわ」
やはり初めてのメニューの実践だったか。覚悟はしていたが、実際に当ててしまうと、微妙な心境である。怒るに怒れない。未来予知していたのだから、作る前に注意しなかった俺にも非がある。
「どうする? お米なら炊飯器の中に残っているけれど」
「じゃあ、それをいただくかな。もう夜も遅いから、グラタンの作り直しは明日にしてくれ」
時計は二十三時を示そうとしていた。いつもなら風呂に入って、ベッドに潜りこんでいる時間だった。
広美がレンジで温めたお茶碗に盛られたご飯を持ってきてくれた。俺はそれを見て、瞬時に冷蔵庫へと向かい、生卵と醤油を取り出した。
「あー、また卵かけご飯をするのね」
「ベスト・オブ・イージーさ。これ以上に簡単な料理なんてないだろ?」
「はいはい、どうぞご勝手に」
俺はご飯の中央に箸でくぼみを作ると、そこに生卵を割って入れた。きれいに卵黄が中央に寄る。それから醤油を数的垂らしてから、米で作った土手を壊さないように卵黄を溶きほぐした。それから、少しずつ土手を崩し、卵に馴染ませる。そして、俺は一口頬張った。
うん、うまい。
俺は自分で作った卵かけご飯に舌鼓を打った。一方、広美はというと、サバの味噌煮の缶詰を持ってきて食べていた。体重を最近気にしている彼女は、お米をあまり食べていない。ときどき大丈夫なのか気が気でない。
そのとき、点けていたテレビから女性リポーターのアナウンスが聞こえた。
『みなさんご覧ください、この夜空の輝きを。今晩は獅子座流星群のピークです。明日にかけて日本列島全域は雲に覆われる予報ですので、天気的にも、今日見られるのがベストだと思います――』
眼前の料理を食べ終えると、洗い物を広美に託し、俺は寝室に行った。寝室にはベッドや箪笥、小物を置くキャビネットの他に、その場には不釣り合いなものが置かれていた。それは天体望遠鏡だった。
この天体望遠鏡は、もともと伯父の所有物だった。伯父はJAXの関連企業に勤めており、伯父自信、宇宙や星といったものに強い関心を持っていた。伯父は俺に会う度にこう言った。
『宇宙にはロマンがある!』
いま思えば、なんとも可笑しいセリフである。しかし、そう語る伯父はとても生き生きとした表情をしており、とても恰好よかったのを覚えている。
その伯父が亡くなったのは五年前のことだ。なんてことはない、交通事故に巻き込まれての急逝だった。しかし、伯父は自分が亡くなるのを予期していたのかエンディングノートを記していた。それに応じて財産分与が行われたのだが、驚くことに贈与対象に俺の名前が記されており、この天体望遠鏡が渡されることになったのだ。幸運といえばよいのか、伯父の家族はこの天体望遠鏡には興味や思い入れは無かったようで、なんの問題もなく天体望遠鏡は俺の手に届けられた。
暗がりの窓際、月の光が燦々と降り注ぐ闇夜に、天体望遠鏡のシルエットだけが、周囲の暗闇に浮き出ていた。
俺は部屋の明かりを点けずに、天体望遠鏡へと歩み寄ると、そのアイピース(接眼レンズ)を覗きこんだ。しかし、方角が異なるのか目的の獅子座流星群は見えない。代わりに満月に近い大きな月がくっきりと見て取れた。
「へー、今日ってお月様きれいだね」
広美だった。いつの間に忍び足を身に着けたのか、俺は危うく声を上げる寸前だった。
「ねえ、私にも見せて」
「……流星群なら見えないぞ」
「流星群はさっき見たじゃない。いまはお月様よ。早く見せて」
俺は一歩後ずさって彼女に場所を譲った。今度は彼女がアイピースを覗きこむ。
「わー、すごい! こんなにきれいに見えるのね、お月様」
はしゃぐ彼女に、俺は冷静に「そうだな」と応えた。
「明日か、明後日には満月になるだろう」
「明日と明後日は雨よ。天気予報で言っていたわ。台風が近づいているんですって」
「そうなのか。それじゃあ、いまのうちに見ておいた方がいいかもな」
すると、広美がアイピースを覗きながら「あ!」と声を上げた。
「どうした?」
「このお月様、なにかに似てると思ったら『卵』よ」
「……卵?」
なにを言いだすのかと思ったら、突拍子もないことを語った広美の目は輝いていた。
「さっきの卵かけご飯。作ったでしょ?」
そう言われれば、そうだった。どれだけ食に無頓着なのかがばれてしまうところだ。
「こう見ると……お月様っておいしそうねえ」
俺は噴き出して笑ってしまった。お月様を『おいしそう』などと言うのは、きっとこの地球上どこを探しても、目の前にいる広美だけであろう。その広美は「なに笑っているのよ」と、少しご立腹のようだ。
俺は呼吸を整えた。
「ああ、すまん、すまん。確かにおいしそうだな、今日の月は。オムレツがいいか、目玉焼きがいいか」
「私は卵かけご飯がいいわ」
俺は広美を見た。
「どうしたの? そんな驚いた顔をして」
「いや、広美が卵かけご飯のことを言うとは思わなくて……」
「私だって、たまには卵かけご飯を食べたいわ。あー、話してたら食べたくなった。あなたの卵、一個もらうわね」
「炭水化物食べたら太るんじゃなかったのか?」
「そんな些細なこといいわよ、今日は。さ、行きましょう」
「じゃあ、月を見ながらベランダで食べないか? 風情あるだろ」
広美はニッコリと笑った。
「いいわね! 採用!」
そうして、俺たちはキッチンへと向かった。
了