春琴
とある国の、最も栄える繁華街。
そこから少し外れた場所に、その国で最も大きな娼婦街があった。
全ての店を外から見るだけでも何時間とかかるその娼婦街には、繁華街のカジノで泡銭を稼ぎ浮足立った観光客や、或いは最初から娼婦街そのものを目的に訪れる色好き達が犇めく。
そして当然それらを迎え入れ、もてなす『労働者』達の鳴き声が、その街の夜の音だった。
一夜で消える夢――そして欲望を抱えた男達、それらを自らの肉体を以て叶えてやることで日銭を稼ぐ女達、その上前を撥ねるほんの僅かな者達。
そんな人間が集まり、そしてそれぞれの為すべきことを為すことで長い夜を過ごしている娼婦街。
治安が良いとは決して言えなかった。
しかし居るべくして居るものばかりのその街で、自分はこんな場所に居るべきではないなどと考える者は、少なかった。
だからこそ国は、繁華街に次いで多額の税収を生み出してくれるその娼婦街を厳しく取り締まる筈もなく、ただ見過ごすことで多者の安寧を図っていた。
余りに多くの欲を満たし、そして興させるその街を、悪であると、清浄化すべきであると、大声を張って言える者など、国民の少なくとも常識と恥を知る者たちの中には、一人としていなかった。
寧ろ、差別や生まれつきの階級といったものが未だ残るその国において、唯一誰であっても大きな夢を見て、掴み、叶えることができる場所であると、国の唯一の良心であると叫ぶ者さえ少なくはないのだ。
繁華街の名前をファラーシャの街、娼婦街をハルバの街と人々は呼んだ。その名の由来は、この国の現王家よりも古く、正しく伝承されているかも怪しかったが、当然誰にとってもその由来など余りに些細なことであった。
肝心なのは、つまり国民や国を訪れた旅人達が興味を持つのはファラーシャやハルバの街で、自分がどのように過ごせるのか、いつまで過ごすのかでしかない。
一人の、異国からの旅人、ヌマンにとってもそれは例外でなかった。
ヌマンは、元はこの国の奴隷階級の家に産まれた。
当時彼の住んでいた国境沿いで隣国との戦争とまではいかない小競り合いが発生し、そのドサクサに紛れ、一家ごと隣国に亡命した。不幸にも隣国の兵士に見つかり、家族はヌマンを除いて『処刑』された。(元は隣国もヌマンの家族を交渉用の捕虜として扱う予定だった。しかし、奴隷階級でしかない彼ら一家が国民として尊重されることなどなく、用済みと判断されたために殺されたのだった。)
幼かったヌマンは処刑を逃れ、特別な温情により、隣国で孤児として生活することとなった。ヌマンの産まれた国に比べて福祉の発達した隣国で、ヌマンは孤児であることや元々敵対関係にある国の産まれであることなど関係なく、教育を受けることができた。
それは勿論、単なる『将来の手足』でしかなかったヌマンにとって、余りにも幸福なことであった。同じような境遇の子供達と共に国営学校で教育を受けたヌマンは、偶然にもそこで数字についての才覚を見出され、弱冠十一歳にしてある小金持ちの出資を受け、自分の店を持つことと相成った。
やがてヌマンは運命の如く商売に成功し、歳を重ねるごとに自分の管理下にある店の数を強引とも非難されるような方法で増やしていき、彼が二十五歳を迎えた頃――つまり二年前には、一つの商会を、かつて自分に出資した小金持ちと共同で築く程となっていた。
そんな彼が、自らの出自であり、そして苦しい思い出しか残っていないであろうこの国に何故今居るのかといえば、ある意味当然ではあるが、上記したように、近隣の国の中でも最大級の繁華街ファラーシャや娼婦街ハルバにおいて、自らの築いた財で豪遊するためである。
その目的の裏に、自分や自分の家族を切り捨てた国に対する、『自分は隣国でこんなにも成功してやった』という誇りを見せつける意図が或いはあったのかもしれない。
そもそも成り上がりで財を成す人間の常として、我と欲の強い男であるヌマンのことだ。
やはり、華やかな繁華街で派手に遊んでやるという気持ちの方が余程強いという事実は、当然の因果でもあった。
普段ならば商会の中では勿論のこと、仕事が終わった夜であっても常に数人の部下が付いて回り、自由に遊ぶことも儘ならない。
しかし今は市場調査期間と銘打った休暇。連れていたのは護衛を兼ねた歳の近い腹心一人だけ。自由に、思うままに遊びまわってやろうと、ヌマンはある種の情熱を燃やしていた。
そんな、何かに急かされているかのように気の落ち着かないヌマンは、賄賂によって簡易化された入国審査を通過すると、多くの入国者がそうするように、他の場所になど見向きもせず、真っ直ぐと、ファラーシャやハルバのある方向へ行ける馬車に乗り込んだ。
また到着した後も、多くの観光客がそうするように、値段など見ることもなく名物を貪り食って、昼から酒を浴びるように飲み、日が暮れればカジノで散財した。
そうして過ごす内に、繁華街の賑わいよりも娼婦街の華やぎが目立つような時間になっていた。
久しぶりに、誰の目を気にすることもなく箍を外して遊び、やや疲れてしまった彼は、カジノのバーで酒を喫しつつ休んでいた。すると、どうやらこの街で遊び慣れているらしい中年の二人組の話が聞こえてきた。
翌朝のことなど気にする必要がない、と半ば当てつけの如く鯨飲した酒がとうとう脳に巡り始めていたヌマンは、始めその話を聞く体力もなかった。
しかしその話が、娼婦街についての下卑たものであることが解ってくると、朦朧としていたヌマンは俄かに意識を取り返し、二人組の話に耳を澄ませて傾注するようになった。
勿論この滞在期間中に一度はハルバにも行こうとしていたが、適当な高級店に入れば良いだろう程度に漠然としか意識していなかった。
そんな中、ファラーシャやハルバで実際に遊び慣れている人間の話が聞けるならば、それに越したことはない。それに、何よりも実益がなかったとして、下品な話を聞くこと自体も、ヌマンにとって楽しいことであった。
二人組は、とある妙な噂のある娼婦についてを話題にしていた。
その妙な噂のある娼婦、名前(本名であるとは勿論限らない)をライラと言うらしく、まともに生きていれば働き始めるにも早いような、少女娼婦であるようだ。ヌマンも知識としてはそういう年齢の娼婦がいることは知っていたし、また取引相手に幼い女にのみ欲情する男も実際に何人が見てきていた。故にそれの事実自体に驚くことはなかったが、少女娼婦ライラにどういった”妙”な噂があるのか、余計に興味を深くした。
それはどうやら、こういった噂のようだ。
――ライラは店には所属せず、自ら通りに立っている。
また、そういう種類の娼婦の殆どがそうするように煽情的な振舞いや言動で男を捕まえるのではなく、ただ黙って立ち、声を掛けてくる客を待ち、そういった客から金を前払いさせた後、連れ込み宿や客の泊まるホテルではなく、自らの住む小さな部屋へ連れていくのだという。
そうして、ここからが妙な噂のさわりだった。
ライラの部屋へ消えていった、少女趣味の情欲に滾っていた男は、決まってライラからの部屋から出た途端に、その性的嗜好がすっかり鳴りを潜め、その日を境に、少なくとも暫くの間は何か悟ったかのような人格に変わってしまうのだという。
それを異に感じた仲間が何事か問うと、はっきりとは言わないものの、やはりライラと過ごした一夜が原因であるらしい。
決してライラの房術に心を奪われたということでも、また逆に幻滅したのでもない。ライラの客は、ライラの部屋で、はじめに期待していた行為など何一つ行っていないらしい。
では、何をしたのか――人が変わってしまうような何かの正体。
それは、(あくまでも様々な噂話を総合しての推測ではあるが、)ライラの弾く、ハープに似た楽器の音色を『聴いてしまったこと』なのだという。
心を躍らせながらライラの部屋へ招待された客の男は、そこで互いに服を脱ぎ、脱がせることもない内に、ライラの部屋に置かれた、初めて見る楽器に気付く。
それに言及すると、ライラはその楽器を弾き始める。
勿論、楽器の演奏を聴くよりもしたいことがあってライラを買った客は、演奏するのを止めさせようとも思うのだが、気付けばその音色に聞き入ってしまい、自分の声や、更には身動ぎの音さえも、演奏の邪魔だと考え、唯々ライラと楽器が奏でる音に集中して、そうしている間に心が洗われていくような感覚を覚え、一時間もした後には、何もかもに満足し、そして自らの内に宿っていた様々な情欲が実に下らないものだと思うようになる。
そして、肉欲を満たすどころか、強い欲そのものが消えてしまった客は、ライラに指一本触れることもないままライラの部屋から出てくる。
その表情は、憑き物が落ちたようで、それこそ通りすがりの人間から見れば、まるでライラとの行為に満足しきっているかのようですらあるという。
――これが、ヌマンの聞いた限りの、つまり二人組の話していた噂の概要だった。
ヌマンは、その話を最後まで聞いてから、なんて馬鹿な話だ、と感じた。それは、馬鹿馬鹿しい噂だと思った、という意味ではなく、馬鹿な男だ、という意味だった。
つまりヌマンは、金を払って娼婦を買いながらも何の足しにもなりはしない音楽を聴くだけで満足してしまった男達が実に馬鹿だと、そういう風に感じたのだ。自分なら、そんな風に騙されたりはしないと、そうも思った。
その噂が本当だったとして、もしも自分がライラを買ったならば、金を払った以上その代価を受け取ってやるだろうと、つまりライラの部屋で、ライラの寝台で、コトを済ませてやろうと、そんな風に息巻いていた。
たとえどれ程ライラの弾く楽器が魅力的であろうとも、『音楽程度』が、他人では抱けない女を抱くということの愉楽に敵う筈がない、とそんな意地が、ヌマンの中にはあった。
音楽のような芸術による文化的な満足が、食や性による即物的な満足に勝るなどというのは、善人ぶった、或いは通ぶったひねくれ者の理屈でしかないというのが、ヌマンの持論であった。
ライラに関する話を聞く内、すっかり酒が覚めた(と自分では思っている)ヌマンは、目の前のグラスに残った酒を一息で飲み干し、多めのチップを含んだ代金をテーブルに叩きつけるように置いて立ち上がった。
付き添いの腹心は、ヌマンがギャンブルで散財してしまわないよう、またスリに遭わないように金を預かって入口の、ガードマンが立っている辺りに居る筈だ。ヌマンは逸る気持ちを抑え、冷静を装いながら、腹心を探すべく、カジノの人込みとその熱の中に、姿を消していった。
ハルバの最も大きな通りにさえも、人がまばらにしか居ないような、そんな時間だった。ヌマンがカジノに居る間に通り雨でも降っていたようで、決して綺麗に舗装されているとは言い難い道端にはぽつぽつと水溜まりができていたし、上を見上げれば、明かりの中でさえも星々が良く見えるほど空気が透き通っていた。
通りの入り口の手前で、ヌマンは一人で、煙草をふかしていた。心臓は、躍っているかのようだった。それを落ち着かせるため、ヌマンはそれほど好きでもない煙草に火をつけた。
だが寧ろ『もうすぐ、この通りに足を踏み出さなければならない』という焦燥感に、胸の弾みは激しくなってさえいた。
僅か数歩も歩けば、店の呼び込みや立ちんぼの娼婦からひっきりなしに声を掛けられることだろう。既に、まだ入ってこないのかという視線を浴び続けている。
そのいやらしいまでの視線が、腹に一物抱えるのではなく、それを隠すことなく向けてくるような視線が、財界の有象無象ばかりを相手にしてきたヌマンにとっては新鮮で、或いは殆どのことを忘れてしまうほどの昔が思い出されるようでもあった。
やはり、無理にでも付き添いをさせるべきだったように、ヌマンには思えた。
カジノで腹心と合流した後、(娼婦街で遊ぶための)追加の金を要求すると、当然のように腹心は『何に使うのですか?』と問うてきた。ヌマンは『もう賭けはいい。別の遊びだ』とだけ言った。すると腹心は、その一言だけでヌマンの内心までも理解したかの如く、『成程。病気だけは勘弁してください、ボス』とだけ言って、胸ポケットから金貨を取り出した。
それを受け取ると、腹心は更に『大丈夫です。私も男ですからね』と言って、ヌマンの前から姿を消した。
『大丈夫』というその言葉の意図を、ヌマンは始め、図りかねていた。
だがそれが『誰の目も気にせず一人で行動したいのだろう?』という意味で、腹心は先にホテルに帰ったのだろう、ということをやがては理解した。そのときには既に腹心の背中は見えなくなってしまっていたので、ヌマンは金貨を盗まれないようにしつつ、一人でハルバへと向かった。
そんなことをヌマンが思い出している内、少しずつ、鼓動或いは動悸、そして緊張にも慣れてきた。今が機であるとばかりにヌマンは煙草を道に捨て、隣国の職人に作らせた高級な靴で踏んでから、通りにへと入っていった。
すると、そこに見えない壁でもあったかのように(事実、通りに一歩でも入るまでは声を掛けてはいけないという暗黙の決まりがあった)、今までヌマンをじろじろと睨んでいただけの女達が、一斉に媚びた声を上げ始めた。
飾り窓の向こうから、自らの肢体をアピールするように踊っている者もいる。
ヌマンの顔には、笑みが浮かんでいた。それは、高揚感から来る表情だった。
こういった、治安があまり良いとは言えない街に来るのは初めてでこそなかったが、どちらかと言えば『堅い』人間がヌマンの部下には多く、それらの監視もあり日常と言える程慣れてはいなかった。
しかも今は、誰一人ヌマンをヌマンとして知る人間が周囲にはいない。ハルバの街そのものの雰囲気と、そして殆ど数年振りとも言える自由感、解放感。それらによって僅かに冷静さを失いつつあることに気付いたヌマンは、『未だその時ではない』と首を振るった。
周りの呼び込みの声を単なる喧騒として聞き流し、先程盗み聞きしていたライラの特徴を持つ少女――くすんだ金色の髪と、やけに背が低くやせ細っている――だけを一心不乱に探した。商品を見定めるときそうするような目で、通りの端から端までを見渡す。
ヌマンの目には、先に漏れ聞いた『例の』特徴に一致しなければ、男であろうと女であろうと、また、買う側であろうと売る側であろうと、どれも同じにしか見えなかった。
そうして早足で通りを歩いていると、やがて随分な時間が経ちまた随分な距離を歩いたらしく、ヌマンの目に入る店の数も人の数も一斉に減った。
ヌマンは今更になってようやく、ライラが見つからない――つまり客を既に取っているか、そもそも仕事に出ている日ではないか、そういう可能性があるということに気付いた。その時初めて、ヌマンは自分自身の中に浮かれがあることに気付き、喉の奥に染みた苦みに顔を顰めた。
ヌマンは溜息を抑えて振り返った。別に明日すぐに国へ戻る訳ではない、今までの人生でそうであったように、機会はやがて巡ってくるだろうと、そう考えて落ち着こうとしていた矢先に『機会』は突如としてやってきた。
踵を返したヌマンの、まさに真正面――二、三歩ほどだけ距離を置いて、ライラが立っていた。
いや、正確に言えば、立っていたのは『ライラのような少女』だ。
しかし、その姿が先述の特徴、そしてそこからヌマンがイメージした偶像と、余りにも一致していた。まるで、ヌマンの想像の中からそのまま出てきたかのようですらあった。
街中に溢れる過度で下卑た光飾から取り残されたような、輝きの失われた色素の薄い髪。距離が近いことも相まって、見逃しそうになる程低い身長。
客を取るどころか残飯を拾って暮らしていそうな貧相な身体。
そんな少女は、後ろ手を組んでヌマンを見上げ、とても心からとは思えず、しかし作り物のようと表現することもできない不思議な微笑を浮かべていた。
余りにも突然で、降って湧いたようなライラらしき少女の登場に、ヌマンは呆気に取られた。そして、同時に、この少女がライラであるという確信を持った。”これ”がライラでないとしたら、自分はライラを探す意味など最初からなかった、とさえも思う程に。
少女は――いや、ライラは、粗末なワンピースのスカートの片端を軽く持ち上げて、言った。
「今宵、わたしにどうかご慈悲を」
――ヌマンは、少女に手を引かれるようにしてハルバの表通りから外れた道を歩いていた。そこはどうやら、この街で働く女達が昼間に寝るための家が並ぶ地域であるようだった。
様々な色で彩られた看板や灯りは少なく、スラム街が如き荒廃した雰囲気を漂わせ、例え間違っても一人で歩きたいと思えるような場所ではなかった。
外に居る人間は殆ど居らず、代わりにゴミを食い散らかす鼠やカラスの姿が見られ、独特の饐えた臭気でむせ返っていた。
レンガ建ての壁一つ向こう側の道では(ファラーシャとは違った意味で)活気や華やぎに満ちた世界が広がっているというのに、ここでは迂闊に笑うことすら許されないようであった。それは丁度、舞台の客席側と、その裏側との関係のようである。
少女に声を掛けられた後、ヌマンが少女の求めに応じる態度を見せると、少女は金額の交渉を始めることもなく、当然のようにヌマンの手を取って、この場所へ連れてきた。少女の外見にはあまり似つかわしくない、その強引とも言える行動にヌマンは美人局にでも引っかかったかとやや訝しんだ。
道中、ヌマンが少女の名を尋ねると、少女は歩みを止めて、ヌマンの方を振り向き「わたしのことは、ライラとお呼びください」と言った。自分の名を言う、というよりも、言い慣れた台詞でも諳んじるかのように。
そこでようやく、ヌマンは少女がライラであるという事実について主観以外の確信を持てたが、しかしその様子から、安心することまではできなかった。化かされているような、或いは夢の中にいるような、どうにも落ち着かない気分のままで歩みを進める。
すると、ヌマンの手からライラの小さな手の冷たい感触が消えた。ライラが引いていたヌマンの手を放し、立ち止まったようだ。それは、火事でも起こればあっという間に姿を消してしまいそうな粗末な建物の前でのことだった。ライラは、突然ヌマンの前に姿を現したときと同じように後ろ手を組み直して、「こちらです」と告げた。
どうやらそこが、噂にあった『小さい部屋』ということらしい。
建物は粗末ながらも――風が吹けば飛ぶようでありながらも、集合住宅の形を取っていた。
その部屋の一つがライラの住処ということなのだろう。
前を向き直したライラの、妖しげな流し目に導かれるように、ヌマンはライラの後ろを付いて、建物の中に入っていった。
一歩ごとに軋む階段をヌマンは慎重に歩く。
前を進むライラの足音は、家人の眠る家に忍び込む泥棒のように静かだった。
それでも僅かに軋む床の音が、ヌマンには寧ろ不気味だった。
ここまでの道のりで度々そうなっていたように、ヌマンは自分が夢の中にいるような感覚に襲われていた。
カジノでの記憶どころか、通りの前で煙草を燻ぶらせていたときのことさえ、何日も前のことのようでさえあった。
やがて、ライラはある階の、階段の目の前の部屋の扉を引いた。
そして、初々しいドアマンのように、ヌマンをその中へ招き入れる仕草を見せた。
それに従い、ヌマンがライラの部屋らしき空間に足を踏み入れる。実に生活感に溢れた、悪く言えば散らかった部屋だった。
見回すまでもなく、玄関先での一瞥で、この部屋にある全ての物が見える程に狭い部屋。
噂通り、弦が数本張られた、木製の楽器らしきものが置かれていることも確認できた。
これが溢れる程の色欲で滾る男からさえもその気を奪ってしまう魔の音色を持つ琴であるかと思うと、ヌマンには少し拍子抜けだった。
確かに見慣れない形ではあるものの、その楽器はあまりにも古びていて、埃や黴の臭いさえ漂わせていそうな、実に野暮ったい代物であったからだ。
故に、ヌマンには、そんな楽器よりも、少女の身体のサイズに丁度よさそうな小さなベッドの方が余程魅力的に見えた。
それは、ヌマンと少女との同衾どころか、ヌマン一人でさえも数時間過ごすには小さすぎるようにも思えるような代物だった。
(尤も事が済んでまでこんな場所に居る必要はない。ファラーシャでも指折りのホテルの、その内等級が二番目に高い部屋を取ってある。)
ライラの部屋ではすべきことだけをして、さっさとファラーシャへ戻って豪奢な寝室で今日一日の疲れを取れば良い。
ヌマンは自分の為すべきことを少しずつ思い出し、燻ぶっていた不安、不気味さをもみ消した。知らない場所だからと言ってここまで弱気になるなど、自分もまだまだ甘いと、ヌマンは内心で一笑する。
ライラがベッドのシーツを整えて、そのままベッドへ腰掛ける。いくらだ、とヌマンは不躾に問うた。それを訊いたライラは、首を傾げながらにたりと笑う。
「お幾らでも構いません。あなたが満足した分だけいただければ、結構です」
これは噂と違うな、とヌマンは思った。確か二人組の話では、先に金を払う、と言っていた筈だ。
ヌマンがそんなことを考えていると知ってか知らずか、ライラは笑みを崩さぬままに、ヌマンの目を見つめた。その瞳の焦点が定まっていないように見えるのは、窓から差す仄かな月明りの逆光のせいだろうか。
正直な所、ここまでライラと共に歩んできた道のりの過程で、ヌマンの情欲はすっかり消え失せていた。
それは決して、ヌマンが存外小心者であったからなどではない。例えどれ程の胆力を持ち、またどれ程の色狂いであろうとも、正体すら掴めぬ恐怖を前にすれば、そういった衝動は抑えられてしまうものである。
故に、ヌマンのそうした意気消沈の傾向は当然とも言えた。このような状況下――不安の最中にあれば、素朴な琴の音を聞くだけのことで満足してしまうことも、成程、道理とも思えそうだとヌマンは脳の端で考えていた。
しかし、徐々に、一歩ずつを確かめるような足取りでではあるが、ヌマンはそうした劣情を取り戻しつつあった。月光に照らされる、散らかっていて落ち着きのない、みずぼらしい部屋。
一晩も過ごせば背中が痒くなってしまいそうな、使い古された布団。
男の欲を受け、孕むこともできそうにない、発育も悪く痩せ細ったライラの肢体。
『満足した分だけ』という言葉。
そうした状況が、ヌマンの心の奥深くの、タールの沼のような部分をかき回していた。
平時であれ幼気なまでに暴力的な春情でさえ削ぎかねない要素もあったが、それが寧ろ、今のヌマンにとっては高級娼婦の腰つきのように、耳元で囁かれる求めの言葉のように感じられたのだった。
ライラは、何も語らない。
ヌマンの言葉や行動を、待っているようだった。
消極的なのは、もしかしたら琴について触れることを待っているからだろうか、とヌマンは内心嗤った。
ヌマンには、『そのような』つもりは一切としてないのだから。
例え琴の音色を聴いたとしても、音楽を始めとした芸術品に何かを感じたことのない自分には一切影響ないだろうと確信してはいたが、それでも相手の土俵にわざわざ踏み入るような真似をするのは自殺行為だ。
商売と同じだな、とヌマンは今度こそ顔に出して微笑みを見せた。
そして言葉を交わさないままに、ヌマンは毛だらけの、脂で湿った手でライラの頼りない肩に触れる。
気を抜けば壊れてしまいそうなその身体が、一瞬だけ震えた。
真っ白なライラの肌は意外にも温度が高く、だからきっとヌマンの手が冷たく、それで驚いてしまったのだろう。ライラが受け入れの意思を示す。
それは、ヌマンの指先からしか伝わらない、ほんの小さな違いでしかなかった。
ヌマンは、肩を掴んだまま、親指だけ動かしてライラの着たワンピースの肩紐をずらす。まるで、気付いていないのかと思う程、ライラはそれを自然に受け入れた。
先程よりも広く顕わにされたライラの素肌。
それはヌマンの手を吸いつかせるような質感を持っていて、その感触は、そして醸し出す魅了の香りは、数々の女――金が目当ての計算高い女も、娼婦も、酒場で引っ掛けた尻の軽い女も――を抱いてきたヌマンを以てしても、初めてと言わざるを得ないものだった。
香り――そう、ライラからは仄かに花の香りが漂っていた。それこそ、酒やゴミの臭いの方が表面では強いのだが、敢えて感じようとすれば、その臭気の中にも、ライラの華としての、数々の虫を寄せ付けるための、自らの蜜に触れさせるための、生き物の本能をくすぐるような香りがあった。
ライラの肌と、香りと、そしてその身体のあまりの軽さへ吸い寄せられるように、ヌマンはライラの肩に籠めた力を強めた。ゆっくりと、ライラの身体がベッドへ倒れていく。埃臭さが立つことも気になりはしない。ヌマンにとっては、全てが官能的だった。
――なんだ、簡単じゃないか。ヌマンは、そう思った。
溢れてくる下卑た笑みはそのままに、ヌマンは、ライラの花弁のような唇に、自らのそれを重ねた。
舞台の上の若き女優のように、ライラは目を閉じてそっと受け入れる。
そうなればあとは、ヌマンにとっても、ライラにとっても――つまり男にとっても女にとっても、奏でられる音楽に合わせて踊るような決まりきった退屈を過ごすだけである。
融け始めた氷柱の先から、澄んだ冷たい滴が一つ落ちるような静けさの中、いつまでも灯りの消えない街の夜が少しずつ更けていく。何処から街を見ようとも、それは日頃と変わらない絵画のような夜だった。
――事を済ませた後、ライラはねじの切れたからくり人形のように眠ってしまった。
その寝顔は、聖者の日の朝のプレゼントを待ち受ける、穢れを知らない子供のようだった。これが、夜な夜な生地の薄い服を着て自ら客を取る娼婦の顔であるとは、ヌマンも自身がそれを体験した直後でもなければ信じられないだろう。
身体全体が泥になったように重く、雨の日のような気怠さを覚えながらも、ヌマンはのったりと寝床から出た。
ヌマンのものもライラのものも区別なく、無造作に脱ぎ散らされた服の山を漁り、金貨が入っている筈のポケットを探る。
先程までライラのかさついた柔肌を撫でていたヌマンの指先が、金貨の冷たい感触に触れる。
ヌマンは、適当に複数枚掴んで取り出した。手の中にあった金貨は、三枚。ライラは、はっきりとした金額を口にはしなかった。ならば、これをそのまま渡してしまえばいいかと、ヌマンはぼんやりと思った。
金貨三枚。それさえあれば人並みの暮らしが家族ごと三ヶ月はできると言える程の、また、たった一夜分の支払いとしては凡そハルバ全体の中でも最高級と言える程度の支払いである。
普段のヌマンであれば、例えどれ程泥酔していても、女を買うのに金貨三枚の支払いなど自分に許しはしないだろう。それでも、今のヌマンにとっては、それができるようだった。
それを払ってもいいと思えるくらいライラとの情事に満足した、という訳ではない。寧ろ、逆とすら言えるかもしれない状況に、ヌマンはあった。
今のヌマンにとって、一つ一つの金貨は、単なる金色の下卑た塊にしか思えずにいた。
とにかく、ヌマンにとっては今この瞬間、『何もかもがどうでもいい』。手や肌に残るライラとの色事の感触、形跡、体温。それについてどれ程満足したかということ。或いは、金に関して考えることの全て。それらの何もかもが、どうでも良かった。
ただ、支払いだけはしなくてはならない。だから、手に取った分の金を支払う。
そんな、原始的とすらも言えないような論理関係が、今のヌマンにとってはごく当たり前のことで、自然なことだった。
金貨を握ったヌマンは、暫し動きを止めた。
支払う、と言っても、ライラは眠ってしまった。枕の横に置くのも、あまり良いとは思えない。
ほんの少しだけ残っていた理性的な部分が春の眠りの如き思考のぼやけに水を差しながらも、ヌマンは適切な答えを見つけることができず、月光のせいで余計に青白く見えるライラの横顔を見下ろす。
とても快適とは形容できない、安く薄く頼りない布団の中で、ライラは実に安らかに眠っているようだった。
余程の非道でもない限り、その眠りを妨げることなど、誰もしようとは思わないだろうという程に。
隣で眠ってしまおうかとも一瞬考えた。
高級な娼館がそうであるように、肌を重ねた相手と、枕を並べようと。
ファラーシャ屈指のホテルに部屋を取ってあることなど忘れてしまって、野生人がそうしていたように、眠くなった場所で寝てしまおうと。
そういった、堕落の悪魔の甘言のような自身の思考に、ヌマンは首を振るった。いや、こんな場所で寝てはならない――自分のような者が、ライラという一人の少女の寝室をこれ以上穢してはならない。
そんな、身に合わぬ殊勝なことを考えて、ヌマンはこの部屋を去ろうと決意したようだ。
身を屈めて、ヌマンはライラの枕元に三枚の金貨を並べる。
聖人からの贈り物であったならば、この様も絵になろう。
そんな笑えない冗談に、ヌマンは口の中が苦くなった。
服を着て、さっさと出ていこう。強盗に遭わなければいいが。
父親が幼い子供にそうするよう、ヌマンはライラの額をさらりと撫で、立ち上がった。
異国の琴の音が、ハルバの夜に響かなかった。
或いは一人の男が、たった一つの音色のなき故に、何かを失った。
それは単に代償とも、等価交換とも言えることであろう。
しかして、ハルバに幸福な者など存在し得ないと――人々は口々に、いつまでも語り続ける。