愛の泥仕合
自戒も込めて
誤解を招くことを承知で、あえて強い言葉で簡潔に言い切ると、"人が仲よくしようとすると、いじめや争いが起こる"のである。そのことに自覚があるかどうかでその度合いも変わる、と言いたいところだが、意図的にそうする者も多い。人心操作の初歩ともいえる話だからだ。
簡単に会話が弾む話題は、その場にいない者の悪口である。当然、場にいる者の意見がある程度一致することも前提ではあるが。場合により政権批判の類もこれに当てはまる。
集団を団結させるために一番簡単かつ確実な方法は、何か一つ、共通の仮想敵を作ることである。人は、何かを攻撃する時、手を組む。集団で狩りを行っていた頃の本能でも残っているのかもしれない。
ここまで言えば、わかるだろうか。いじめの標的というのは、その集団が団結するための生贄なのである。単純にストレスのはけ口にされている場合もあるだろうが。いじめられる側にも原因があるというのは、ただの詭弁である。原因など、ただの口実なのだから。
その人が悪事を行ったということと、その周囲の人々がその人を攻撃してもいいというのは≠である。誰が何をしようが、他の人間が私刑を行っていい理由にはならない。被害者に原因を求めるということは、私刑を認めることとそう変わらない。
無理に団結して仲良くしようとするから、仮想敵が必要になる。ならば、仲良くなろう、などとしなければ良いのである。仲良くできる相手とだけ仲良くすればいい。仲良くできない相手とは事務的な関係にとどめておけばいい。
興味関心のない相手にはフラットに接するだけでもマシであろう。人間に好き嫌いというものがある以上、仲良くできない相手が出てくることは当然の帰結なのである。どうしても嫌いな相手なら無理に付き合うことはない。どちらも不快な思いをすることになりかねない。
全ての人と仲良くするというのは、不可能である。少なくとも、人に好き嫌いというものが存在し、人に対してそれが適用されるのであればそうなる。仲良くするためには、双方に仲良くする気がなければならない。
人には多様性がある。多様性があるから好き嫌いも生まれる。全て同一であれば好きも嫌いもない。
自分から嫌いな相手に近づいていくなど、マゾの所業である。不快なものに近づかない権利だってある。それなのに、態々近づいていって不快な気分になっているのだから、マゾ以外の何だというのか。そのうえで、自分から近づいたソレに文句を言うなど、ただの迷惑な人である。
万人に好かれるものはない。ならば恐らく万人に嫌われるものもないのであろう。それはつまり、己の嫌いなものを好く人もいるかもしれないということである。嫌いなものとはつまり、自分のためにあるものではないということである。自分のためでないものに文句をいうなど、お門違いの極みというものである。押し付けられたならともかく、自分から寄っていったのなら猶更だ。
好きの反対は嫌いだが、愛の反対は無関心だという。確かに、愛も憎もベクトルが違うだけで相手に強い関心があることに変わりはないのだろう。愛していないからといって、憎んでいるとも限らない。むしろ、関心がないことの方が多いのだろう。
ならば、愛するものや憎むもの、好き嫌いのあるものへの接し方だけでなく、特に関心のないものとの付き合い方も考えていくべきなのだろう。世界には愛憎の絡むものよりも無関心なものの方が圧倒的に多いのだから。
ところで、みんなで仲良くしましょう、という言葉に関連して語られる論調に、悪いことをしたら謝りましょう、謝ってもらえたら許しましょう、というものがある。ナンセンスである。悪いことをしたら謝罪するのは当然のことではあるが、謝罪したら許されるわけではないのである。後で謝ればいいやなんて考えて反省しない輩が存在するかぎりそうなる。反省し、行動を改めなければ許される権利はない。つまり、本来であれば、謝罪から許しまでは時間がかかって然るべきなのである。反省し行動を改めたことを見極める時間が必要なのだ。
そんな"謝罪させられる"ような人間に行動を改めようという意識が生まれる余地があるかはわからないが。
また、許すのも義務ではなく権利だ。つまり、許さない権利もある。