1
婚約者の突然の出奔で、更に忙しくなったクリスであったが、最近は有能な補佐のおかげでそれなりに安定してきたようである。
「りの、これを。」
クリスはある日のお茶の時間にりのにペンらしきものを差し出した。
「空中で文字が描ける魔法ペンですわ。本当はもっと早く渡したかったのですが…」
りの専用に作らせた魔法ペンだとクリスは説明する。
「専用?こいつ以外にも魔法陣を使うやつくらいいるだろう。」
志狼の問いに答えたのはすっかり補佐と執事が定着したレオンハルトであった。
「確かに魔法陣を扱える者はおります。しかし、魔法陣を1から全て描ける者はほとんどおりません。大半の者は魔法によって魔法陣を描きます。」
普通魔法陣は魔法でパッと出すものであって、文字や記号を1から書くものではない。
書くことがあるとすれば記録の時くらいであるが、そういう場合は魔法陣を出して見ながら書くのが普通である。
「あのような複雑な魔法陣を記憶し、それを戦闘時に描けるなど、りの様でなければできないことなのですよ。」
すっかり別人のようになったレオンハルトに光輝はもう慣れてしまった。
というか、気にするのが面倒になった。
りのは魔法の杖の形をしているペン先がないペンを見つめながら、ポツリと言葉を漏らす。
「……魔石…」
クリスは苦笑いをする。
りのの言う通り、ペン尻(杖の上の部分)に付いているピンクの可愛らしい石は魔石であった。
「やはり気が付いていましたか。そうです、この魔法ペンは光輝の考えた方法を応用していますの。」
信用のある研究者に魔石のことを話し、生涯他言しないことを約束させた上で、彼らに魔石を用いた魔法ペンの開発を頼んだ。
そして、魔力の強い者に魔石に溜められるだけ魔力を流し込んでもらったのだ。
「……魔石、高い…」
りのの言葉にクリスは微笑む。
「お気になさらないでください。私からのささやかな贈り物ですわ。…それに魔石1つで傾くほど柔な財政管理はしていませんよ。」
クリスの言葉は事実である。
パラミシアはものすごく裕福とは言えないものの、決して貧しいわけではない。
クリスの両親がとてもよく領地を治めていたため、街はいつだって活気に溢れている。
そして、クリスの父もクリスも商才に恵まれたため、レーウィン家もそれなりに財政は安定している。
クリスのその言葉にりのは表情を崩した。
「クリス…ありがとう……初めて、の…贈り物…」
りのは嬉しそうにお礼を言う。
それは決して大袈裟な表現ではなく、本当に生まれて初めての贈り物だったのだろう。
クリスが自分のために用意してくれた自分だけの贈り物をりのが喜ばないはずがない。
光輝も志狼も穏やかで優しげな笑みを浮かべる。
…志狼はわかりにくいが。
「……志狼、もう、大丈夫……」
りのはくるりと志狼を振り返った。
「そうか。」
志狼はりのの言葉に「どういう意味だ?」なんて聞くこともなく、あっさりと答える。
志狼が未だにりのと図書館に行くのは、りのの魔法陣ではいざという時に身を守り切れないと判断したからだ。
魔法陣を書くのに時間がかかりすぎると。
しかし、このペンがあればもう大丈夫だと、そうりのが言って、志狼は了承する。
彼らの間に余分な言葉など必要ない。
感謝も心配も必要ない。だって、彼らは対等なのだから。
「では、志狼様は今日からどうなさるおつもりで?」
レオンハルトは志狼に尋ねた。
「あ?あー…」
志狼が答えるよりも早く光輝が楽しそうに口を挟む。
「なぁ!そろそろ1回外行こうぜ!」
目をキラキラさせて光輝は行った。
「……そ、と…?」
光輝が目を輝かせるのは光輝の好きなファンタジー要素のある時だとりのも志狼もなんとなく気が付いていた。
「そう!」
光輝は楽しそうに頷く。
「んで、行き先は?」
それに対して何でもなさそうに志狼は聞く。
「レオーネ!モフモフな獣人王国!」
光輝は獣耳と尻尾が生えた獣人に想いを馳せる。
今すぐにでも行きそうな光輝にレオンハルトは慌てて口を開く。
「ま、待ってください!ここからレオーネは馬でも10日はかかります!そんな急には……」
レオーネ王国は獣人の国で、パラミシアが所属するカルディアー王国から見て近隣国に入る。
しかし、車も電車も飛行機もないこの世界ではなかなか簡単に行けない距離である。
レオーネまでの距離は約300㎞、馬の1日の移動距離は約30㎞、単純に考えても10日は必要である。
「ん?歩いて行くよ?」
光輝があっけらかんと言い放つ。
これにはさすがのクリスにも光輝の意図がわからず、首を傾げた。
「いくら何でもそれは無理ですわ。3人とも旅慣れしていないのでしょう?」
どう考えても光輝とりのには無理である。
志狼のようにあり得ない体力と速さを持ち合わせているのなら、話は別であるが。
特にほとんど運動なんてして来なかったりのはそんな旅程に耐えられるはずがない。
「……大丈夫…疲れた、ら…乗せて、もらう……」
クリスの心配を余所にりのは気にしていないようだ。
クリスは最初りのが何を言っているのかわからなかったが、ふと思い出した。
「ああ、ユニコーンですか?」
クリスは納得したようだ。
それに光輝が答える。
「いや、ユニコーンだと俺が乗れないから、他ので!」
ユニコーンに触れられるのは乙女だけなので、光輝は乗れない。
「俺は別に歩いて行ける。」
志狼は当然の如く何時間でも歩けるし、走れる。
「ですが、徒歩で行かれるとなると、野宿は避けられませんよ。それはどうするおつもりですか?」
レオンハルトの質問に光輝はさらにテンションを上げて答える。
「野宿!やっぱ旅と言ったら野宿でしょ!………物語みたいにうまくいかないのはわかってるよ。でも、俺たちなら大丈夫。」
前半はいつものハイテンションで、後半は冷静に光輝は話す。
クリスとレオンハルトが心配していることがわかっているからだ。
レオンハルトが具体的に何が大丈夫なのか聞こうとすると、その前にクリスの溜め息が漏れた。
「はぁー……わかりました。光輝がそう言うのなら大丈夫なのでしょう。ですが、旅の支度は私がしますわ。これくらいさせてください。」
クリスは呆れた表情で微笑む。
クリスは光輝の"大丈夫"を無条件に信じる。
その"大丈夫"が決して考えなしによるものでも強がりによるものでもなく、全て考え抜いた上の大丈夫だと知っているからだ。
わかった上で、クリスはそれくらいの手助けはさせてほしいと言う。
彼らのために何かしたいとクリスはいつだって思っている。
「……ん、お願い…」
「じゃあ、よろしく!」
「終わったら知らせろ。」
クリスの厚意が親愛から来るものだと知っている彼らは素直にそれを受け取る。
レオンハルトはこういうところで考えずにはいられなくなる。
屋敷に来てから彼らの様々な話を聞いた。彼らの世界のこと、神のこと、この世界に来てからのこと、クリスとの出会い、その後の過ごし方……。
知れば知るほどわからなくなった。
どうして彼らはそれほどまでにお互いを信頼し合っているのだろう…と。どうして彼らはクリスを、クリスは彼らをそこまで信じられるのだろう…と。
聞くところによると、クリスと彼らが知り合って間もないだけではなく、彼ら3人もお互いに知り合って間もないのである。
つい最近まで存在も知らなかったような相手をどうしてこうも無条件に信頼し合えるのか、どうして4人の間にはそんなにも強い絆があるのか……そう思ったのは1度や2度ではない。
「レオンハルト、行きますわよ。今日も忙しい1日になりそうですわ。」
いつも通りに見えてどことなく楽しそうな己の主人にレオンハルトは笑顔で答える。
「はい、クリスティーナ様。」
レオンハルトにはわからないことだらけだが、それでも4人の中に入り込める者なんていないことくらいわかる。
彼らのことを知ったら、「明らかに常軌を逸している3人に、どうして至って普通の貴族の令嬢であるクリスが…?」と思う者が現れるだろう。
だが、レオンハルトは知っている。
いや、ずっと昔から薄っすら気が付いてはいた。その頃は見て見ぬ振りをしていたが。
クリスティーナは決して"普通の令嬢"ではない。
だいたいつい先日まで婚約者で貴族だった男を平気で使える女性が普通なはずがないのだ。




