episode4 sect6 ”野暮用とワガママ”
正直なところ、途端に疲れた。より分かりやすく言ってみるなら、ウルトラ疲れた。
ネビアと別れたら、急に気が抜けて歩くのも怠くなったものだから、家に着く頃には既に夜の7時半。普段なら商店街から家までなら30分で着けるのに、今日はその倍はかかった。
「ただいま」
「あー!お兄ちゃんおそーい!とっくにごはん出来てるんだよ、もう」
まだ鼻の頭に絆創膏を貼り付けている兄を迎え、直華が頬を膨らませた。どうやら随分待たせてしまったらしいと迅雷は少し反省した。
廊下の少し奥、リビングおよびダイニングに繋がるドアからは焼き魚と味噌汁の素朴な匂いが漂ってくる。
「ごめんごめん。ちょっとナオの命の恩人ちゃんとデートしてたもんで」
「で、ででデートですと!?え、えぇっ!?デートってお兄ちゃんが?えぇっ!?」
「驚きすぎじゃありませんかね我が妹よ」
デート。DATE。いや、ナツメヤシじゃなくて。
デートの3文字に異様なまで敏感に反応し、直華が劇画調になって固まっていた。どんだけ迅雷がそういうのと無縁な人間だと思っていたのだろうか。
・・・と軽いショックを受けていた迅雷だったのだが、よくよく考え直すと実際、彼のデート像はなんだか幼稚な気がしてきた。というか今日もネビアに言われるまま「デート」と称して彼女と2人で食べ歩きをしていただけだし。
「つ、遂にお兄ちゃんにも彼女さんが・・・はぁ・・・」
「いや、実際んとこ連れ回されて食い歩きしてただけなんだけどな?ネビアとも別にそう言う関係というわけではないと思うし」
「それでも十分仲良さげな気がするんですけど」
「なんだよ、もしかしてナオ、『お兄ちゃん取られちゃうー』とか妬いてくれてんの?」
なんだかムスッとしている直華を見た迅雷がシスコン精神を刺激されてときめいてみると、冗談のつもりだったはずが直華まで顔を赤くした。
「んなっ、そ、そんなことはない・・・よ、うん!っと、というか私たち普通に兄妹だしね!そういうのはありえないって!」
「なんか元も子もないこと言ってるけど萌えたから許す!」
さっきまでの滲み出すような疲労感はどこへやら、この上なく幸せそうに飛びついてくる迅雷を直華は両手で押し留めるのだった。
「はいはーい、2人ともー。微笑ましい兄弟愛も良いけどごはん冷めちゃうよー」
真名にそんなことを言われて、迅雷はションボリと仕方なく荷物を置きに自室へ、なぜかシュンとした直華は食卓へ戻る。
行儀良く手洗いとうがいも済ませた迅雷が食卓に着くと3人揃って「いただきます」と言うのだが、5日目にしてまだ物足りない。
「そういえば千影の実験って一応もう終わってたんだよな。いつ帰ってくるとか連絡あったりした?」
迅雷と直華、真名の3人なら疾風が出かけていることの多い神代家ではいつもの光景なのだが、それは少し前までの話。1人増えて、1人足りない今の状況の寂しさを紛らわせるように、迅雷はなんとなくまだ外出中の居候の話を切り出した。こうは言っていても迅雷は千影と電話やSNSでのやりとりはしていたから景色の写真なんかも送られてきたりしたのだが、帰る日程については言葉を濁されていた。
少し前には、いつ仕事で迅雷たちの家を離れなくてはならなくなるかも分からないと言っていた千影なので、迅雷もその言葉がこびり付いてモヤついていた。
家にはまだ彼女の荷物がうんとあるし、まさか帰ってこないというはずもないのだが、やはり一度考え出すと、不安は自然と心の中に居座ってしまう。
「あー、それならさっき電話がきてね?」
と、そう期待もしていなかった迅雷の質問に意外なことに返事が返ってきた。
気軽な調子の真名は千影の口調を真似たつもりなのだろうか、結局一人称が「ボク」変わっただけの真名らしい口調で話し出す。というか、いい歳した親に子供の口ぶりを真似されると見ている人がいなくてもちょっと恥ずかしいのが子供の気持ちだ。
「千影が言うにはねー、『実験はもう終わったけど、ちょっと引き続きヤボ用が入ったから帰れるのは10日か11日頃かなー』だって」
「へー、そうか・・・ってもう全国大会始まってんじゃんかそれ!思ったより随分遅いんだな・・・」
野暮用とはまたまた胡散臭い言い方だが、恐らくなにかIAMOから仕事でも来たのだろう。あれでも千影は本部付きのランク4なので、一般のランク4よりずっと優秀なのだろうし、こうして呼び出しを受けたついでで追加の仕事が入っていても変なことではない。
寂しいのはもう少しだけ続きそうだった。
●
ひと仕事終え、シャワーも浴びて、手持ち無沙汰。
天下の『ノア』クオリティーなホテル生活も今夜が最後なので、千影はいつも通り、はしたなく高級ベッドの上を転げ回っていた。
「このふわふわ感は他じゃ味わえないなぁ。ボクのほっぺたと良い勝負だね」
明日は朝早くには空港へと行かなければならないが、いかんせん早起きをする自信がない。
いっそ寝ずにベッドの上で日が昇るまでゴロゴロしていようかとも思ってしまうほどだ。実際、千影も眠らずに過ごすのだって慣れっこなので、割合現実味がある。
しかしながら、そうするにも問題点がいくつかある。
「絶対に暇だよねー・・・。テレビもなんかちんぷんかんぷんなサイエンス番組ばっかりだし」
数学とか物理とかは多少かじっていても、千影のそれは精々が中級程度の理論書の内容を噛み砕いたくらいのものだ。
一部実戦で必要になる情報処理の際に参考に出来るのでガリガリ勉強した分野もあるが、いずれにせよこの『ノア』クオリティーの科学番組は一から十までサッパリ理解出来ない。というか、まず全ての番組が日本語でもないし。日本人が出演していても彼らが話すのは全部英語。
「むぅぅぅ・・・英語圏衰退しちゃえー」
とんでもないことを言い出す千影だが、幸い1人なので誰も彼女を咎めない。
夜通し電話の相手をしてくれるほど暇な知り合いもいないので、千影はやはり寝るしかないか、と溜息を吐いた。それに国際電話の料金も馬鹿にならなのだし。
「もういっそ朝までITubeでも見とこうかなぁ」
幸いホテル内にはWi-Fiもバッチリ来ているのでデータ通信量もさしたる問題ではない・・・などと千影がうんうん悩んでいると、不意に手に取ったスマホから着信音が流れた。
「ん?なんだろ、こんな時間に」
画面を見ると『とっしー』と表示されてたので、千影は少し嬉しくなった。もう日付も変わって0時を多少回ったところなのだが、よく考えれば『ノア』が現在午前0時なら、今の日本は大体午後の9時くらいである。
もしかしてIAMOからの依頼かとも思っていたので、嬉しさは倍増である。
「もしもし、とっしー?どうしたの?そんなにボクの声が聞きたくなっちゃった?」
『やっぱいいや、切るぞー』
「待って、通話料が倍増しちゃうから!」
『なに・・・ぐ、確かに!なんて小賢しい!』
電話の向こうからは悔しそうな迅雷の声がしている。家族割引のかけ放題とかにすればこの場合でもかけ放題になるのだろうか・・・などと呟いているのが聞こえたが、そんなことは千影も知らないので放置した。
「それで、とっしー?結局どうしたの?おしゃべりなら夜通しでもオッケーなくらいなんだけど」
『いやさすがに寝るから。そうじゃなくてほら、千影が日本に帰ってくるって言ってたって母さんから聞いてさ』
「なるほど、そんなにボクの帰りが待ち遠しいんだね!」
『ちゃうわい』
などとのたまう迅雷がスマホ片手に照れ臭そうな顔で目を泳がせる光景を想像し、千影はクスリと笑った。
『なに笑ってんのさ?』
「ううん、ちょっととっしーに萌えてただけだから気にしないで」
『全然嬉しくないな、それ・・・。それでさ、なんか野暮用とかって母さんに説明してたんだろ?IAMOから仕事入れられたとか、そんな感じ?』
萌えられたことが嬉しくないというのは本心だったようだが、やはりなんだかんだ言って迅雷が千影が帰ってくるのを首を長くして待っているのは伝わってくる。
ただ、迅雷には悪いが、千影もそうすぐに彼のところに帰るのは難しいだろう。いや、別に本気で帰ろうと思えば明日にでも帰れるが、そうもいかない。気になることをきちんと調べておかないと、後で知らずに困らせられるのは千影だけとも限らない。善は急げ、千影はやりたい、やるべきと思ったことを一番にやる。今回はやるべきの方である。
迅雷や、真名と直華。あの家は、どうしてなかなか凄く自然に馴染んでいける。思わず浸りきって居心地も良く、いやはや、千影だって早く帰りたいというものだ。
「ヤボ用はヤボ用だよ。IAMO関連じゃないし戦闘があるわけでもないから心配しないでね?」
『お前いっつもそういうところは情報伏せようとするよなぁ。はぐらかされて心配するなと言われても無理な話だぞ』
迅雷もちょうど今日はネビアに千影の話をされていたところだったので、そんな風に言った。千影の知るところではないので、言われたところで千影は野暮用がなんなのか説明しようなどと心変わりするわけでもないが。
ただ、立て続けにいろいろ気遣ってくれる迅雷に千影は軽く「ありがとね」と言って、なんとなくベッドから降りた。
うろ覚えの方向だが、日本列島がありそうな方向を窓から覗く。あるのは夜の闇でも星明かりでもなく、ただの無機質な照明の斑点ばかりで、研究施設の影がほんのり浮かんでいる。
『なんたってお前方向音痴だしな』
目にも耳にも急に感慨が薄れたので、千影はまたベッドに大の字になった。
「はぁー。とっしーからの愛が足りない!まったくもう、分かったよ」
別に足りなくはないが、ちょっと贅沢したい千影は駄々をこねてみた。もっと素直に気にかけてくれると、もっと嬉しいのに。
どうも野暮用とはなんなのか説明しないと安心してくれないらしい。どこまで話したものか・・・と悩ましい。千影は一瞬アホ毛を指で弄ってから、話をまとめた。
「あのね、ボク一応明日には日本に戻るんだけどね?その後にちょっと調べものをしたいから知り合いっていうか・・・友達?と落ち合う予定になってるの」
『調べもの?ふーん・・・まぁ、なるほど。分かったよ。初めからそう言ってくれれば胡散臭くもないのにさ』
迅雷が千影の言う「友人」について言及しなかったのは、彼女の人脈が意外に広いことをある程度理解していたからだ。
そこについて尋ねられることもなく分かってもらえたので、千影はホッと息を吐いた。