episode3 sect31 ”次は必ず”
強くなりたかった。
幼い頃からずっと世界で一番の背中を誰よりも間近で見てきた。
ある日全て崩れ去った。あのときに言われたみたいに、自分は強かったのだろうかと日々問い続ける。
強くなりたい。世界中の人たちを『守れ』るほどに。世界で一番強くなりたいとか、そんな大それたことなんて考えてもいないけれど、あの日交わした約束は今の自分にとっても未だ色褪せぬ大切なものだから、強くなりたい。
そんな矢先だった。ちょうど中学校に入学して、部活を覗きに行ったあの日だ。
それからはもう、それは壮絶だった。あの頃なんてまだ小学生に毛が生えたくらいの子供だったはずなのに、なんというか変にませた無茶苦茶ばかり。自分は言われた通りに強くならなくてはいけないんだと言い張って、片やあっちもあっちで誰にも負けたくないとか言い出して、お互い意地を張って。
最初は全く敵わなかったようにも思う。あっちも多分手加減してくれていたのだろう。けれど、それはなにを思ってだったのか、今なら分かる。負けたくないなら相手が強くなるようなことをしなければいいのに、なんてのはそこで止まっている人の言うことだ。なんだかんだで切磋琢磨する相手を求めて楽しみながら喧嘩していたはずだ。
そんな風に馬鹿ばかりやって、気が付けば1年が経って2年すら過ぎて、ふと迅雷が休日にふらりと街を歩いて横を見ると慈音だけでなく真牙までいた。
ルールなしのチャンバラでは何度も一本取ったことはあったが、確か彼に初めて圧勝したのはあの日が初めてだったか。
なんとなくの思いつきで竹刀を二本振り回してみたら楽しくて、中学2年生くらいから暇なときには二刀流の練習を始めてみて、最初は部活の先輩にも後輩にも顧問にもからかわれたものだったが、楽しかったからやめなかった。ちゃんと部活の試合でも使えるようにルールや立ち回りも覚えたけれど、それも一番は真牙に勝てる最良の戦術が二刀流だと思っていたからだ。
彼なくしてあのような変則技を習得しようなどとは思わなかったろう。
そうしてある日二刀流で突然に挑んでみたら、呆気なく勝ってしまった。もちろん草試合だからお互い結果はあまり重く受け止めなかったけれど。
そうしたら今度は負けた。
イタチごっこをしていたような気がする。
兎にも角にも、アイツには負けたくないとマンガのキャラでも今どき言ってくれないような暑苦しいことを考えながら鍔迫り合いばかりし続けて、強くなるための指標を得た。
先日は死にかけた代わりと言ったら変かも知れないが、新しいきっかけも拾い上げた。
それはもう、あの頃から考えてもまさかと思うほど力が付いたことだろう。今日の自分は過去最高に強かったはずだ。
こんなに激しく戦ったのも初めてだった。・・・なのに。
●
「・・・・・・」
天井。白い天井。でも、病院ではないらしい。蛍光灯ではなくLED照明を使っているのか、光が異様に眩しかった。
「あ、お兄ちゃん!」
「・・・ナオ?」
妹の顔が上から覗き込んできて、迅雷はボンヤリと瞬きをした。直華の目元はちょっと腫れていた。
「としくん、としくん!!もう、なんであんな・・・ホントにもう、なんであんなことしだすのかなぁ!?しのも、なおちゃんも、みんなとしくんたちのこと心配してたんだよ!?」
珍しく本当に怒っている顔の慈音が、すこしぐずらせながら噛みついてきた。
「しーちゃん・・・。いや、まぁその、ごめんな?」
「ごめんじゃないよ!2人ともケガだらけだったんだよ!?なんにも出来ないで見てたしのたちの気持ちを考えてみなさいだよ!もう、まったくもう!!」
慈音がこんなに言うなんて、どんだけ酷い有様だったのだろうか、と迅雷は想像してしまった。ケガなんて全く気にしていなかったものだから、今更そんなことを言われるとむしろ他人事のようにさえ感じてしまう。
ありがたそうに苦笑を続けて無理に慈音を受け流し、迅雷は体を起こそうとして上半身に力を入れた。
「痛っつつつ・・・。こりゃ夢じゃないなぁ・・・」
狭くて白い保健室の1つのベッドの周りにはゾロゾロと人が集まっていたので、迅雷は口の端を引きつらせた。どう弁解したものか。確かにこれは無茶が過ぎていたのかもしれない。
鋭く痛んだ腹を押さえると、どうやら斬られた傷は一応、申し訳程度に塞がれていた。きっと由良あたりが応急処置をしてくれたのだろう。巻かれた包帯も血が染みているということはなかった。
迅雷が溜息を吐いていると、保健室には新たな客が2人やってきた。おっきい方の客が迅雷の方を見て小馬鹿にしたように笑った。
「よう迅雷。気は済んだかな?まーたアホなことしてくれたもんだぜ」
「だ、大地!?お前なんでここに来てんのさ?実況はどうしたんだよ?」
「は?クビだよクビ。お前らのせいだぞ?」
そんなことを言う大地の表情には怒りや困惑はなく、むしろスッキリした顔をしていた。
それが不満なのか、彼の仕事っぷりを聞きに来たはずだった妹の咲乎が大地にジト目を向けている。彼女は迅雷にも心配するような怒っているような目を向けてくるので、迅雷は少し申し訳なくなってしまう。
けれど、迅雷も大地も間違ったことはしていないと思えたから、今は敢えて彼女にはなにも言わない。
「そりゃ悪かったな。・・・それで、一応聞いて良いか?」
「あぁ、いいぞ」
「どっちの勝ちだった?」
「真牙だよ。判定勝ち」
サラリと結果を教え、大地は保健室の奥から適当なパイプ椅子を引っ張り出してきて座った。大地と一緒に来ただけの咲乎が結局場の微妙な雰囲気になにも言い出せなくて突っ立っている。
あれだけ派手にやりあって、僅差での敗北だった。最後は2人とも満身創痍で床に這いつくばり、立ち上がることすら出来ない有様だったそうだ。クール・・・とまではいかずとも、普段はそれなりに落ち着いていた迅雷があそこまで勝利に餓えた姿を見せていたので、誰もが負けを言い渡された彼の反応を不安多めに待っている故の空気だ。
「・・・・・・そっか。負け、か・・・。負けたか」
頭をガシガシと掻いて、迅雷はベッドの上で大の字になった。
「あれ、あんまり気にしてない・・・?」
首を傾げたのは向日葵だった。彼女の隣に友香がいないのは、彼女が血みどろの戦いに興奮しすぎて卒倒して、迅雷より先に保健室で寝かされていたからである。
話しかけてきた向日葵の方は見ずに、迅雷は左腕で両目を覆って笑った。目尻が熱い。
「い、や。くや、しいさ・・・。ムカつくし・・・な。あと1秒体が動いてたら、あと10秒試合時間があれば・・・っでざぁ・・・!」
強がりの笑いなんて本当は強くない。下がろうとする口角を無理に上げようと歯を食いしばる今の迅雷は、血を流しているより痛々しく見えた。目立った怪我は全部塞いでもらったはずなのに、どこもかしこも傷だらけ。
「でもっ・・・でも、負げは、負げだって!良いん、だよ、ごれで!」
あれだけやって、失血魔力切れ体力切れ、それとも怪我、理由ならなんでも思いつくほど疲弊してぶっ倒れて。悔しい終わり方をしたようだったけれど、望んでいた通りになにもかも全部出し切ったのは間違いなかった。持てる力の100パーセントをぶつけ合った。
その上で負けたのだったら、もう仕方ないじゃないか。負けを認めるほかになにが出来る?
だから迅雷は極力明るい声ではきはきとそう言いきった。
「としくん、良いんだよ?」
隠しきれない嗚咽を吐き出す迅雷の頭を、慈音が優しく撫でた。
「もうこんなおバカはしてほしくないけど、でも、頑張ったんだよね」
「・・・・・・がん、ばったよ」
「でも負けちゃった。悔しいよね。すっごく、悔しくって、悔しくって、たまらないよね」
「くや、しいよ・・・」
本当は泣きたいくせに1人で納得しようとしていた迅雷を、慈音の繊細な手の感触が包み込んでくれる。成長の階段を後ろから支えるように、上から引き上げるように、暖かく。
「だけどね、としくん。きっと次がある。悔しかったら、次はきっとあるよ。きっと勝てるよ」
「次・・・?次、か・・・。うん、次は・・・負けたくない。絶対、勝つ。次は、絶対に勝つ・・・」
「うん。偉い偉い」
まるで強がってばかりの弟を諭す姉のような慈音を見て、不安そうな顔ばかりしていたみなもいつの間にか微笑んでいる。それとも、頑張った子供を慰める、母性にも似た優しさに触れたからだろうか。
「だから、頑張った今日はゆっくり休もうね?」
「・・・ん」
ゆっくりと、顔に乗せて目元を隠していた腕を下ろし、迅雷は赤く腫れた目でもう一度天井を見た。
なにも言わずにそっと見守ってくれているみなの心遣いが嬉しかった。
次は勝つけれど、今は眠たい。今日はもう疲れた。
「およ、とっしー起きてたの?」
が、完全に空気をぶち壊す無邪気で軽い口調。迅雷も思わず苦い顔になる。
「・・・千影さんですか、さいですか。そういやいなかったな、ここに」
「え、ボク忘れられてたの・・・?」
トイレに行っている間に起承転結が済んでしまっていたらしいことに千影は顔を真っ青にしてワナワナし始めた。
「そ、そんな・・・!ご傷心のとっしーをボクが優しく慰めてコロッと落とす作戦がっ」
「性根クソだなお前!?人の心をなんだと思ってるんだこのロリビッチ!」
「いや、冗談だよ。さすがにボクでもそこまでクズいことはしないって。ほら、あんまりおっきな声出すと傷が開くよ。今日はゆっくり休んでね」
「え・・・お、おう」
なんとなく裏の裏をかかれたような気分になったので、迅雷は千影から目を逸らして頬を掻いた。急に優しくされてもやりにくいというものだ。
「あと、とっしー」
「ん?なんだよ」
「寝ちゃっても良いからね。ボクが家まで運んであげるから」
「それはマジでやめてください」
以前味わった千影タクシーの恐ろしさを思い出して迅雷は血の気を引かせた。思い返しただけでも足の爪先から頭のてっぺんまでゾワリと毛が逆立つ寒気を感じる。元々血が足りない今なので思わずクラッとするほどだ。
千影も迅雷の顔色からなにを想像しているのかは察したが、そうではなく普通に(?)おんぶでもしてやろうかと言ったつもりだった。どちらにせよトラウマを負った迅雷が「それは勘弁」と言うのは目に見えていることだが。つれない迅雷に千影は唇を尖らせた。
ちょっとは泣いていた痕も見えるけれど、なんにせよ迅雷もうまく立ち直っているみたいで心配もなさそうだ。自分の出る幕がなくてちょっとだけ悔しかったのもホントだけれど、千影はホッと胸を撫で下ろした。
それからややあって、少し落ち着いた迅雷はふと思い出して、直華に訊ねた。
「・・・そういや真牙はどこに行ったんだ?」
「真牙さんならお兄ちゃんより少ししっかりケガの手当をしてもらってからすぐにダウンに行っちゃったよ」
「あーそう」
挨拶もないとは実に清々しいことをしてくれるものだ。むしろ彼の顔を見た方が割り切りやすかったかもしれないのに。
と、そのときだった。
勢いよく保健室の戸が開け放たれて、ゾロゾロと人が入ってきた。
しかしさすがにまたもや迅雷のお見舞いとかそういうわけではないようだ。見たところ5組の生徒が中心だろうか。
そんな彼らの中心にいるのは、担架の上で手を押さえてうずくまっている少女だった。
「わわわっ、これまたすごいやられようですよ!?足はしもやけが酷いですし、これって手の骨もヒビは入ってるんじゃないですか!?あーもう、なんでこう1年3組の生徒さんたちはこんなにバイオレンスなんですかぁぁっはははははぁぁぁぁ!」
オーバーワークでテンションが壊れたのか、半ば諦めたような由良の笑い声が聞こえてきた。
連れてこられたのは恐らく愛貴だ。時計を見る限りでは雪姫相手に10分以上戦えたようだから、愛貴はよく頑張った方だったのだろう。
●
「んでぇ、ネビアちゃん。君はクラスメートが保健室に持ってかれてもお見舞いに行ってやんないのかい」
相も変わらずだぼっとしたトレーナーと細縁でレンズの下にフレームがない眼鏡のラフな格好の男が、ネビアの隣に腰掛けてきた。研だ。
「別に・・・そう、これくらいがあるべき距離感なのよ、カシラ。それに私は人がケガしてもそんな心配してあげられるほど人間じゃあないし、カシラ」
「じゃあそんなにソワソワしなさんなよ」
呆れたように、だらしなく椅子の背もたれに寄りかかって研は呟いた。
「そんで、一応上手くいってんだよな?」
「えぇ、そこは心配ないわよ、カシラ。こっちだってお仕事だもの、カシラ。・・・まぁ、努力も労力も最低限だけど、カシラ」
「結構結構。俺もそれだけ聞けりゃあ安心だ。あとは楽しく観戦でもしてらぁよ。可愛い子も見つけたし?」
どこかで見たようなような誰かさんによく似た少女を見つけた研は、面白そうに笑っていた。
研の言っている「可愛い子」に見当の付いたネビアは嘆息した。あの子は容貌能力性格、どれを取ってもなにかと目をつけられやすい体質なのだろうから今更ではある。
「一応言っておきますけど、あの子に手は出さないでくださいねー、カシラ」
「出さない出さない。見るだけだから」
研は苦笑した。というか、研がそんなことをしても泣きを見るだけだ。
用、と言えるかは分からないが、とりあえず話が済んだので、ネビアは席を立った。
フィールドでは、ブロック決勝ということで焔煌熾と清水蓮太朗が激しい魔法合戦を繰り広げていたが、ネビアはあの程度の試合に興味はない。
「あれ、やっぱりお見舞い行くのか?隣の女の子がいなくなるとお兄さん寂しいなあ」
「うるさいわね、カシラ。オッサンの隣に座ってらんなくなっただけよ、カシラ」
「あ!?今オッサンっつったなコラ!俺はまだ28だ!オッサン言うな!」
にゃはは、と楽しげな笑い声が遠ざかっていき、研は溜息を吐いた。仮にもこちらはお客さんだというのに、年下のガキになめられたものである。
「どいつもこいつも・・・ったく。大人をなめるなよってんだチクショー」
気晴らしに煙草でも吸おうかと思って研がポケットから安物の煙草の箱とライターを取り出すと、ザワッと周囲から冷たい視線が突き刺さった。
上を指差されて見上げると、モニターには「校内全域禁煙」と表示されていた。
苦笑いしつつ両手のジェスチャーで「まあまあ」と観客たちを宥め、研もアリーナを出た。自業自得ではあるが、踏んだり蹴ったりな彼の背中はやるせなかったことだろう。
人はみな第1か第2のどこかのアリーナにギュウギュウになって集まっているのか、外は意外に静かだ。
真っ暗な夜空に浮かんだ下弦の月を仰ぎ見て、研は薄く笑った。
「ネビア・アネガメント。大変なのはこれからだぜ~?・・・今のうちに世話んなった連中にゃあ挨拶しといた方がいいかもな」
月は厚い雲の奥に隠れてしまった。
●
話題の絶えない最強と、いろいろな方向で急激に注目を集め始めたジャパニーズサムライ(と表現して良いのかどうかは分からない)が決勝戦という、最大にして最高峰のステージで向かい合う。
この時間より1つ前の時間でAブロック、Bブロック共に決勝戦を終えており、時刻は夜の9時。Cブロックの決勝戦が行われるところである。当然ながら観客の全てがこの第3アリーナに集まっており、それはそれは恐ろしい人口密度を生んでいた。それこそ、立ち見どころか観客席スタンドの座席間の階段まで人がいっぱいいっぱいに詰め寄っているほどだ。少しでも遅れてきた人たちは会場内で生の試合を見ることを諦め、外のモニターで眺める羽目になる。
『さて、いよいよCブロックの決勝戦となりましたが、やはり・・・というか、いえ、やはり、ですね。このラストバトルを戦うのは共に1年3組の選手となりました。校内屈指の最強クラス魔法士に堂々と名を連ねる天田選手がここに立ったのは、もはや自然の摂理とでも言えるでしょう。そしてそれに対する阿本選手も、準決勝では神代選手と共に尋常ならざる戦いぶりを披露していますからね。この決勝には見合う高い実力を持っていると思われます』
大地に代わって連れてこられた放送部の生徒が試合前につらつらと語る。
『そうね。さっきの試合は本当に洒落にならないからアレだけど・・・。でも阿本君の重力魔法は天田さんのあの堅牢な防御も確実に突破できる非常に強力なアドバンテージとして機能するわ。場合によってはもしかする可能性も、十分にあるわ』
真波もこの試合の行く末に100パーセントはないということを示唆した。書類上では知っていたが、実際に見てみればあの威力は凶悪の一言に尽きた。
重力魔法というのは、非常に高純度の魔力を要する魔法の系列で、一度でも使用すると体が元々持っていたはずの一般的な紫色魔力を生成できなくなる、という性質がある。つまり、一度でも、どんなに出力や規模が小さいものだったとしても、重力魔法を使用した瞬間から今まで当たり前に使えていた地属性魔法が一切使えなくなるということだ。
おまけに威力、制御難度共に人の手に余る代物のため、使う人間自体わずかにしかいないというのが現実だ。実は真波も本物の重力魔法を目の前で見るのはさっきが初めてだったくらいだ。
普段から態度の軽い真牙がなにを思ってあのような極端なものに手を出すことを決意したのかは真波では分からない。
なんでもそつなく人並み以上にこなす真牙ですら制御に苦心し、こうして区切られた空間でしか使わない重力魔法は、しかし逆に考えればこの場に存在する唯一の逆転の可能性だ。
『それでは両選手、準備はよろしいでしょうか?』
実況代理がフィールドを見下ろせば、もう最後の試合だというのに雪姫は上着のポケットに両手を突っ込んで退屈そうにしているし、一方で真牙も鞘に納めた刀を首の後ろに担いでニンマリと笑っているだけ。真牙に至っては準決勝の方がよほど真剣だったように見えた。
決勝戦だというのにマイペースな選手たちの態度がイマイチだが、準備は出来ていると取っても良いということだろう。
『試合開始!!』
○
「さて、どーすっかねぇ・・・」
雪姫が放ってきた時速100kmほどの氷弾を軽い足取りで躱しながら、真牙は眉根を寄せた。一応ああ見えて由良も優秀だったりするので、迅雷との試合で負った傷の具合も体を動かす分には支障もない。事実高速で迫り来る攻撃に反応が間に合っているくらいだ。
しかし、だからといって万全とはいかない。なんともないように見えるよう振る舞っているが、実のところ真牙の体はガッタガタであった。結局のところ今保健室で寝かされている迅雷と違うところがほとんどないようなものだといえば分かりやすいか。
与えられていた休憩時間の1時間半はキッチリ休んだが、あの激戦の疲労をそのような短時間で癒やすことなんてどだい無理な話であり、ここから本気でやり合うとして、根性込みでも精々10分といったところか。
「でも負けたくないしなぁ」
飛んでくる氷弾のペースが倍加したので、さすがに避けきれないと判断した真牙は抜刀して躱せない氷を弾いていく。
たったこれだけのことで称賛する歓声が上がってくると、真牙もなんとなく悲しくなった。これくらいの芸当なら迅雷や矢生でも出来るし、先ほどの準決勝2回戦では愛貴が実際にやっていたではないか。
ここでやっと真牙も雪姫は感じていたらしい虚脱感を察した。銃弾なんかと比べたら亀のように遅いこの魔法ですら、相手が雪姫だからと言い訳して対処を諦めてきた愚図たちが何人いたか。それは苛立ちも募るというものだ。
弾幕が止んだので、真牙は雪姫の方を見てニカッと笑ってみせた。これ以上退屈させてしまっては失礼だろう。
―――負けたくないのなら、勝てばいい。
雪姫が舌打ちしたのが分かった。真牙が見せた笑顔が、戦意どころか勝利宣言として向けてきたものだと気付いたということだろう。
途端に6つの中型魔法陣が雪姫の前面に展開され、それぞれから木の幹ほどはある氷の槍が真牙に向かって伸びた。
「あらよっと!」
跳躍し、重力魔法を乗せた『八重水仙』を突き出す。
剛速の刺突は氷柱の1本を正面から真っ二つに割り、真牙はその真下の氷柱の上に着地した。
そして氷の上を走り出す。
手は氷に刀を突き立てた際の強烈な衝撃で痺れるし、足も筋肉がもう休みたいと泣いているが、氷の平均台の上を走るくらいのことなら造作もない。
雪姫が指を鳴らすのが見え、直後に真牙の足場が崩落した。そしてそのまま宙に投げ出された彼に数十の氷弾が殺到する。
「マズッ!?くそ、さすがにレベルが違う!」
数十発のうち十数発には体中を殴られながらも真牙は可能な限り攻撃をいなした。
伊達に「守って勝つ」をモットーにしているわけではない。しばしばこの軟派な性格おかげで信じてもらえないが、真牙は確実に勝つために防御と回避に重点を置いて剣を振ってきた。だから雪姫の攻撃も見えるし、反応できる。
しかし、雪姫の本当の恐ろしさはもっともっと上の次元の、圧倒的理不尽な攻防両立のスタイルにある。あの粉雪の壁がある限り彼女に近付くことはほぼ不可能だ。しかし、それを反対に捉えれば、接近戦に持ち込むことさえ出来れば真牙が強気に出られる可能性が高い、ということではないのか?
真牙は未だに雪姫が接近戦に応じたところを見たことがない。彼女はどんなに貧弱なモンスターを相手取るときでさえ肉弾戦は避けていた。
勝機は、そこにある。
○
―――とでも考えているのだろうか。
「・・・・・・させると思ってんのかしら」
間違いなく疲弊しきっていたはずなのに、そんな素振りをさっぱり見せない真牙にはさすがの雪姫も口の端を下げた。なにもせずに負けを認める連中と比べればだいぶマシだが、やけに拮抗されても腹立たしい。
ぴょんぴょんと跳ねて、様々な方向からまんべんなく攻撃しているはずなのに、真牙には氷弾も氷柱も8割が当たらない。
真牙が接近戦に持ち込もうとしているのは明らかだった。それなのに、分かっていて彼の足を止めることが出来ないのだ。
「チッ。満身創痍の分際でチョコマカ・・・」
両手を振り広げてより高精度な照準を行い、全門ロックオンの状態で40以上の『アイス』を発動した。
そして間髪入れず一斉砲火。大量の小型魔法陣が白い冷気を噴く。
同時に広範囲の床に氷弾が着弾してそれが砕け、煌めく氷の粒の煙が沸き立った。
しかし、視界の端で動く物体を捉えた雪姫は最低限に首を動かしてその影を見た。
それが真牙ならば、と攻撃の準備を整えるが、結局のところそれは真牙ではない。
(刀の鞘・・・?)
ということは今のはデコイで、彼自身は鞘とは逆に走り、背後への回り込みを狙っていると見るべきか。
・・・というところまで考えたところで、しかし、雪姫は自身のその反射神経に従いそうになって動きを強引にキャンセルし、上を見上げた。
「ハッ。随分とコケにしてくれんじゃないの」
薄々勘付いていたが、真牙は今まで見てきたようなそこらのモブとはひと味もふた味も違う。量産型の思考回路に散々慣らされた直後で彼が相手というのは、なかなか面白い話だ。
あれはまぁ、それなりな傑作だ。
太陽光に紛れて真牙が降ってきて、雪姫を捉えたところで刀を勢いよく振り下ろす。
「らぁぁぁぁッ!!」
雪姫は『アイシクル』を使用して空中の真牙に氷柱を叩き込むが、彼は器用に体を捻って氷柱の側面に足を着け、再度跳躍して斬りかかってきた。
だが、雪姫の予測能力は真牙の機転にも容易く追いつく。真牙の落下ルートを予測して、雪姫は『フリーズ』で床から氷の刃を発生させて真牙の胸を狙った。
だけれど、なんと真牙は雪姫が魔法を発動するタイミングと同時に彼女に向けて『八重水仙』を投げつけた。
さすがに予想していなかった行動に雪姫も少し驚かされたが、当然投げられた『八重水仙』は雪姫の作った氷の刃に刺さっただけで、雪姫に届くこともなく止められてしまった。
自ら武器を捨てるような真似をした真牙を怪訝に思った雪姫だったが、彼女はすぐに1つの可能性を思いついた。
だがしかし、あれは真牙の戦術ではなかったはずだ。
「パクらせろよ、迅雷!」
真牙の手元に魔法陣が生じ、その中央の空間が歪曲した。
「この―――――ッ」
氷を砕こうとしたが、反応が一瞬遅れ、もう間に合わない。
真牙は魔法陣の中央でズレた空間の先で、再び『八重水仙』を握り締め、それを氷から引き抜く反作用力で体の落下を加速させ、さらにその軌道までも曲げて雪姫に飛びかかった。
「斬、玖乃型、『穿』!!」
「ナメんな―――――」
連続して想定外の動きをされたが、雪姫の魔法展開速度であれば防御反応も間に合う。
雪姫は歯軋りしながら足で床を踏み鳴らし、より強力な氷の刃を生成して真牙の三連撃を受けさせた。
だが、まさに『穿』の名の通り、真牙の剣は氷の壁の腹を穿ち抜いてきた。
「斬、壱乃型、『衝』!」
まさか防壁を突破されるなどとは思ってもいなかった雪姫は、さらに攻撃を仕掛けてくる真牙から離れるため、思わず後ろに一歩跳んでいた。
―――コイツは凡人の皮を被った人斬りだ。
焔煌熾以来の大物に雪姫は少しだけ胸が高鳴るのを感じた。薄れた期待が甦る。
「少しだけ・・・やってやろっか」
雪姫が飛びかかってくる真牙に向けて羽虫を追い払うように腕を振り、それに従って莫大な量の真っ白で純粋で鮮烈な粉雪が流れ出す。
現れた雪はそのまま真牙の全身を殴り飛ばして吹き飛ばした。
轟音の跡。そこには、荒れ狂う吹雪を纏い、純白の中に悠然と佇む、《雪姫》がいた。
○
「がっは!」
巨人に平手打ちで張り飛ばされたかと錯覚しそうな一撃だった。
壁に叩きつけられた真牙は、床にずり落ちて咳き込み、肺の中身をなんとか取り込み直した。傷口がいくつか開いたらしく疼痛が精神を蝕むが、気にしてなどいられない。
遂に本性を露わにした雪姫、いや、《雪姫》を見据え、真牙は荒い息を吐きつつも挑戦的に笑った。
ここからが本番。
「まずは一歩動かして雪も出させたぜ。もう一押し、気合い入れてくぞ、オレ」
真牙が刀を構え直すのを待っていたかのように、氷弾が降り注いだ。その連射は明らかに苛烈さを増している。魔法の発生点は常に40を保ち、1つが消えればまた1つ魔法陣が発生する。
再び襲いかかる飽和攻撃に真牙は果敢に挑み、流れるような剣捌きで被害を最小限に留めながら走り出した。ジャージには痛々しく赤い色が染みていくが、まだ問題はない。
「へぇ、まだ動けるんだ。・・・そうこなきゃつまんないけどね」
雪姫はどうせ『スノウ』で射線が遮られるので『アイス』による砲撃を一気に緩めて、空いた処理能力を『スノウ』に移譲する。手を繰って『スノウ』を誘導し、粉雪の拳でありとあらゆる方向から真牙に殴りかかる。雪白は静かに荒れ狂ってその猛威をまざまざと見せつけんとするが、真牙は非常に無駄のない最小限最低限のアクションでそれを躱していく。
ギアを上げるか、もう少し様子を見るか。雪姫は少し考えたが、やはりこのままの勢いで抑えておくことにした。あまりギアを上げすぎても体力と魔力の無駄遣いになってしまう。
うねる粉雪はその形をとめどなく変え続け、量を増やし、追い縋り回り込んで真牙を襲う。
真牙の勢いが落ちた。未だに続く氷弾による弾幕と、『スノウ』による乱打を同時に対処しているが、しかし着実に体力は削られていく。そして猛烈な迎撃のせいで雪姫に近付くことすら出来ず、彼女を中心として円周上を回るのが精一杯であった。
雪姫の強さは真牙が想像していたよりもずっと上の次元にあった。
「近付けば壁も抜けられるって思ってたけど、そもそもが近付けねぇ!!」
このときばかりは普通の魔法が使えないことが恨めしかった。なにか、なんでも良いから離れた的を攻撃出来るような軽い魔法が使えればこの状況だっていくらでもひっくり返すことが出来ただろうに。真牙は唇を噛んだ。
負担を考えても重力魔法は極力フィニッシュの補助以外では使いたくない。魔力は足りるが、精神の消耗は既にイエローゾーンである。一度は重力魔法の効果対象を自分以外の全物質に切り替えて一気に仕掛けようかとも思った真牙だったが、それに必要な集中する時間も得られないのは明らかだった。
遂に一歩も近付けないまま雪姫の横を通り過ぎ、20mほどの距離を保ったまま真牙は雪姫の背後に到達した。
ちょうどそのタイミングになると『アイス』が止んで、『スノウ』の勢いがさらに増した。同時に3方向や4方向から掠めただけで跳ね飛ばされそうな雪の剛撃が迫り来る。
しかし、真牙は吹雪の隙間に垣間見える雪姫の様子を見てヒントになりそうなものを見つけた。
「雪姫ちゃん・・・オレが後ろに回っても振り返ってない?」
真牙はふと思い立って逃げる足を止めた。すると、雪姫の攻撃はやはり正確に真牙を狙って飛び込んできた。
それはそうだ、というのは浅はかな考え方だ。
雪姫は『スノウ』を発動する前、確かに真牙の動きを目で追って反応していた。
それが今は、チラとも見ずに真牙を狙うことが出来ている。これは絶対になにかタネがあるはずだ。
「なにでオレの位置を探してる・・・?音?匂い?」
まさか味覚と触覚はありえないだろうし、前提として恐らく視覚でもない。考え出すと動きも鈍って被弾も増えるが、それでも真牙が雪姫に勝てる隙があるとしたら、ここだ。
まず試すのは聴覚。恐らく彼女の耳も自身の魔法による轟音をモロに捉えているはずだ。それでも分かるほどの音は立てないように、真牙は刀を使った防御をやめて、呼吸も最低限まで音を殺し、跳躍すら封じて攻撃を回避し始めた。当然、封じた手段全てをアリにしても捌ききれない火力をこの状態で避けるのは不可能であり、あっという間に体中が殴られて、血が飛ぶ。
つまり、雪姫の感知能力は聴覚ではない。茫漠たる純白の向こうに覗く雪姫はどこか無気力に空を仰いでいた。
「くそ、完全に遊ばれてんなぁ、オレ」
冬空を見上げる子供のようなあどけなさすら感じさせる雪姫の姿に真牙は息を吐いた。まるで童話の1ページのような儚くも綺麗なものを感じる光景だが、見惚れている場合ではない。
今度は嗅覚を試すのだが、こればかりは真牙もありえないと判断した。この距離で真牙の匂いを正確に追えるとしたら雪姫は人間ではないし、雪に引きずり回される空気が暴風をなす今、匂いなど一所に留まり得ないからだ。
触れているわけではないから皮膚感覚でもないだろうし、味覚などもっての外。ここで、真牙の予測は完全に詰んでしまった。もはや人の持つ五感では雪姫の捕捉能力を説明することが出来ない。
いろいろ試すうちに回避を続けて壁まで追いやられていた真牙は、なんの突破口も見えない敵に出会い、初めて戦慄した。雪姫のあの力はあまりに完成されすぎている。
遂に真牙を覆うようにして真っ白な雪の波が立ち昇った。逃げる場所は、壁だけ。
「―――ッ!?逃げるしか、ないのかよ!!」
死にもの狂いで壁に飛びつき、真牙はそこからさらにもがいて地上から4mほどのところにある、タイル張りの壁と観客席を守る透明な壁との境界の溝に指を引っかけてしがみついた。
先ほどまで立っていた場所が雪崩に呑み込まれるのを見て、真牙は唾を飲んだ。躱していなかったら関節でない部位までへの字にひしゃげてしまっていただろう。
「でも、こっからどうすりゃあ・・・」
そのとき、真牙の目には明らかに雪姫がなにかに反応して小さく頭を動かしたのが映り込んだ。
真牙が壁に逃げた直後に、雪姫はなにかに反応していた。ここにきて初めて彼女が取得した情報はなんだ?それに反応した理由はなんだ?
パズルのピースは全然足りていない。それでも、考えて、想像して、推測を新たに組み上げていく。本当の勝負の中には、パズルのピースなんてものは初めから揃っていない。勝ちたいのなら、自分で新しくピースに見えるなにかを用意してはめ込んで、それに勝機を托さなければいけないのだ。
「・・・・・・そうか、そういうことか!」
今、真牙は宙吊りの格好で碌に身動きも取れない状況にあるにも関わらず、思考するだけの余裕があった。それだけの小さな事実と、雪姫の小さな反応。
すぐに、うねる雪崩の横薙ぎの一撃が真牙を狙って壁と壁の間の縁を削るように押し寄せてきた。
だが、なぜこんな絶好のチャンスになって、これほどまでに無駄な動きのある攻撃を仕掛けてくるのか。
真牙はこのわずかな3秒の違和感で、本質抜きではあるが、雪姫の感知能力が働いていたエリアには、気が付いた。真牙は急いで刀を口に咥え、壁の縁を両手で掴み、魔力も一気に込めた腕力だけで跳躍。直後に真下を通った粉雪の剛腕の上に着地した。
そう、恐らくではあるが、雪姫は真牙が地上にいる間、つまりフィールドの床に足を着けている間だけ、その位置を正確に捉えることが出来たのだ。辻褄が合うのはこれくらい。
未だにそのカラクリは分からないが、真牙が壁をよじ登った直後に雪姫が謎の反応をしたことや、壁際への攻撃が急に大雑把になったのは、その証拠としては十分にあり得るはずだ。床に雪姫の仕掛けたなにかがあるのは明白ならば、床ではないところを走って接近すれば良いはずだった。
流動する粉雪の上を走るのはさすがに難しいが、それでもきっと、これが最初で最後の接近のチャンスだ。それを感じた真牙は、丁寧かつ豪快に走り出す。
直線距離にして雪姫まであと30m、20m、10m・・・5m。
―――いける、届く。次のひと跳びで、必ず届く。
真牙は全神経をその一瞬のために、針より鋭く、死よりも静かに研ぎ澄ました。
雪姫を取り巻く雪壁が唸りを上げて渦を巻くが、今この瞬間だけは、真牙にもどうすれば阻まれずに通過出来るかが視えていた。
さながら未来視でもしているようだった。コンマ1秒先の姿がありありと浮かび上がってくる感覚は剣を握り接近戦を得意とする者としては筆舌に尽くしがたい興奮と恐怖を掻き立てる。
脳が命じるままに体を動かし鋒を滑らせると、まるで雲を払うように雪壁が裂け、道が開いた。
それは、一度のみに留まらず、二度、三度、立て続けられる。
あまりに高速化した反応が脳髄を沸かせるようだが、しかしそれは、いつかネビアや迅雷が言っていた雪姫の操る雪の壁を突破し得る非常識な手段の1つ、壁の隙を穿つ、という方法そのものだった。
もはや誰の目に映るそれも全て奇跡と言わずして他にないだろう。気紛れな天意の呼んだ偶然の神業。これだけの激流の渦中で、たった一人の静寂を薄く感じ、真牙は幾重にも連なった壁の先に雪姫の姿をはっきりと捉えた。
真牙は手をかざし、魔法を念じる。
天蓋を覆う巨大な紫色の魔法陣が輝いた。
瞬間、妖しい光の下に世界の法則が歪み、乱れる。
雪姫の体が確実にぐらついたのが見えた。
冷たい眼光が振り返り、真牙の両目を射貫く。
交錯した視線はあるいは震え上がる極寒と凍てつく鉄の重みの衝突だった。
一瞬の中で不要な感覚の全てが凍り付く。
だが、もう遅い。既に真牙の刀は振り下ろされている。
避けなければ刃は雪姫を捉える。避ければ、彼女は重力に負けて姿勢を保つことは出来ない。そしていずれ刃は最強と呼ばれたあの少女を、討つ。
「―――斬る・・・必ずだ!!」
そして刃は斬り裂いた。
空、を。
「ウソつけ――――――ッ!!」
真牙は雪姫の横を通り過ぎ、再び荒れ狂う吹雪の中へと転がり込んだ。
雪姫は躱すことを選んだ。それはつまり、普段の数倍もある自身の体を無理に横へ投げるという無謀な策でしかない。
どちらにせよ立っていられずに倒れ込んだ雪姫を真牙は斬り伏せるはずだ。・・・そのはずだ。・・・だというのに、今の雪姫の回避はなにかが変だった。あまりにも滑らかで、強烈な重力下においてむしろ軽やかに踊るかのようで。真牙の視ていたものはただ自身の魔法への過信でしかなかったのだと気付く。
なにかがおかしいことに反応しきれなくて停止しかける思考を持ち直し、すぐに真牙は床を蹴って駆け出した。そして再び雪姫の背後へ。
これだけの至近で、それでもあの少女は遠い。まるでその内側には拒絶しか存在しない。現実とかけ離れた遠さ。彼女はもう、真牙を見ていない。
ふと見えた雪姫の足下には薄い氷が張っていた。歩かずに滑ることで、彼女は重力の影響もほとんどなく移動し、斬撃を躱したというのだろうか。
「・・・・・・こんなのって―――――」
どこまでも弄ばれるようだった。泣きたい気持ちで雪姫に背後から斬りかかる真牙。雪姫は振り向かない。刀は再び振り下ろされる。
「アンタじゃなかった」
それが、真牙が聴いたこの試合で最後から2番目の音だった。
そして最後の音というのは、胸部から鳴った、なにかが壊れる音だ。
「ごぁ、ぱァッ」
雪姫の肘が真牙の鳩尾を肋骨ごと潰した音だった。汚い呻き声はもはや声の主が意識を失った後に発せられたものだ。あまりにもざっかけない暴力で、既に真牙の意識は彼の体から飛んでいた。
しかし、そんな真牙の胴体に雪姫の膝がめり込んでいく。
―――あぁ、やってしまった。
「くは、ふ、はは・・・」
もはや脱力してただの抜け殻のまま吹き飛ぼうとする真牙の顔面に雪姫は掌底を叩きつけて笑う。
ゴリリ、と、これは鼻の骨だろうか、脆いなにかを突き崩す感触が脳下垂体を刺激する。衝撃に一瞬遅れて真牙の鼻から噴き出した血液が掌に遮られて弾ける。雪姫はヌルリと手を濡らすその気持ちの悪い温度に気分が昂ぶるのを抑えられず、理性を超えて引き裂いたような笑みを浮かべた。
「汚ぇ血ぃ触らせんなよ―――」
もう真牙の眼球はあらぬ方向を見ている。
でも、もう止まらない。
血で濡れた左の掌に『アイス』を展開し、真牙の顔面にゼロ距離から叩き込む。
飛び散る血を数滴浴びて、しかし彼女の攻撃性は勢いを留めることを知らない。
ぬいぐるみでも投げたかのように仰け反り倒れた真牙に一歩で歩み寄って、雪姫は顎を蹴り上げた。
「はは、はははっ」
殺伐と乾き尽くした笑声を漏らして、雪姫は真牙を目で追い続ける。床にバウンドして俯せに倒れ、もはや彼は生きているのか死んでいるのかも分からない。恐ろしくて堪らない。ダメだと分かっていたのに。
(ダメ、トマレナイ、タノシイ―――)
『試合終了!!ストーップ!ストップストップストーーップ!!早く阿本選手を回収してください!!天田選手も攻撃をやめてください!!』
「―――――っ!?・・・・・・・・・・・・、チッ・・・」
音量を最大まで上げた実況の声に制止を受け、雪姫はハッと我に返った―――ような気分になった。
変な言い回しをしたのは、別に特別な意味があってのことではない。事実、雪姫は我を忘れて真牙に暴行を加え続けていたわけではなく、あれもまた彼女の意識下の行動だったのだ。
しかし、それでも自分の荒んだ攻撃性は醜くて、雪姫は震える口元で舌打ちを鳴らす。左手にベットリと付着した赤い液体を見て、雪姫は顔をしかめ、すぐに手をダラリと下げた。元々が他人の鼻血に触れただけとは思えない、おびただしい量の血液は、また今回も散々相手を痛めつけたことを示していた。
だが、いずれにせよ真牙では雪姫には全く届いていなかった。確かに同年代として見るのであれば彼は相当に優秀に違いない。けれど雪姫が求めるのは言い訳のつけられるたかが知れた相手ではない。中途半端な分析と中途半端な覚悟で、それでもと妥協して、もしかしたらと求めて、きっとだと手加減してやった。それなのに、土足のままあそこまで踏み込ませてやったのに、結局一撃たりとも浴びせられずに、あのザマだ。
「やっぱ、期待するだけ無駄だったわ」
唾でも吐くかのように刺々しい捨て台詞を残し、雪姫は既に開け放たれたゲートの方へと歩く。手に着いた血も凍らせて、剥がし去って、彼女に残る他人の痕跡は再びなにひとつなくなった。
通路に入ると、係の女子生徒が怯えた顔で近付いてきた。
なんの用かとも思ったが、そんな顔をしていても来たということは業務連絡のようなものなのだろう。
「あの・・・天田選手、この後のA、Bブロック最終試合の後は表彰式があるので荷物をまとめ終えたら第1アリーナの1番控え室に移動をお願いします」
「・・・・・・そう」
元話 episode3 sect80 “次は必ず”(2014/2/12)
episode3 sect81 “彼女の得たもの”(2017/2/14)
episode3 sect82 “愚者と者隠(隠者)”(2017/2/16)
episode3 sect83 “渇き”(2017/2/18)