episode3 sect25 ”キライナジンシュ”
5月20日、金曜日。早朝に弱い雨が降ったが、空はもうすっかり晴れていた。かれこれ晴れ日が続いているのは、頑張る学生たちへのプレゼントだったのかもしれない。
遂に、長く壮大なマンティオ学園の学内選抜戦も、最終日だ。
未だに萎えることのない熱気、活気、闘気は校内に溢れかえっている。世間が3日前に報道されたギリシャ騒動関連の話で暗くざわめき立っている中にあって、マンティオ学園の敷地にいる間だけはみんな明るく騒ぎ立てられるようだった。
5日目の日程としては、午前中、8時から11時までの間で残っている3回戦の計6試合が行われ、その次の試合からはすぐに4回戦となり、計8試合が行われてブロックベスト8が決定。しかし、4回戦終了から次の5回戦までは選手の休憩時間を確保するために30分の空白があり、そこからが5回戦、つまりブロックにおける準々決勝となる。1年生であればここに出られれば県大会が確定、2、3年生ならここを勝てば県大会が確定となる。
そして5回戦の最終試合が終わって1時間後からは準決勝、さらに1時間の休憩を挟んでからはA、Bブロックの決勝があり、続いてCブロックの決勝戦、そして最後の大取として午後9時半からがA、Bブロックの1位同士による真の決勝戦である。
ホームルームも終わり、特にクラスメートの試合があるわけでもないが、迅雷は第3アリーナに向かう。着いてみると、先にアリーナに来て席を取っていた千影がめざとく見つけて手を振ってきた。
「おーい、とっしー!こっちー」
真牙や他数名の男子と連れだってやって来た迅雷は、千影の横に腰掛けた。3回戦も終盤となって、Cブロックでは残るライセンス持ちの選手があと2人となっているが、それを抜きにしても依然として強い選手(選手というよりオマケの方が主役になっているパターンもあるようだが)が揃っている。
「えーっと・・・、紫宮さんが3試合目、涼が5試合目か」
スマートフォンで予め撮っておいた5日目の試合の日程表を確認して、迅雷は今後の予定をボンヤリと考えた。迅雷自身の試合もあることを考えれば、ウォーミングアップが被るせいで涼や慈音を打ち負かしたあのロボット(と知子)の試合を見るのは難しそうである。
●
第6試合までの結果をまとめると、全体的に生徒の多くが予想した通りの結果になる試合が多かった。A、Bブロックでも相変わらず強い生徒は飛び抜けて強いものだ。
Cブロックも例に漏れず予想の出来る試合が多かったようで、特に3試合目、5試合目などはライセンサーである紫宮愛貴や五味涼がが実力を遺憾なく発揮して堂々と突破しており、続く4回戦への橋架けも良く進んだ。
ただ、一番沸いた試合は何試合目だったかと聞かれると、第6試合だった。
というのも、前日に東雲慈音の結界魔法によって大破していた例のロボットのことだ。たったの1日で完璧に修復されただけでなく、まさかまさかの新装備を携えて再登場した『エグゾー』が想像以上の活躍を見せたからだ。
魔改造に魔改造を施してまさにキラーマシンと化した『エグゾー』は、もしかすればランク1程度であればライセンサーとも互角以上に渡り合えるだけの性能すら獲得しているかもしれない。
そして時刻は11時になった。
『さぁ、みなさん!ここからは4回戦になります!回を追うごとに苛烈さを増していくこの学内戦、4回戦ではどれほど熱い戦いが繰り広げられるのでしょうか!?そんな4回戦、Cブロックで初戦を彩る選手を紹介していきましょう!』
会場は意外にも静かだった。いや、決して人が少ないというわけではないし、むしろ観客の人数自体はなかなか多いくらいだ。ただ、その割には彼らの話声が妙に小さいといった方が適切だろう。自然と声を潜めるような感じになるのはいろいろ思うところがあるということだ。
しかし、選手紹介が終わって2人の少年少女が出てくると、声援というよりもブーイングコールのようなどよめきが沸き起こった。森の中で木々がざわめくような静かにうるさい声が充満する。
「わーお、すっごいブーイングね、カシラ。こりゃ期待に応えないとなぁ、カシラ」
ネガティブ一色な音の波を肌で感じつつ、ネビアは適当にストレッチをした。と言ってもこれはネビアに向けられたブーイングではない。むしろ彼女は、消極的な理由ながら、この会場にいるほぼ全ての生徒からの応援を獲得しているくらいだ。
期待に応えるというのは、つまりネビアの正面向かいに突っ立ってこの大ブーイングを一身に受けている少年を叩きのめすことを意味する。
「まだそんなことを本気で言っていられるなんて、お前も思っていた以上に馬鹿みたいだな。まぁ良いさ、10分もすれば泣いて謝りたくさせてやるよ」
自慢のショットガンを片手で弄びながら、界斗は愉快そうな声を出した。
何度話しても頭にくる話し方と言葉の使い方である。ネビアはまたうっすらと苛立ちを募らせながらも、どうにも短気でいけない自分を宥めて上っ面だけのニコニコ笑いを浮かべていた。気色悪いヤツの相手をするのだから、ネビアだって気色の悪い応対をしてやるくらいが具合良い。
・・・と考えて、ネビアは小さく「あ」と言って自分の頭を軽く小突いた。
「いっけね、そりゃ私が言えたことじゃなかったか、カシラ」
ついつい一般人の気持ちになってしまっていた。これからやることを思い出しておかしな気分になる。誤魔化すような乾いた笑い声を上げて、ネビアはもう一度界斗を見据えた。
ネビアの皮肉は聞いていないのか、相変わらずの薄ら笑いが口を開いてきた。
「また独り言か?ふん、まあいい。さて、じゃあ本当に5秒でぼくを殺れるのか、試してみれば良いじゃないか」
「ん?あぁ、ううん?そんなすぐに終わらせてあげるわけないでしょ?カシラ。この時間は精々一緒に楽しみましょうよ、カシラ」
今度こそ、ネビアは見ているクラスメートたちも引くかもしれないほど黒い笑みを浮かべた。面白いから10分で泣かせてやっても良い。
大地の声が2人に届く。
『えぇ、両選手共に試合前のご挨拶は終わったようですね!恨みつらみは拳で語らいましょう!それでは両者、アーユーレディー?』
界斗が暗く嗤い、ネビアがしれっと笑う。
『試合開始ィ!』
○
さて、試合は始まったのだが、ネビアは敢えて恒例の『目からビーム』は撃たなかった。恐らく撃っていたら気分任せに界斗を吹き飛ばしていただろうからだ。そんなことで気絶されたらなにも面白くない。
だからまず、手始めにネビアはこうしてやることにした。
「―――――なにを考えているんだ?お前」
「んー?ふふん、さぁ?カシラ。たまには私の考えていることについて想像でもしてみれば良いじゃない、カシラ」
ネビアが取ったその常軌を逸した行動に界斗は愕然として、銃口を向けたまま撃つこともせずに固まっていた。
そう、ネビアは、両手をゆらりと広げて界斗の方にゆっくりと歩き始めたのだ。
それを見て固まったのはもはや界斗だけではなかった。ネビアを応援すべく集まった1年3組のみなが、界斗の応援に渋々集まってきた1年1組のみなが、この試合を恐る恐る見に来た生徒のみなが、彼女のその異常な行動に呆然としていた。
馬鹿だ。馬鹿だとしか言いようがない。銃を持った相手に、撃てと言わんばかりに悠々と手を広げて歩み寄るなど、まともな考えではない。
弾はペイント弾とはいえ、痛覚魔法付きの特殊ペイント弾だ。ショットガンなんかでそんな弾を叩きつけられて平気なはずがないのに。
そんなことくらい分かっているはずなのに、しかし、ネビアは余裕の笑みを浮かべて歩き続ける。
「さぁ、ほーら、撃たないの?カシラ。それとも撃てないのかにゃん?カシラ」
「・・・このアマ」
発砲音。
放たれた散弾は広がる。
無防備を晒した相手に発砲するのは界斗が楽しいと感じるシチュエーションではないので、彼は初手から既に嫌悪の顔をしていた。
しかし同時に思考は高速化する。もしかしたらなにか撃たれること自体に反撃策があるのかもしれない。例えば、当たった弾を跳ね返す、とか。界斗の懸念に従って、放たれた弾は「両手を広げたネビア」という広い広い的の、その端、掌を撃ち抜くのみに留まった。
そして、結局ペイント弾はネビアの褐色の柔肌に当たって、ピンク色に弾けた。
その瞬間、ネビアの手には激痛が走る―――――。
「・・・は?」
はずだ。
それなのに、なぜだ?なぜ、どうして、どうやって。
「は、はは、痛くないのか・・・?やせ我慢は良くないな」
今までの試合で、どんなに界斗の射撃を耐え抜いた生徒も、最初の被弾から痛みに表情を引きつらせていた。あの鋭い痛みは界斗もどの程度なのか知っている。とてもではないが、痛くないなんて、そんなはずがない。
それなのに、ネビアは特殊ペイント弾を受けたというのに、表情を一切変えなかった。
ニコニコ、ニヤニヤと界斗を小馬鹿にした笑顔を浮かべ続けている。
「うん、これっぽっちも痛くないわね、カシラ。ホラ、もう終わり?カシラ」
一歩、また一歩と、ネビアはまるで撃たれるのを待っているようなゆったりとした歩調で近付いてくる。
「フン、随分となめてるなぁ、お前・・・」
白々しく冷静な普段の界斗の態度が少し狂った。歯軋りをして彼は3発の銃弾をばらまいた。
1発はネビアのもう一方の手を、もう1発はネビアの左足、そして3発目は右足を掠めて、ピンク色の液体をぶちまけた。
掠め方も、可能な限り面積が広く当たるようにしてやった。一気にここまで当てれば少しは痛がるはずだと。
そう、思っていたのに、そのはず―――だったのに。まただ。
「ふふん♪」
「な、なんなんだお前は!気持ち悪いな!」
「うん、知ってる、カシラ。私もそう思うわよ?カシラ」
「こ、このッ!」
さらに1発。まだ足りない。だからもう一発。いやまだ。2発、3発―――――。
もう何発浴びせたのだろう。
しかし、ネビアの足は止まらない。
しかしネビアの薄っぺらなニッコリ笑いは消えない。
まるで今相手をしている存在が人間ではないなにかにすら思えてきて、途端、得体の知れない不快感で胃が焼け付き、謎の圧迫感と恐怖で界斗は一歩後退した。
「な、なんなんだよ、なんなんだよお前は!?なんで痛がらないんだ!?」
「いやぁ、実はさすがにちょっと痛いけど・・・、まぁそれでもねー、カシラ。鉛弾ブチ込まれて風穴空けられたのと比べればどうってことないわよねぇ、カシラ」
ネビアの声は、小さく低く艶やかに、界斗の耳だけに届けられていた。
ヘラヘラと歩み寄ってくる目の前の少女に、今度こそ界斗は本当に戦慄した。だって、おかしい。
今、彼女はなんと言ったのか?理解不能、解釈放棄。
また考えることをサボっているらしい界斗をネビアは冷ややかに嗤う。
(あ、あれはなんなんだ!?鉛弾?風穴!?ふざけるな!?なんでそんなやつが生きてこんなところにいるんだよ!)
「ん?なに、弾切れ?カシラ。それとも、私が怖い?カシラ」
気付けば、四肢をピンクで汚くしたネビアは界斗の手前10mまで来ていた。
「こ、怖・・・?なめるなッ、馬鹿にするなッ、ふざけるなッ!!ぼくは―――!!」
乱射。界斗はひたすらに、ネビアの体を縁取るように散弾を撃ちまくった。それは半ばパニックだったように見えた。動揺している事実を認めたくない界斗の意地が、無理に冷静を気取るせいでかえって弾をネビアの体の中心に直撃させることを不可能としていたのかもしれない。
そして、その選択は結局、回り回って彼の精神を追い詰める要因になっていた。
●
恐怖?
それは人に与えるだけのものだと、そう思っていたさ。
今日、この日、あの少女―――――いや、化物と出会うまでは。
ぼくは、ぼくの心の充足を妨げるものが嫌いだ。ぼくを脅かすな、ぼくを見下ろすな。
ぼくは、ぼく以上の存在の全てを否定する。
●
「み、認めるか認めるか・・・!認めないぞ、絶対に!!」
「は、ははは!か、痒い痒い、ひっはは!ほらほら、あと10歩でゴールよ?カシラ!あはは!」
全身にペイント弾を受けながら、なおも元気に笑い続けるネビアが、いよいよ界斗の目の前に迫った。
どれだけ止めたくても止められない。まるで津波が意志を持って、敢えてジワリジワリと歩み寄ってくるかのようだ。受け入れがたい運命に抗う界斗はあまりにもちっぽけな自分を痛感させられるのに、彼の傲慢がそれを許さずコンフリクト。
「・・・い、嫌だ・・・来るな!」
さらに乱射。もうショットガンの方が先に悲鳴を上げるのではないかと思うほど、界斗はネビアに立て続けに散弾を浴びせかけた。リロードは銃が勝手にしてくれる。だから弾が切れることはまずない。自分はひたすらに撃ち続ければ良い。
否定、否定否定。否定を否定。
「なんで、なんでだよぉ!なんでなんだ!!お前はいったいなんなんだよぉっ!!」
「私ぃ?そうねぇ―――」
―――もうこんなのは人間ではない。そうであってたまるものか。
界斗は半ば確信を持っていた。そもそも、痛みを感じなくたって、これだけのペイント弾に身を打たれれば衝撃で全身が腫れ上がるくらいにダメージがあるはずなのに、ネビアにはそれすらない。
「実はターミネーターなんだよね―――」
「・・・は?」
急に真面目な顔になって突飛もないことを言い出したネビアに、界斗はまた思考停止する。ただ、仮に彼女の中身が実は『エグゾー』のような金属の塊だったなら・・・。
「とでも言ったら喜んでくれんのかな?カシラ」
まるでネビアは焦って方向も見つけられない界斗の心をアメ玉のように口で転がすかのようだ。
良いように遊ばれた界斗は瞳孔を開き、殺意さえ込めて声だけを猛らせた。
「冗談を聞きたいんじゃない!!」
「人間だけど、なにか?カシラ」
満足のいく回答をしてやってから、その一言と共にネビアは大きく一歩を踏み込んだ。
まるで喉元に噛みつくかのような姿勢で迫ってきた自称人間から離れようと、界斗は後ろに飛び退いた。唐突な接近で精神が揺れる。
「あひ、ひぃぃッ!?」
―――駄目だ。馬鹿げている。こんな生き物が「人間」であってたまるものか。
何度も何度も人間ではないと反芻する。もはや心でしかネビアを罵ることも出来ない。罵りさえ、負け犬の遠吠え、とふりがなを振られて終わりそうだ。
界斗は知らず知らずのうちに、明確にネビアに対して恐怖を覚えていた。それはもう、自己暗示で消せるような小さな恐れではなく、鼻先の獅子が牙を剥いて荒々しく呼吸をしているかのような、圧倒的な存在感を持つ戦慄である。否定する傲慢は獅子に食い殺された。
5m下がれば、ネビアはまたその距離をゆっくりと詰めてくる。
自分より拳一つ分は背が低かったはずの少女が、今は遙かに巨大ななにかに見えた。
そしてまた、ネビアは腰の引けた界斗に追いつく。
「時計見てみな。10分たった、カシラ。どう、今の気持ち?カシラ」
「は・・・ぁ?」
目尻の熱に気が付いて、自身の発言がフラッシュバックする。長針が60度回るうちになにもかもが瓦解していた。逆上する。怖いから怒る。
「く、くく来るな!!化物が!」
ショットガンを握った腕を必死に持ち上げて、界斗はネビアの胸に銃口を押し当てた。
もう彼の精神は完全に崩壊していた。恐怖も、焦りも、認めるもなにも、感情の情報が多すぎてなにかを感じる心が痺れていた。終わりだった。
だからもう、彼のスタンスなどというものはとうに存在しなかった。
引き金を引く指にはなんの躊躇いもなかった。いや、少し違う。迷うという選択肢自体が既に存在しなかったのであり、まずそこに界斗の理性も意志も存在しなかった。恐怖で剥き出しになった、ただの本能だ。
「あァァァァァァ!!」
絶叫と共に、ショットガンが火を噴いた。
胸に接射を受け、さしものネビアも大きく吹き飛ばされる。
ドシャリと生の肉体が硬い床に打ちつけられる音がして、なぜだか界斗は自然と笑いが込み上げてきた。界斗という人間の根底は変わらず、人が自らの銃弾で倒れ伏す音に興奮するのだろう。
「は、はは、はははは!!はは、はははっ!!」
狂ったように死体撃ち。正気を失った界斗の放つ大量のペイント弾の雨は全て直撃し、ネビアの体が跳ねた。
彼の凶行に会場がざわめいた。あの至近で心臓に強烈な衝撃を与えながら、さらに床に肢体を投げ出したネビアに銃弾を撃ち込み続けるなど、常軌を逸している。
しかし、やがて弾は止んだ。
カチカチ、と、トリガーが空しい音を立てている。在庫含め、完全に弾切れのようだった。この試合だけでも300発分ほどのペイント弾が支給されていたはずだったが、撃ちきってしまった。
手応えをすかす指先の感触が界斗の精神を呼び戻した。眼前にはピンク色の液溜まり。
「はは・・・。弾切れか、はぁ、はぁ・・・」
狂笑を止め、銃を床に落とした界斗は力なく余韻の笑いに沈んでいた。
なんにせよ、これで自分は勝ちのはずだ。最後の最後に目の前でインクの海に沈んでいるこの女は馬鹿だったのだ。脅すだけ脅して、勝てる試合を逃した。
誰も彼もが騒然と静まりかえっているが、知ったことか。もう頭の中が真っ白になって、そういえば自分でもネビアになにをしたのか良く覚えていない。
「・・・あー、ふぅ、カシラ」
「・・・へ?」
むくりと上半身を起こして、ネビアはまるで寝起きのように頭を掻いた。
全身をペイントまみれにして真っピンク色の彼女は、隙間に除く青や褐色でどこかサイケデリックな色合いを見せている。それは果てしない暴力の結果だというのに、緩慢でどこか間の抜けた仕草のせいで全くそうだったと感じさせない。言うなれば、なにかのテレビ番組で無茶なイタズラをされた芸人みたいである。
「うへぇ、ベットベトで気持ち悪いぃ・・・、カシラ」
簡単な水魔法でバケツ1杯分ほどの水を生成して宙に浮かせ、ネビアはその中に頭を突っ込む。それから両手でわしゃわしゃと顔や髪を洗い始め、初めは透明だった水の球体がピンク色に染まる。
「ぷはっ。うへ、まだ残ってるかも・・・カシラ」
まぁそれは後で良いか、とネビアは割り切った。インクが水溶性だというだけでもありがたい話である。
ブンブンと頭を振って水を払ってから、ネビアはその間もずっと口を開けて間抜けな顔をしている界斗を見た。
「やっほう、気は済んだ?カシラ。にしてもアレね、あのペイント弾、魔法自体の痛みって1発分は10秒くらいで効果切れるのね、カシラ」
「あ、え・・・?」
「ん?おーい、聞いてるー?カシラ」
可愛らしく小首を傾げたり、界斗に手を振ったりしてみるネビアだったが、どうやら反応が乏しいのは界斗だけではなかった。奇しくも、今は界斗が一般に同化して、ネビアが浮いてしまっている。
「ああっと・・・こりゃちょっとやりすぎたかな・・・?カシラ。まあいいや、もう折れてるみたいだし、終わらせちゃおう、カシラ」
スタスタと、先ほどまでとは違い、ネビアは早足に界斗に歩み寄った。まだ試合時間は少し残っているが、心が折れたやつを虐めてもどうせ面白くない。壊れた玩具は捨ててしまえば良い。
そして鼻先まで辿り着いてから、彼女は膝が自分の胸につくくらい足を上げ、そのまま足裏を界斗の胸板にぺたりと当てた。
「さっきのはさすがに効いたからね、お返しよ、カシラ」
「あ、え、え?えげばっ」
吹っ飛んで床をだらしなく転がる界斗を見下ろして、ネビアは一瞬だけ心の底から愉快げな笑みを浮かべた。今の感触からして、胸骨が折れたのだろう。仕返しにはちょうど良いはずだ。
絶叫し、胸を押さえてのたうち回る界斗。見るも無惨とはこのことだろう。久方ぶりの快楽に鬱憤も透き通るように晴れた。
「ごめーんね、カシラ。ちょっと張り切っちゃった、カシラ」
ゲンコツと舌出しで小悪魔っぽくキメて、ネビアの勝利は確定した。
●
迅雷が次の試合の呼び出しを受けて控え室から通路に出ると、担架を持ったオッサン2人が大慌てで、しかし丁寧に彼の前を早歩きで通り過ぎていった。
その担架の上には、控え室のモニターから見ていただけでは想像も付かないほどボロカスにされた界斗が乗せられていた。なにか譫言のように「ばけもの」とか言っている。痛みのせいなのか目の焦点も合っていない。
「テンプレのかませかよ・・・。にしても、ネビアも随分とメッタンコにしたもんだな。あー、スッキリした」
自分で手を下すことは叶わなかったものの、界斗の無様で痛々しい姿を見た迅雷は晴れやかな顔で伸びを1つした。とても迅雷では途中で躊躇うほどのクオリティーだったので彼女には今度飯でも奢ってやろうかな、などとも考える。
そんな彼の隣では、いつもの誘導係の少女が苦笑していた。
「あはは・・・、あんないじめっ子気質の藤沼さんをイジメ倒すなんてネビアさんって実は超ドSの才能あるんですかねぇ・・・?スッキリしたような、逆にあの人が可哀想になるというか・・・」
それなりにネビアの明るい面を見て憧れていた彼女だったので、先ほどのネビアの意地の悪い戦闘スタイルには驚いていた。もしかしてネビアの本来人に見せてはいけない一面を見てしまったのではないかとさえ感じられたのだが、しかしあの少女の本質は付き合いの浅い彼女に判断出来るものではない。
ただ、本当のネビアという人物が自分の知るあの明朗快活な女の子であると信じたいのが、端役な少女の本心である。
「まぁ、確かにあそこまでだとあんな奴でも可哀想にはなるけど、こんくらいで良かったんじゃないの?そんじゃあ、俺もひと仕事こなさねぇとな。なーに、楽勝だっての」
ネビアが予想を変な方向で振り切ってしまったせいで騒然としているであろう会場を、本来あるべきテンションとムードに押し戻すのが迅雷の仕事だ。『雷神』を背負い、迅雷は右手の拳の左手の掌で打ち鳴らし、やる気に満ちた笑みを浮かべた。
元話 episode3 sect64 “学内戦4日目終了”(2017/1/15)
episode3 sect65 “Terrorizing Approach , with a Good Good Smile”(2017/1/17)
episode3 sect66 ”報復”(2017/1/19)