episode3 sect14 ”二兎を追う者は”
5月17日、火曜日。マンティオ学園含め全国の高校が高総戦の学内選抜を初めて2日目になるところだ。
この日からは学内戦の第1試合が8時から始まり、それに合わせて登校時間もそれなりに早められていた。
その登校時間というのが朝の7時半。平常時より1時間程度は早まっているといったところか。
そして神代家に轟く絶望感溢れる叫び声。
「あああああ!!」
「んん・・・、とっしーうるさいよー。今何時だと思ってんの?」
心地よく眠っていたところのすぐ隣で絶叫され、千影は耳を塞ぎ、頭まで布団をかぶった。
「7時15分だと思います」
顔面蒼白、意気消沈。悲愴感で一色に塗りつぶされた弱々しい声で迅雷は現在の時刻を読み上げた。
しかしながら、時刻を読み上げようがなんだろうが、秒針も分針も止まってはくれない。
なにかの間違いだと信じたかったが、目覚まし時計も部屋の壁掛け時計もスマホのホーム画面のデジタル時計も机に置いてあるスポーツ用の腕時計も、どれを見ても全てしっかりきっちり7時15分。
いや、今16分になった。
「うわあああああああ!!」
「だからうるさいよー・・・むにゃ」
また文句を言われたが、もう千影に構ってやっている暇などない。
目覚まし時計のアラームの設定を変え忘れ、いつも通りに7時にアラーム。7時00分の時点で既に間に合うか間に合わないかの瀬戸際なのに、さらにそこから眠気に負けて3回ほどアラームをスルーして15分が経過。
家から学校までは速歩きで17,8分ほど。ダッシュで10分と少し。しかし、まず出発の準備―――――朝食やトイレ、歯磨きを飛ばしたとしても、着替えなりなんなり身嗜みを最低限に整えねばならない。そうすると、準備で早くとも5分ほど。
「詰んでるゥゥ・・・ッ!!」
泣きそうになりながら迅雷は部屋を飛び出して、階段を転げ落ちるかのように駆け下りる。
まずは昨晩洗濯しておいた学校のジャージを取りに庭に出る。あいにくの生乾きだったが、仕方がない。
リビングで着替えを済ませて、今度は洗面所に駆け込む。焦ったせいで蛇口を力一杯回し、急に噴き出した水に驚いて肝を冷やす。それから雑に顔を洗い、水で少し髪を濡らして、これまたいつもの倍は適当にブラッシング。
洗面台の端に小物として置いてある時計を見ると7時19分。
奇怪な叫び声を上げながら迅雷は階段を駆け上がって再び自室に飛び込み、バッグを取って部屋を飛び出そうとしたところで、千影に服の裾を掴まれた。迅雷は思わぬ妨害に動転しそうになる。
「ちょっと待って。ボクもいっしょにいくー」
「やめろ、放せ!こんなところで遅刻するわけにはいかないんだ!!」
そもそもどうして迅雷はこんなにも遅刻することを嫌がっているのかというと、それは別に普段から絶対に遅刻はしたくないなどと殊勝な心がけをしているわけではない。ではなぜかというと、時期が時期なのだ。
学内戦2日目からいきなり遅刻なんてすれば、1回戦を勝ち進めたからといって余裕をこいていると思われてしまう。まして迅雷はライセンサーなので、なおさら感じが悪い風に見えてしまう。
大袈裟なことを言っているように思うかもしれないが、事実そのような大袈裟なことを言い出しかねないほど今のマンティオ学園は本気で真剣と書いてマジマジのマジなのである。それは生徒も教師も同じだ。
特に実際に試合に出る選手勢には一際高い意識が求められるので、迅雷がこのタイミングで遅刻でもすれば白い目で見られること請け合いである。酷ければ後ろ指を指されてヒソヒソと良からぬ事まで言われかねない。
それに加え、大体どうして朝一番から学校に千影を連れて行かねばならないのか。確かにこの期間は最初から最後まで一般客の来校は自由となるが、だからといってそれはさすがに早すぎる。昨日来校の許可をもぎ取れたことで調子に乗っているのではないだろうか。
不安と焦燥感に駆られて汗を滴らせる迅雷を見つめて、千影は彼の服を掴む手の反対の手の指を3本立てた。
「3分でいいから待ってよ、とっしー。大丈夫、学校まではボクが運んであげるから!」
「状況が想像出来ないから嫌だ!頼むから俺を行かせてくれ!」
「やかましい!信じる者は救われるんだよ!」
「なんの宗教だよ!?」
頑として服を掴む手を解かない千影。怪しさは拭えなかったが、こうなったらもうヤケクソだと割り切って、迅雷は千影に賭けてみることにした。
●
3分後。宣言通りに準備を終えた千影と共に迅雷は玄関を出た。ドタバタ騒ぎで寝ていられず起きだしてきたパジャマ姿の直華と朝食作りかけでエプロン姿の真名が手を振って見送りをしてくれているのだが、「行ってきます」とそちらに目を向けてやる時間すら危うい。
「じゃあとっしー、準備は―――――」
「はい!オーケーです!さあ!」
「お、おおう・・・?」
迅雷の頼み込む態度はもはや必死な催促でしかなく、その勢いに気圧されて千影は後ずさった。千影の言うことを聞いて貴重な登校時間をわざわざ3分もくれてやったのだから、迅雷が千影に期待するリターンの大きさはそれ相応に大きいらしい。
「よし、じゃあとっしー、そのまま立ってて」
「はい!」
「ぎゅー」
敬礼をして突っ立つ迅雷の背中に千影は飛びついて、彼の胸のあたりまで腕を回してがっちりホールドした。
急に抱きつかれたので迅雷は俄に怪しい気持ちになったのだが、今は千影に全てを任せるしかないので敢えてなにも言わなかった。ついでに迅雷が思ったのは、せっかく背中に女の子が抱きついているというのに、それっぽい感触が全くないのが悲しいということだ。
迅雷に抱きついた千影は、それから背中に魔力を集中させる。
「いくよ、とっしー!加速Gには我慢してね!」
「了か、いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ―――――!?」
迅雷が言葉を言い切るより早く、千影の背中の『サイクロン』が発動した。
暴風で土埃の舞う玄関先で、直華は前人未踏の大加速でドップラー現象と共に一瞬で遙か彼方まで飛び去った兄を唖然としつつ見送った。
「ほえー、は、はやい・・・」
○
速い。
どれくらい速いかというと、かの赤い彗星も「冗談ではない!」と言ってくれそうな速さである。よく分からない。つまりそれくらい速い。
眼下を飛び去っていく家々の屋根は、スピードに目が追いつかず、全部が一繋がりになっているようにさえ見える。
音も匂いも置き去りにして、何度も竜巻に背を押されながら空を飛ぶ。
「おあああああああああ!?」
「とっしー、学校見えたよ」
ものの1分ほどで学校が見えてきた。なんという超スピード。千影の思わぬ大活躍に迅雷は歓喜の声を上げた。
「わーい!さすが《神速》!神様仏様千影様ー!」
しかし、それも束の間の喜びであった。
「じゃあ降りるよー」
「おう!」
さて、考えてみよう。この速度で、空中である。そして着地。今の迅雷たちの状況は、要は飛行機が直前まで減速をせず、しかも滑走路もなしで着陸するようなものである。
新幹線並みの速度で迫ってくる地面を見て、迅雷はやっと今自分の立たされている危機的状況に気が付いた。
「ま、待て待て!待って、ねぇ!死ぬ!これはマジ死―――――」
「『サイクロン』!」
「ぐぼぇっ!?」
突然腹に強烈な風圧、具体的には直前までの落下速度を一発で相殺するほどの風圧を受けて、迅雷は汚い呻き声を出した。
そして一方の千影は迅雷を掴んだまま、ふわりと丁寧にマンティオ学園の校門前に着地した。
「さ、とっしー。到着したよ!急げ急げー!」
「ぉ、ぉぅ・・・」
病気を疑うほど顔色が悪くなった迅雷の背中を、千影は容赦なく押す。
確かに急がなければならない。時刻も7時26分で、あと4分で教室に入れなければ遅刻だ。急がなければならないのだが、今の迅雷のバイタルは既に小走りすら億劫になるグロッキー状態なので、千影がそんな彼を急かすのは相対的に鬼畜の所業だったりする。
最初は感動した千影の速度域だったが、その反動は明らかに人体が耐えうるものではなかったため、迅雷はもう絶対に千影タクシーは使うまいと心に決めた。信じる者は救われるなどという妄言はもう信じない。あれはむしろ悪魔の契約だ。おかげさまで内臓系がズタボロである。
フラフラヘロヘロと蹌踉めきながら、迅雷はなんとか昇降口で靴を上履きに履き替えて、階段を登っていく。千影はもうアリーナで席を取ると言ってそちらの方に行ってしまったのだが、それに返事をする元気はおろか、気にする元気すらもない。1階から2階への踊り場で一旦膝に手をついて呼吸を整えようとしたところ、荒い息が急に詰まって、苦くて熱いものが喉の奥から込み上げてきた。
「うっ」
迅雷は反射的に手で口元を押さえてその場に崩れ落ちた。10秒ほどの呼吸困難を耐え、なんとか吐き気をやり過ごすことが出来た。危なく朝食すら入っていない空っぽの胃の中身をぶちまけるところだった。
ギョッとした他の生徒たちが迅雷の周りを綺麗に避けて歩いて行くが、気にかけてくれるような知り合いもいなかった。
迅雷はまた吐き気のピークがこないかとビクビクしながら小刻みな呼吸をしつつ、手すりに掴まって力なく立ち上がり、残り半分となった階段を登り切った。
そしてそのまま壁に手をつきながらやっとの思いで教室に辿り着き、ドアを開けた。
「つ、着いた・・・、間に合った・・・」
目だけを動かして教室の時計を見ると、あと30秒で遅刻であった。間に合ったことにだけは千影に感謝をしつつ自分の席に向かおうとした迅雷だったが、そんな彼の背後から忍び寄る影が1つ。
「よう!」
トイレから戻ってきた真牙は、いつになく遅い登校の親友を見つけ、不意打ちで背中に平手打ちを入れてやった。
「―――あっ」
●
「千影たん、聞いたか!ぶっひゃははは!」
「やれやれ、とっしーも貧弱だなぁ」
「笑い事じゃねぇんだよ!」
「まぁまぁ、オレのおかげでスッキリしたんだろぉ???」
親友の手でトドメを刺された迅雷は、出すものを出し切って多少顔色が良くなっていた。なんとか遅刻こそ免れたのだが、それにしたって代償が重すぎやしないだろうか。
今はもうアリーナに移動して観客席である。千影と合流するや否や、真牙は千影に迅雷の醜態を曝露するわ2人して爆笑するわでもう我慢ならない。
「お前ら・・・!」
本当なら怒りたいのに、悲しいのが迅雷は今のところ千影と真牙の両方に借りがあるということだ。千影は知っての通り迅雷を学校に送り届け、真牙は迅雷がトイレで呻いている間に迅雷の出席を本人に代わって真波に伝えておいてくれたのだ。
いよいよやるせなくなって、迅雷は言い訳のようにぼやく。
「大体、千影がおかしいんだよ。人間のスピードじゃないだろあれは」
「頼ったくせに後になって文句を垂れるなんて情けないわねー、迅雷、カシラ」
頭の上から降ってくるネビアのからかい口調。あまりに正論なので、言い訳すら完封された迅雷はなおさら悲しくなって両手で顔を覆った。
「・・・でも、みんなも一度体験すれば分かってくれるはず・・・」
などと懲りずに呻く迅雷。どんなに格好悪くても、決して迅雷が貧弱だったわけではないのだ。
○
時刻も8時になり、学内戦2日目の第1試合が始まった。
3組からは秋野順平が出場し、対するは同じく特殊魔法科である5組の女子生徒だった。
女の子相手に紳士になってしまって、初めは攻撃を躊躇する様子を見せた順平だったが、解説席から担任の黄色い声援もあって最終的には本気を出した。しかし、出す分には出したのだが、思っていた以上に相手が強く、接戦の末に敗北を喫したのだった。
そして試合が終了して、例に漏れず敗者を慰めるべく温かく歓迎するためにアリーナの外へ移動して、てんやわんやの後は各自自由行動である。
引き続き試合を見るも良し、教室で駄弁るも良し。まぁ、駄弁っていても話題は高総戦関係ばかりなのだろうけれど。
そして。
「うぅ・・・腹減った・・・。早く飯食わないと死ぬ・・・」
「ボ、ボクももう腹ぺこ・・・」
ご飯を食べるのも良し。
朝食抜きで家を飛び出してきた迅雷と千影は、あまりの空腹にへこんだ腹を押さえながら食堂に向かった。応援合戦で声を張ったこともあり、空腹感は疲労感に後押しされていよいよ増すばかり。それに加えて迅雷は一度吐いているのでさらに空腹。
端から見てもそのひもじさが分かるほどの2人が、3つあるうちで一番大きい方の学食に入ると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
「せ、席が・・・」
「ない・・・だと・・・?」
いつもより早い登校時間もあって朝食を抜いてきた生徒も多かったらしく、朝だというのに食堂は満席だった。もしかすると授業で教室に縛り付けられることもなく、自由な時間に自由にものを食べられるこの期間だから、なおさらなのかもしれない。
そして、よく見ると教師もそこかしこで食事を摂っていた。きっと彼らも出勤が早かったために、こうして今から朝食を食べることを余儀なくされていたのだろう。
「「ど、どうする?」」
焦燥と空腹と疲労で真っ青な顔をした迅雷は千影の方を見下ろして、千影もまた青い顔で迅雷を見上げる。
「そ、そうだ、購買は?」
「9時開店」
「待てないね」
「あぁ。待てないな」
もう言葉は要らなかった。
他人の優雅なモーニングなど知ったことではない。いや、むしろ恨めしい。もうこの2人に、皿が乗ったお盆を持ったまま席が空くのを突っ立って待つという選択肢などないのである。2人は息の合った見事なコンビネーションでそろそろ食べ終わりそうな2人組を立ち退かせ、強引に席を確保したのだった。
●
『Aブロック、2日目第2試合ですよ!さぁみんな!燃え上がれ!!ファイヤー!』
大歓声が、まさしく炎上する。観客の数も今日このAブロックでは第2試合にして、もうこれ以上集まる試合もないだろう。いや、もしかすると全ブロック合わせて見てもそうかもしれない。
暑苦しい実況は、これから登場する選手にちなんだ入場コールのようなものである。
「さあ!お待ちかね、現在の校内実力ランキングは暫定3位!焔煌熾選手ゥ!」
Aブロック実況担当の大谷由依のコールと共にゲートが開き、煌熾はフィールドに歩み出る。去年からしばしば前に出る機会もあったので、目立つのにも少しは慣れてきた彼は爆ぜるような歓迎を心地よく感じた。
1年生に負けようがなにをしようが、煌熾が堂々と彼らしく在る限り、煌熾へのみなの期待と尊敬が薄まることはない。これが彼の築いてきた人望というものなのだろう。
「そう考えると、嬉しいことだな。だから頑張れるってことなんだろうな」
ぐるりと会場全体に手を振れば、さっそくこの試合のムードは煌熾一色になる。
2,3年生の試合ともなれば、出てくる相手も大概がライセンス持ちになる。そうでなくとも、またはそれが一般魔法科の学生だからといって、いずれにせよ特殊な戦術を使う相手がくる。手抜きなどあり得ない。
『さぁ、対するはマグネットマン三嶋!今年はどんなパフォーマンスを見せてくれるのでしょうか!今からドキドキワクワクですね!』
煌熾の初戦の相手は、3年生の三嶋政だ。ランク2で、黄色魔力―――――ただし、それも雷属性の亜種である磁力属性の魔力を操る、学内戦では3年連続出場の常連生徒だ。変幻自在な攻防は、確実に相手を追い詰められるだけの力がある。
「初戦から・・・相手にとって不足なしって感じですね」
「謙遜はするもんじゃないぜ。まぁ勝てそうなら勝たせてもらうつもりだけどな」
体格的にも中肉中背で、茶髪と服の着こなしがヤンキーっぽい政だが、その根っこはしっかりしていて、正々堂々とした人物だし、頭もキレる方である。煌熾が後れを取る可能性も、ゼロではあるまい。
『それでは、始めちゃいましょう!焔選手、三嶋選手、両者位置に着きましたか?イエスっ、では、試合開始!』
●
良い天気だ。洗濯物を干してから来れば良かった。
他に誰もいない屋上のベンチで仰向けになり、5月中旬の青く澄んだ空を見ながら、雪姫はそんなことを考えて溜息をついた。
1試合目は流れで仕方なく応援について行くことになったが、やはりとてもまともに見ていられた試合ではなかった。なんとも形容しがたい、強いて言うならば、つまらない試合だった。見ていて欠点しか見えてこないのは自分がひねくれているからなのか、それともあちらが素人丸出しだからなのか。
昨日1日過ごした感想も結局、「2年生も3年生もやはり大したことはない」というもので、試合を見るのにもほとほと飽き果てた雪姫はこうして屋上で1人、ぼんやりとしていたのである。それに、試合の結果もどうせ大きなアナウンスで聞こえてくるし、試合の様子の中継も各アリーナの外のモニターに大々的に映されているので、情報にも困らない。いよいよ、あんな熱気臭い人混みでイライラしながら座っている必要性を感じない。
頭の後ろで組んでいた腕が、血が止まって痺れてきた。腕を一旦頭の下から外して、代わりに腹の上にだらりと乗っける。いつもより少し早起きだったので、まだちょっとだけ眠気が残っている。
無駄に重い右腕をなんとなく持ち上げてみた。まだ包帯の取れない右手を空に重ねて眺める雪姫は、すぐに苛立たしげに右腕を床に投げ下ろした。
「・・・・・・」
やはり、あれは自分のあまり良くない癖なのだろう。『チュパカブラ』の巣の中で散々勝手に暴れた結果がこれである。
「まだ足りない。もっと先へ・・・」
目指すべき明確なものが見えない。きっと今の雪姫は、あの空にうっすらと漂う雲に向かって闇雲に手を伸ばしているだけなのだ。
焔煌熾も清水蓮太朗も、そこらの連中よりは断然マシではあったが、自分より弱かった。きっと、豊園萌生もそう差はない。実を言うと、入学した当初は噂に聞く彼らに密かな期待を持っていた。勝手に期待しておいて変ではあるが、あの日は裏切られたような気持ちになったものだ。
あの空に手を届かせられるのなら、それが階段だろうとはしごだろうと構わないというのに、それが与えられない。
「この戦いに勝ったらなにかが見える?その先になにがある?」
もう一度、右手を空に伸ばす。掴む空気はぬるく、もどかしいだけだった。
だから、やはり彼女が進むべき道は、初めに選んだその一本しかなかった。
期待なんて空しいだけだ。希望なんて虚しいだけだ。
そもそも、自分はいったい、なにに、なにを、どのように期待していたのだろうか。改めて思いだそうとしても、頭が痺れるだけで全く思い出せない。いや、本当は初めから思い出す思い出さないではなく、期待などしていなかったということなのかもしれない。
それこそ、期待している自分というものに期待したのか。
考えるだけで苛立つ。
「・・・あー、もういいや。そんなことはどうでもいいから。今は、強くなれるなら、それだけで良いんだし」
つまらないことにこだわっているようではなにも変わらないし、なにも変えられない。
『第9試合終了です!河村選手、堅実な勝利でした!!』
いつの間にやらとはこのことか。第9試合が終了したということは、もう昼の12時半ということになる。意外にも無為に多くの時間を潰してしまったらしい。
「・・・おなか空いたな。寝てただけなのに」
こんなにも長い時間をなにもせずただただ怠惰に過ごしたのなど、いつぶりだっただろうか。あげく腹を空かせて体を起こすなど、なんて自堕落なのだろう。
今日は作るのが面倒だったので弁当がない。あまり気は進まないが、食堂に行くしかあるまい。
『第10試合、選手入場です!女子大好きでとにかく女の子大好き!それ以上の説明は要らない!阿本真牙選手!!』
なんだか失礼極まりないような、的を射ているような、大地の入場コールが聞こえてきた。
「そういえば、そうだったっけ」
だが、別に興味もないし、応援だって義務ではない。
当然、応援に現れない雪姫を探して誰かが屋上までやってくることだってない。
当初の予定通りに食堂に向かうため、雪姫はベンチから立ち上がってゆったりと歩き、階段の踊り場へと繋がるドアに向かう。
しかし、ドアノブに手をかけようとしたところで、その向こうから人の気配を感じ、1歩後ろに下がった。
直後、楽しげに会話をする男女合わせて5人くらいが、もし扉の向こうに人がいたらなんて考えていないような勢いでドアを開けて出てきた。
雪姫は気付いていたから良かったものの、他の人だったら今頃鼻血を垂らしていただろう。呆れた目で雪姫はその5人組を眺めた。
「でさ、またあいつが・・・って、あ、天田さん!?」
「わわっ、本物!?」
(本物もクソもあるか・・・)
雪姫の顔を見るなり驚きを露わにする名前も知らない生徒たち。一応、雪姫もジャージの腕部分のラインの色で彼らが1年生であることは分かったのだが、そもそも彼女にとって既にこの学校における学年の区別の価値などないに等しかったので、相手が上級生だったとしてもその対応は変わらない。
「・・・チッ」
自分が屋上にいたことがそんなに驚くようなことだったのか?雪姫は空腹を言い訳にして、いつものように冷たい舌打ちだけを残した。そのまま5人の生徒たちと入れ替わりにドアをくぐり、扉を閉める直前だった。
「感じ悪いよね、あの人」
構わず、雪姫はドアを閉じた。
●
「そいや!」
鋭く磨かれた鉄の塊が風を乗せて唸りを上げる。
手にかかる重みは、むしろこれこそ在るべき重量感であるとでも言うようで、鋒はともすれば指先よりも正確に触れたい場所に届いてくれるのだから、皮肉っぽくて面白い。
鋼と鋼がぶつかって火花を散らし、わずかな悦が余韻となる。
「お、受け止めたね!いいじゃん!」
試合の対戦相手は、剣技魔法コースの授業である程度見知っていて、少しは会話をしたこともある片手直剣使いの少女だ。
自分の振り下ろした大振りの一太刀を受け止められ、真牙はかえって嬉しそうな声を出す。別に止められたこと自体が嬉しいというわけではなく、対戦相手が女の子であることと、彼女がしっかりと頑張って自分に向かってきてくれていることが彼を楽しい気分にさせているのだ。
初回の授業でその剣の実力の一端を見せた真牙は、剣技魔法の授業などで模擬戦をするとなると敬遠されることも少なくなかったので、こうして勝負が成り立っているのも嬉しいのである。
「せやぁ!」
「おっと危ない!今の切り返しは良かったぜ!」
迅雷ほどではないにしろ、キレのある太刀筋。話では高校入学前から剣は好きでやっていたというので、さすがのものである。
刀の峰で攻撃を柔らかく受け止めて、少しの力で打ち払う。
少女はあらぬ方向に向けた力を受けて仰け反り、右膝の力が抜けて姿勢を大きく崩した。
「ならっ!これはどう!!」
少女は魔法を発動し、煙幕ならぬ炎幕を、自身と真牙の間で爆発させた。
しかし、これは下策だ。その火力は精々が見せかけに留まっていて、初めから目眩ましを目的として火を放ったことなど、真牙でなくとも分かってしまう。
「焦っちゃダメだぜ!右回り込み!」
右というのは、真牙から見た左である。
予想通りの方向から飛び込んできた斬撃を真牙は最小限のサイドステップで回避する。
「な、なんで・・・!?」
「炎で視界を奪ったら、あとは回り込むのが定石だよ。そこは良かったけど、イズミちゃんはなにかと裏のかき方が安直だぜ?」
炎を放った瞬間の姿勢から、常識的に考えれば偉澄が利き側の左に回り込んで斬りかかってくるであろうところだった。
だから、意表を突こうとして強引に反対の右側に跳んだ偉澄は、その一撃を予想されたことに驚愕していた。まさか真牙もエスパーではあるまいし、綺麗に予測しすぎている。
しかし、真牙はそんな彼女の心境を察したのか軽く説明をする。
「偉澄ちゃんはさっきから『普通と逆』を狙いすぎているんだよ。裏を混ぜるなら表も混ぜないと、今みたいに先読みされちゃうからね。こっからは気をつけてやってみような?」
「な、なるほど・・・」
指摘されて思い返してみると、まさにその通りであった。なんだかとても偉そうな事を言われているのだが、なぜか苛立ちを覚えない真牙の口調に、偉澄は思わずそんな風に返してしまった。
それこそ、剣のレクチャーを受けているかのようである。―――――というのも、実際真牙が意図してやっていることそのものだった。
筋の良い相手の育成に真牙がちょっとした面白みを感じていたところである。
しかし、指摘通りに立ち回りを直しても、真牙には刃の端が掠ることもない。斬撃の全てをスレスレで躱され、たまに混ぜる下段攻撃も刀を当てて弾かれ、サッパリ通用しない。
そのことにはさすがに苛ついてきた偉澄は、再び手の中で魔力を練って炎幕の準備をした。
「今度こそ―――――!」
どこからでも来いと言うような真牙の笑顔が炎の向こうに消えた。
今度は表を取るべきか、それともやはり裏を取るべきか。
(違う!)
180度も回転させるようでは、今まで通り単純なことに変わりはない。回すのなら90度刻みで。なんなら、回す角の選択肢も1つから2つに増やせば良い。それだけで、打つ手は圧倒的に増える。
(・・・上からなら!)
3mはある炎幕を飛び越えるために、膝をバネにして力と魔力を溜める。
しかし、偉澄がそのバネを伸ばしきることはなかった。
「ふっ―――――きゃあっ!?」
いざ飛び越えんとしたその瞬間、目の前の炎の壁から刀が飛び出して、反応する間隙すら与えずに偉澄の顎を峰で撫でた。
「ひ、ぅ?」
すこしでも体を動かせば、すぐそこにある冷たい感触は喉の内側に滑り込んでくるに違いない。
瞬く間に訪れた初めての死の恐怖だというのに、悲鳴も嗚咽も上げられず、偉澄は涙だけを浮かべた。
意識のなにもかもがその冷点に収束し、膀胱が弛緩するのが止められない。
『おおっと!遂に勝負ありィ!なんと阿本選手、なんの迷いもなく自ら炎の中に腕を突っ込むという豪快な戦術をとりました!』
実況と共に刀を下ろす真牙。
途端にその場に崩れ落ちてしまった偉澄に手を差し伸べて、ニッコリと笑って励ましの言葉を贈る。
「ちゃんと意表の突き方を考えてたみたいだったね。上とかだったらオレもちょっと驚いてたかもね」
「・・・うん」
「まぁ、考える時間がオレよりちょっとだけ長かったんだろな。そこだけ。ほら、立てる?掴まって?」
「・・・・・・ううん、それはちょっと・・・ムリぃ・・・!!」
脳にこびり付いて剥がれない、炎を吹き抜けた剣圧。あれが本物。あれが真牙が見せびらかすことをしない、彼の実力なのか、と。偉澄はただただ、その現実に恐怖と尊敬を覚えていた。ただ、ちょっとばかり恐怖の成分が多かったのはあった。
だがしかし、彼女が立てないといった理由はそこではない。
なぜか偉澄が自分の手を取ってくれないことに首を傾げた真牙は、直後にその緊急事態に顔を青くした。
この場合、真牙に責任はあるのだろうか。
「こ、これは・・・!」
「う・・・」
「・・・・・・おもらし系ヒロインゲット?」
その後退場するまでの短時間で真牙はもうなにをしたのかは分からないが、とにかく神懸かったフォローで偉澄の失禁を誰にも悟られないように細工をするという大仕事をしたのだった。
○
「いんやぁ、さっすがオレだよな。美しい刀捌き!もうキレッキレだよな!」
「自画自賛されるとムカつくな」
戻ってくるなり開口一番調子の良いことを言う真牙だったが、その言には一片の間違いもないくらい完璧に刀を使いこなしていた彼に言い返せる者もおらず、代表して迅雷が唇を噛んだ。
「まぁでも、さすがとしか言いようがなかったよな。あの遊びようは」
「うん、ひさしぶりにかっこよかったよ、真牙くん!」
「いえーぃ・・・って、あれ?2人ともなんか一言余計じゃね?」
真牙は迅雷と慈音にジト目を向けるのだが、迅雷は素知らぬふり、慈音に至ってはさすがというかなんというか、もはや悪気の欠片もない。
そんな、ひさしぶりに、格好良かった真牙だったが、やはり普段のヘラヘラした彼の印象と試合中の彼の印象とがあまりにもかけ離れすぎていたせいで、クラス全体が変な空気を出していた。彼の勝利を祝う準備は出来ているのに、肝心の祝われる本人が本人なのか怪しい。
「ねぇ!なんでみんな戸惑ってんの!?オレはオレでオレなのよ?ねぇ、胴上げしよう?」
その後、真牙は高く高く胴上げされ、為す術もなく地面に墜落したのだった。
元話 episode3 sect38 “快速!?千影便、の巻”(2016/12/1)
episode3 sect39 “Do I Know What I Expected ??”(2016/12/3)
episode3 sect40 “無駄”(2016/12/4)