episode9 sect41 ” Bite This Hand, Koothy ”
なんというか、吹っ切れたなー。
エルケーの胸中には、そんな、少し間抜けな感慨が去来した。
手負いの女の子相手に瞬殺されるとは、国の最重要施設の警備が、なんと情けない。
首相官邸の門扉は、警備員の死体もろともに蹴破られた。
「フン。この私の訪問を拒もうだなんて、良い度胸じゃない。・・・まぁ、死体に度胸試しもなにもないけど」
「街でも城でも大歓迎だったってのになァ」
「けど、ここだけ歓迎されないということは、ここにルニア様が来たら困るって意味なんじゃあ?結局、全ての死体はルシフェル・ウェネジアの支配下にあるんでしょう?ということは、どれだけ本人らしく振る舞っていようと、必ずどこかに奴の思惑はあるわけで」
エルケーの考察はもっともらしいが、必要以上の期待をすべきではないだろう。もし本当にルニアに来られて困るなら、こんなにあっさり突破を許すとは考えにくいからだ。それこそ、城に全軍を寄越した民連軍の一部は、ここの守りにつけていたって良かったのだ。
さて、初っ端から手荒な訪問にはなってしまったが、ルニアが首相官邸に来た理由は、ニルニーヤ城のときとは全く別だ。
故郷に帰って来て以来、ルニアは家族や親しかった人たちとの再会に淡い期待を抱いて、これ以下はないほど最低に残忍な仕打ちを受けてきた。もう、彼女の心にそういう期待は一切残っていない。
だが、未だ絶望の全容が見えないノヴィス・パラデーの中で、たったひとりだけ、感情を抜きに生存を期待出来る知己がいた。ビスディア民主連合が滅び、前首相のケルトス・ネイが殺害された結果、新生ビスディア技術特区の知事の座に就いた、クースィ・フーリィだ。
皇国と交渉して一定の自治権をもぎ取った現状が、よりにもよって皇国の中枢にいる者の手で操られた死体の実績というのは考えにくい。全くあり得ないとまでは言わない。ただ、それまでもがルシフェル・ウェネジアの自演だというなら、国益まで捨てる変態的な拘りだと感心してしまう。
民連軍の情報は皇国の手に落ち、親姉兄も皆殺し。当初の目的を悉く挫かれたルニアは、最後、人間界に帰る前にクースィと会って話をしたいがためにここに来た。
官邸の中にも警備は巡回していたが、紺とエルケーに守られたルニアに危害を加えられる者などいない。3人はあっさりと、首相の―――いまは「知事の」が正確だが、混乱の影響か未だ表記はかつてのままの―――執務室の前まで辿り着いた。
玄関は蹴破っておいていまさらな感じもあるが、言った通り、ルニアはここに戦いに来たわけではないのだ。それを示す意味では、やはり取り繕うのが正しい。
戸をノックすると、かすかに、中で誰かが息を呑むような気配があった。気配があるだけでも命を感じる―――というのは、あんな経験をしたルニアたち独特の感覚だろう。
ややあって、中から「どうぞ」という声がした。間違いなく、クースィの声だった。
怯えた声だった。
○
ルニアは、クースィと一対一での対話を希望していた。
いくら声の主が頼りない気配でも、さすがに目の届かないところに行かれたら困ると、反対したのは紺だった。家族との訣別、テム・ゴーナンとの戦い―――既に二度も彼女の希望を聞いている彼が反対するのは意外に思われるかもしれないが、そもそも紺が荘楽組のもとへ帰れるかどうかはルニアに懸かっているのだ。
大体、決して表には出さなかったが、二度の譲歩のどちらのときも、紺は内心穏やかじゃなかったのだ。そうでなければ、彼女の危機に何度もギリギリで介入を間に合わせることなど出来ていない。なにかを守る戦いなんてガラじゃないのは紺自身が一番理解している。
しかし、これまた意外にも、エルケーはルニアの希望を叶えてやろうと言う。
結局、多数決でルニアはひとり、執務室の中へと入っていった。
閉じられた扉の外で、男ふたりはすることもなく突っ立っていた。見張りの意味もあるにはあるが、ルニアが散々暴れた後なので、ちょっかいをかけてくる死体もほとんど残っていない。
中が心配で暇だと感じることはないが、沈黙が続くのも気持ちが悪い。
エルケーは、いまさらながら改めて隣で退屈そうにあくびをしている青年を観察した。
白髪混じりの、紺色の短髪。こうして突っ立っている間もずっとニヤニヤしていて見開かれない瞼の隙間に、黄色い瞳が覗いている。ノアで左腕の義手の試験を手伝っていたとき、何度か叡魔族に似た目の色の子供たちを見掛けたことがあった。監視役のヒューイに教えてもらったが、瞳だけが黄色というのは、極めて強力な黄色魔力を宿す人間の一部か、あるいは各部の魔力嚢がある程度以上に発達し、かつ黒色魔力をまだ上手に制御出来ないオドノイドに現れる特徴だそうだ。紺については雷魔法も使うのでそのどちらが理由かは不明だが、いずれにせよ、エルケーの目に、その黄色は警告色として映る。
それと、これもヒューイが言っていたことだが、オドノイドというのはほとんどが年端もいかない子供らしい。千影というオドノイドもそうだった。死因は―――寿命ではないことは想像出来る。さておき、そのオドノイドでありながら、紺は20代前半から半ば頃に見える。他より一回り長く化物として地獄を彷徨い続けて来たのだとすれば、あの強さも納得がいく。
・・・このくらいだ。
エルケーと紺の関係なんて、ルニアという共通項ありきの薄っぺらいものだ。
さっきが初対面なのだから当然だが、エルケーは紺のことをなにも知らない。
いまのままでも信用は出来るが、いまのままでは信頼は出来ない。
「あー・・・コンってさ」
「なんつーかさ」
被った。・・・が、紺が構わず喋り続ける。
「アンタ、だいぶルニアに入れ込んでるよな。もしかしなくても惚れてるっしょ」
「まぁな」
「お、イイね。顔?それともおっぱい?デカいもんなァ・・・あれはGはあるか?」
「いや、まだFくらいだろ。けどまだあの歳だからな、最終進化形は分からないぜ」
「でも獣人って育ちが早いんだろ?」
「あー、そうか。確か、すぐ大人になって、かつ若い状態が長いんだっけ」
「で、どっちよ?顔?胸?」
「まぁどっちも好きだけど、一番はやっぱり放っておけないとこだよ。分かるだろ?」
「そうか?まぁそうか。ちなみに俺は1、耳、2,顔、3,しっぽな。やー、これまでネコミミ美少女って二次元だから受け入れられてるだけでリアルにいたら違和感あるだろって思ってたけど、リアルでもキッチリ可愛いんだもんな。ビックリしたぜ」
「それ半分以上ルニア様である必要なくない?」
下世話な話になってしまったが、むしろ野郎同士の話の導入にはちょうど良かったかもしれない。
扉の向こう側からは、ルニアとクースィの声が聞こえている。話の中身までは聞き取れないが、長くなりそうな雰囲気だ。
警戒は解かないまま、2人はここに来るまでに出来なかった、互いの簡単な身の上話を始めた。
深入りはしない。
ただ、それでも、ここから人間界まで共にルニアを守りながら生き延びるにあたって、信頼には足るくらいに。
もっとも、会話してみて分かった事なんて、互いに「コイツ碌でもないヤツだな」というくらいだったが。
多少打ち解けてきたあたりで、エルケーはずっとモヤモヤしていた質問をしてみることにした。
「ところで、コンって弟とか―――」
「もうええわ!ども、ありあとしたー」
「?、?、?」
突然胸板を軽く叩かれたかと思えば謎のお礼まで言われ、エルケーは訳が分からず紺の顔と叩かれた自分の胸を交互に見た。
扉の向こうで銃声があったのは、それとほとんど同時だった。
●
ルニアとクースィが最後に言葉を交わしたのは、確か、友好条約の調印式を終えた後の、しばしの休憩時間のときだったはずだ。会話らしい会話ではなかった。お互いの本当の心の内も訊けないまま、それっきりだった。
もしも、その一言で決定的な真実を暴いてしまったなら、その先の未来で、永劫、2人が共に在ることが叶わなくなってしまうと予感していたからだった。
ルニアも、クースィも、愛する祖国の未来を想って行動した故の、哀しい擦れ違いだった。
ルニアも、クースィも、それぞれがそれぞれに大きな感情を抱いていたがために起きた、人並みな臆病だった。
大志を抱いておきながら、どちらか一方を切り捨てる決心がつかなかった。
だが、もうそのわだかまりは解消したようなものだ。
全ての結果が訪れた後だから。
ルニアが扉を開いたとき、クースィは椅子から立ち上がろうとする、中腰の半端な姿勢のまま固まっていた。
彼は酷くやつれた顔をしていた。張り出した頬骨も、以前の精悍な見え方とは程遠く、死人のような顔色だ。しかし、ここまでずっと死体ばかり見てきたルニアにとってみれば、その憔悴しきった立ち居振る舞いこそ、彼の中に残る命の灯火を実感させてくれる。
「ひさしぶりね、クースィ。会いたかった」
それは、ルニアの純粋な気持ちだった。
ルニアの微笑みで、クースィの顔が苦痛に歪む。
「ルニア様・・・生きて・・・」
痛ましい姿だ。血塗れで、右手など、縦に割られてまともに動くようには見えない。
クースィは、副首相というある種の雑用係として長らくルニアを傍で支えてきた。彼女の人格はよく知っている。―――だからこそ、怖くなった。なぜ、変わらない。どうして、こんな目に遭わされてなお、その発端を作った張本人に、純粋な好意を向けてくるのだ、と。
クースィも決して、ルニアを傷付けたかったわけではない。
彼女が生きていたことに安心した。
だが、同時に絶望した。
「ひっどい顔。ちゃんとご飯食べてる?・・・まぁ、こんなことになっちゃって、休んでいる暇もないんだろうっていうのは分かるのよ。でも、そういうときこそちゃんと体調管理しなきゃダメよ?クースィが倒れたら、本当に民連が終わっちゃうもの」
「・・・・・・そうですね。耳が痛い話です」
「よろしい☆」
左手を腰に当てて、ふんぞり返るルニアはすっかり、いまや懐かしくもあるアイドル気質の第2王女の調子に戻っていた。
部屋主のすすめも待たず、ルニアは来客用の長椅子にどっかと座ると、自分の横のスペースを叩いた。
前と変わらずじゃれついてくるルニアに絆されそうな気持ちを、クースィは押し殺す。選べなかった己の弱さを、ルニアへの甘えを捨てなければ、きっと次こそこの手になにも残らない。
クースィはルニアの正面に腰掛ける。ルニアは多少不服そうな顔をしたが、目付きは冗談めいている。ルニアとて、まさか本気で真面目が取り柄のクースィが自分のノリに付き合ってくれるとは思っていなかっただろう。あるいは、付き合ってやれば笑い殺すことさえ出来たかもしれない。塞がりきらない傷だらけのいまのルニアであれば、本当に、出血多量で。
ともあれ、クースィの内心など知らずとも、彼の行動はルニアの期待通りだった。
「どうしてそんなヘラヘラしていられるんだ―――って、思ってるかもしれないけど。・・・私、貴方には本当に感謝しているのよ?最後の最後まで、自治権だけは守り通してくれたでしょう?ありがとう」
「ですが、首都はもはやこの有り様。形ばかりの自治です。それに、ご存じだったのでしょう。私の目的が、王族を排除することで民連の民主主義を正常化することだったことを。目的は果たされませんでしたが、手段は取られたのです。例え自治権が守られたところで、ここに居られないあなたには関係のないことです」
「そんなことはないわよ」
「なにを・・・」
強がりにしても、あっけらかんとしすぎた物言いだ。家族を皆殺しにされ、家も爆破されたルニアに対して「居場所はない」と宣告することに匹敵するほど冷酷な追い打ちが、クースィには思い当たらない。口をついて漏らした言葉ではない。明確に、傷付けるつもりで言った。
それがなぜ、彼女は少しも傷付いた様子さえ、見せてくれないのだ。
特区内の自治権が守られたことを喜ぶのは、元王女であるルニアの反応として、一見、不自然ではない。だが、ルニアはアーニアとは違う。ルニアはそんな無償の愛だけで言動を取り繕ったりはしない。いつも、どんなことにも感情を纏わせる人だ。
あっけらかんとしていることには、なんらかの根拠がある。それは、ルニアにとってビスディア技術特区の自治権が無関係ではないという結論に繋がらなければならない。
・・・。
考えるほどに、クースィは愕然を隠せなくなった。
「まさか―――」
「本題に入りましょう、クースィ」
クースィには、ルニアの笑顔の見え方が180度変わってしまった。
「もう一度、ビスディア民連を立ち上げましょう。私と、クースィのふたりで!」
「・・・そんな話をするために、わざわざここまで?」
「もちろん」
「不可能です。確かに私はルニア様の仰る通り、自治権を守るために手は尽くしました。ですが、逆に言えば現状が最善なのです。これ以上を望んだって、なにもなりはしません」
「どうして?きっと貴方の手腕ならそれが出来るわ。やる前から諦めてどうするのよ!」
「やった後だと言っているのです。分かりませんか。私たちのビスディア民主連合は、終わったのです。首の皮一枚繋がったところで、首を切られた時点で手遅れなのですよ。私が取り留めたものなど、精々、ここが元はなんだったのかの証明を残す程度の意味しかありません」
いま、ノヴィス・パラデーで生活している者の中に生存者が一体何人いるというのか。未だ把握は出来ていないが、予想は出来る。
操られた死体が演じる民衆の意思とは、一体なんだ?分かりきっている。術者の意思だ。皇国の意思だ。
例えノヴィス・パラデーが復興し、ビスディア技術特区全土において完全に戦災の傷が癒えて、かつて以上の賑わいを得ようとも、もう皇国の支配から逃れられはしない。
そもそも、あの死体たちに”寿命”があるのか。既に死んでいる彼らは、術者が生き続ける限り、あるいは術が受け継がれる限り、何十年でも、何百年でもここに居座って未来の獣人たちの自治さえ操縦するのではないか。
もうクースィは、国の再興などという夢想を、熱に浮かされていたって見やしないだろう。
だが、その事実は関係ない。
ルニアが破綻しているのは、可能、不可能の論ではないのだ。
「それでも足掛かりは残せているじゃない。どんなに困難だとしても、可能性はゼロじゃないのよ?私もなんだって手伝うから」
「ルニア様がいたところで変わらないでしょう。いまのあなたにはなんの力も、価値もないのです」
「そんなの、言い出せばこっちのもんよ?そうね―――そうよ、うん!クースィ、私と結婚しましょ!そして私が貴方を王にするの。私が女王様になって国民を束ねたって良いわ!むしろ、それが良いわね。自分で言うのもアレだけど、私、王女だし、国民的アイドルだし、求心力ならそこそこあるわよ。完璧な配役じゃない!」
「・・・・・・、無残だ・・・」
嬉々として妄言を吐き続けるルニアを眺めながら、クースィには「しつこい」と怒鳴りつけて一蹴する、一瞬未来の自分の姿が見えていた。しかし、気付けば口から出たのは、掠れた嘆きだった。
ルニアが正気じゃないのは確かだが、彼女から正気を奪ったのが他ならぬ己であると自覚していると、怒りよりも、やるせなさが先に来たらしい。
「私の知るルニア様は、こんな、幼稚で、愚かな子供じゃあない」
「き、急になによ。随分な言いようね」
「あなたのような聡明な方が、どうして分からないフリをし続ける?この体制は、王家の終わりと引き換えに築かれ、守られているのですよ?その契約が破られればすぐにでもあの夜の続きがやって来る・・・!!」
「バレなきゃ良いのよ、そんなのは。最初はコソコソ地道に支持を集めるの」
「ですから・・・もうそんな次元の話じゃないと・・・」
ルニアは、本当に、なにも気付いていなかった。
恋は盲目、という。
家族も、帰る家も、手塩に掛けた民連軍も、全部失って、唯一残ったものが想い人だったなら。
彼が居る。国も名残は辛うじて保たれている。どうしようもなく、ロマンティック。
王女という肩書きさえ奪われた、ただの17歳の未熟な女の子を狂気へと誘うに足る、現実だった。
楽園を望み知恵の実を捨ててしまったイヴは、アダムの重ねた背信に気付こうともしない。
「民連軍」
「・・・」
「爆撃されたでしょう。・・・どうやって切り抜けたかは知りませんが」
狂気に呑まれて愚鈍と化しているなら、それでも良かった、はずだった。その方が都合が良いし、後腐れも―――なくはないが、介錯と自分に言い聞かせられる分、少しはマシだから。
だが、クースィには、それ以上に耐え難かった。
ルニアは、道こそ違えどクースィと同じように”手ぶらの強国”などという絵空事を本気で推し進める自国の行く末を憂い、持てる力を惜しみなく使って、民連軍を設立するにまで至った。真性の熱量を持った指導者の蕾だった。あの日のクースィは、そんなルニアを、王族の排除という自身の理念に矛盾しようとも、謀反の後に女王として擁立するに足ると認めていた。
大輪を予感させる蕾を、枯れようとしているまま手折ってしまうことが、あまりに耐え難かった。
「軍は、勝手には動けない。命令が必要です。そして彼らは、ビスディア技術特区の独立治安維持組織で、私は技術特区の知事です。―――分かるでしょう。彼らにあなたを撃てと命じたのは、私なんですよ。・・・私は、ニルニーヤ王家最後の生き残りであるルニア様の命を差し出す約束で、技術特区の自治権を守ったんです」
「・・・そう」
クースィの長い自白を受けて、ルニアも目を瞑ったままではいられなくなった。
王家の排除と民主主義の正常化。
それを求めて皇国に魂を売ったクースィの高望みは、最も過激で、最低限な形で叶えられようとしている。
その汚染された理想の頂に届く、最後の一段こそが、そうとも知らずノコノコと帰って来たルニアの死だった。
ルニアさえ死ねば、ニルニーヤの血は完全に途絶え、仮の自治権が恒久的に保証される約束は果たされる。
皇国はきっと約束は守る。獣人が人を殺してはいけませんと習うように。魔族はそういう民族だ。だからこそ、悪を為すと決めたクースィは、最後まで裏切り抜いて、設定された明確なゴールを目指すのだ。
そのうえで。
「―――で、それがなに?」
「は?」
「やらない理屈ばかり並べないでよ。後ろめたいだけでしょ?それならもう良いのよ、私はもう決着をつけてきたから。皇国なんか裏切れば良いじゃない。裏切る方が簡単でしょ?私ともう一度やり直すことの、なにが不満なの?」
クースィが後悔しているのは事実だ。
ビスディア民主連合を滅ぼすつもりはなかった。当たり前だ。
滅びてしまったから、こうするしかないだけで。
裏切る方が簡単なのも真実だ。
どんな結末でも甘んじて受け入れるというなら、クースィの理屈が出来ない理屈ではなく、やらない理屈だというのも。
あるいは、ルニアの声に本来の芯が通っていたなら、クースィも清々しく圧倒されたかもしれなかった。
しかし、いまのルニアはどうだ。
縋るような、下卑た笑み。媚びるような猫撫で声。クースィが見惚れた王の器は、未だ割れたまま。
これになにが出来ようか。きっと訪れる終極を認めず呪うか、目も向けず知らぬ間の死を選びかねない、この勢い任せに。
「なんだってするわ。いくらでも尽くしてあげる。貴方にだったら、利用されるだけでも全然構わない。私の心も、体も、クースィの好きにしてちょうだい。だから、ね・・・!?」
黒と金に煌めく毛並みも、万人に愛される美貌も、豊満な肢体も、いまのクースィにとってはただ悍ましく不快なばかりだった。
肌を見せ、机の上の這い、甘えて擦り寄ってくるルニアを、クースィは力の限り突き放す。
クースィの喉は、悲痛な呻きに震えていた。
満身創痍のルニアは驚くほど力無く転がされ、頭を守る素振りもなく床に四肢を投げ出した。
呆然と天井を眺めるルニア。
もはや反応を待つことなどない。
十分だ。
もう見ていられない。
聞きたくもない。
クースィはスーツの懐から拳銃を取り出す。
最新の兵器も大仰な魔術も必要ない。
彼にとって―――恐らくは、生温い平和思想に冒されていた獣人たちにとって、最も端的な悪の象徴。
それを、無防備を晒し続けるルニアに突き付ける。
「・・・・・・撃つんだ。この私を」
突き付ける。
突き付ける―――。
幼稚とも、愚鈍とも、違う。
怒りですらない。
一瞬前までとはまた別の、異質な重圧。
ルニアの瞳が危険な色を帯びていく。
床に倒れているのはルニアの方なのに、なぜか、クースィは彼女に見下ろされているような気さえする。
試されていた。
ひょっとすると、ルニアがこの部屋に踏み込んだそのときから、ずっと。
クースィが拳銃を握ったことで、遂にその瞬間を呼んだのだ。
民連軍の総力を差し向けておいて、未だ一度もルニアに「殺す」の一言も言わないでいるクースィが、なにを守って、なにを捨てるのかを、ルニアは期待して見物している。
しかし、クースィは気圧されていることを表情に出さないよう努めて、渾身の力で銃を向け続ける。
ルニアと、技術特区の自治権。
どちらを選ぶべきかなんて、試されるまでもないことだ。
答えは、この、一連の騒動という形で既に出ている。
クースィは、ルニアをこの手で殺し、永遠の安定を手に入れる。
「撃つんだ。撃つのよね?なら、ちゃんと狙って撃てば良いわ」
ルニアが体を起こす。
クースィは銃口を、彼女の眉間に向けて逸らさない。
そして、ルニアは己の額を示して差し出し、にじり寄る。
クースィは拳銃のグリップを強く握り込む。
ぶれないように、軋むほど、強く。
遂に、ルニアは銃口に自ら頭を押し付ける。
「祖国再興のためなら・・・それを成すのが他でもないクースィなのだったら、私は、この命を差し出すくらいなんてことない」
なぜか?
それこそ、分かりきっている。
「貴方のことを愛しているわ。いまも変わらず、誰よりも」
ルニアの左手が、震えるクースィの手を包み込む。
初めは優しく、そして、段々と、力強く。
「さあ」
催促。
待ち望んだ平和が目をギラギラさせてクースィを呼び立てる。
クースィが引き金に触れる人差し指に、ルニアの親指が絡みつく。
コイルが徐々に縮む音。
「さあ!!」
「~~~ッ!!!!!!」
次の催促はない。
ルニアが銃身を咥え込む。
撃鉄が、旅の終着を告げた。
さて。ルニアの地獄巡りはいかがでしたでしょうか。
首相官邸で何丁目だったんでしょうね。
大人しく人間界でちやほやされていればぬるま湯に浸かりながら生きて、死ねたでしょうに。
そんなつもりがあって書いていたわけではないのですが、ルニアがまるで死に場所を求めて彷徨っていただけみたいにも見えてきます。
○
「ルニア様!?」
「だからダメだって―――!!」
聞き捨てならないその音に、護衛ふたりは血相を変えて執務室に飛び込んだ。
だが、すぐにでもクースィを殺すつもりで踏み込んだ彼らが想像したようなことは、なにも起こっていなかった。
ルニアはクースィの前で跪き、項垂れていた。
それだけだ。
代わりに、戸棚のガラスが放射状に砕けて飛散し、床には硝煙を焚く拳銃が一丁、打ち捨てられていた。
「いくじなし」
ルニアという、愛嬌と愛想の具現化の喉から出されたとは思えないような、冷淡な声音だった。
怒りも喜びも抜け落ちて、ただ冷めた失望だけが残った心は、凍り付いて閉ざされた。
その一言に、エルケーは息を呑み、紺さえも慎重になって様子を見る他なくなっていた。
甘ったるい香り付けをやめて剥き出しになった言葉の狂刃に直接脳を刺されたクースィにおいては、その痛みを推して知るべきだ。
怯えていた。
怯える、という表現が不釣り合いなほどに。
かえって身の震えも起きないほどに。
ドロドロのレジンを流し込まれたように重苦しい空気の中で、ルニアだけが自由に動ける。
彼女は銃を拾い上げると、またクースィの正面に戻ってくる。
「クースィ?」
「ぉごっ・・・・・・!?!?」
全く同じ構図で、こうまで似ても似つかない。
だけれど、この場を支配する者はずっと変わっていないのだ。
胡乱な特殊鏡に歪められた光景が正しく直ったに過ぎないとも見える。
ルニアはクースィの口に銃口を突っ込んで、彼を跪かせ、宣告した。
「いま、ここで貴方を殺して、ビスディア技術特区を乗っ取ってやったって良かったのよ。・・・でも、そうね。貴方の言う通りだわ。貴方を殺して私が女王を名乗ったところで、私に、ここを統治して皇国と渡り合うだけの能力なんてないもの。ここに私の居場所はない」
嗚呼。
口を塞いでも黙っていない命乞いの涙も凍てつけば良い。
ルニアはクースィの口から銃を取り出し、彼の足元に投げ返した。
「だから、いまはまだ、殺さない。だけど、いつかまた、貴方を殺すために私はここに帰って来る」
どうせルニアを殺せないクースィに。
どうせ自死も選べないクースィに。
生きる道を示してやろうというのだ。
そこに善意はなくとも、未だ捨てられない愛情だけは乗せておいてやるというのだ。
「その日まで”私の国”をヨロシク♡」
はなむけの口付けを。
崩れ落ち、失禁するクースィを置き去りに、ルニアはエルケーと紺の背を叩いて首相官邸を後にした。
プリンセスの足取りは軽やかだ。
もう、背負うものなどなにもないが故に。