episode9 sect31 ”銭も衣も持たざれば”
軽やかに耳をつつく小鳥たちのさえずり。
そよ風が髪を梳いて、遊ぶ毛先が顔をくすぐる。
ああ。
やわらかくて、あったかい。
『もう、ルニアったら。またこんなところで寝ちゃって。せっかくの綺麗な髪に土がついちゃうわよ』
『んむ・・・アーニャ姉様?・・・えへへ~、見つかっちゃった』
ゆめ、うつつ。幸せな微睡みにただ漂う。庭園のひときわ大きな木の下で、こうして姉に膝枕をしてもらってするお昼寝が、ルニアは大好きだ。
「・・・ん・・・・・・」
大好きだった。
キラキラの木漏れ日に起こされて、ルニアはまばたきをした。
どこか懐かしい、お城の庭の青天井。
さわさわと風にそよぐ、いつもの木を見上げて、静かな微睡みからふと醒める。
「アーニャ姉様?」
まばたきと共に消えた影を追って、ルニアはか細く名を呼んだ。いつもの木、だけがルニアを見下ろしていた。
起き上がろうとして地面についた手がなにかで濡れる。寝返りを打って目の前にあったのは、潰れて原型を留めていない、知らない誰かの死に顔だった。
ルニアの時計がいまを思い出す。
「うっ・・・お"っ、え"え"え"え"え"え"え"!!!!!!ぇ・・・ぁ、は、ぁ、はぁ・・・」
さっき食べたマグナサンディがほとんどそのままの状態で出てきた。さっき。・・・さっきか。あの楽しい夜ご飯が、まださっきだなんて。
ルニアが安心して体を預けていたものは、あの遙か高い城の上からルニアが投げ捨て、降り積もった使用人たちの死体の山だった。屍肉のベッドで幸せに安らいでいた。一体なにをどう勘違いすればアーニアの太ももと間違えるんだろう。自分の吐瀉物で汚した死屍累々の上に立ち尽くし、冷静に、ただ、ただ、気持ち悪い。
ルニアは、頭上の、割れたステンドグラスを見上げる。
死ねなかったなぁ、と思った。
落ちる寸前、死にたくないと叫んで牙を剥く死体たちを振り払った。それは本心だった。でも、なにかの間違いでひと思いに死んでしまったなら、それはそれで良かったのにと思ってしまうのは、おかしなことだろうか。
動く死体たちは、死んでいるくせに、ステンドグラスの穴から飛び降りてルニアを追ってくることはしなかったらしい。だが、彼らの足音はもうすぐそこまで迫っている。脳の芯まで刻み込まれた悍ましい、地鳴りのような足音が、近付いてくるほどに、体が、勝手に、震え、出すのだ。
「うっ、ふぐっ・・・ぅ」
フラフラと、傷付き血を流す体を抱き締め足を引きずって、ルニアは歩き出した。涙で視界はない。行くあてなんて、もっとない。それでも、ここにいたら死ぬ。殺される。
だが、城の庭園を抜けてノヴィス・パラデー市街へと脱出したルニアは、気付いてしまった。ずっと、脳がフィルターをかけて気付かないように目を背けていた違和感に。
あの夜、ルニアが逃げた後もノヴィス・パラデーは叩かれのめされ焼き尽くされて、ビスディア民主連合は滅んだんじゃないか。街に、城に、国に、救いなどありはしないのだ。みんな死んだのだ。
街の復興のために奔走するイヌミミの青年も、道端で談笑しているキツネミミのオバチャンたちも、露天の串焼きを母親にねだるネコミミの子供も、みーんな、動いているだけの、もう取り返しのつかない抜け殻だった。ひとりひとりがルニアを見つけると、「おかえりなさい」と笑って首に手を伸ばしてきた。
いつからか見えるものすべてがサイケデリックに歪んでふわふわ回りながら極彩色に明滅していた。涙のせいではないだろう。兄妹喧嘩したときも、母に叱られた日も、自らの無力を呪った独りの夜も、父が殺されたあの悲しみの中でさえも、こんな世界は見たことがなかったから。何度も、何度も、嘔吐いて、嘔吐いて、空っぽになった胃腸まで、靴下を引っ繰り返すみたいに、体丸ごと裏返って吐き出しそうだ。
帰る場所なんてない。
「もう分かったから・・・・・・もう、やめて・・・」
分かっていたことを、痛いほど分からせられたが、分かったからなんだ。分かった程度でこの地獄は止まらない。死体を弄び、都市ひとつ丸ごと使っておままごとに興じるような誰かが、そんな優しさを持っているはずがない。水責めの如くに、煮え湯を飲まされ続け、なお目的なき拷問の責め苦は際限なく続いていくのだろう。
石と言うには大き過ぎる煉瓦の塊を投げられた。笑顔で。
明らかに腐敗した食材を口にねじ込まれた。笑顔で。
背後から突然噛み付かれた。笑顔で。
ホースで熱湯を掛けられた。笑顔で。
すれ違いざまに爪で斬り付けられた。笑顔で。
ルニアはそのすべてを力尽くで振り払って、トボトボと死者の国を逃げ歩いた。
やがて、ルニアは水のさざめく音を聞いた。
マルス運河だ。
そうか。
城から10kmも歩いたようだ。
この辺りは特に破壊の痕が生々しく、堆く重なった瓦礫は山を成して歩くことすらままならない。ただ、そのおかげか、気付けば徘徊する住人たちの姿はごくまばらになっていた。
しかし、ルニアはこれより先へと逃げることが出来なかった。向こうへ渡る橋が落ちていたからだ。ルニアには見覚えのある光景でもあった。
「ここ・・・そっか、テルマン橋か」
《飛空戦艦》すなわちイブラット・アルクにより叩き折られた、革命三英雄の名を冠する大橋。その後の神代疾風とルシフェル・ウェネジアの戦いが、ここまで景色を変えたのだろう。いずれにせよ、この深く濁った運河を泳いで渡るのは不可能だ。
「三途の川みたい」
これだけ地獄のようならば、きっと運河の向こう側こそが此岸に違いない。向こう岸への、どうしようもない、しようもない、希望的観測が浮かんで、自嘲気味に嗤う。吊り上げる口の端が重たい。
でも、この賽の河原なら、鬼でもそう易々と積んだ石を崩せまい。此岸には戻れなくても、ここに身を潜めていれば死体たちの恐怖からは逃げられるかもしれない。
出来るだけ水辺へ、ルニアは瓦礫の大地を必死に進んだ。折れたテルマン橋の橋台が、瓦礫の向こうに頭を覗かせている。あそこまで行くのだ。
橋台は、崩れ落ちた上部の煉瓦が山なりに積もって、その中にちょうど数人が身を隠して横になれそうな隙間が出来ていた。思った通り、ここまで来れば全く人の気配も感じないし、運河も大橋の残骸が岩礁の如く水面のあちこちから突き出しているため、働く死体たちが船を使えたとしてもここまでやってくることはないだろう。
ここなら、大丈夫だ。見つからない。見なくて良い。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぐす・・・・・・・・・」
仮初めとはいえ、安心した。
その瞬間、痛いほど、涙が溢れてきた。涙がまだこんなに自分の中に残っていたのかとビックリするくらい、堰を切って流れ出してきた。多分、さっきまで流れて止まなかった涙とは別のところで作られたものなんだ。意思や感情とは無関係に溢れ出していたさっきまでのドロドロの涙は、引き裂かれた心から血を噴いていたようなものだったのだろう。
「父様・・・母様、ザニア兄様」
吐き出す暇のなかった、ルニアをルニアたらしめる色のついた恐怖や悲しみが、ようやく形を得て排出された。暗い瓦礫の屋根の下に身を潜めて、唇を噛み、声も呼吸も押し殺して、震えながら、だくだくと眼下を濡らした。
「私・・・こんなところでひとりぼっちになるの・・・」
突き付けられた絶望的な現実が延々と脳内を駆けずり回って、ルニアの中を全部グチャグチャにかき乱し続けていた。瞼の裏に、鼓膜に、鼻腔に、舌の根に、指先に、五感全てになにかの恐怖が焼き付いていて、消えないのだ。この気持ち悪さを少しでも取り除けるなら、胸を捌いてその内側を掻き毟ったって構わない。でも、実際に現実から目を背ける手段なんてない。だから、こうして体をきつく抱いて縮こまって、いつか来るとも分からぬ終わりが来るまで痛みに耐えているのだ。
ずっと、不規則に漏れる自らの吐息や鼻水をすする音だけのはずだった。しかし。
ひたり、と。
(ッ!?!?!?)
音がした。ルニアじゃない。裸足で歩く湿った足音だ。
誰かが、いる。
ルニアは咄嗟に両手で鼻と口を覆ったが、足音は容赦なくルニアの隠れる穴蔵に近付いてくる。恐怖でまばたきまで凍り付いていた。横穴の入り口から目が離せない。
ひたり。ひたり。ひた
足音が止まる。
すぐそこだ。穴のすぐ脇、目の前に、それはいる。恐怖の跳ね返りで手に力がこもる。もし襲われれば、死体を粉々に引き裂くために。
しかし、勇ましい逆上の火もすぐに消えることになる。
「あァ・・・?誰かと思やぁ、へ~?生きてる方のお姫様じゃん」
反射的に、ルニアは動いていた。死体を返り討ちにするためではない。逃げるためだ。
紙に描いて貼ったような薄ら笑い。細められた瞼の奥で爛々と光る黄色い瞳。紺色の髪。
ルニアはその顔を知っていた。
その顔だけを、知っていた。
まさにここで。
ルシフェル・ウェネジアが得意気に掲げて見せた、生首についていた、その顔だ。
そしていまは、まだ見たことのない首から下の肉体も揃っていた。
つまり、死者。死体。それも、その死が千影を絶望で縫い止めてしまうような人間の。
あの後、千影は偲ぶようにポツリと、彼について話してくれた。
『紺はね、ボクが前にいたマジックマフィアにいた、自称お兄ちゃんだったんだ。・・・強かったんだよ?はやチンにだって負けないくらい』
返り討ちなんて発想は、だから、顔を見た瞬間に消し飛んだ。
一糸纏わぬ無防備な姿に、立てられる牙も爪も持ち合わせていない。
死が人の皮に詰め込まれて歩いて来たのだ。
逃げるしかない。
「あ、ちょい、オイ」
みんなそうだった。笑顔で、こうやって―――。
すんでのところで万死の魔手を躱し、ルニアは穴から転がり出ると、そのままの勢いで瓦礫の河原をひた走る。
「・・・・・・くひ」
青年の死んだ瞳に狩人の冥い熱が灯る。背筋が凍るような、冷酷な薄ら笑い。ゆったりとしたその挙措に、光速で迸る死の香りを纏わせて、青年が一歩目を踏む。
(やだ、死にたくない・・・!!)
ルニアは走っているのに、歩いて追ってくる青年との距離はまるで開いた気がしない。わざと聞かせるような足音は一定に、ルニアの心を圧迫する。乱されるのはルニアだけ。乱された獲物は、いずれ自ら滅ぶだけ。むしろここまでよく生き延びたものだ。
冷静だったなら、こんな窮屈なところに逃げはしなかっただろう。さっきまで隠れていた穴蔵よりも遙かに狭隘な瓦礫の隙間に、見落としてくれるかもなどと、ありもしない可能性を妄想して逃げ込んだルニアは、呆気なく死んだ青年に見つかった。
ニタニタと、青年は無言でルニアに手を伸ばす。
ルニアは、青年の手を振り払おうと足掻いたが、その腕は大木の枝でも叩いたかのようにびくともしない。錯乱して魔力の爪を振り回すルニアの腕をあっさり掴み上げて拘束した青年の表情に、少しだけ変化が現れた。憐憫のような色だった。いまさらなんだ。気色悪い。それが、これから殺す獲物に向ける目か。果てしなく悍ましい。
「いやああああッ!!やぁ!!やだぁ!!ころ、ころさないで!!ころさないでころさないでころさないでころさないでころさないで・・・!!」
「あー・・・・・・。いや、殺しゃしねぇって」
「ころさないでぇ」
「だーかーらー。つか俺は死体じゃねぇよ」
「・・・?は、ははっ・・・うそよ。貴方、あの日死んでたじゃない!!」
「ウソじゃなく生きてるっつの」
「信じられるハズないわよッ!!どうせここにあるもの全部私を苦しめるためだけにっ
そうだ。言葉にしようとしてやっと分かった。世界はルニアを苦しめるための箱で、ルニアは世界に苦しめられるための人形。利害の一致、すなわち世界の利と、ルニアの害の一致。全てはこの統一理論に基づき展開されている。そういうことなのだ。
何度も絶望に犯され胸中の凝縮された世界観を吐き出そうとした。
だが、慟哭は力任せに黙らせられた。
薄皮一枚を隔てて聞こえる鼓動。
淀みなく流れる温もり。
嘘じゃ、なかった。
生きてる。
生きている。
私も、この人も。
「生きてるんだ―――」
ルニアは、死にたくないと叫びながら死に急ぐようだった動悸が、耳を当てた鼓動と融け合うようにゆっくりと落ち着いていくのを感じていた。