episode3 sect7 ”フラッシュバック”
―――苦しい。
喉を破りそうなほどに、胸から、腹から、体の奥から、なにかが迫り上がってくる。
―――熱い。
それは、灼熱となって身を焦がす。
―――重い。
それは鉄球となって臓腑を圧迫する。
蹲って悶えていると、迫り上がってきた「なにか」の一部が口から噴き出た。
血だった。貧血で卒倒しそうなほどの量の血液が、一気に零れ出た。耳を震わす轟音にも関わらず、鮮血が床を赤く濡らす粘着質な音が容赦なく聞こえてくる。
だが、吐き出したものが血で良かった。胃や腸が出てこなかっただけ幸せだ。
いや、違う。なにを自分の身を案じているのだ。
「・・・!?ち・・・かげ・・・っ」
苦しい。苦しいが、少女の名前を呼ぶ。なんとしても『守る』べき少女の名前を、掠れる声で呼ぶ。体中を暴れ回る魔力を死に物狂いで抑えつけろ。これ以上、彼女を危険に曝すわけにはいかない。
ほとんど空気も通らない、喘ぐことすら出来ない喉。本当に鉄球でも飲まされたかのように喉が塞がってしまっている。でも、それでも、それがどうしたのだ。『守り』たい人を、他でもない自分が傷付けるなんてことがあってはならない。
鉄球を飲まされたのなら、そのまま飲み下してしまえば良い。
「―――――ッハッ、かっ、ふ、ぁハァッ」
―――――呼吸を整えろ。整えろ、整えろ、整えろ整えろ整えろ整えろ・・・。落ち着かせろ。
○
収まった。体中が激痛に襲われて、血も吐いて、本当に死ぬかもしれないと感じるほどに苦しかったが、遂に迅雷は自身の体から噴き出す魔力の嵐を収めることに成功した。
「―――――はァ―――――、はァ―――――、はァ・・・」
両手両膝を床について、迅雷はとにかく呼吸に集中していた。一度箍の外れた魔力の制御を保つのは、普通に制御するときの数倍は辛い。踏んだ地雷を爆発させないように、紐で足に固く結びつけてしまおうとしているような、無茶苦茶な感覚だ。足を放せば爆発するというのなら、足から外さずにとりあえず対処しようとでも言うような暴挙だが、今の迅雷には他にどうすることも出来ない。
そして、迅雷は顔を上げる。
いかに頑丈な素材で出来ているとはいえ、さすがに今の暴発は堪えたのだろう。室内の壁や床は所々がへこんだり削れたりしている。それはつまり、迅雷の魔力暴走は特大魔法と同等の破壊量があったということなのだが、そんなことに気が回るほど迅雷は落ち着いていられない。
迅雷は室内を血眼になって見渡す。体中から脂汗が滴る。目に汗が入ってきて、視界が霞む。
「ち、かげ。千影!千影っ!」
探していた少女はいた。
壁に寄りかかって、微動だにしない。
脳裏を過ぎる、あの日の光景。
迅雷は頭の中が真っ白になった。
ただ一つだけ分かるとすれば、また、取り返しのつかないことをしてしまったということだけ。
「・・・ひっ・・・あ、あ」
視界が揺れる。汗で滲んだのか、涙で歪んだのか、それとも恐怖で焦点すら合わなくなったのか。
ほんのつい数秒前まで、何気ない平和な1日だったはずなのに。どうしてこんなことになったのだ。どうしてこんな思いをしなければならないのだ。どうして、あんな目に遭わせなければならないのだ。
どうして、などと言うのは可笑しい話だ。それもこれも全部、自分のせいだろうに。考えが甘かった。迅雷が制御を誤ったからこんな結果を呼ぶことになったのだ。自分すらコントロール出来ないなんて、まるで赤ん坊以下ではないか。
「・・・ちかげぇ」
恐る恐る、迅雷は千影のところまでにじり寄った。ただでさえ暴れ狂う魔力を抑えることで精一杯の彼の体は、たったの数メートルを引きずるだけでも悲鳴を上げた。
やっとの思いで千影の下へ辿り着いた迅雷は、手をそっと、彼女の頬に触れさせる。
「・・・っ!」
生命の温かさが、まだ感じられた。千影の体を、その血潮はまだ力強く駆け巡っている。
生きている。生きていてくれた。今度は生きていてくれた。たったそれだけの、当たり前のことが、迅雷に迅雷を取り戻させた。迅雷は、必死に千影の名前を呼びまくった。ひたすら、何度も何度も呼び続ける。まだ、彼女が帰ってくる場所はここに在る。
「―――――千影ッ!!」
「・・・・・・ぶはっ!はぁ、はぁ・・・。し、死ぬかと思ったよ!!」
目を開けるや否や、開口一番、千影は素っ頓狂な声を上げた。さっきまでの迅雷の不安が馬鹿らしいくらい元気と活力に満ち満ちた、いつもの千影の声だった。
「暴走するなら暴走するって言ってよね―――って、うわぷ」
「千影・・・!良かった・・・本当に・・・!!」
地獄の淵から舞い戻った少女を、迅雷は思い切り抱き締めた。無茶苦茶なことを言うところも、今だけは堪らなく愛おしい。
「んにゅっ!ぐ、ぐるじい、苦しいよとっしー!?なんかミシミシ音がするっ!?」
「ごめん、でももうちょっとこうさせて・・・。俺のせいで、ごめんな」
「分かったから、分かったけど放して!今度こそ死ぬ!」
千影は迅雷の腕をタップしたのだが、全然解放してくれる気配がない。けれど、迅雷の目尻に涙が溜まっているのを見つけた千影はそれきり、迅雷に抵抗するのをやめた。
まったく、どれだけ心配してくれていたのだろうか。こんな自分を、こんなにも心配してくれるなんて。嬉しくなってしまう。
「もう、しょうがないなぁ・・・」
口元が緩むのを懸命に我慢しつつ、千影は努めて仕方なさそうにそう呟いて、迅雷に体を預けた。相変わらず抱き締める力は強いが、それだけ迅雷の温もりは千影の傍にあった。
「放したくなんて、ないよね」
失くし難いものは、すぐ傍に在った。腕まで迅雷に抱き締められているので身動き一つも取れないけれど、千影は代わりに心の中の見えない両腕をそっと、彼の体に回した。迅雷が感じたであろう後悔と恐怖は、千影も頭がおかしくなりそうなくらい知っている。―――千影の場合は、もう絶対に取り返しはつかない点が違うのだけれど。
だからだろうか。放したくない。今度こそ。
どうしてこんなに入れ込んでしまったのだろうか?凄く嬉しくて、凄く虚しくて、凄く寂しくて、凄く儚くて、凄く幸せだ。悲しいくらいに、今の自分は幸福だ。
「ボクだけこんなにいい思いして、良いのかな・・・」
「良いに決まってんだろ。人間なんだから。生きて、生きていて、喜ぶ権利くらい・・・あるだろうが」
「・・・・・・そっか」
ダンダンダンダンダン!!
・・・という、あまりにも気の利かない音がした。部屋の外、廊下側からの音だ。外と面する、ガラス張りの壁の向こう側。
迅雷は、千影を抱き締めたままゆっくりとそちらを振り返り、その空気の読めないアンポンタンの顔を確認してギョッとした。
こはいかに。窓に顔を押しつけて中を覗き込んでいる女の子が3人。
「な、なんでいんの!?」
●
「なんかビカーッ!!ってすっごい光って、ズドォーンッ!!っていう凄い音がしたから、何事かと急いで来てみたら」
「まさか迅雷君にそういう趣味があったなんて・・・知りませんでした・・・」
「としくん、それはさすがにしのも悲しいよ・・・」
「よし分かった、君たちはなにか勘違いをしているようだ」
「いやいや、ボクはどんなプレイだってバッチこいだよ?」
「ややこしくなるから黙ろうか」
一気にギャアギャアと会話が続いたので、ここらで一度状況を説明すると、次のような感じである。
●STEP1
慈音、友香、向日葵の3人は、小闘技場を1室借りるために受付で手続きをした。
●STEP2
闘技場のある別館に向かった3人は、突然通路の奥から凄まじい閃光と爆音が伝わってきたので、様子を見に行く。
●STEP3
いざ爆心地に辿り着いて部屋の中を確認すると、彼女たちは服がボロッボロでもはや半裸レベルの幼女を後生大事そうに抱き締める同級生を発見した。
●STEP4
異常性癖の少年の尋問タイム。
―――――ということで、喋った順に向日葵、友香、慈音だったのだが、とりあえず迅雷の心に一番刺さったのは慈音の発言だったことには間違いがない。そして「そんな趣味があったのか」など、友香にはそっくりそのまま返してやりたい。加えて言っておくと、そんな趣味はない。・・・はずだ。
とりあえず服が焦げるどころかボロ切れ同然になってしまった千影に迅雷は自分のジャージの上着を掛けた。すると千影はスンスンとジャージの匂いを嗅ぎ始めたので、迅雷は恥ずかしくなってやめさせた。つい数分前は聞けたことがこの上なく嬉しかった声も、今は状況を悪化させる一方で困ったものである。
「―――――かくかくしかじかで、今に至るんだって。ほら、そこの血痕!あれ俺のだから!」
「それをそんなに自信ありげに言われても困るよ・・・」
血痕というよりも、もはや血溜りとでも言った方が良さそうな、自分の吐き出した割と冗談にならない量の血を指差す迅雷。それを見た慈音が真っ青になっていた。
「まぁ一応分かったよ、うん。・・・・・・信じて良いんだよね?」
「向日葵。俺を信じろ・・・!」
途端に胡散臭くなってくるような決め台詞を放った迅雷だったが、どうやら3人とも彼から滲み出る尋常ではない疲労を見て、納得してくれたらしい。ひとまずは安心する迅雷。
しかし。
「・・・それでっ!」
「うおっ」
事情説明が終わるなり、すぐさま声を上げたのは友香だった。顔が近い。鼻息が荒い。ドキリとするのでやめて欲しい。
どうやら迅雷と千影が試合をしていたという話を聞いて、バトルマニア(見る専)のスイッチが入ってしまったらしい。こうなった彼女を止める手立てはないに等しいらしいことは、迅雷もこの1ヶ月でなんとなく学んだ。嫌な予感を感じた迅雷は、どうすることも出来ず彼女の質問攻めに答える羽目になる。
「あの爆発って迅雷君だったんでしょ!ねぇ!なにアレ!超ヤバそうじゃん!ねぇ!なにアレ!どんなだったの!?」
「分か、分かったから!顔近いっ!ちょっとで良いから恥じらいを思い出して!でもその前に・・・」
男の人と話すのが苦手という初期設定や普段の落ち着いた話し方はどこへやら。なんとか高ぶり昂ぶる友香を宥めて遠ざけつつ、迅雷は冷や汗だけでなく脂汗も噴き出させていた。
実は今、迅雷の消耗速度は新たに3人もの人が部屋に入ってきた時点から加速し続けていた。なぜなら、まだ迅雷の魔力は解放状態なのだから。
いわば、臨界状態の核反応炉を抱えたまま千影を含めた4人の相手をしていたようなものだ。もはや友香に迫られても女の子の甘い匂いを嗅いでドキドキする余裕なんて彼にはなかったことなど、言うまでもあるまい。ドキリとしたのは、もっとフェイタルな方面でのことだ。
「千影、あとどんくらいで切れる?」
迅雷は千影に自分の左手首を見せながらそう尋ねた。確か初めに20分のフルで設定したとか言っていたような気がする。なんでそんなことしたんだ、と言ってやりたい。前は12分だったのに、急に増やし過ぎだろう。
「うーん、あと3分くらいかなぁ」
「マジかよ・・・」
第3ラウンドは自分との戦いのようだ。
○
3分後。
キュイィィィ・・・、という音と共に、『制限』の淡く青白い光の鎖は迅雷の手首に、痣色の刺青模様となって染み込んだ。それを確認して、ようやく迅雷は自分という脅威から解放されて安堵の息を吐く。精神を炙る魔力の圧も消えたので、もう間違いなく安心できる。
珍しい魔法を見た向日葵が興味深そうに迅雷の手首を覗き込んでくるが、迅雷はズボンのポケットからスポーツ用の腕時計で『制限』の紋様を隠した。先述したように刺青のような模様のため、あまりジロジロ見られるのは良い気分ではないのだ。
「はぁ・・・。一応20分間耐久に初成功ってことで良いのかね」
なんだかんだで魔力解放状態で20分を過ごしきったのは今回が初めてだったのだが、しかし迅雷はその途中で魔力の暴走を起こしているので、成功とは言いがたいようでもある。ただ、その暴走から『制限』の力を借りずに自力で制御を取り戻したことだけは、進歩なのかもしれない。その進歩も、千影を危険に晒したという結果ありきのものだったのだろうけれど。
さて、兎にも角にもカップ麺が出来上がるほどの時間焦らされ続けた友香は、いよいよ危ない感じになってきている。エサを前に今にも飛びつかんとする本能を辛うじて残る理性で抑えている彼女を、どうどうと宥めて迅雷は話を再開した。
「はい、落ち着いたんでお話しましょうか。・・・あの爆発なに?って話だったけど、あれはさっきも言った通り、魔法の暴発だよ」
「いやいや、暴発でもあれはさすがにおかしいでしょ」
もはや話を聞くことだけに集中している友香に代わって、一言目からさっそく迅雷にツッコミを入れたのは向日葵だった。確かに彼女の言い分はもっともである。もしも向日葵の魔法が暴発したとしても、多分半径2,3mくらいが吹き飛ぶ程度のものだろう。それもそれで十分に危険ではあるが、それでも結局はその程度の規模に収まるはずなのである。
「まぁ普通ならな。でも、向日葵。前に俺の実際の魔力量が冗談抜きに死ぬほど大きいって話をしたじゃんか。で、俺が今隠した刺青みたいなのが、その魔力を抑え込むための魔法だったんだよ」
「な、なるほど・・・。魔力が多ければそれは爆発もヤバくなるってことね」
向日葵も当然迅雷に彼の魔力についての話を聞いたことは覚えていたが、しかし実際の魔力量は彼女が想像していたよりもずっとずっと、遙かに大きかったらしい。
やっと想像が現実に追いついたのか改めて驚いた顔をする向日葵を見て、そういえば、と迅雷は慈音の方を見た。彼女にも、迅雷はこの魔力量を実際に見せるのは初めてのことだった。
当然ながら、慈音は迅雷を心配するような顔をしている。迅雷の魔力が増えたことが単に喜ばしいことではなかったことに、実感がまとまりを得たのだろう。
「そっか。としくん・・・まさかこんなにすごいなんてねー。それは確かに封印もするはずだよ」
「いやいや、もったいないでしょ!」
「えっ」
割って入ったのは友香だ。このまま最後まで静かに話を聞いてくれるのではないかと密かに期待していた他4人だったのだが、やはりそうもいかなかった。
「これだけの魔力があって、それをみすみす封印するなんて!なんてもったいない!これなら天田さんすら目じゃないでしょう!?」
本当に誰だろう、この子は。いつもの淑やかな友香が恋しくなってくる。
「あのな、友香。俺はまだこの力の制御をうまく出来ていないからこうしているんだぜ?偉そうに言うのも変だけど、まともに制御出来るのなんて10分ちょっとなんだよ」
そして、まともに扱えないようではあの《雪姫》に勝つことなど夢のまた夢だ。
迅雷の悔しそうな顔を見て、さすがに友香も引き下がってくれた。誰が一番悔しくてもったいないと感じているのかなど、本来もはや問うまでもないことだったのだから。誰かにわざわざ制御術式を作ってもらって、そのくせ解放したらしたですぐに自分も周囲の人も危険に晒しかねなくて。どっちにしても人に迷惑をかけるその気持ちが分からないほど、友香も馬鹿ではない。
「うぅ、ごめんなさい・・・」
「いや、良いんだ。俺の能力不足が原因なんだし。こっちもちょっと言葉強くなってごめん。今日千影に付き合ってもらってたのも、半分はこの力に慣れるためだったんだ」
「うん・・・。それはそれとしてっ!」
「えぇ・・・」
沈んだかと思えば、なんと1秒でテンションを上げ直す友香。それは別に構わないのだが、割と真剣なことを言ったにも関わらず適当に放り投げられた迅雷は少し傷付いた。
「千影ちゃんとの試合やいかに!?」
ダメだこれは。まるで止まる気配がない。未だ興奮し続ける友香は、ここぞとばかりに試合の話を戻してきた。だが、そんな友香には悪いのだが試合の内容はあまりにも一瞬過ぎて、頑張っても20秒くらいでお話は終了である。友香と一緒に食いついてくる慈音と向日葵の期待の視線が辛い。
「えーっとな、2戦2敗、総戦闘時間20秒くらいでした」
「イェイ」
Vサインで千影が歯を見せて笑った。
事細かに話すと、第1ラウンドは前述の通りの展開で迅雷の負け。第2ラウンドは、新技を披露したものの背後を取られて剣を突き付けられて、またしても迅雷の負け。
「うわ、つまんな・・・」
「向日葵ちゃん、それは言わないたげて!?」
どうしようもなく瞬殺。つまらないと言われたところで、返す言葉もない。フォローしてくれる慈音には悪いのだが、フォローはフォローで結構心に刺さるのでなんの慰めにもなっていない。
「でもラストの大爆発はさすがに効いたよ。あれはボクじゃなかったら死んでたね」
こんなことを言っている千影だが、あれだけの大爆発を、それも爆心地からわずか数メートルの位置で思い切り食らったはずなのに、存外ピンピンとしている。外見も服のせいで酷くボロボロのように見えたのだが、改めて見る限り目立った傷のようなものもない。
これはあの爆発が実はそこまで致命的な破壊力がなかったということなのか、それとも単に千影が頑丈なだけなのか。あまりにもケロッとしている彼女の言は信憑性に欠けるのだが、しかしその少し前には「タフさが取り柄」とも言っていたので、恐らく後者なのだろう。
「どのくらい凄かったの!?」
尋ねたのは友香だ。こちらの話にも血が騒いでいるらしく、迅雷と千影の試合の話が一瞬で終わったにも関わらずその目は爛々と輝いていた。
「どんくらいって言うと、うーん・・・」
千影の脳内で再生される、迅雷の魔力の爆発から気絶するまでのビジョン。
光ったかと思ったらすぐに強烈な爆風に為す術もなく吹き飛ばされて、その勢いのまま、具体的には音速並みのスピードで背中から壁に激突した。
ほんの数秒で収まったのだが、その間は途轍もない暴風が吹き荒れたのだ。千影は壁に叩きつけられた格好のままその暴風によって壁に押しつけっぱなしにされ、見えない十字架に磔にでもされているかのようだった。槍の代わりに千影を刺したのは、もちろん風だ。刺すと言うより殴る、という感じだったと記憶している。
おかげでその最中の千影は、よくバラエティー番組などで、お笑い芸人をジェットコースターに乗せて風圧を受けさせて唇がビラビラするVTRでスタジオが爆笑するやつの、数倍痛々しいことになっていたような・・・気がする。
「・・・ぷふ、くふうふふ。・・・やば、よく思い出すと、お、おかしい・・・ぷふ・・・」
千影は自分で自分の変顔を思い浮かべて、思わず含み笑いをしてしまった。笑い事ではなかったはずなのに、ちょっとこれは卑怯である。その光景はあまりにもシュールすぎる。
「ま、まぁその後あまりの風圧で窒息してボクは気絶したみたいだね」
まだおかしくてヒィヒィ言いつつ、千影は必死に引きつる腹を押さえて話し続ける。
それにしても良い経験になった。呼吸困難になっても死にはしないが、さすがに意識は飛んでしまうようである。千影は今度から酸素ボンベでも用意していつでも使えるようにして対策を取っておこうと思ったのだった。
千影を見る迅雷の目が申し訳なさそうである一方で、友香らは千影の説明に唖然とするばかりだ。普通なら人が死ぬレベルの爆発に巻き込まれたことを爆笑しながら思い出す10歳児など誰が想像するだろうか。
「あー・・・そりゃそう思うよねー。ま、細かいことは良いんだって!ほら、とっしーもそんな顔しない!あんまりポヤーっとしてるとチューしちゃうぞ?」
「そ、それはダメだよ千影ちゃん!?」
誤魔化しのつもりかどさくさか、本気で迅雷にキスしかねない千影を慈音が全力で止めに入ったのだが、慈音は怪我人(?)である千影の体を慮ってかあまり力を入れていなかった。そのせいで、千影は慈音の腕からするりと抜け出してしまう。
「ふはははは!甘いよ、しーちゃん!さぁとっしー、隙あ・・・ぷひっ」
「甘いな返し!」
迅雷もポヤーっとしていたわけではない。慈音の腕から抜け出して迅雷に突撃した千影だったが、結局他でもない彼に顔面を鷲掴みにされてキスは未然に防がれたのだった。
●
部屋のドアをノックする音。友香が受付から帰ってきたのだろう。ドアを開ければ、やはりそうだった。
「部屋変更して一緒にしてきましたよー」
「お、トモありがとう!」
どうせ迅雷もいるのなら、と向日葵がせっかくなのでみなで一緒に特訓をしようと持ちかけて、友香がその部屋の変更手続きを済ませて戻ってきたところだった。実のところ迅雷もかなり疲弊していて、2時間分とっていた小闘技場の利用時間を千影と2人ではまともに使い切れないような気がしていたので、向日葵の提案は願ってもないことだった。
時間の方は先に入室していた迅雷たちに合わせる形となったので、あと1時間半程度はこの部屋を利用することが出来る。それだけの時間があれば、案外いろいろ出来るものだ。
「それじゃ、迅雷クン、慈音っち、千影ちゃん、やろっか!」
「はーい」
やる気十分の向日葵と、それに合わせて手を挙げる慈音。迅雷はまず特に重視してやるべきことを考える。
「なら、まずは対人戦の立ち回りからやるかな。特にしーちゃんなんかは戦闘自体やらないから、今日は頑張ろうな?」
「うわぁ、お手柔らかに・・・」
向日葵の方は実技魔法学の授業でやっているスパーリングではそこそこ良い立ち回りをしているというのであまり問題ではないのだが、慈音に関しては対人戦とか対モンスター戦とかの話ではなく、そもそも戦うために魔法を使うようなことがほとんどないので、迅雷はそこから始めることにした。
インストラクターとしては、千影もいるおかげでマンツーマンでやっていけるためやりやすいはずだし、教えるうちに勉強になるようなこともありそうなので、迅雷もやる気は十分だった。
●
広大な洞窟。足場は、ない。
ここに地面という概念は存在せず、ただただひたすらに、どこまでもエメラルドブルーの水面が続くだけ。
天田雪姫は、原始的な美を感じさせる雄大で仄暗い蒼碧の光の世界に、そっと足をつける。
足場はないと言ったが、しかし足場には困らない。彼女にとって水面の持つ意味は、地面の持つそれとさして変わらない。極低温の冷気を従えた彼女の爪先は、水が波紋を生むより早く薄氷を広げていく。
「さて、と」
洞窟内は、その暗さとは裏腹にうるさいまでの獣のけたたましい鳴き声がひっきりなしに響いている。
雪姫は、その耳障りな騒音を聞きながら受けてきたクエストの内容を思い出す。
人型の両生類生物、通称『チュパカブラ』の討伐。『チュパカブラ』と言ってもUMAのチュパカブラではなく、それとよく似た姿をしているため、便宜的にそう呼んでいるだけのことだ。ただ、あまりにも似ているので、UMAそのものがモンスターだったと言う話も現実味を帯びているのだが。
そんな『チュパカブラ』の身体的特徴については、1mから1.8m程度の体躯を持ち、棘があるとか。鳴き声は―――――まぁ、聞こえている通りに甲高くてうるさいだけだ。両生類という分類に違わず水陸での活動をするようで、そんな彼らの巣が今雪姫のいる洞窟である。
今回雪姫が受けたのは、比較的危険な生物である『チュパカブラ』がダンジョン内で異常繁殖したため、数を減らして欲しいという内容だ。ただし、全滅とまではいかずとも過剰数の討伐は環境保護の問題で絶対にやってはいけないそうだ。
他にも同じクエストを受けた魔法士がそこそこの人数参加しているのだが、彼らのほぼ全員は洞窟の外で活動している討伐対象を狙っている。なぜ巣を狙わないのかと言えば、当然ながら雪姫のように氷属性魔法で水を凍らせて足場を作ることが出来ないからである。人間の活動は大抵の場合、地面に足が着いていて初めて成立することは人間である読者諸君も分かるだろう。
しかし、実は他の魔法士が『チュパカブラ』の巣に立ち入らないシンプルかつ最大の理由は他にある。
「―――――きた」
『――――――――――ッ!!』
巣に攻め入れば、敵に自ら囲まれに行くようなものであり、危険極まりないから。
押し寄せる『チュパカブラ』の肉の津波。当然も当然の、大前提の危険度。『チュパカブラ』単体の戦闘能力自体はさほど脅威でもないが、数が集まれば話は変わってくる。
一度囲まれて転ばされた日には、全身から体液という体液を吸い出され尽くしてオダブツ、なんて結末にもなりかねない。
いつの間にか後方まで囲まれていた。その突撃は、四方はおろか上からも下からも迫り来る。
下方、つまり水中からの襲撃は水面に張った氷を厚くしておくことでなんとかなる。それでも、それ以外の『チュパカブラ』の群れはドーム状に雪姫へと襲いかかってくる。
しかし、雪姫はその光景を見て獰猛な笑みを浮かべるだけだった。数だけいたところで、個が脆弱ならば、彼女にとってそれは敵ではない。
巣窟内に突入した魔法士はほとんどいないと言った。ただし、ほとんど、だ。雪姫の他にも数人はこの洞窟内にいる。その多くが全方位に飽和攻撃を仕掛けられる腕利き魔法士だ。彼らはギルドから依頼を受ける形でクエストを受注した、まさしく高ランカーである。
雪姫は自分の実力が分からないようなイキり馬鹿ではない。それが出来ると自認しているから、ここにきた。
「・・・殺し放題・・・♪」
雪姫の白い吐息が、まるで映画の殺戮マシーンが吐き出す蒸気のように立ち上る。
洞窟内は、瞬く間に『チュパカブラ』の絶叫と断末魔で席巻された。
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