episode9 sect11 ”さびしんぼうの砂遊び”
夜。凪。水面を揺らすのは、エルケーの名を叫んだ残響と孤独に追い立てられた拍動だけだった。
「エルケー・・・・・・・・・・・・うそ・・・・・・・・」
こんなことなら、本当に、他の方法は、なかったのか。
「無理だよ・・・・・・独りじゃ、無理だよぉ。エルケー・・・・・・」
独りはいやだ。
独りはいやだ。
独りはいやだ。
独りはいやだ。
独りはいやだ。
独りはいやだ。
独りは―――
「もう・・・やだぁぁ・・・・・・・・・・・・・・・っ」
この場所は、自分が孤独になることを最優先として全ての物理法則を決定された悪意的シミュレーション理論の中なのではないか。
悲しみが煮えて、この世に満ちる暗黙の前提全てが恨めしくなる感覚。
頭を抱える手に力が籠もる。
定まらない焦点で閉じ聳える水門を嘗める。
そうだ。いっそ、水門を破壊して、エルケーを助け出そうか。・・・なんて無理だ。そんなこと出来ないから、こんなことしてるんだ。どうしよう。じゃあどうしろというんだ?
「どうしたら良い・・・?なんでも良いから、なんとかさせてよ―――!!」
「ぶああああああああッ~~~、ひぅぅぅああハぁぁぁああッ!!!!げっほ、ひゅゥ、げほっ、ゲ、おぇっ!?!?!?」
「ぉー・・・・・・あ、あれ?」
背後の水面から飛び出した顔を一瞬疑ったルニアだったが、直後にエルケーを抱えて水から引き上げた。もうこの際、見間違いでも幽霊でもなんでも構わないとさえ思っていたかもしれない。
水路脇に設けられたレンガ造りの細い通路にエルケーを寝かせ、とにかく頬を叩いて呼びかける。やはり岩に体を叩かれた傷は負っているが、呼吸は確かだ。
「エルケー!!エルケー!?目を開けて!!」
「ハァ、ハァ・・・!!ハァァ・・・」
「エルケーってば!!」
「ぉ・・・」
「お?」
「お姫様のキスなら目を覚ますかも・・・」
ふざけた寝言だ。一気に肩の力が抜けた。
自分も通路に寝転んで、ルニアはふにゃふにゃと頬を緩める。
「ばか。さっき私のおしりに顔埋めてたじゃない」
○
濡れた服や体をどうにかしたかったが、寝転んでしまうと、次に体を起こすだけの気力が戻ったのはそれから1時間以上休んだ頃だった。
着ていた服は水中で岩や枝にやられ、もうボロボロだ。そのうえ水底に溜まるヘドロの臭いまでついてしまっていたので、諦めて捨てることにした。下着もアウトだ。鼻がバカになっていてよく分からないが、恐らく体にも悪臭が移ってしまっているだろう。
「このまま街を歩くワケにはいかないわね」
自分自身の不快感以前に、市街地を歩くにはあまりにも不衛生過ぎる。浮浪者でももうちょっとマシなものだろう。
ルニアは周囲をキョロキョロ確認すると、服を脱ぐ前にエルケーに「ちょっと待ってなさい」と言って通路の奥の方へ探索に出た。2、3分して戻ってきたルニアの手には、ハンドソープのボトルがあった。
この通路はマルス運河の清掃や整備事業者が利用する作業用通路だ。そのため、ちょっと探せば手洗い場のひとつくらいはあって当然だった。髪も体もこれ一本でどうにかしろと言われても普段なら困惑するところだが、なにもケアしないで地上に出てから個室シャワーを探すよりはずっと良い。
「こっち見ないでよ?」
「イヤです」
1週間くらい前にも同じやりとりをした記憶がある。意外と元気なエルケーの首をグキリと壁側に回して、ルニアはようやく臭くて重たい衣服を脱ぎ去った。
「うへー、泡で出るタイプだぁ・・・。本当は固形石鹸の方が良かったのよねぇ」
ハンドソープを3プッシュ分くらい手に取って、ルニアは髪を洗い、首から肩、胸へと丁寧に塗り延ばしていく。3プッシュでは全然足りないので、すぐに何度もシュコシュコとボトルをプッシュし、ルニアは胸や股に残った泥を念入りに指で拭い去る。
「ちょっと。俺が使う分も残しといてくださいよ、ルーニャさん」
「そこまで無遠慮じゃないわよ」
スカッ。
と、ボトルから気の抜けた音が出た。
「にゃ。あっははー・・・」
エルケーのジト目に裸体を晒す前に、ルニアはダッシュでもうひとつ遠いところのトイレから新しいハンドソープを持ってきた。全裸で。
「いやぁぁもームリ私痴女すぎるぅっ!!」
幸い、いまは夜間なのでなんの作業も行われておらず、通路で誰かと鉢合わせるような惨劇こそ起こらなかったが、それでも誰かいるかもしれない場所を乳と恥部にそれぞれ手を添えて疾走するだけでえも言われぬ居た堪らなさに襲われた。
「別に自分の体洗い終えてから探しに行くのでも良かったんじゃあ?」
「だ、だってまだ腰くらいまでしか洗えてないんだもん!!泡で出るやつだからあんまり延びないのよ!!」
「・・・次こそ俺の使う分残しといてくださいよ、ルーニャさん?」
「そこは抜かりないわ!」
手洗い場と違ってトイレはキッチリ男女で分かれていたので、ルニアはその両方からハンドソープを拝借していた。手に持った感じでは、どちらも残量は十分である。さすがにこれを使い切るようなことはないだろう。
「つーことはその格好で男子トイレに侵入したってことですか」
「もうやめてぇぇぇ」
なにはともあれ薬用ハンドソープで最低限の臭い消しを終えたルニアは、裸のままもう一度水に飛び込んで泡を落とすと、エルケーに順番を譲った。それにしても、ブザのホテルに置いてあったバスタオルくらいもらっておけば良かった。フェイスタオルは1枚あるが、すぐに服を着られるほど全身を拭いきれない。もうしばらく体を乾かすため、裸のままルニアは壁際に体育座りした。
「ルーニャさん、背中は見てもよろしいですか?」
「だ――――――め寄りのヨシ」
エルケーの視線を背筋に感じてこそばゆさにルニアが若干強張っていると、不意に乾いた感触が肩を覆って、驚きに小さく跳ねた。
「にゃに、にゃによ!?・・・って」
見てみれば、エルケーの着替えのシャツだった。
「えーと、ありがとう」
「いえいえ。むしろ、こうして一手間加えないと摂取出来ない栄養がありますので」
「変態の体は難儀ね」
エルケーもハンドソープで全身の汚れをある程度落とし終えたあと、体が乾くまでの少しの間、布越しに2人は背中をくっつけて互いの体を温め合い、それからすぐに着替えて行動を再開した。正直まだまだ臭いが気になるのでひとまずバス用品の自販機付きの無人コインシャワーに駆け込んでサッパリした2人が、次に目指すはニルニーヤ城だ。民連軍のデータベースを削除したいのになぜ城に向かうのかと思うかもしれないが、民連軍のデータベースはそこからでもアクセス可能になっている。というよりも実は、各所にある民連軍基地の端末では例え本部基地であっても制限がかけられており、データベースの完全抹消を行うなら最高アクセス権限を持つルニアかテム・ゴーナンのどちらかがニルニーヤ城の端末から操作を行わなければならない。それ故に、ルニアたちの目的地はニルニーヤ城になるのだ。
・・・が、その前に寄るべき場所があった。
「おなか空きませんか?」
「暢気だにゃあ」
と言いつつ、ルニアも異議はナシ。エルケーもこうして元気だし、マルス運河の内側へ無事にやって来られたことでホッとしたせいだろう。安心するにはまだ早いと言われてしまえば返す言葉もないが、最後の目的地へ挑む前に心を落ち着かせることも大切なはずだ。
「どこか良い店知ってますか?」
「おや、私が誰なのか忘れたのかしら?手早く食べられて、ボリュームも味もバッチリのお店に心当たりがあるにゃ」
「さすが」
もっとも、その店がまだ存在しているかは分からないのだが。
マルス運河の作業用通路から地上に出る前に、変装の具合が十分か水鏡で入念にチェックするルニアの行動は、慎重というよりもどこか冗長な気色が目立っていた。コインシャワーを探す間に夜道ですれ違った人々は誰もルニアに気付くことはなかった。こっそり城下町に繰り出していたあの頃のルニアも敢えて顔を見せるまでは誰にも気付かれないほど変装は得意だったように、あれほど時間をかけずとも彼女の変装は十分だった。ルニアは、別のなにかを恐れていた。
だが、思いのほか―――であった。
夜のノヴィス・パラデーに繰り出してしばらく歩き回ったルニアは、まるで上京したての大学生のようにせわしなく視線を移ろわせては感嘆の溜息を吐いた。
「活気が戻ってる・・・」
ルニアは恐れていたのだ。
戦火に焼かれ荒廃したノヴィス・パラデーを間近で見ることを。
山の上から遠目に眺めた街の、いつでも想起するかつての景色を現実で上書きしてしまったなら、きっと空虚でしかない―――と。
さっきまでいたマルス運河の作業用通路はバウラ橋の下の空間だった。すなわち、街の西部であり、あの戦いの中心からは比較的離れた場所だった。しかし、それでもなお運河の内壁はあちこち崩れ落ち、2人のいた通路も、実は瓦礫で塞がっているのが初めから見えていた。
だから、実際を目の当たりにして、意外だったのだ。やはり街には破壊の爪痕が生々しく残っているものの、人々は活発に往来を行き交い、店を開けて、少しでも早くいままでの生活を取り戻そうとしているようだった。
夜を彩る、なんて、力強い灯りだろう。
ビスディア民主連合は、地図からその名を消されようとも、まだ、彼らの中にちゃんと生きている。
「きっと、クースィなりに精一杯立て直してくれたのね。あんまり素直には喜べないけど―――よかった」
「そうですね・・・」
「・・・?どうかしたの?」
「いや・・・」
「なによ。気になることがあるならちゃんと言ってよね」
「んん・・・、まぁ違和感はあるんですけど、なにが引っ掛かるのか自分でも分からなくて。ただ、いまのノヴィス・パラデーは、なんだか嘘っぽい―――ような」
大衆の空元気が、人の挙動を重視するサキュバス族の目にはそのように映ったのかもしれない。幸福を感じていない人が幸せそうに振る舞う様は実際、目に余る痛々しさがある。いま感じるこの感覚が、そんな杞憂であれば良いのだが。
エルケーがウンウン唸って首を傾げているうちに、隣を歩くルニアが足を止めた。一歩遅れて気付いたエルケーも立ち止まって、ルニアの見上げる店の看板を見るなり相当期待外れな目になった。
「あったあった、ここよ!いや~、ちゃんと営業中ね!感心感心。・・・む、なによその目は?なにか言いたげじゃない。気になることがあるならちゃんと言ってってば。ヘイ、SAY」
「世界的ファストフードチェーンじゃん」
「うるさいにゃあ」
「だってあんな自信満々な顔して誰でも知ってる店に連れてきます?俺は結構本気で個人経営の隠れ家的な、穴場の店を紹介してもらえるもんだとワクワクしてたんですけど?」
「店員さーん。マグナサンディセットふたつ、カシュースましましでお願いね。で、ドリンクがコーヒーと―――」
「・・・。じゃ、俺もコーヒーで」
「どっちもコーヒーで♪」
さすが、注文から商品受け取りまでは圧倒的に早かった。食べやすいのも確かで、探していた店の条件とは100%合致すると言っても過言ではない。ルニアは大真面目にここを選んでくれたのだ。エルケーは2人分の食事を乗せたトレイを持って、2階で席を取って待つルニアの姿を探した。ルニアは、フロアの中央に吊られたテレビが見やすい席に陣取って、そのまま食い入るように画面を凝視していた。
テーブルにトレイを落ち着け、椅子を引きながらエルケーも画面に目をやる。
「なにか面白い番組でもやってるんですか?」
「お城から中継してたみたいなの」
「へぇ」
画面左上には確かに生中継と出ている。会場は交流式典の開会式にも使われていた、城の劇場のようだ。多くの観衆と報道関係者を一堂に集め行われているのは、ビスディア民主連合から皇国領ビスディア技術特区となったことによる新たな施政方針演説だ。
「ということは、現首相のクースィ・フーリィがしゃべるんでしょうね?」
「うん・・・でもタイミングが悪かった。もうクースィはしゃべった後みたいだわ。主要な演題は今後の経済システム立て直しと復興みたいだし、この後に出てくるとしたら―――ケルトスとかになるのかしら?経済大臣とか収まってても不思議じゃ―――」
『続いて、特区内経済の新体制への適応化計画について、ザニア・ノル・ニーア・ニルニーヤ殿下よりご説明を賜ります』
「―――」
不思議ではないと思いつつ、ケルトス・ネイを蹴落として首相の座を得たクースィが、ケルトスを自らの内閣に組み込むものかと疑っていたが、それがこうなるとまではルニアにも予測出来なかった。見間違うはずがない。17年間一緒に暮らした兄が登壇し、ビスディア技術特区の経済政策の方針について詳細な説明を繰り広げていた。
ザニアの話なんて、聞いているやらいないやら。目尻に涙を溜めてテレビから目を離せないルニアはここに来た目的さえも忘れたのか、エルケーの半分も食べ進んでいない。しかし、ザニアが降壇するや否や、ルニアは今度はあっという間に残りを平らげると、まだコーヒーを飲みきらないエルケーの腕を掴んで店を飛び出した。
(生きてた!無事だった!!ザニア兄様・・・っ!!)
ルニアは言葉も忘れて一心不乱だが、彼女の顔を彩る感情のマーブル模様を見れば、エルケーも一緒に喜んであげたくなる。なんだかんだと理由をつけていたけれど、結局、ルニアがここに来た一番の目的は、最愛の家族の安否を確かめることだったのだろう。それは、いまのルニアの涙と笑顔を見ればエルケーにも伝わっていた。独りはやだ―――溺れるエルケーを引き上げてくれた、あの抱き締めたくなるほどか細い悲鳴はもう消えただろうか。
「良かったですね、ルーニャさん」
「うんっ!!」
○
ルニアとエルケーの去った店内で、テレビの中継はこう続く。
『続きまして、特区の今後の外交方針について、エンデニア・ノル・ニーア・ニルニーヤ陛下よりご説明を賜ります』