episode9 sect10 ” The Baula Canal-Lock-Bridge ”
旧・ビスディア民主連合の首都、ノヴィス・パラデーで有名な地理のひとつがマルス運河である。首都中心部を取り囲む水路にして水壕であるマルス運河は、魔族による獣人支配と、獣人たちの勝利と自由、訪れた我々にふたつの歴史を物語る。マルス運河には、その内外を繋ぐ大橋が八本存在する。その中でも獣人の独立戦争以前に建造された東・西・南の3本の橋には、戦後に革命三英雄の名前が冠されており、西の山脈にある水源からマルス運河へ水を引き込むための水門と一体化した、バウラ水門橋もそのひとつだ。壮麗かつ堅牢精緻な水門が、智英雄と呼ばれるバウラの名を冠するのは実に似つかわしい。
この旅の目的を、もう一度整理する。
皇国の侵略を受けたあの日、ルニアは民連軍の機密情報を消去出来ないまま人間界へ逃げ延びた。放置された情報の中には民連軍の使用していた各種装備の技術情報も含まれており、これが皇国の手に渡ればまさに鬼に金棒、手のつけようがなくなってしまうかもしれない。その最悪の事態を防ぐため、民連軍の旧首都、ノヴィス・パラデーを目指してここまでやって来た。
そしていま、ルニアとエルケーの視線の向こうには、ノヴィス・パラデーの整然とした円い遠景がある。
「・・・ぐすっ。分かってるわよ、気が早いって」
「いや・・・良いんじゃあないですか。帰って来たかった気持ちだって本当なんでしょう?俺よりも、ずっと」
「急に優しいこと言わないでよね」
感極まったルニアが落ち着くまでの3分間、エルケーは少し遠慮がちに彼女の背中をさすって待った。調子を取り戻したルニアは、自分の両頬を軽く張って故郷の遠景に背を向けた。
ノヴィス・パラデーはすぐそこだが、街へ忍び込むのは容易ではない。ああ、誰にも見つからずにお城に帰るまでがお忍びだった。あの手この手で街の外までお忍び外出を繰り返してきたルニアが、それを誰よりも一番よく知っている。
確実に検問が敷かれているであろう陸路での移動は論外だ。出会う人々に対して唇に人差し指を当てておけばしれっと出られたあの頃とは違う。そして、当たり前だがルニアもエルケーも生身で空は飛べない。
「チカゲちゃんがいればひとっ飛びだったんだけどにゃー」
「なんだか聞き覚えのある名前だな」
「行くわよ、エルケー。こっからはどうしたって人目は避けられなくなる。多少強引になっても構わないわ」
現在地から少し下ればダムと水力発電施設がある。どちらも重要インフラであり周辺の監視は厳しく、また、ご多分に漏れずダム湖外周は観光資源として整備されている。交通量自体はそう多くないが、ルニアさえトランクなりに隠れていれば車で素通りしてしまえるだろう、などと楽観的に考えるべきではない。しかし、これらの障害は森の中を大回りに迂回してしまえば根本から無視してしまえる。
一方、ダムから放流される河川は大小いくつも分流しているが、そのいずれも、少し下ればすぐに町に出る。「自然と調和した都市計画」と「自然」とは隔絶した別物だ。それが旧首都近郊部の近未来的都市開発の実態である。ビスディア技術特区北東部において、少なくとも山沿いだからといって人もまばらな田舎という地域は皆無だ。一般的には世界をリードする賞讃すべきアーバン・デザインこそが、いまのルニアとエルケーにとっては厄介極まりない地雷原である。
「ううっ・・・。いままでありがとなぁ~、お前と駆け抜けたこの日々は絶対忘れないぜ・・・」
「ガチ泣き!?」
ここまでお世話になった盗難車とは、ここでお別れだ。既に盗み出した日から1週間が経過しており、この車両ナンバーは恐らく全国の警察に伝わっているはずだ。この車のまま市街地へ出るのは得策ではない。ちょっと引くほど盗難車との別れを惜しむエルケーを急かして、ルニアは歩いて山を下り始めた。ダムを回り込むルートは車では通れない天然林である。
「あ、そうそう。この時期は繁殖期で活発化したウグラが徘徊してるから気をつけてね」
「襲われてから教えてもらっても困るんですよ!?」
車を降りれば獣に狙われるリスクは高まる。ウグラは人間界の感覚で言うと熊のようなポジションにいる動物で、食性は完全な肉食である。ちなみにこの猛獣は、春の終わりから夏にかけて繁殖期を迎え活発化し、秋の暮れから冬の初めは冬眠前の準備で獰猛化し、冬の終わりから春の初めまでは冬眠明けの飢餓状態で凶暴化する。つまり春半ばと秋半ば、冬眠中くらいしか大人しくならない。
まぁ、いまさら猛獣如きに食い殺される2人ではないのだが。なんせこちらは鉞担いだ金太郎も泣いて謝る天下の(元)王国騎士(の下っ端)である。
繁華街のキャッチをあしらうが如くウグラ彷徨う夏暮れの森を突き進み、ダムを遠く南に臨みながら2人は山下りを達成した。少しずつ民家が現れ始め、人里の気配が近付いてきた。ここから先は急に町になる。
「ここらで次の車を手に入れないとですね」
ビスディア技術特区にルニアの顔を知らない者はいない。というか、いたらいたでなんかすげぇ悲しい。そんなわけで、ここからノヴィス・パラデーを流れるマルス運河の水門付近までの移動には再び自動車を使い、その間の運転はエルケーが担当する。ルニアはトランクの中だ。本当なら検問を躱しきれなかったときのことも考えてボンネットの中に隠れたかったくらいだが、さすがに無茶だからやめた。
「うわ、キッチリ施錠してるにゃあ・・・」
「当たり前でしょうよ。前のやつが異常なほど無防備だっただけで」
丁度良く朝の散歩へ出掛ける夫婦を見かけた2人は、その夫婦の家に誰も残っていないことを入念に確かめると、ガレージに侵入した。もうすっかり空き巣稼業が板に付いている。しかし鍵開けのスキルまではないルニアが車の鍵穴に爪を突っ込んで悪足掻きしていると、見かねたエルケーが「どれどれ」と言ってルニアに立ち位置を代わらせた。
「え、なになに!もしかして貴方ピッキングも出来ちゃう感じなの!?」
ものすごい期待の眼差しだ。もうコイツは仮にニルニーヤ王家が復権しても玉座には絶対に座れないだろう。・・・いいや、むしろこういう清濁併せのむ人間の方が潔癖で上品なだけの獣人よりも良い指導者になりそうか。伝説に謳われるエレスニア・ニルニーヤも”英雄王”だったと思い出す。
エルケーの”裏技”によって、ルニアたちは無事に2台目の車を盗み出すのであった。
●
「――――――お?」
ネコミミでも巨乳でもない方のプリンセスは、ふと授業のノートを書く手を止めた。
「どうしました、アスモ様?」
「ごめんなさい、先生。ただ消しゴムを落としてしまっただけです」
教師はなにも疑わず再び黒板を向き、消しゴムを拾ったアスモもまた再びノートに目を落とす。
●
運転手はエルケーだが、通る道はほとんど全てルニアが事前に決めた道だけだった。2度ほど想定外の検問が敷かれていたものの、そこはエルケーの独断で、極力本来のルートから逸脱しないように迂回した。
車は走り続け、また日が沈む。明け方に遠く望んだミニチュアのような水門が、いまは見上げるほどにそびえ立っていた。車は適当なコインパーキングに置いてきた。ルニアとエルケーは水門にせき止められた川の畔に並んで座り、その穏やかな流れを見守っていた。しかし、そんなエルケーの表情は穏やかではなかった。
「・・・ルーニャさん」
「んー?」
「マジでこれしかないんですか?」
「にゃい」
ここまではまださほど厳しくなかったが、あと1kmも進めばノヴィス・パラデー中心部に入る。その境界にある道路という道路はすべて検問が敷かれていることだろう。もちろん、皇国騎士団による、新体制に対するテロ・反乱対策の検問だ。陸路はダメ、空も無理。ならもうここを通るしかあるまい。
だが、それもまた決して楽な方法ではない。
マルス運河の取水門が開くタイミングを狙って、ルニアたちは水中から街へ侵入する。発想そのものはシンプルだ。しかし、この水門は侵入者を防ぐために水底まで完全に届いており、せき止めていた膨大な水量の一挙流入による氾濫を防ぐために門自体も二重になっている。また、門と門の間にも監視システムがあり、水門施設内部が浮浪者や犯罪者の根城とならないよう見張られている。内部はほとんど照明がなく暗いが、カメラの性能は高いので一瞬でも水面から顔を出せば100%発見されて管理者へ報告されてしまう。
つまり、時間差で開く2つの水門を、一度も浮上せずに突破しなくてはならない。
しかも、門と門の間には水中の土砂やゴミを濾す名目で目の細かい金網が存在している。これがまた尋常ではなく強固で、かつ波に乗って上を越えないよう天井の高さまで届いている。
「最初に聞いたときも思いましたけど、ルーニャさん、やけに詳しいッスね」
「いやぁ。私も昔はアレに散々苦しめられたものよ」
「・・・・・・。つか、潜っていくつもりならダイビング用の装備か、せめてエアーくらいは買っておいても良かったんじゃないですか?水門の開く時間差だって30分もあるんでしょう?割と本気で死ねますよ?」
「馬鹿ね。どれだけの水量が流れ込むと思ってるのよ?岩みたいな土砂に全身叩かれるんだから、ボンベなんてすぐひしゃげて穴が空いてただの錘と化すわよ」
こんな問答も実は二度目だ。エルケーは苦笑しつつも、河川敷の芝から腰を上げた。今度はちゃんと前もって教えてくれた。そして、知ってなおここまでやって来た。いまのは、ほんの「内心ビビってるんだぜ」という本音だ。腹などとうに括っていた。
「そろそろ第1水門の開く時間ですね。こんなところでおしゃべりしてる時間はないですよ」
「あ。せめて水着くらいは買えば良かったかも」
「ちくしょう!!覚悟が揺らいだ!!どうです決行は明日にしてショッピングでも!!」
とはいえ、濁流に呑まれることが前提のこの作戦で肌の露出を増やすには余計な怪我のリスクを高めるだけだ。布一枚の防御力だってないよりマシである。
騎士は姫の手を引き、深い川の淵に立つ。いざ、明日を掴むための身投げを。
やがて水門が開く。水面がたわむ。まるで全身を掴んで手繰り寄せられるようだった。ルニアもエルケーも、ギュッと体を丸めてありったけの魔力で全身の『マジックブースト』に集中する。
死ぬほど息を吸う。
息を止める。
地獄は間もなく殺到した。
水中の砂嵐。
横薙ぎ、渦巻く土砂崩れ。
生身に降り注ぐスペースデブリ。
天も地もない。
幽い冥い水の底。
骨が軋むほどの水圧で金網に押しつけられ、心太になりそうだ。
金網を伝う衝撃が水に鈍く淀んで止まらない。
体に当たる巨岩が跳ね返る。
水の流れが不自然に変わり、小刻みな震えがやや程続いた。第1水門が閉じたのだ。
ルニアは恐る恐る腕を広げて金網に指を絡ませる。動かして、動く四肢があることにひとまず安堵する。目を薄く開くが、水中には泥が濛々と均一に漂い、エルケーの姿は見つからない。
ゴボゴボ、孤独。頭をよぎる不安。心細く、胸が締め付けられ、空気が恋しくなる。
(・・・ダメよ、ルニア。信じなさい、自分の選んだ騎士でしょ!!)
ただの腕力ならルニアの方が強いのかもしれない。しかし、エルケーは正規の騎士だった男だ。多少は軍事的知識を学びかじったとて、ルニアは素人で、そのルニアでも凌げた苦難なら、生き残るための様々な訓練を乗り越えてきたエルケーにだって凌げるはずだ。
金網を掴んで手繰る。泳ぐよりも楽で、金属の揺れ動く音はきっとエルケーにも届くから。
(エルケー。聞こえているなら早く来なさい!!私はちゃんとここにいる!!)
手を伸ばす。泥の霧の向こうへ。向こうへ。
向こうから。
その手を見間違うはずがない。金属製の冷たい指先が、指先と触れ合う。一度、二度、見失いそうになりながら彷徨った右手と左手が今度こそ五指を絡め合う。
(別に心配なんてしてないわよ)
(ホッとした顔しやがって)
水中じゃ、からかいの言葉も交わせない。
いま、第1水門が開いてから何分が経っただろうか。既に呼吸は苦しい。とにかく、次は金網の向こうへ抜けなくてはならない。
(しかし、あの勢いで流れてくる岩を弾き返しても歪みひとつない金網だぞ。並の物理攻撃で穴が空けられるとは思えない―――)
ものは試しだ。エルケーはとりあえず、剣を抜いて魔力を込めた。しかし、水中ではそもそも思うように剣を振れないため、予想通り金網の強度には全く歯が立たない。
(ならコイツでどうだ!!)
エルケーは剣を放り捨てた。だが、忘れてはならない。彼の身に宿る固有魔術は、剣を遠隔操作する特異魔術である。腕で振る剣は水の抵抗に勝てないが、剣に魔術的な推進力を与える方法であれば肉体的な制約がないため、強引に速度を出して威力を高めることも可能なはずだ。なにしろ、ただがむしゃらに車のアクセルペダルを踏み続けるだけのようなものだから。
本来、鋭利な形状の刀剣は水の抵抗をある程度受け流せる。エルケーの与えた推進力で魚雷のように突進する剣は、水中で火花を散らして金網に突き刺さった。
(・・・ん?)
突き刺さった?
嫌な予感の正しいか否かを確かめずにはいられない。水中で汗の滲む感覚を得たエルケーは、金網に突き刺さった剣に再び念を送ってみた。予感は当たっていた。剣はもう、抜けもしなければ向こう側へ貫通することも出来なくなっていた。それもそのはずだ。閉じた第1水門ギリギリの位置から全力で加速させてようやく刀身の3分の1くらいが刺さる程度だったものを、完全に掴まれた状態で抜き差し出来るはずがない。
(なにしてんのよ・・・)
(くそ、かくなる上は!!)
エルケーは金網に向けて『黒閃』を放った。思えば初めからこうしておけば良かったのだ。どんな遮蔽物も、物理的な障害である限りは『黒閃』で貫けないはずがないのだ。
(・・・は?)
では、いまこの目の前で健全な姿を留める金物は一体なんなのだろうか。よもやこうまで金物そのものの食感が魔術的に生み出された幻影や魔力の塊ということもあるまい。隣に目を向ければ、ルニアが憐れむように、空気を漏らさぬよう引き締めた口の端だけで苦笑していた。
(『黒閃』を無効化出来なかったら、魔界じゃ防壁としては二流もいいとこよね)
先ほどこの金網の話をした際に、名目上は、水中の土砂やゴミを濾過するための設備であると言った。家庭用の防犯設備ならいざ知らず、この金網の真の仮想的は流れてくる岩などではなく、まさにエルケーみたいな連中だ。驚くようなことなどまだひとつも起きてはいない。
今度は、ルニアが魔力で形成した爪を金網に当てた。狙うはエルケーの剣が刺さっているすぐ脇だ。ルニアの爪は、性質としては『黒閃』に近いが、鋭利な形状に収束された魔力の対流が威力の一点集中化を実現している。継続的に火花を散らして、ルニアの爪は少しずつ金網を斬り裂いていく。やがて、エルケーの空けた穴は5cmほど広がって、剣も抜けるようになった。だが、ここまで穴を広げるのに5分ほどは掛かった感覚だ。人ひとりが通れるだけの大きな穴を作ろうとすれば、絶対に第2水門の開門に間に合わない。次の開門は半日後になる。ここを逃せば溺死か発見確保死刑の2択だ。
剣を取り戻したエルケーは、しかし打つ手なし。どうするんだ、という念を込めた目でルニアを見つめるが、ルニアもルニアで難しい表情を浮かべ、水底の方向を見つめていた。その視線の先になにがあるのか、エルケーにもなんとなく理解は出来た。
(・・・いや。なにかがあるかもしれない・・・か)
しかし、金網の破壊が困難と判明した以上はその可能性に賭けるしかない。エルケーはルニアの肩に触れて彼女の視線を得ると、ゆっくり、深く頷いた。決まりだった。
まだ泥の舞う水中を、金網伝いに、さらに深く潜っていく。命運はルニアの記憶と旧民連の怠慢に委ねられる。
潜れば潜るほど、浮力が全身に群がって鬱陶しく抱き付いてくる。水面に見えるわずかな光明の誘惑へ引き摺り込もうとする。もう泣きたいほど息が苦しい。いっそ浮上して、わざと捕まった方が楽にノヴィス・パラデーの中へ入れるんじゃないか。そんな甘い囁きを振り切り、決して水面を見上げることなく、ルニアとエルケーは深闇の水底を目指す。
まるで水そのものが黒いかのようだ。もはや河川の深さではない。泥も酷い。先ほど流入した土砂ではない。水中に底なし沼を作ったかのような泥水の層だ。鈍重な水の感触に辟易していると、そうかと理解する瞬間が訪れる。ここは取水門の沈殿槽なのだ。
泥の中に時折漂う腐敗した小魚の残骸や朽ちてスポンジのようになった謎の骨片。まるでしがいの堆積する海底そのもののような死の香りを錯覚させられる。
これらの仲間になるのは、ひょっとすると敵と戦って死ぬより恐ろしいことかもしれない。いま、ほんの少し口を開くだけでこの静かで長い死への道は開くのだ。
だが、その恐怖に耐えて潜り続けた甲斐はあった。
見えにくいが、確かに金網には穴があった。
そう、すなわち幼き日のルニアのおてんばの痕跡が残っていたのである。
当時のルニアと現在のルニアでは体格も体型もすっかり異なるが、それでも一から大穴を空けようとするよりずっと簡単だ。
(マジで子供の頃にここ通ったのかよ・・・)
ヒトの形こそしているが、この少女は知能を得ただけで、生物学的には獣人どころか純粋な猛獣に近いのだではなかろうか。エルケーの困惑はもっともだが、そんな問いはルニアを怒らせるだけだ。ルニアは間違いなくナーサ・ノル・シェーラの腹から生まれた獣人である。
さて、既に空いた穴を広げるのは比較的容易だった。裂かれた鉄線の断面は当然ながら塗装などされておらず、錆びにくい素材を使用としているとはいえ、数年の歳月を経て腐食が進んでいた。それでも頑丈なものは頑丈だが、ルニアの怪力をもってすれば十分にへし折ることが可能だった。
出来上がったのは長半径20cmちょっと、短半径15cmちょっとの楕円形の抜け穴だ。狭いが、恐らくルニアはもちろん、エルケーの体格でも通れないことはないはずだ。
この穴を探して広げるまでにどれほどの時間を使ったのか、もう分からない。無我夢中だった。まだ第2水門は動いていない。もし開いていれば、再びあの猛烈な水流が生み出されて金網に吸い付けられていたはずだ。
だが、だとしても、もう時間は差し迫っていると考えるべきだ。金網の向こう側にさえ抜けてしまえば、あとは水の流れに乗って一気に街の中へ入ることが出来る。しかし、もし水門が開く前に向こう側へ行けなければ、抵抗不可能な激流に捕らわれゲームオーバーだ。
(行くわよ・・・!!)
(はい!)
ルニアとエルケーは互いに頷き、穴の縁に手を掛けた。
まずはルニアから。
頭は簡単に通り抜け、肩も、飛び出た鉄線の先端には引っ掻かれつつ無事にくぐり抜けた。肩が通るなら腰も通るだろう。上半身さえ抜ければ、あとは腕の力でどうとでもなる。
(・・・あれ?)
そう考えていたが故に、ルニアは危うく空気を漏らしかけるほど困惑した。そもそも腰が穴を通る前に、ルニアは動けなくなっていた。馬鹿らしい話だが馬鹿にならない。大きな胸がつっかえたのだ。寒い水底でもはっきり感じるほど、血の気が引く。
(おい、どうしたんだ、早くしろって・・・!?)
エルケーがルニアの尻を後ろから押すが、ルニアはただ痛いだけで全く進まない。このまま、かつて自分の空けた穴の補修材と化すなど一番笑えない冗談だ。痛みに耐えて、ルニアも必死に身をよじる。だが、無駄。
地鳴りがした。
((・・・ッ!?!?!?))
ゆるやかに、しかし確実に水がある一方向へ向かって流れを作り始める。
第2水門が開いたのだ。
顔色を変えている間にも水は勢いを増し、数秒の後には、もう台風のようになっていた。
(マズいマズいマズいマズいマズいマズいぃぃぃぃぃっ!!!!!!)
切羽詰まったエルケーは、ルニアの尻に頭を押しつけ、両手で金網を掴み、全体重をかけてルニアの体を押した。あとで殴られることなど覚悟の上だ。何発だって殴られてやる。
(あとがあればな―――!!)
せめて。ああ、そうだ。
せめてルニアだけでもこの先へ行かせなくては。
「ン、ンンンンンンンンンッッッッ~~~~!!!!!!」
歯を食い縛る。歯の隙間を空気と泥が出入りする不快感も、いまだけは分からない。なんならエルケーの体を蹴った反動ですっぽ抜けてくれたって構わない。
だから、せめて―――。
大きな衝撃が体を叩き、その勢いでルニアは一気に全身、金網の向こう側へと抜け出した。
激烈な水流は、そのままルニアの体を門の外へと吸い込んでいく。
(やった・・・やった!!ありがとうエルケ
水中で身を翻したルニアの笑顔が凍る。
舞い上げられた泥の向こうは赤く淀んで、エルケーは、金網と巨岩に挟まれ潰れていた。
「あ」
手を伸ばすが、届くはずもなく。
流されるがまま、ルニアは故郷へと帰ってきた。
偶然流され近付いた水路の壁に爪を立て、ルニアは水から顔を出す。
息を吸う度に喉からキュウキュウと聞いたこともないような甲高い音が出た。頭が真っ白になり、視界もホワイトアウトする。だが、まだまだ酸素を吸い足りない肺を搾ってでも、ルニアは叫ばずにはいられなかった。
「えるけー・・・?エルケー!!エルケー!?エルケぇぇぇぇぇぇぇ――――――」
轟々と雪崩れ込む水。濛々と沸き立つ水煙。殷々と閉じゆく水門は既に遠く。
荒波も次第に落ち着いて、何事もなかったように凪いでゆく。
平和な街の清流に力無く漂い、静か。