episode8 sect38 ”行間④”
ゲームセンターに満ちる混ざりすぎてもはや原型不明の騒音のように響いていた銃声の、最後のひとつが止んだ。ややあって、ズタボロにひしゃげた鋼の扉を強引に開く金属音がした。
「初仕事にしちゃあ、上々だ」
「そう?思ったより簡単でビックリしちゃった、カシラ」
大の大人たちだったものを積み上げた穢らわしい山の上で、その少女は指をしゃぶっていた。自分のものではない、第二関節より上がない指を。会話に邪魔なおやつは軽く咀嚼して飲み込み、少女はケラケラと笑った。
深青色のクセっ毛に鈍色の瞳の幼い少女、ネビア・アネガメントは迎えに来た先輩のところへ駆け寄った。
「おじさんの方は、お仕事ちゃんと終わったの?カシラ」
「ああ、当然だ。ネビアがここでキッチリ敵の足止めをしてくれたおかげだぞ」
「えへへっ」
男はいまのところ味方でいる化物の精神を御するための安易な褒め言葉を使い、ネビアはそれを素直に受け取って屈託ない笑顔を男に返した。
「あと、おじさんって呼ぶな」
「でもおじさんじゃない、カシラ」
「堀田さんでも光太さんでも構わんから、名前で呼べと言ってるんだ」
光太に体中に付着した血(自分の血液も返り血も両方とも)を拭ってもらったネビアは、まだ塞がりきらない銃創を止血だけしてから、ボロボロになった服を着替えて、光太と共にビルを去った。
暗殺、強奪、密輸に闇金融。イタリアンマフィアに拾われ、極東のガラパゴスに売り渡された少女の仕事は、渋谷警備という表向きには警備会社として振る舞う犯罪組織の鉄砲玉だった。だが、そんな毎日が命懸けの生活であっても、ネビアにとっては捨てたものではなかった。なにせ、衣食住が保障された上で、仕事さえしていればお金ももらえるのだから、人肉を求めて彷徨う野良犬の妖怪みたいな生活とどちらが幸せかなんて比べるまでもない。それに、大人たちはネビアの異形の能力をこそ買ってここに留めてくれていたので、むしろ触手が生えることを隠さなくて良いのは大変に居心地が良かった。
ただひとつ、求めることがあったとするなら。
○
「私、学校ってところ行ってみたいの、カシラ」
「昨日行っただろう」
「そういう意味じゃなくて、か、よ、っ、て、み、た、い、って言ってるの!!カシラ!!」
「寝言は寝て言え殺人マシーン」
前田良太は、下らなそうに吐き捨てて、ほじった鼻くそを乗っけたままの指を、手頃な高さに迫ったネビアの頭で拭った。
「やーだー!!行きたい行きたい行きたいのー!!カシラー!!」
ネビアは触手まで出してジタバタしてみたが、モンスター検知システムに引っ掛かりかねないからやめろ、と良太に渾身のチョップを叩き込まれた。普通の子供なら致命傷になりかねない威力に、ネビアは床でもんどり打つ。だが、彼女に限っては頭蓋にヒビを入れられたところでさほど問題にはならない。
ネビアのこの力―――というより体質は、本来の人間ならほとんど持たないはずの黒色魔力を体内に多く宿したことに由来する特殊かつ稀少なものらしい。らしい、というのはネビア自身が詳しく勉強したわけではなく、聞いた知識の受け売りだからだ。人はネビアのような存在を『オドノイド』と呼んでいた。当時、日本で暮らしていたオドノイド仲間は恐らく1人、多くても2人くらいだろうと聞かされていた。ハッキリしない数字だが、それは仕方がない。少なくとも力を使えばモンスター同様に黒色魔力検知システムに引っ掛かる、人肉とモンスター肉だけが燃料のヒトモドキなんて表沙汰には出来ない存在だということは、ネビアも理解していた。学校に通いたいと願うことの無謀さも、一応は。
「ああ、でもそうだな。お前のその頭のおかしな日本語を直すためには学校で学び直す方が良いかもしれんな!」
「なんだとぅ!?私の日本語のドコが頭おかしいってのよ、カシラ!社長はこないだ会ったときに『また上達したね』ってほめてくれたんですけど?カシラ!」
「そりゃお前、社長はもう歳だから、お前のこと孫とでも間違えて猫可愛がりしてんだろ」
「でも日本の女の人って言葉の最後に『カシラ』って付けるでしょ!?カシラ!!」
「そうだねでもお前は付けすぎなの、かしら。とにかく、学校なんてまず無理だ。諦めろ。小遣いがあるんだから自分で学参でも買ってくりゃあ良い」
ネビアは勉強がしたいのではなく学校という環境そのものに関心があるのだと言い返したかったところだが、風呂が沸いて、言い合いはそこまでだった。所詮は腐れ縁というか、父親のなり損ないにはネビアの駄々に付き合ってくれるほどの甲斐性なんて、期待するだけ無駄だったのだ。さっさと一番風呂を浴びようとする良太の背中に、ネビアはせめてもの抵抗として不満の目を向けた。
「なんだ。パパと一緒に入りたいってか?」
「もうそんな歳じゃないしっ!カシラ!」
「俺に性的な目で見られたけりゃあもう5年は成長してから同じポーズをするんだな」
○
ネビアが渋谷警備にやって来て、2年ほどが経った頃のことだった。
「社長、ナニコレ?カシラ」
ネビアは読めそうで読めないアルファベットまみれのラベルが貼られたアンプルを部屋の蛍光灯にかざした。中の真っ黒な液体は想像以上に光を通さずドロリと流動しながらネビアの顔に影を落とすだけだった。
「それはねぇ、”魔法のお薬”なんだって。少し前から『スパイス』の流通経路に便乗する形で出回り始めた代物でね、どうもネビアちゃんみたいな子の能力を増幅させることが出来るんだって」
「ふぅん。・・・ふぅん?・・・え、待って待って。これを私に注射するってこと?カシラ。ヤ、ヤだよこんな明らかに体に悪そうなの!カシラ!!」
「あっはっは。だよねぇ~。安心してよ、格安で手に入れるチャンスがあったから試しに買ってみただけで、まだ使うと決めたわけじゃないから」
安いと言っても貴重な品だったのか、社長はネビアに投げ返されたアンプルを、老体には障りそうな慌てようでキャッチした。それもそうか。触れ込みが本当なら、オドノイドを保有する組織としては垂涎ものの逸品だろう。なにせ、こんな幼く華奢な女の子でもオドノイドというだけでランク3や4程度の魔法士ならダース単位で相手取り、殲滅してしまうほどの力を発揮するのだから。
前年の秋あたりからオドノイド関連の事案が散発していたようで、ライバル組織が幼いオドノイドを一人、新たに国内へ連れ込んだらしいとも聞いていた。ネビアにはまだまだ細かい事情や情勢までは理解出来なかったが、少なくともオドノイドを隠し持つことのメリット・デメリットの天秤のバランスに変化が生じたことは確かだった。十分に隠し通せない弱小組織にとっては自らを滅ぼす毒になる。そして、力のある組織も、そのリスクを冒すだけの価値をオドノイドに期待する、という構図だ。ある意味、核兵器にも似ている。持たざる者が持とうとすると、持つ者たちが世界を煽ってその行為を糾弾し、強行しようとすれば容赦なく制裁を加えるような。持つ者さえ、その内外から向けられる監視に細心の注意を払いながらカードを切るタイミングを見計らわなければならないような。
社長はひとまず、医薬品の研究をしている参加組織に”魔法のお薬”を解析させる、と言った。裏を返せば、この黒い薬物が”シロ”ならネビアに使うこともあり得ると言っているようなもので、ネビアは不確定な未来の可能性に顔色を悪くした。
「そ、そもそも私ってこんな体質で、薬が効かないでしょ、カシラ。試すだけムダなんじゃないかなー・・・なんて、カシラ」」
「それも含めて調べなきゃね。試せることは試さなきゃ勿体ないんだよ!」
「あ、ハイ・・・カシラ」
本当、このジジイはキラキラした笑顔でとんでもないことを言う。いや、だからこそこのときの渋谷警備はあの荘楽組のライバル組織として通用するだけの影響力を獲得していたのだろうが―――それも子供のネビアには分からないことだった。
だが、”魔法のお薬”の詳細な解析結果が出る前に、それは勃発した。
『血涙の十月』
後にそう呼ばれることになる、地獄の16日間だった。
○
渋谷警備が被ったのは、言ってしまえばとばっちりだった。そも、日本が戦火の中心地になってしまったことだって。
だが、なんにせよ降りかかる火の粉は払うしかない。絶望的な規模の戦争だから、人間が勝てる見込みなんてちっともないから、もはや逃げる場所すら存在しないから、だから無抵抗に滅ぼされるなんて選択は、社長の頭にはなかった。渋谷警備は曲がりなりにも”会社”であることを貫いた。
そして、その想いは”社員”たるネビアも同じだった。ネビアにとって、そこは掛け替えのない居場所だった。気が付いたら校歌や社歌をハミングしてしまう癖がある人は、この世界広しと言えど何人いるだろうか。あるいは、大企業のCEOだって、自社のアンセムをそらで歌えないかもしれないのに。
それ故に、迫られる決断があった。
「ねぇ、ちょっと!!ねぇってば!!だ、大丈夫!?カシラ!?」
「・・・る、さいな・・・。あんまり、揺すぶるな」
「っ・・・!とにかく手当しないとだよね、カシラ!えっとえっと・・・」
出来上がった不格好なミイラ男に、ネビアは思わず噴き出した。思えば「怪我したら唾でも付けとけ」を地で行く化物がまともな応急処置の方法を理解していたはずもないわけで。
救命どころか呼吸を妨げる危険な包帯を鉛のように重く弱った手でなんとか引っ剥がした良太は嘆息した。
「な、なけなしの救急キットを無駄にしやがって・・・。自分でやり直す分も残ってないな・・・げほっ、がふっ!!」
「うぅ・・・ご、ごめんなさい、カシラ。どうすれば良い?カシラ」
「もう俺なんか放ってどっか行けば良いだろ」
「そんなこと出来るわけないじゃない!カシラ!!」
どうしてそんな簡単なことが出来ないのか理由を聞こうとして、しかし良太はそうしなかった。
「・・・、・・・。そういえば、3kmくらい西に避難所になってる公民館があったな」
「っ!!そこなら手当もしてもらえるハズね!カシラ!」
ネビアは自分の3倍近くは体重のありそうな良太を担ぎ上げ、追っ手に見つからないように瓦礫の隙間を縫って公民館まで逃げ果せた。敵が黒色魔力をプンプンと漂わせる魔族だったおかげで、オドノイドのネビアには魔力感知が出来たからこそ成功した逃亡劇だった。
だが、頼みの綱の公民館の扉は固く閉ざされ、ネビアと良太の立ち入りを厳しく拒んだ。最初の一瞬こそこんな緊急事態下でも暴力団お断りだけはキッチリ機能しているのかと考えたが、現実はそこまで複雑な事情など存在しなかった。
「すまない、もうここには新しい避難者を受け入れる余裕なんてないんだ」
「なんでよ!!一人分の隙間くらいあるでしょ!?カシラ!!」
「食料が足りないんだ!!現時点でここはあと3日と保たない計算なんだよ!!物資だって、来るとは言ってるけど、この状況じゃ届くかどうか・・・。とにかく、分かってくれ!!」
「ならケガの手当だけで良いからやってよ!!カシラ!!」
「それも手一杯だと言ってる!!」
押し問答だった。だが、そこで引き下がるわけにはいかず、ネビアは唇を噛んだ。光の世界に生きる人間が泣いて助けを請う親子を涙ながらに見捨てなくてはいけないほど、この世界が絶望で満たされてしまっているというのなら。そんな絶望に恭順してみすみす居場所を失うくらいなら。
「・・・分かったわ、カシラ」
「・・・・・・すまない」
「物資が届けば良いんでしょ?カシラ」
「は?」
それなら、まだ、やれることはあるはずだ。
ネビアは良太の上着のポケットに入っていたそれをかっぱらって、取り返そうとした良太の手を躱した。
「待てネビア!!なにする気だ!!」
「ずっとそうだったわ。私らみたいのは、自分のもの守りたかったら自分で守るしかない―――でしょ?カシラ」
良太を押しつけられ、思いがけない話の流れで困惑する避難所の管理者に、ネビアは微笑んだ。
「3日間、私がここを守ってあげる、カシラ。だから、お願いします、カシラ」
○
結論から言えば、”魔法のお薬”とやらの効能は本物だった。頭が痺れて思考が鈍くなる副作用こそあったが、その欠点を補って余りあるほどに力が溢れた。なにより、敵を倒しても喰う前に消滅してしまい黒色魔力の補給が絶望的な状況で、ネビアは黒色魔力の枯渇を起こさなかった。賞賛すべきその薬によって、オドノイドにとっての死活問題が見事に克服されたのだ。
(朝日だ・・・。何日経ったかな。もう3日?それともまだ2日?・・・分かんないや)
うまく声が出ない。独り言も胸の内に留め、ネビアは無心に公民館へ近付く者を殺し続けた。そうする内に、遠目に1台のトラックがやって来るのを見つけた。証明するものはなかったが、これまで見てきた中で明確に物資を運搬するための車はそれが初めてだったため、ネビアにはそれが公民館に物資を届けに来たトラックだと確信した。
(やっと来た・・・!!これで約束は果たしたわよ)
ネビアは際限なくスピードを上げるトラックを追い、その安全を守りながら公民館へと戻った。
だが、3日間ここら一帯を守り戦い抜いて公民館へ帰ってきた英雄を待っていたのは、横殴りに空へ降り上がる魔法と銃弾の雨だった。
良太さえも、ネビアを見上げて怯えていた。まるで通販で買った商品が、届いてみればテレビで見た性能や効能を丸ごと打ち消してしまうほどの欠陥を抱えていたことに気付いてしまったように。それでいて、案外その事実を「世の中そんなもんだ」とすんなり認めて慣れた手順で絶望を消化したように。
やれやれ、とでも言いたげな砲火を浴びた。
ネビアはしばらく耐えて、耐えて、耐えて―――なんでも良いから言葉を発しようとした。
でも、それは叶わなかった。
『おお、ぅお・・・』
公民館の窓ガラスに3日ぶりに映り込んだ自分の姿を見て、ネビアは理解した。その姿を迷わずネビア・アネガメントであると直観可能なのは、ネビア自身だけだった。―――いいや、そもそも本当に「私」はアラヤー・マフバンで、グレイで、ネビア・アネガメントなのか?
『お、ぁぁぁアアアアアアッ!?』
頭の中で無数の声が暴れ出し、無限に増幅されたホワイトノイズになった。拡張された自己を統率する軸が歪んでしまった。
(「私」は誰?ううん、誰でもあって誰でもない。「私」が「私」にそうあれかしと定めたように)
霧中に転がる水死体のように、「ネビア・アネガメント」は外から眺めても誰だか分からず、仮にその核心に触れたところで既に誰でもない存在だったのだ。アラヤー・マフバンではない誰かになれば、きっと「私」は愛してもらえる。そう信じて手に入れた力のはずだった。どこまでも神様は底意地が悪い。使い方も教えてもらっていない願いに振り回された人間の成れ果て―――否、”果て”などとは現状程遠い。
(でも、もうそんなことはどうでも良い)
居場所は失われた。
願いは叶っても、夢は叶わなかった。
「私」はもはやいたずらに願いを叶え続けるだけの正真正銘の化物と化したのだ。
(おなか、すいたな)
ホワイトノイズの中からうっすらと浮かび上がった願いに従って、「私」は公民館を後にした。
地面が続く限り「私」は歩き続け、目につく生命体全てを襲った。喰えた獲物と取り逃がした獲物はいたが、勝てない獲物だけはいなかった。「私」はただ彷徨っていたのでもなかった。ほんのりと漂う匂いとも、ほのかに揺れる光ともつかないような、「私」を誘う甘美な気配に、あちこち迷いながらも着実に近付いていた。
辿り着いたのは、酷い有様の町だった。通ってきた町々も大概酷いものだったが、そこはとりわけ酷かった。そして、「私」を魅惑する気配はとても近くに居た。ただ、その夢のような気配は追えども追えどもあちらこちらへ行ったり来たりを繰り返して、見つけられずにいた。
そんな中で、
(・・・・・・ん?)
視認せずとも感じられる、それでいていままで食べてきたものともどこか異なる気配があって、「私」は進路を変えた。その先には、大小様々な8人の人間たちがいた。「私」はひとまず最も後ろを歩いていて襲いやすかった人間を喰ったが、すぐに気配の主ではないと分かった。だが、いま、近付いたときに僅かだが反応した人間がいたことを「私」は見逃さなかった。
(あなた?)
それは、きっと食べれば分かること!!
『おっ。おおっ、お、お"あ"あ"あ"あ"あ"あ"、あ"あ"あ"あ"、あ"あ"あ"』
その人間は、思いのほか弱かった。弱っていた。脚で小突いただけのつもりが、あっさりと吹っ飛んで、血塗れで、虫の息だった。「私」はしばし拍子抜けしていたが、仲間に囲まれたその人間がまだ腕を動かすのを見て、彼を食べるという目的を思い出した。
『おっ。あうあ』
人間の中では格別に美味かった。
彼と似た髪色の女が食事の邪魔をしてきたが、「私」はそれを強引に押し切って、美味しい美味しい彼の肉も内臓も脳も全部綺麗に平らげた。
だが、それでも違った。真に求めて止まない気配は別の場所でいまも―――。
『おっ、え』
逃げようとするユキが見えたとき、「俺」は思いがけず手を伸ばしていた。急に恐くなった。このまま孤独に消え去るのかと実感した瞬間に、覚悟とか意地とか、そういった父親らしさがいっぺんに霧散してしまった。
(待って・・・「俺」をっ、「俺」を置いていかないで!!)
手が届かない。だから「俺」は足止めするために霧を吐いた。
ユキの手を引いて走る少年。ユキをどこかへ連れて行こうとする邪魔者。「俺」からユキを引き離し取り上げようとする馬の骨。その少年を霧で包み込んで溺れさせ、その隙に「俺」は2人に追いつき、脚で少年をユキから引き剥がした。
(ユキ、ユキ、ユキユキユキユキ!!もうどこにも行かないで!!ずっと一緒だ!!)
「俺」は思い切り水を吐き出した。
(・・・あれ?)
そんなことをしたらユキが死んでしまうのではないか?と、「俺」が違和感に気付いた直後に彗華が水流の射線上に割り込んでしまった。彗華の魔法による防御などまるで薄っぺらな紙に針でも当てたように、水流は氷壁を容易く貫いた。そして、彗華の体さえも。さらに、本当にユキにまで傷を負わせてしまった。
(そんな、おかしい、ち、違うッ!!違うんだッ!?そんなつもりじゃ・・・!?と、とにかく一緒にいよう!!一緒に・・・いっ、しょ・・・?「私」が、パパ?違う、「私」に子供なんて・・・あ、れ・・・???)
なんだか頭がポタージュな感じ。とにかく、家族と別れるっていうのはとっても悲しくて、おなかも切なくて、「私」は彗華を食べることにした。
(って、なにしてる!?ダメだやめろ「俺」!!止まれェェェェェェェェェ!?!?!?)
まるで歯車に異物が挟まった機械のように「俺」の体は小刻みに震えていた。止まりはしたが、この精神が破断すれば、この体は容赦なく暴食を再開するように思えた。
既に彗華は体のほとんどを「俺」・・・「私」?に喰われてしまっていた。仮に今この瞬間光の速さで病院に連れ込んだところで助かる見込みがないのは明白だった。だが、「俺」はその惨状を認められずに、どうすれば助かるのかと存在しない正解を求めて思考を空転させた。
「ユキの・・・せい」
彗華の声がした。
だが、彼女の言葉は「俺」には決して耐えられないものだった。
「ユ・・・が、もっと・・・しっか、して、れば・・・。お母さんも、ゴンゾーだって・・・元は、といえ・・・ば。アンタ、なん、か・・・ッ、産
それより先を言わせるわけにはいかなかった。
彗華は、たった1本、残った右手の親指の爪を噛んでいた。ああ、ユキが生まれてからは一度も見せなかった、妻の可愛い悪癖だ。それを見てしまっては、なおさらだった。
彼女たちの尊厳を守るために「俺」が為すべきはなんなのか。「俺」の精神は破断するのではなく、新たな歯車となってこの肉体を再起動した。
だが、彗華を食い止めたところで、決定的に遅かった。
(違う!!違っ、ああ、ユキぃ!!分かってる!!お前がそんな風なこと本気で思うわけうるさいッ!!誰なんだ「私」は!!目的を見失うな!!「私」はおなかすいてんのッ!!早くあのステキな気は・・・お"、ぎぃっ!?!?!?』
凄まじい痛みに「私」の思考が断絶した。体の半分がピクリとも動かなくなっていた。凍らされたのだ。
(ば、かな・・・なに、が・・・?いや・・・これ、ユキ、なのか・・・?)
知る限り、ユキにはここまでの魔力などなかったはずだ。しかし、現に「私」を氷漬けにしたのは幼い少女の体から溢れ出した冷気だった。自暴自棄になって徐々に死にゆく娘の姿が、この上なく恐ろしく、直視に堪えず、絶望的だった。それなのに体は動かない。止められない。目を背け逃げ出すことさえも。
だが、「俺」に代わって幼い少女の短絡的な無理心中を止めようとした者がいた。その少女はユキの一番の親友だったはずだ。名前は―――そう、モモコだったか。なにも出来ない「私」は、みるみるうちに自分の体が凍っていくなどという異常事態の中の異常事態への恐怖にまで耐えてユキに叫び続けるモモコの想いに縋った。たとえそれが娘の親友の命を犠牲にする希望だったとしても、「私」の中での優先度など最初から決まっていたのだから、知ったことではなかった。この状況が打開されるのなら、なんだって良かった。
時間にして、精々1分にも満たない出来事だった。だが、時間さえも凍っていたかのように、無限に続く恐怖の瞬間に感じられた。モモコは、ユキに背後からしがみついた格好のまま真っ白な氷像へと変わり果てていた。しかし、その瞬間の、最後の刹那で、死の間際まで張り上げ続けられたモモコの声はユキに届いた。
(よかった)
吸収が間に合わないほどの猛烈な冷気の嵐は、少しずつではあったが収まり始めていた。放出と吸収の平衡点を逆転し、「私」の体はぎこちなくも動きを取り戻した。
(よかった。これでやっと、あの幸せの気配を探しに行けるわね)
「待って―――」
「俺」は、最後に一度だけ、ユキの方を振り返った。しかし、「私」はもう行くことにした。これ以上は抗えないと感覚的に理解したからだ。少しずつ、「俺」は既に「俺」が死んでいる事実に、そしてなおも「俺」の思考が継続している原理に気付き始めていた。「私」はもはや作者の没後も続きを描かれ続ける漫画やアニメのような、限りなく本物に近い虚像のような存在でしかないのだ、と。言葉も話せない化物を無理にこの場へ留めても惨劇しか起こらない。それなら、「私」が望むまま立ち去ってしまうべきだった。
(どうなんだろう。「私」は、「私」たちは誰でもないのよ?だったら、この痛みだって実像なんじゃ・・・?)
「私」が新たに取り込んだそれは、異物だったのか、進化の秘薬だったのか。だが、そのどちらにせよ変わらないことがあった。魔族の騎士たちの苛烈な攻撃にも、半身を奪われるような冷気の暴走にも耐え抜いた無敵の肉体が鈍って、鈍って、鈍って―――いつしか立ってもいられなくなって、雨水をジュウジュウと鳴らす焼けた瓦礫の上に倒れ伏していた。
そもそもその肉体が本当に呼吸を必要としていたのかは定かではないが、その苦しみはまさに息が詰まるようであった。
まるで頭の中を席巻していたホワイトノイズが体の外へ移り出たように、雨はドウドウと強まっていった。そして、ホワイトノイズは少しずつ分解されて、「ฉัน」も、「俺」も、「私」も、「Io」も、「I」も、「Ich」も、解像度に差異こそあったが、それぞれの情報的輪郭を取り戻し始めた。決してノイズには戻れない知能の洪水で肉体が機能不全に陥ったのだ。
(た、すけ、て)
誰でも良いから、誰のでも良いから、名前を呼んで欲しかった。
「苦しかったよな。ボクには・・・まだ君たちを本当の意味で救ってやることは出来なかったけど。それでも、いまの君を取り戻す手助けくらいなら、少しはしてやれるはずだ」
○
気が付けば、雨は止み、お日様が天高く昇っていた。しかし、「私」が眩しさに反応するやいなや日差しは誰かの体に遮られた。目眩と逆行で正体不明の人影は間近で素っ頓狂にも声を張り上げた。
「ネビアっ!!」
その声を、いや、名前を聞いた瞬間にネビア・アネガメントの目にも己の名を呼び覚ました者の顔が映った。
「パパ・・・?」
「よかった・・・ネビア・・・・・・ネビア・・・」
「なんで、泣いてんの・・・?カシラ」
良太の顔に触れて、ネビアは自分の幼く小さな、小麦色の手に気付いた。
「すまなかった。気付いてやれなくて、すまなかった」
「―――」
ああ、そうか。
また眠たくなってきた。だけどもう、意識を手放すことに恐怖はなかった。
(私は、ネビア。ネビア・アネガメントで良かったのね)
なんて、都合の良い、幸せな結末でこの話が締め括られるはずがなかった。