episode8 sect36 ”罪過の絆”
黒炎が視界の全て覆い尽くした、その次の瞬間。
「ッ!?」
雪姫の頭上を覆った別の影は、先ほどまで厳しく躾けられた飼い犬のように大人しかった『ブレインイーター』だった。
だが、雪姫の警戒とは裏腹に、『ブレインイーター』は、雪姫の頭上をそのまま飛び越えた。その先にあるものなんて、もはや回避も防御も不可能な黒炎の絶壁のみだと言うのに。
しかし、雪姫はすぐに思い出す。
有機物も無機物も、あらゆるものを燃やす悪魔の炎に唯一対抗しうる存在が、まさにいま自身の眼前へ躍り出た化物であったことを。
10本の触手を盾に、『ブレインイーター』は躊躇なく黒炎の津波に飛び込む。その触手でも吸収して消しきれない黒炎が巨体を瞬く間に包み込む。だが、構わず『ブレインイーター』は咆哮し、黒炎の津波を掻き散らし、そして遂に突破してみせた。
『オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オ"オオオオオォォォォオオオオオオオオオォォォオオオオオオッッッッッッッ!!!!!!!!』
「はぁ!?ちょ、待っ」
情けないくらいに狼狽えたアイナカティナの声は、燃え盛る巨体に押し潰されて途絶えた。
「・・・・・・・・・・・・」
雪姫はまだ生きていた。『ブレインイーター』が掻き分けた黒炎の津波は綺麗に雪姫を避けて捌けていく。
呆然とするも、しかし、すぐにその生すらも危ういことを思い出す。右腕を崩す白炎は、いよいよ魔力的な抵抗だけでは抑えきれずに肩の高さまで達しようとしていた。腕を自ら切り捨てる以外には、この炎を消す手段を雪姫は持たない。
とっくに奥歯は砕けてしまっていたが、雪姫はポケットの、汗が染みてうっすら塩味のするハンドタオルを噛んで、『アイス』で鉈のような氷塊を作った。右腕を失う程度、恐くはない。今日、ここで宿願を果たせぬまま死んでいくよりは、ずっと。
「―――ッ!!」
氷の鉈を魔法で遠隔制御し、一息に振り下ろす。目を閉じ息を止め、雪姫は自らの右肩を鉈へ差し出す。
だが、目を瞑ったその一瞬の隙を狙う者がいた。
体を掴む強烈な衝撃。
溜め込んだ空気を吐かされて、乱れる重力感覚で雪姫は目を開ける。
氷の鉈は遙か下方だ。雪姫は『ブレインイーター』の触手に拘束され、高く持ち上げられていた。フッと、拘束が緩み、雪姫の体はそのまま10m近い高さで放り出される。
もっとも、10mの自由落下なら雪姫には体育館のステージから飛び降りるのと同じくらい、どうとでも対処出来る危険だ。1m落下する頃には『スノウ』を展開し、ふわふわの粉雪のクッションに落着する。粉雪のクッションごと地上に戻った雪姫は、小さな雪山から這い出て、それから右腕を見た。
肉が昇華でもしたように虫食いになって、骨や腱が露出した腕が残っていた。
ただ、白炎は消えていた。
『ブレインイーター』の触手が白炎を吸収したのだ。
「・・・・・・は?」
この状況の意味が、雪姫にはそうとしか解釈出来ない。
「あたしを、助けたって、こと?」
雪姫から両親も友情も奪った人喰いモンスターが、か?意味不明すぎて脳がバグりそうだ。
「アンタ、一体・・・一体、何様のつもり!?」
「ホントだよ!!」
その声は『ブレインイーター』の体の下から聞こえた。
直後、『ブレインイーター』の右腕が消し飛ぶ。
アイナカティナ・ハーボルド。
七十二帝騎第二十三座をこの程度でどうこう出来ると思ったら大間違いだ。巨体の掌で押し潰すつもりなら、せめてノヴィス・パラデーを滅ぼしたあの屍赤龍くらいは用意しなくては。
「さすがのアタイもちょっとイライラしてきちゃったぞ~う?もっぺん死なない程度にブッ殺して立場の違いっての分からせてあげるよ」
アイナカティナの頭上に、黒く染まった歯車のような天使の輪が現れる。空気が煮え滾るような熱の錯覚は、膨大な魔力が放つ余波だった。
「『レメゲトン』」
アイナカティナの両手と両翼から黒炎が溢れ出し、その灼熱で景色がねじ曲がる。
先輩の真似じゃあないが、もう、遊びはここまでだ。
「もうアタイの炎はアタイには燃え移らない。触れたもんはぜーんぶ燃やす。さ、アンタもまとめて掛かってきな。これ以上手加減されんのは癪でしょ?次はあれこれ考える余裕もないよ」
アイナカティナが燃える指先で洞窟の壁に触れる。
「ッ、地面だよ!!」
雪姫は一瞬でアイナカティナの意図を理解したようだが、もはや気付くことに意味はない。雪姫もよく知っている、理不尽な範囲攻撃の始まりだ。
燃焼対象、岩石、液体または固体の水、『ブレインイーター』、天田雪姫。着火。
真っ黒な火花。紫に煌めくイグニッション。洞窟の壁を、天井を、地面を、猛々しい紫炎が広がっていく。
これこそが、七十二帝騎史上最も多くの命を奪ってきたアイナカティナの『原初の智慧を悦ぶ者』の真髄。ほんの小さな火種ひとつで大地ごと集落を、森ごと民族を、海ごと大艦隊を焼き払う、恣意的大火である。
アイナカティナの炎は、彼女が知らない物質であっても「燃やそう」と思うだけで物理法則も化学反応も無視して燃え移り、ひとたび火が点けば対象は問答無用で焼滅する。燃焼対象外の物質で包むなどすれば辛うじて鎮火は出来るが、包めるような炎の規模ではなかったら?現実の話、消せる程度の規模であったことが少ない。―――故に魔界中の国々がこぞってアイナカティナを警戒して新たな対策を生み出そうと、彼女の暴挙を止めることは出来なかった。
昨年発行されたばかりの地図帳には、建築物や道路の舗装を丸ごと耐火性・耐魔力性の新素材で作り替えた要塞都市が載っている。だが、その地図帳の情報も今日ではアテにならない。ここ数年、魔界中の国々で共通して見られる地理教育の停滞の原因は、アイナカティナという個人なのだ。
世界地図にさえ影響する地獄の業火が『ブレインイーター』と雪姫を包む。
だが、この理不尽にも対処法はある。
『ウウウ!!』
右腕を消し飛ばされてなお、『ブレインイーター』は咆哮した。まるで、雪姫の警告に呼応したかのように。
魔力を吸収する触手で地表ごと削り取り、地面を這う黒炎の広がりを遅らせた『ブレインイーター』は、そのまま高圧水流のブレスでアイナカティナを狙う。
対するアイナカティナは翼を薙ぐ。翼膜に纏う黒炎から散った火の粉が高圧水流に引火し、青く炎上する。
『オォォァァァアアアッッッ!!』
その蒼炎に隠れるようにして、『ブレインイーター』は再びアイナカティナへ飛び掛かり、その円い口で喰らい付こうとする。見切られ、頭部に黒炎を浴びせ掛けられながらも、それに対抗しうる触手を乱雑に振り回し、『黒閃』や吸えば膨張する死の霧による攻撃をも織り交ぜる。
この猛威こそ、雪姫が『ブレインイーター』に求めた本気だった。歴戦の魔法士たちを悉く返り討ちにした、獣の域を逸脱した戦闘技能。
しかし、それでもなお。
「僕ってどなたっすかぁ?―――おぉ~、これはロビン先輩。で、なんすか?」
アイナカティナはヘラヘラ笑って、明後日の方向の誰かと話しながら『ブレインイーター』を焼き崩していく。
「―――え?フツーにムリっす。だっていま、超楽しくなってきたトコっ!なんすからねェ!!」
いまもなお、アイナカティナが洞窟に放った炎は無秩序に広がり続けている。『ブレインイーター』が防げるのは精々触手を振り回して届く範囲のみであり、そして消火したところで触手が離れればすぐまた付近の残り火から燃え広がる。岩盤が焼失したことで支えを失った巨大な光る結晶柱が天井から次々と降り注ぎ、足場もまた急激に燃えて窪んでいく。
雪姫は『ブレインイーター』の陰に守られて火の手が届かない空中に展開し直した『スノウ』の上に退避していた。暫定的な安地から『ブレインイーター』とアイナカティナの攻防を見守りながら、雪姫は己の咄嗟の判断について咀嚼し直していた。
不気味なことに『ブレインイーター』はいま、雪姫を守り、共にアイナカティナに立ち向かおうとしている。だが、雪姫だって二人きりの戦いを望んでいたからこそ、アイナカティナから『ブレインイーター』を守った。終わらないあの日に終止符を打ちたい。もしかして、ひょっとすると―――この想いは互いに同じなのではないだろうか。嗚呼、雪姫は思いも寄らぬ展開にときめきすぎて頭がお花畑になってしまったのだ。
是非もない。共有された宿命に胸の高鳴りが蘇る。雪姫も、この暫定的な戦友と共に邪魔者を排除してやろうという気が起こった。
もはや雪姫の魔法でアイナカティナの黒炎を攻略することすら不可能だが、黒炎に耐えられる『ブレインイーター』も攻撃はアイナカティナに見切られ届かない。しかし、攻撃の精度なら雪姫の方が上だ。黒炎さえ攻略出来れば、雪姫は必ずアイナカティナを一撃で戦闘不能にしてみせる。だから、雪姫は待つことに決めた。人生最後の好敵手が、決定的なチャンスを作り出す瞬間を。
○
気に入らない目だ。
あの氷の少女は、これだけボロ雑巾にされてまだ、アイナカティナを殺すつもりでいる。
決してナメられているわけではない。これっぽっちの侮りも感じない。少女は自身がアイナカティナに力で及ばない事実を意外なほどすんなり受け止めた上で、僅かな勝機を虎視眈々と狙っているのだ。
―――いや、違うな。そういう愚かな連中ならいままでにだっていくらでもいた。故郷や家族を守ろうとするヤツには珍しくなかった。だが、この少女の目には、彼女を死戦へ駆り立てるに相応しい動機とでも言うのだろうか、そういう真っ当な感情が映っていない。奴らとは明らかに異なることがあったのだ。
少女は最初に、アイナカティナを「邪魔」だと言って排除しようとした。少女の青い目は、一貫してアイナカティナの向こう側を見ている。
目的のために、私欲を満たさんがために、皇国きっての天才騎士であるアイナカティナを単なる除去すべき対象にまで見下げ果てていた。
それは強者の―――つまりこの場においてはアイナカティナだけに許された、決して侵されてはならない特権だというのに。
屈辱だ。アイナカティナはそれが耐え難く腹立たしい。憎まれることや妬まれることは多々あれど、生まれてこの方、存在を蔑ろにされたのは初めてだ。
殺す?それはアイナカティナの台詞だ。アイナカティナの権利だ。
もう仕事とか任務とか、どうだって良い。
その綺麗な顔が涙と鼻水でグチャグチャになるまで絶望させて殺してやる。
○
「そぉい、一丁上がり♪」
雪姫が『ブレインイーター』に賭けたチャンスなど、初めから存在しなかった。
「ほーらー、アンタも。いつまでそんなトコでボーっとしてんの?」
アイナカティナが、雪姫の想像を絶して、あまりにも強すぎたのだ。
四肢全てを喪失した『ブレインイーター』が倒れ伏す。
誰が想像出来ただろうか。目の前のヘラヘラした若い女が、高ランク魔法士たちが束になっても敵わなかった真性の化物をたったひとりで手玉に取るなど。あまつさえ、アイナカティナは言葉通りに”死なない程度にブッ殺し”た『ブレインイーター』に止めの黒炎をかざしながら雪姫に嗤笑を向ける。
「おやおやおやおやぁ???良いんですかぁ~?大事なお友達が殺されちゃうぞ~?大変だ、助けなくっちゃ!!早く早くぅ~!!」
その言葉が終わるかどうかの時点で、黒炎はアイナカティナの手から溢れていた。
雪姫もまた、『ブレインイーター』への執着故にアイナカティナの玩具だった。罠と分かっていても、挑発に乗らなくてはならない。
割れた奥歯の破断面をギリギリ軋り鳴らし、雪姫は『スノウ』で燃え残り落ちてくる長大な光る結晶塊を掴んで、アイナカティナへ槍のように投擲する。
「おっと、そうきます?」
だが、そのささやかな抵抗もアイナカティナが新たに黒炎を放てば黄みがかった紫の炎となって焼滅させられた。
雪姫は『ブレインイーター』を背に、アイナカティナの前に立つ。もう、次の作戦も逆転に繋がるような妙案も、思いつかない。だから、こうするしかなかった。
「お願い」
地に伏し、目を閉じ、既に虫の息の『ブレインイーター』の額に撫でるように手を触れて、雪姫はもう一度、彼女の唯一の願いを繰り返す。
「あたしはあの日の続きがしたいの。アンタも同じなんでしょ・・・?だったら、あとほんのちょっとで良いから、あたしに力を貸してよ・・・!!」
「瀕死のダルマさんに無茶言うねぇ。アタイが言うのもアレだけどドSすぎない?あの日がその日でこの日がどの日だか知んないけどさぁ、いい加減諦めて、泣いて、這いつくばって、命乞いしながら、死んじゃいな!!」
アイナカティナは翼を広げて、頭上に掲げた右の掌に一瞬で、直径が自分の身長の3倍はある火球を作り出し、そして握り込める大きさにまで圧縮する。
「『天壌鏖く還し轉す黮焱』」
アイナカティナが己の特異魔術において唯一”技”として名を与えた、無差別放火の極致。自身の体には燃え移らないのを好いことに、アイナカティナの掌から解放された黒炎はその名に違わぬ爆発的速度で全方位へ一分の隙もなく拡散し、岩も、光る結晶も、水も、なにもかもが無へと還っていく。
「お願いだからああああッ!!」
大瀑布のような轟音を立てて『スノウ』が壁を成す。数秒と保たない儚い壁を。
純白の吹雪を青紫色の境界が呑み込む。その青も瞬く間に黒く塗り潰された。
普通だったら、アイナカティナはもう勝利を確信して高らかに笑声を響かせても良かっただろう。しかし、アイナカティナはそれをしなかった。今日の『ブレインイーター』は明らかに異様だ。ダメ押しに『レメゲトン』まで使ってしまった以上、万が一にも失敗は許されない。アイナカティナ自身がそのような結果を決して赦さない。
そして。
(・・・は。マジで来ますぅ?)
爆炎の圧にすら逆らって、青く燃える吹雪が大きく膨らむ。たまには警戒もしてみるものだ。
『オ"オオオオオォォォオオォォオォオオ!!』
炎の膜を破って出て来ようとする『ブレインイーター』に、アイナカティナは先んじて次なる黒炎を放射した。大口を開けて喰らい付いてくる―――先ほども見た行動だ。所詮、この姿ではヒトの頃ほどの知能は保てないか。
「人間の生まれ損ないがいまさら友達ごっこなんかにのぼせちゃってさぁ、キモいのよ」
ボキリ、と。
「ぃ、ぎっ!?!?!?」
アイナカティナの右腕が折れた。
凄まじい圧迫。
彼女の腕に、『ブレインイーター』の触手が、噛みついていた。
「なん、だよぉ、これェェェッ!?」
訳が分からない!!なんでコイツの触手に口なんて付いている!?まさかいままでずっと隠していたとでも!?しかも触手の魔力吸収能力まで明らかに強くなっている!!これまでは力尽くで魔術を行使すれば吸収されながらでも触手を焼き払えていたのに、なぜかいまはまともに黒炎を生成することすら―――!?
「う」
触手の怪力に右腕を引かれ、アイナカティナは翼を必死にはためかすも敢え無く、自ら燃やし尽くした地の底に叩き付けられた。凄絶な衝撃で周囲の地面を覆っていた紫炎さえ吹き散らされ、踏まれた虫のような呻きが抉れた地面の中に響く。
ォォオオオオオオ』 『オオオォォォォオオオオ』
『オオオォォォォオオオオオオ』
『オオオォォォォオオオオ』 『オオオォォォォオオオオ』
『オオオォォォォオオオオオオ』
『オオオォォォォオオオオ』
『オオオォォォォオオオオ』
『オオオォォォォオオオ
白くチカチカと眩む視界に本体と同じ雄叫びを上げて殺到する触手の群れが現れる。アイナカティナはこの声で騙されたのだ。その、触手の奥。荒れ狂う血眼の化物の姿。ブチブチと右腕の筋繊維を喰い破る音。人間を喰い散らかすためのその口で、アイナカティナをも喰らおうというのか。触手に現れた口はまるで万力のようにアイナカティナを捕えたまま放さない。
「は、な、せぇ!!はなせッ!!このッ!!はぁぁぁなぁせェェェェェェッッッ!!」
あのような無惨な死に方は嫌だ。
(死に方・・・?死ぬ?アタイが!?)
本能のデータベースで埃を被っていた恐怖が、生まれて初めて脳裏を過ぎった。
だが、もっと恐いことがある。
「うううううううッ!!」
アイナカティナは、どれだけ藻掻こうと触手を振りほどくことは出来ないと理解すると、触手を思い切り蹴って、自ら右腕の肘から下を千切って離脱した。
腕を失うことに躊躇いがなかった訳ではない。これではさんざ馬鹿にしたロビルバと同じ無様だ。この傷を持って帰る時点で一生の汚点になることは確定している。しかし、それでも、アイナカティナは奪われるくらいなら奪い、騙されるくらいなら騙し、自分が死ぬくらいなら他の全てを殺し尽くして生き残ることを選ぶ。決してこのような結末は赦さないと言ったはずだ。虐げる側は常にアイナカティナでなくてはならないのだ。
腕が千切れたことで、アイナカティナに魔力の自由が戻る。かなりの魔力量を吸われたが、『レメゲトン』を発動したいまは些細なことだ。
「殺す・・・ッ」
アイナカティナは消えてしまった左手の黒炎を纏い直すためにもう一度魔力を充填し始める。もう、次になにを燃やすかは決めていた。
自らの命も確実に危険に晒すことになるためずっと避けてきたが、いまこの瞬間、殺意がその箍を破壊した。
燃焼対象、大気、『ブレインイーター』。
「絶対殺すッ!!!!!!!!」
しかし、アイナカティナの左手が炎を放つことはなかった。
この強烈に焼け付く痛みは、凍傷だ。
左腕が動かない。
ゾッと、アイナカティナは目玉だけで左腕を確かめる。
視界に舞う銀色のチラつきの正体は頭を強打したことで散った眼内閃光ではなく、ごく少量の粉雪だったのだ。
(しまっ・・・)
慌てて新たに氷を燃やせる黒炎を生もうとしても、もう遅い。ピシリと、冷酷で無慈悲な音がした直後、アイナカティナの左腕は氷塊ごと粉々に砕け散った。
為す術も。
触手が。
「いやだ、い、いやっ、や"あ"あ"あ"あ"あ"ァァァァァァぉげあっ、お"ぇ"ッ、ぐぶぇぁあぁ、あ"あ"が、ぎっ――――――
アイナカティナは最後に自滅覚悟で黒炎の燃焼対象を”大気”としましたが、もしも雪姫の妨害が間に合っていなかったら、生体への延焼の可否に関わらず恐らくその場にいた3人どころかダンジョン内の全生命体が死滅していたことでしょう。彼女の黒炎は厳密には科学的な炎ですらなく、謂わば凄まじいエネルギー密度の魔力の奔流みたいなものです。これに晒された燃焼対象はその物質構造を完全に破壊されて消滅してしまうのですが、つまり大気に黒炎が着いてしまったら完全な真空状態が果てしなく広がっていくというわけですね。鼻と口を塞いだって真空空間に放り出されたら大抵の生物は死にます。もしも彼女が自身の生んだ真空地獄から逃げ果せてしまえば、いずれは洞窟内全ての大気が消失し、洞窟の外があったとすればその外に満ちる大気も全て燃やし尽くされ、大気圏と呼べる空間そのものが消滅していたかも。ちなみにアイナカティナがかつて大気に黒炎を放ったのは全て被害範囲をコントロール出来る状況下でしたので、計画性を欠いたときに実際なにがどこまで起きるかは作者にも想像が及びません。アイナカティナの安定運用で皇国がどれだけ腐心していたことか。